昨年3月の急逝からようやく名前に対して冷静になれるようになって、Twitterでちょっと触れたことで、佐藤大輔作品についてちょっと語りたくなったと思っていただきたい。
そうしていつものように作品、特に一番読み返した『皇国の守護者』について語ろうと思ったときに、はたと困ったのだ。
基本的に私はゲームやマンガ、小説などを問わず、好き嫌いはあるにせよ語るときは心の何処かに「第三者としての視点」を維持するように心がけている。
書いて原稿になったときは、偏っていたり好き嫌いが激しかったりするが、それでも心のどこかで「第三者としての視点」はなくてはならないものになっている。
この辺りは生来の癖や気質のようなものであり、逆に私がどんな作品の信者にもなれず、心の底から入れ込むことができずに、作品や作家の信者になりきれずにいる部分でもあり、同人作品や二次創作をほぼ書くことが出来ない理由にもなっている。
なので、一方では煩わしかったり「もっと入れ込んで信者になりたいなあ・・・」と羨ましく思ったりする部分でもある。
それはさておき、佐藤大輔の『皇国の守護者』を語ろうとしたとき、どうしてもその「第三者としての視点」を持つことが出来ず、語るべき言葉を紡ぎ出せないのに気がついたのだ。
理由はこの作品に対する好悪でも善悪でも知識でもなんでもなかった。
目次
人は誰しも完結していない作品に対しては第三者になれないのだ
それは当然だろう、人間は変わるものだし作品がどうなっていくかは完結しない限り誰にもわからないのだ。
自分でも文章を書いているからわかるが、やはりものを書いていれば、プロットを綿密に構築していても、思っても見なかったような展開になるときはあるし、結末がかわったりすることはいくらでもある。
それは人間も同じで優秀な軍人が老後には宗教家になっていたり、大悪人が聖人のような善人に成り代わってしまうことも当然ある。
人は生きている限りいくらでも変わるものだし、小説もマンガもゲームも完結しない限りはいくらでも流転するものなのだ(同じように未完だが骨太のファンタジー小説だった『グイン・サーガ』が、いきなり濃厚なホモ小説化するということは現にあった)。
もうどうしようもないぐらい根本的に、
完結していない作品は語りようがない
のである。
完結してようやく作品は作者の手を離れ独立し他者の手に委ねられる
たぶん綿密なプロットや設定が構築されていた『皇国の守護者』であろうとも、完結していない限り皇国の行く末も新城直衛の生き様もどうなるかわかったものではないのだ。
つまりは「第三者視点」としてはどうやったって語りようがないのである。
それはそれでいいじゃないか、と一度は思った。
だが待ってほしい、昨今の出版事情である
もう誰の目にも明らかなように、現代の日本の出版状況は小説だろうがマンガだろうが「関係者が末永く食っていける長編作品が延々と続くもの」ばかりになっている。
確かに厳しい出版情勢や目まぐるしく移り変わるインターネット時代においては、
一番確実なのは「作品の信者を囲い込んで延々と課金させ続ける」やり方だ。
そのやり方はネットで最先端の技術と資金を投入されまくっているソシャゲ(昔は片手間に作られていたけど、今では最新技術と巨大資本の戦争になっているんだよ)でもそのやり方が有効と証明されている。
ならば経済的にそうなるのは当然の帰結であると言えよう。
経済が周り信者(アンチも含まれる)が喜怒哀楽していけるならそれでいいじゃないか
確かに現在はそうなのだ。そしてそのように動いている。
だが、「完結しない作品が延々と続いている」という状況は前述したように「作品について第三者が語りようがなくなる」ことも意味している。
それでいいのか?
一見、良いように見えるが実はそうもいかないのだ。
延々と作品が続き経済が周り信者が騒いでいる間はいい、だが人間は必ず飽きる。
そして自然に飽きた信者冷めた信者から脱落していく。
また「第三者視点を失った作品」はひたすら信者向けに先鋭化し極端化していくしかなくなる。
なぜなら「第三者による視点」がない作品は作品論を語りようがないし、批評のまな板の乗せることもできない。
どうしたって本質的に信者のファンメールかアンチの罵倒のどちらかに濃淡はあるにしろ語る方法がないのだ。そこに「第三者による視点」などない。
『第三者』どころか完結していないまま揺れ動いている作品のどこに『視点』を桶というのか? キャラクター単位ですら生死すらわからないのである。
本質的に「完結していない作品」というのは第三者が『視点』を合わせることができないのである。
自然、その完結しない作品はアンチも含む信者かまったく関心のない赤の他人かに二極化される。
そういった「完結しない作品」は結局の所、本質的に信者の称賛かアンチの罵倒のどちらか以外の視点が存在せず、ひたすら先鋭化し極端化していくだけになる。
マンネリと言われた『サザエさん』や『こち亀』ですらそうなっていったのだ。
そして今の出版事情、いや日本の創作物を取り巻く環境を見てみれば、そこには「完結しない作品」が延々と続いて、作品単位での信者だけが孤島のように点在する状況になっている。
現在はまだ「作品論」が存在していた時代の生き残りが編集や批評家に残っているので、まだ顕在化はしていないが「作品を語るべき言葉や技法」は年々失われていっている。
そのせいで、批評や評論はどんどん成立していかなくなり、結果的に「創作物を構築する理論や技術」の継承がされなくなっている。
「第三者の視点」で作品を眺めるということは、翻せば「その作品がどのように構築され、どのように展開していったのか」を分析することだ。
つまりは、クリエイターにとっての技術を分解することでもあり、その知識を共有していくことでもある。
こういった「技術論」や「創作論」が現在進行系で失われていっているのが、今の「完結しない作品ばかりが延々と続いていく業界」の問題点なのである。
確かに信者が喜び経済が回っている今はそれでいいのかもしれない。
だが、信者たちは飽きていく、冷めていく、そして老いていく。
必ずそれらの作品は先細りになっていくし、創作論や技術論が失われていくに従い、新作はひたすら過去作品の縮小再生産と繰り返していくしかなくなるのだ。
今ならまだ業界には創作論や技術論を語れる人たちは多数生き残っている。
それらの人々が業界から離れるかいなくなる前に、勇気を持って「作品を完結」させてもらいたい。
そして完結した作品は、再び批評や評論なのまな板に乗せられ技術や理論を分析するための題材となってくれるのだ。
伊達に漫画の神様である手塚治虫が「短編をたくさん書きなさい」と言っていたわけではないのだ。
作品は完結されることによって、初めて技術や理論を分析するための題材になりうるのだ。
それは本人のためでもあるし、赤の他人との共有財産でもある。
つまりは作品を完結させることの価値というのは、そういうところにあるのだと思う。