単純である。
人間が健康的に生存するためには、『精神の自由』が衣食住と同じか、同等以上に必要だからである。
古来、偉大な宗教家たちや学者たちがそれを言ってきているが、人間の生存における精神の作用は近代医学でも証明されている。
精神の自由からなる精神の平衡なしに、人間は健康的に生きられないのだ。
例えそれが社会的に悪に作用するものであっても、基本的人権として精神の自由は守られねばならない。
だから、表現と言論の自由は守られねばならない。
前にも書いたように表現と言論は、正しく武器であり凶器でもある。
それにどう対処するかは別の議論として、まず表現と言論の自由は、基本的に無制限に守られねばならないという前提に立たなければ対処してはならないのである。
人に食べるなという前提で生存権を語れるか?
人に着るなという前提で生存権を語れるか?
人に住むなという前提で生存権を語れるか?
同じ前提の話なのだ、表現と言論の自由というものは。
この前提にまず立ってから議論を始めねばならないわけで、これは表現規制問題や児童ポルノ問題、ジェンダーや性差別問題といって枝葉から議論してはならない。
ただ、その前提に立てない人が数多くいるのは知っているし、そういう人にも言論と表現の自由はある。
だから、私は前々から言論や表現の自由は自分で守るしかないと言っている。
Twitterなどであまり表現規制問題で議論しないのもそのせいだ。
まず、前提から違っているし、ここからわかってもらえないと、そもそも議論にならない。
そして、それが簡単に通用するとも思っていない。
それだけだ。