歴史を語り、読む上での初歩的な注意点

いろいろ具体的に晒し上げたい気持ちはあるが、それは本論とは関係ないので置くし、感情的な争いをするほど私はもう若くはなくなっている。気力も体力もたりない。

とりあえず、『歴史』というものを『語る』にあたって、本当に物書きという職業が注意しなければならない部分が、今は本当になくなっていて、その事に大して危機感を覚えてしまったので、それについてのみを書くとする。

端的に言えば、

歴史を語る者は『共感』をベースにしてはならない

ということなのだ。

それは、歴史を描く対象に対しても、歴史を語るべき読者や視聴者に対してもだ。

『歴史』というものは、感情の相克の塊のような代物なのだ。

人間が本当に理性的に生きられるのであれば、これほどまでに剥き出しの感情で歴史は象られてこなかっただろう。

しかし、やはり人間の歴史を振り返れば、それは果てしない憎悪からなる感情の相克だ。

理性的でいられた場面を探すほうが難しい。

だからこそ、語るべき対象の感情に飲み込まれてはいけないし、語るべき読者や視聴者をそういった感情に巻き込んではならない。

あらゆる人間たちは、どんなに前向きに生きようとしても「過去の歴史」から離れることができない生き物であり、人類はある意味一つの巨大な感情装置とさえ言える。

だから、過去の歴史を掘り下げてみれば、容易に、本当にいとも簡単に現代の人間たちの感情を揺さぶることができてしまうのである。

それは悪いこととは言わない。

過去の歴史によって作られたドラマや小説やゲームなどで感動するのは当たり前のことであり、それを否定するつもりはない。

だがしかし、だからこそ歴史を扱うライターやクリエイターたちは、慎重かつ理性的に「感情の塊」である歴史を扱わねばならないと思っている。

歴史を語るときに、その主人公に大して「かわいそうだね、かっこういいね、かなしいね、おこるよね」と共感していけば、いくらでも文章は牡蠣進められるだろうし、物語は浮かんでいくだろう。

歴史を語るときに、その読者や視聴者に対して「こんなにひどいことがあったんですよ、こんなにかっこういいんですよ、こんなにかなしいんですよ」と語っていけば、いくらでも客は集まってくるだろう。

だからこそ! なのだ。

一歩「共感の甘い誘惑」から踏み留まって、対象から距離をとって分析する必要があるし、読者や視聴者たちから距離をとって観察する事が必要になるのだ。

なぜなら、「人間の歴史」というものは前述したように巨大な感情の塊であり、今も昔も人間というものは一個の感情装置としての本能から離れられないものなのだから。

それを利用すれば、自覚するともせずとも人は容易に「煽動者」に成りうるのである。

「あいつは、あいつらは、過去にこんな酷いことをしたやつだ、やつらだ」というアジテーションは昔も今も、ごく簡単に人を暴走させる。

インターネットの普及やSNSの発展によって人類が知ったのは、より理性的な言葉ではなく、より攻撃的な言葉によって自分たちは簡単に煽動されてしまう、という事だった。

だからこそ、自分は歴史というものを語るに当たって、一つのルールを化している。

それは自分やクライアントの許せる限り極力、『共感』を排除していくというものだ。

そして、できる限り『共感』ではなく『知的好奇心』を満たす方向で文章を書いてきた。

『歴史』という可燃物を扱うに際しては、自分は『煽動者』ではなく『先導者』であるべきだ、と。

『共感』を基礎にして、読者の望むような『歴史』を語っていけば、私ももう少しヒット作を埋めたのかもしれなまい。しかし、それは一方で『歴史』を武器に、人を一つの環状へと暴走させてしまう事もできるという、畏れにも近い感覚があった。

実際、私がフリーライターとしての仕事を始めた1990年代の日本という環境は、『歴史認識』という大きな感情の塊によって、右側であろうが左側であろうが、こくすいてきであろうが国際的であろうが、どんどん言葉が先鋭的かつ感情的になって暴走し始めようとしていた時でもあった。

そういった時代に『歴史』を扱う仕事をしてきた身としては、いかに『共感の渦』に自分や読者を巻き込まないか? という事を常に意識してきた。

三国志についても、書けば書くほど人気がでそうな武将列伝できなものからハズレていき、鳥瞰的な視点にあえてなるように意識していった。

武将列伝を書く場面になっても、できる限り『共感』ではなく『知的好奇心』を喚起するような書き方をしてきたつもりだ。

私は自分も読者も『歴史の共感者』として煽動したくはなかったのだ。

むしろ、できる限り『歴史』から距離をお書いて鳥瞰する視点で『歴史』を、『三国志』を見てほしかった。

しかし、時代の流れ、ネットメディアやSNSの発達で望まれたのは、その正反対だった。

むしろ、『歴史』に読者を『共感』させろ! 読者を『煽動』しろ! という無言の圧力にも似た、それは流れだった。

手軽にローコストで文章を読めるから事、安易な『共感』は恐ろしく、安易な感情の塊である『歴史』は恐ろしいものなのだ。

そして実際、2010年から2020年代に入ろうとする今、『歴史』はもはやあらゆる立場にとって『煽動』の道具として使われる様になってしまった。

いろんな極端な歴史を都合よく取り出し『共感』させて『煽動』する。

そんな文章やメディアが受け入れられ、読者は心地の良い『共感』へと浸ることを選んでいった。

しかし、その結果生まれたのは、「自分の心地の良い歴史だけを見て、それに『共感』しない他者を排除していく巨大な感情装置」ではなかったか?

もう一度言う、

歴史は恐ろしい可燃物であり、共感は危険な甘い罠なのだ

歴史を語るには『共感』は本来必要がなく、『知的好奇心』だけがあれば可能な筈である。

『共感』の受け入れやすさ、理解のしやすさが先立つということは、翻ってみれば『共感』できない他者を排除する感情を意識的にも無意識的にも育んでいってしまう。

それは人類が巨大な一個の感情装置であった『歴史』が証明している。

私は老いたし、もはやライターとしての人気も実力も衰えていくばかりだろう。

だからこそ、せめてこれぐらいは訴えて置きたいと思う。

安易な『共感』に乗るな。

『共感』は『排除』の厳選なのだ。

それが生み出すのは、感情で暴走し他者を排除していく、ネットでもよく見かけるような人たちだ。

そして自分の中にある『知的好奇心』を大事に育てていってほしい。

それは少しだけ貴方たちを『感情装置』から距離をおいてくれるはずだ。

30年近く『歴史』についていろいろ書き連ねて行ってたどり着いた結論がこれだ。

そして、もう少し賢い結論はないか、これからも考え続けていきたいとも思っている。

とりあえず、今夜はここまで。

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