三国志 戦争篇 第十九章 中国統一戦 三国志史上最大の作戦

第十九章 中国統一戦
三国志史上最大の作戦

274年三月 陸抗病死
278年 羊祜病死
279年十一月 晋、六路から呉に侵攻を開始
279年 呉、晋軍に降伏。
晋によって中国が統一される。

晋の呉侵攻作戦

274年三月、呉の名将陸抗が病死する。この時点で呉の命脈は尽きたと言えるだろう。

呉の政治、軍事の両面を独力で支えていたのが陸抗であり、それに代わる人材はもはや呉には存在しない。

陸抗の死を奇貨として、呉征伐を主張したのは、誰よりも陸抗の力量を認めていた羊祜であった。

彼を中心として晋による呉征伐は、繰り返し建議されていた。
だが、やはり魏を受け継いだ晋にも赤壁の戦い以来、長江を渡ることができなかったというトラウマが残っていたのだろう。
長江を渡って呉を討つという建議は常に重臣賈充を始めとする出兵反対派によって否決されてきたのである。
それを変えたのが278年に没した羊祜の遺言であった。

羊祜は呉における最大の癌である孫晧が帝位にあるうちに呉を攻めよ、と遺言したのである。

長年、陸抗と対峙し、呉と戦い続けた羊祜の遺言を重く受け止めた司馬炎はついに呉征討を決断する。
その陣容は後漢末期からこの時代に至るまでに行なわれた戦争の中でも史上最大と言ってもいい大規模なものであった。
まず益州より王濬率いる大艦隊が長江を下って建業を目指す。
荊州の軍を率いては杜預が江陵より侵攻。
徐州の軍を率いて司馬伷が涂中より侵攻。

揚州の軍を率いて王渾が牛渚、横江より侵攻。
豫州の軍を率いて王戎が武昌より侵攻。
荊州の兵の一部を率いて胡奮が夏口より侵攻。
という六路に渡る大侵攻作戦である。

破竹の勢い

279年十一月、羊祜の後を継ぎ、荊州方面の司令官となった杜預を中心として、呉に対する侵攻作戦が開始される。
杜預の指揮の下、晋軍は怒涛のごとく呉に殺到する。

杜預がこれを称して「破竹の勢い」と呼んだことで、この戦いは後世に残る。

この言葉に象徴されるように、前任者である羊祜が練りに練り上げられた呉侵攻作戦は、空前の壮大さとともに水も漏らさぬ緻密さを備え、呉をあらゆる方面から殲滅していったのである。
これに対して孫晧は張悌に全軍を与えて迎え撃たせるが、王渾の軍と遭遇し惨敗。

この戦いで呉軍は戦力の大半を失う。
この戦いにおいて面白いのは、先鋒を担ったのが陸上戦力ではなく、水上戦力であったことだろう。

益州方面から長江を下っていった王濬の艦隊である。
王濬の艦隊は、この日のために益州で長年建艦され続けてきたものである。

その木材の切れ端が長江を流れて呉に知られたというほどの大規模なものであった。

陸上戦力が呉の抗戦を封じる間に王濬の艦隊は長江を下り、西陵、荊門、夷道を陥落させ、さらに 張象が率いる呉の最後の軍を一蹴するのである。

結果的に王濬の艦隊が、呉の帝都建業に一番乗りを果たす。
皮肉なことだが、水軍の優秀さをもって知られ、赤壁の戦いを始めとして数々の水上戦を勝ち抜いてきた呉は、最後に自らを凌駕する水軍によって止めを刺されたのであった。

建業に迫った王濬の軍に対して孫晧は降伏し、呉は滅亡。

晋による天下の統一がなったのであった。ここにいわゆる「三国志」の時代は終わりを告げる。

杜預対呉

この杜預を総司令官とした呉征伐戦において、いわゆる三国志の時代は終わりを告げる。
いわゆる最終回とも言うべき作戦であるが、面白いのはこの晋軍が展開した呉征伐作戦が、まるでそれまでの戦争の歴史を辿るかのように、その作戦のルーツを上げられることだろう。
まず基本的に晋軍が行なった多方面における作戦の同時展開は、その緻密な作戦展開と教示のノウハウは鍾会が作り上げたものであり、さらに言えば作戦自体のアウトラインも鍾会が作り上げていたと思われる。
次に呉の都建業に一番乗りを果たした王濬の艦隊であるが、長江沿いに呉を攻撃するというのは夷陵において劉備がとった作戦である。

この失敗を受けて、陸上兵力ではなく水上兵力で、長江を下るという作戦は、蜀において常に検討されており、蒋琬が水軍によって長江を下り荊州を陥落させるという計画を、実行寸前まので進めていた。

さらに言えば、呉の水軍を大型の戦艦で圧倒するという戦術思想は、曹丕が実行しており魏晋の大艦主義の嚆矢となっている。
そして主力軍である杜預は江陵から呉に侵攻しているが、これはほぼ曹操が赤壁の戦いで辿って進軍経路であり、呉攻略の常道であった事がわかる。
さらに揚州では牛渚、横江から王渾が進撃しているが、これは孫策が揚州を平定するに当たって辿った経路である。
このように進軍経路が三国志の歴史を辿るようになっているのは、大人数の行軍が可能な経路が限られている以上、当然ではある。

言ってしまえば、晋はこれまで難攻不落を誇った呉に対して、思いつく限り、史上に残る限り全ての進軍経路を辿って征服を開始したのである。
完全に数に任せた作戦ではあるが、戦略としてはこれほど正しいものはない。
しかし、この正しい戦略を推し進めるには、これまで書いたような軍事理論の発達が必要であった。

戦乱当初は豪族の私兵や地方官僚の兵士の烏合の衆たちの争いであった当時の戦争が、曹操によって組織や命令系統の整理が行なわれる。

そこの曹操の戦略戦術を劉備や諸葛亮、周瑜たちが、研究する事で軍事理論の底上げが行なわれる。
そして、ついには鍾会によって多方面の同時作戦を展開できるまでに戦争自体が進化してきたのである。
太平道の乱から晋の天下統一までの約百年の戦乱の時代は、こと軍事に関する限り、飛躍的な進化を遂げた時代でもあった。
その進化の総決算とも言うべき戦いがこの晋による呉侵攻作戦であった。
いわゆる『三国志』の時代は、英雄豪傑たちが力づくで作り上げた時代ではない。

彼らは少しずつ頭脳と知識を積み上げながら、ひとつの歴史を作りあげたのである。

それを象徴するのが、軍事理論の進化であったのだ。

杜預(字・元凱)

222284

三国志最後の大作戦

278年に病死した羊コに変わって荊州方面の司令官となり、280年における晋の呉侵攻作戦では総司令官として呉征伐の指揮をとった人物である。

呉征伐作戦では、史上空前とも言うべき大兵力と、六方面にわたる大規模な多方面作戦を展開している。

この作戦を統轄したのが杜預であり、三国時代の最後のシメを担った武将である。

杜預という武将は、なんと馬に乗ることも出来ず、弓を射ては的を射抜いたことがないという、ほとんど武芸においては無能というべき人物であった。

とはいえ、彼は前線に立つべき人物ではなく、武芸の腕前は必要はなかった。

その代わり彼には恭しく礼節をわきまえ、物事を尋ねられれば隠し立てする事なく答え、人に説明するにも投げやりにならず、物事に敏感で言葉も慎み深い、という熟れた人格の持ち主であった。

呉征討作戦のような大規模な作戦において、礼節と明晰さでいらぬ人事の摩擦を起こさず、丹念に物事を説明し作戦を理解させる性格は、またとない適正であると言える。

そう晋は天下統一の最後の仕上げにまたとない適任者を選んだのである。

そして、杜預は魏軍から受け継がれる機動力を自由詩するドクトリンを忠実な継承者であった。

呉征討作戦における晋軍の侵攻は電撃的であり、呉軍の指揮官は「晋軍は、まるで長江を飛んで来たようだ」と手紙に書き残しているほどであった。

そして夏が近付き、南方の猛暑を警戒した諸将が、一旦撤退し冬に再度侵攻すべきと進言すると、

「いま我が軍の勢いは例えるならば竹を裂くかのような勢いのものだ。このまま侵攻を続ければ、呉軍はすぐに潰える」と答えて、侵攻作戦を続行し、最終的に呉を平定してしまっている。

まさに杜預は曹操から続く「兵は神速を尊ぶ」という機動力重視の戦略戦術の継承者として、天下の最後をまとめ上げたのである。

呉侵攻作戦の立案者は?

杜預には面白い経歴がある。

それは杜預は鍾会にしたがって蜀侵攻作戦の副官として参戦しているのである。

呉侵攻作戦における晋軍の多方面同時展開は、どうにも鍾会の築き上げたドクトリンに忠実であり、彼の影響が色濃く残っているように思われる。

こうした杜預の経歴を鑑みると、おそらく蜀侵攻作戦だけでなく、呉侵攻作戦の構想は、鍾会の頭脳にはあったのではないだろうか?

少なくとも司馬昭と鍾会が蜀に続く呉平定を考えていなかったわけがなく、その作戦構想を鍾会が練り上げていなかったと考えるほうが不自然であろう。

その基本構想を杜預が受け継いでいたと思われる。

そう考えると、呉征討作戦において杜預が晋軍の総指揮をとったもうひとつの理由が理解できる。

杜預は鍾会の忠実な弟子として、鍾会の構想にあった呉征討作戦を完成させ、実行したのであろう。

実は以後の晋代における戦いでは、このような多方面作戦が展開されたことはなく、鍾会のドクトリンの系譜は途絶えてしまっているのである。

すでに蜀において鍾会は反乱し誅殺されており、このため晋においては呉侵攻作戦を最後に鍾会が展開するような、華麗なる多方面作戦を構想する頭脳が途絶えてしまったとは考えられないだろうか?

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする