うまなみ三国志 三国志編 第一回 漢王朝の衰退と黄巾の乱~だめんず王朝と幸せの黄色い巾~

第一回 漢王朝の衰退と黄巾の乱~だめんず王朝と幸せの黄色い巾~

・ 前漢と後漢

三国志というと決まって「漢王朝が衰退し、うんぬん……」といった始まり方をしますが、まずこの漢王朝には二つの王朝があった事を知っておきましょう。

よく、殷周秦漢元明清といった中国の統一王朝の覚え方のフレーズがありますが、三国志に出てくるのは、この4番目の「漢」王朝です。

この王朝は紀元前206年に項羽と劉邦の戦いで有名な劉邦が建国した王朝ですが、実は紀元8年に王莽という人物によって一度滅ぼされているのです。

これを紀元25年に劉秀という人物が、復興させたのが三国志に登場する漢なのです。

このため劉邦が建てた王朝を前漢、劉秀が復興させた王朝と後漢。

あるいは今の中国の学会などでは、この後も漢を名乗る短命王朝などがありました。

そのため、劉邦が成立させた漢の首都が西の長安で、劉秀が復興させた漢の首都が東の洛陽であることから、西漢と東漢という呼び方で区別をしていたりします。

よく、三国志関係の本や小説などで滅びた漢王朝の事を漢と言ったり後漢と言ったりするのは、そういう理由なんですね。

マニアックな本になると東漢などと書いて居たりしますから、さらにややこしいです。

もちろん当時の人は、そんな区別をする事は王朝に対して不敬ですから王莽によって滅ぼされたという黒歴史は「なかったことにして」、まとめて「漢」と呼んでおりました。

このあたり、小説などやマンガでは気をつけなければならないところですね。

・外戚と宦官

しかし、この後漢(面倒なのでここでは、こう統一します)王朝は劉秀を中心として豪族たち、つまり地方の領主たちが団結して成立した王朝でした。

そのせいで成立当初から彼らの発言力や軍事力は大きいものがありました。

これにたいして後漢の初代皇帝劉秀こと光武帝などは、さまざまに豪族たちの権力を削ごうと努力していたのですが、それでも彼らの勢力は無視できないものがありました。

4代目の和帝がわずか9歳で皇帝になると竇憲という「外戚」が現れます。

外戚というのは、娘や妹などの近しい女を皇帝に嫁がせて、皇帝と姻戚関係を結ぶことによって皇帝を操るという、いわば日本における平安時代の藤原氏のような事をする者たちの事です。

これに対して周囲の重臣たちも、官僚のほとんども豪族の子弟たちに占められている皇帝は豪族たちによってがんじがらめにされてしまいます。

こんな状況の中、皇帝にとって唯一の味方となったのが「宦官」たちでした。

宦官とは後宮、つまり皇帝のハーレムの中で皇帝や女達の身の回りの世話をするために去勢された奴隷たちの事です。

皇帝にとっては、こんな去勢奴隷以外に相談できる味方は居なかったわけですね。

こうして成人した和帝は宦官たちを浸かってクーデターを行い竇憲の一族を誅殺します。
しかし、また皇帝が死んで若い皇帝が帝位に就くと、その皇后が選ばれる事によって外戚が現れ、また皇帝が成人すると皇帝か宦官たちともに彼らを征伐する……。

ぶっちゃけ、後漢200年の歴史はこの繰り返しです。
逆に言うと、こんな宮廷内での権力争いに終始していたため、始皇帝や武帝のような強烈な皇帝も現れず、地方の豪族たちの反発を招くような大改革や遠征なども行われることもないまま、のんべんだらりと200年も王朝を続けることができたのかもしれません。

・宦官たちの台頭

8代皇帝順帝の時代になると、後漢史上最強の外戚が現れます。

梁冀というこの人物は順帝、冲帝、質帝、桓帝の4代に渡って漢王朝を牛耳ります。

そんな梁冀を「跋扈将軍」と罵った質帝に至っては毒入りの饂飩を食べさせられ、毒殺されるという有り様でした。

そんな梁冀に対して立ち上がったのが11代皇帝桓帝と単超を始めとする5人の宦官たちでした。

彼らは慎重にクーデター計画を練り、突然梁冀たちの邸宅を包囲し漢王朝4代に渡って権力を振るった怪物外戚梁冀とその一族、同調者たちを討伐したのです。

とかく三国志では悪役として描かれがちな宦官たちですが、重臣や官僚どころか後宮の女たちまで豪族たちによって占められていた後漢の皇帝たちにとっては唯一自分の身の振り方を相談できる貴重な味方だったのですね。
梁冀の外戚政治の反動からでしょうか、桓帝はクーデターに功績のあった宦官たちばかりでなく、人事や後宮なども宦官たちを重視する政治を行ないます。

多くの三国志の小説やドラマなどでは「宦官たちが権勢を振るう事によって後漢は衰えた」などと書かれてしまいます。

しかし、これは後世の歴史家たちの儒教的価値観や後の時代が反宦官の豪族勢力によって動いたため、後漢王朝の腐敗の全ての責任を宦官たちに負わせようと過大に描いていたのでしょう。

何の事はありません後漢王朝は100年以上もまともに政治をとらずに宮廷内で外戚と宦官の勢力争いに明け暮れていたのですから、宦官によって腐敗するもなにもありません。

すでに4代目というごく初期の時代から後漢王朝はだめんず王朝で、なんとなくとって替わる者も存在しないまま、衰弱していった王朝に過ぎないのです。

というわけで一方的に宦官のせいにするのはナシな。

こうした桓帝の宦官を重視した政策に反発した豪族たちは、宦官たちを「濁流」、自分たちを「清流」と呼んで、反発していきます。

これに対して桓帝と宦官たちは、「清流派」を名乗る豪族たちや官僚たちを「党人」と呼んで公職から追放する166年に第一次党錮の禁と呼ばれる弾圧を行います。
さらに桓帝が169年に崩御すると「清流派」の豪族たちはここぞとばかりにクーデターを計画しますが、これも宦官たちに先手をとられて、今度は公職追放だけでなく死罪なども含む重罪を課した第二次党錮の禁と呼ばれる弾圧を行なうのでした。

「清流派」、「党人」などと言葉は変わっていますが、相も変わらず宦官と豪族たちが宮廷内で勢力争いを続けていたわけですね。

別に後漢王朝にとってはさして珍しくない光景であったと言えるでしょう。

・道教と黄巾の乱

さて、宦官たちが権力を握るとともにもうひとつ対等してきた勢力があります。

これが、今までの後漢の歴史とは一味違った部分でした。

それが道教という宗教です。

元々、前漢の時代から漢王朝は儒教を国教とし、社会制度まで影響させるほど強固な儒教社会でした。

子孫を残し、家を繁栄させることを最も重要視な道徳とする儒教において、去勢された宦官たちは人として扱われない存在でした。

これに対して、この頃に勃興してきた道教は宦官たちの存在に対しては比較的寛大であり、儒教社会によって阻害されてきた宦官たちを魅了しました。

恐らく宦官たちの手引きなのでしょう、桓帝には于吉が著した『太平清領書』が献上され、桓帝もまた道教の始祖とされる老子を祀る儀式を行なったりしています。

ちなみに、三国志演義では黄巾の乱の首領張角が南華老仙という人物に、この『太平清領書』を与えられ、太平道を興しています。

ちゃんと実在していた書物だったりするのですね。

また、この頃すでに漢王朝が末期状態になるのは宮中の人間たちも民たちも感じとっていったのでしょう。

宦官たちばかりでなく、道徳に厳しい儒教よりも現世利益と快楽を掲げた道教の方に惹かれる人たちが増えていくのです。

こうした道教に対して傾倒する人物たちが増えていく中、170年ごろから急速に勃興してきた道教の教団がありました、それが「太平道」です。

彼らはわずか十年ほどの間に河北、中原、南方などほぼ全国に数十万の信者を獲得していきます。
三国志演義などでは住民反乱や盗賊のように完全に悪役というか賊として描かれる「黄巾賊」こと太平道ですが、彼らは極めて組織だった宗教集団です。

その勢力は民衆だけでなく宮中や官僚たちにまで行き渡っていたのです。

「蒼天己死 黄天当立 歳在甲子 天下大吉」

を掲げた彼らは明らかに後漢王朝を転覆し、世直しを掲げた新興勢力でした。

大賢良師こと張角を教祖とする太平道は、全国各地に三十六の「方」と呼ばれる組織を作り全国で蜂起させ、同時に宮中において同調する宦官や官僚たちとともにクーデターを行って一気に国家を転覆するという緻密な計画の下に行動していたのです。
もし、これが成功していれば、一年も経たないうちに新王朝が成立していたかもしれません。

しかし、張角の弟子であった唐周という人物が裏切ってしまい、太平道が宮中で千人規模のクーデター起こそうとしていた計画を上書してしまいます。

その結果、クーデター計画の指揮を取っていた馬元義という人物が捕らえられ、宮廷内におけるクーデター計画は失敗してしまいます。

このため、張角は先手を取るためにも計画を前倒しにして、全国で信者たちを一斉に蜂起せざるを得ませんでした。

184年2月、一斉に蜂起した太平道は瞬く間に勢力を全国8州にまで拡大していきます。

ロクな連絡手段もなかった時代、計画を前倒しにしたにもかかわらず、これほど組織だった一斉蜂起を行なうことの出来た太平道の組織力と、張角とその同志たちの戦略能力は当時としては恐るべきものがあったと言えるでしょう。

・太平道と後漢王朝の戦い

太平道の者たちは、自分たちの仲間を区別するために黄色い巾を身に着けていました。

このようにして同士討ちなどを防いだり、団結力を高めたりするという知恵も、単純ですが中々優れたものがあったと言えるでしょう。

こうして184年2月に蜂起した太平道ですが、これに対する後漢王朝の対応は後手にまわります。

というのも第二次党錮の禁によって宦官たちが官僚たちを粛清してしまった事により、武官が不足してしまうというとんだお間抜けを晒すのです。

今までは宦官と豪族で争っていればよかったものが、「太平道」という第三勢力が現れた事によって、大慌てで両者は和解します。

このあたりすでに三国志らしく、三つ巴の争いになっていて面白いですね。

宦官たちは3月になってようやく党錮の禁によって公職を追放されていた「清流派」豪族たちを復帰させ、「外戚」である何進を大将軍とし皇甫嵩と朱儁に命じて太平道の討伐に当たらせるのです。

この頃、すでに都である洛陽まで通じる大都市である潁川と汝南まで太平道が占拠していました。

どれだけ太平道の動きが素早く、後漢王朝が後手に回ったかが想像がつきますね。

このため皇甫嵩と朱儁は、まず汝南と潁川の太平道の討伐に当たるのですが、なんといきなり官軍は潁川の戦いで敗れてしまいます。

これから見ても黄巾賊と呼ばれる太平道軍が烏合の衆などではなかったことがよくわかりますね。
このため、5月には波才という渠帥(軍団長)の一人が太平道の主力軍を率いては長社という地で、皇甫嵩と朱儁率いる官軍を包囲してしまうのです。

ここで官軍が敗れれば、そのまま波才率いる太平道軍の主力軍は一気に洛陽まで雪崩れ込んだかもしれません。

ここで官軍、いや後漢王朝の危機を救ったのが、騎都尉という地位にあった曹操という人物でした。

彼は援軍として洛陽より参戦し、長社で皇甫嵩軍を包囲する太平道軍を夜襲し、彼らを混乱に陥れるのです。

この隙に皇甫嵩もまた反撃に転じ、火攻めによって波才の軍を打ち破るのです。
この長社での戦いが、まさに後漢王朝と太平道にとっての天下分け目の戦いだったと言えるでしょう。
どうも太平道の主力は波才率いる潁川・汝南の豫州軍と張角率いる鉅鹿の冀州軍の二つの軍があったようです。

この鉅鹿は太平道の興った地でもあり、こちらにも巨大な太平道軍が蜂起していました。

これに対していたのが、盧植率いる官軍でした。

彼は6月に鉅鹿を奪還するなど張角率いる太平道の冀州軍を破っているのですが、宦官たちの謀略により左遷されてしまいます。

それに替わって冀州軍に対する官軍を率いる事になったのが董卓という人物でした。

どうもこの董卓は本気で戦う気はなかったようです。冀州での戦線は膠着してしまいます。

そして、ようやく8月にになって皇甫嵩が冀州の太平道軍に対すると、たちまち太平道軍は破れ広宗という地に追い詰められてしまうのでした。
ちなみにどうもすでに皇甫嵩が冀州の太平道軍と戦い始めた8月には張角は既に死んでおり、冀州の太平道軍は事実上崩壊してしまっていたようです。
一方、敗れた太平道の豫州軍は、張曼成という太平道の別働隊が落としていた荊州の宛という大都市に立て籠もります。

朱儁の部下であった孫堅という人物の活躍により十月には宛に立て籠もる太平道の豫州軍も潰滅するのでした。
かくして185年1月には広宗に立て籠もった冀州太平道軍も降伏し、一時は後漢王朝を転覆させかねない勢いであった太平道の乱も鎮圧されたのでした。

ですが、依然として各地には彼らの残党が残っており、完全に太平道の勢力が掃討されたとは言い難かったのですが、それらを鎮圧する余力はすでに後漢王朝には残されていないのでした。

豆知識 宦官の作り方

いわゆる、去勢されて中国の後宮にはべる宦官たち、その宦官の製造法、つまり男性機能の破壊の仕方について語ることにしましょう。
宦官の製造法にはいくつかあるが、まずは幼児期にほどこすものがあります。

幼児を将来宦官としようと親が考えた場合、親は幼児をその筋の乳母に預けます。

乳母は特殊な方法で幼児の睾丸を揉み続けると睾丸の機能が破壊されるといいます。ようするに揉み潰すのですね、うわあ。
成人の場合は”刀子匠”と呼ばれる切り師が切り取ることになります。

去勢者は手術台に二人の徒弟におさえつけられ、刀子匠に何度も「後悔はしないな」と念を押されます。
後悔はしないと答えた場合、手術は決行されます。

被術者は下腹から太股にかけて包帯をきつく巻きつけられる。次に手術部分は唐辛子湯で洗浄して消毒しておく。こうして手術の準備が終わったら、刀子匠は鎌型の手術刀で一気に陰茎と睾丸を切りとります。
切り取ったら白蝋と呼ばれる銅と亜鉛の合金製の針を尿道に挿入して、尿道を塞ぎます。

最後に傷口を冷水にひたした紙を張りつけて止血します。

しっかり手当したあと、去勢者を助け起こして部屋の中を2、3時間歩かせて無事を確かめる。
このあと3日間、水を与えずに安静にさせておいて、ようやく尿道の栓を抜きます。

このとき、溜まった尿が一気に噴出すれば手術は大成功。

もし、噴出しなければ尿道がふさがってしまったということであり、手術は失敗。被術者は尿毒症などで死ぬのを待つばかりとなってしまいます。
なお、これは清代における方法ですが、基本的には漢代でも似た様な方法で去勢されていたようです。
一般に手術後2、3ヶ月でホルモンバランスの崩れによってかヒゲが抜け始め、ノド仏が小さくなり、声も女性的になっていくらしいです。

ちなみに幼児に性器を破壊された宦官はヒゲも生えず、ノド仏も出来ず、『後漢書』によれば「陽(男根)なきは、なお婦人の如くなり」と書かれるほどであったといいます。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする