三国志 戦争篇 第十七章 蜀漢滅亡 大規模戦略の見本

17章 蜀漢滅亡

大規模戦略の見本

262年冬 鍾会率いる魏軍、漢中に侵攻を開始。

263年十一月 蜀の成都陥落。魏に併合される。

264年一月 鍾会、鄧艾死亡。

 鍾会の戦略

鍾会という男がいる

。魏建国の重鎮鍾繇の長子である毛並みのよさだけでなく、軍事と謀略においては当代随一の才能の持ち主であったろう。

彼は魏の曹氏が衰退し、替わって司馬氏が台頭する過程において、司馬昭の懐刀として才能を発揮する。

司馬氏が権力を握る過程における宮中工作から、司馬氏の専横に毋丘倹や諸葛誕たちが叛乱を起こした際には、戦略面を立案して反乱軍を掃滅している。

司馬昭の下で魏を衰退させた参謀とも言うべき存在である。

262年冬、前年司馬昭に蜀攻略の可能性を諮問される。

このとき鍾会が立案した蜀侵攻作戦は、大規模戦略のお手本とも言うべきものである。

鍾会は軍を三方面軍に分け、まず鄧艾率いる軍が甘松・沓中で姜維と全戦線で対峙。

さらに諸葛緒の軍が武都を攻略し、蜀の姜維の帰路を遮断、鄧艾軍ととともに姜維を東西から挟撃。

そして、両軍は姜維軍を殲滅した後、東西二方向へ進撃し、巴蜀を掃討する。

一方、鍾会率いる主力軍は斜谷・駱谷道より進攻し漢中の占拠。続いて蜀へ侵攻し成都を陥とす、というものであった。

漢中攻防戦

鍾会は司馬昭よりそのまま総司令官として蜀攻略の指揮を取る。

まず沓中に侵攻した鄧艾し姜維と対峙する。

姜維は漢中に鍾会が侵入してきたのに対し、撤退。彊川口において鄧艾の追撃を受けて敗北する。

鍾会の大規模な漢中包囲戦略に対し、姜維は漢中の喉首に当たる陽安で迎撃しようとする。

しかし、鍾会の進撃は早く、陽安は失陥。

そのまま漢中は突破されてしまうのである。鍾会が立案した戦略は、現実とは食い違ったが、鍾会は全体としては三方面軍によって姜維を翻弄し、漢中を突破するという戦略を破綻させることはなかった。

このあたり、鍾会の机上の戦略だけではない臨機応変な対応が光る。

やむを得ず姜維は剣閣に篭り魏軍を迎え撃つ。

剣閣での姜維は鍾会の主力軍と前線するが、一方でこれは鄧艾と諸葛緒に行動の自由を与える結果となる。

蜀の滅亡

鄧艾は剣閣で鍾会と姜維が対峙するのをよそに、間道を伝い成都を直接急襲したのである。

度重なる北伐で蜀本国にはほとんど兵力はないと見ての大胆なる奇襲であった。

これに対し、蜀軍は諸葛亮の遺児諸葛瞻になけなしの守備兵を与えて迎撃させる。

涪県において諸葛瞻は鄧艾軍の先鋒を破るが、鄧艾は一歩も引かずに逆撃して、諸葛瞻を討ち取った。

この戦いにより、もはや成都は抵抗手段を失い、劉禅は鄧艾に降伏を申し入れる。

そして剣閣の姜維も武装解除される。

かくして蜀は鍾会率いる魏の侵攻軍によって滅亡する。

さしもの天険を誇った益州も、内部は疲弊しきっていた。

さらに侵攻軍を率いる鍾会と鄧艾は『三国志』の時代を通じても、屈指の名将である。

これは余談となるが、蜀攻略で活躍した鄧艾は、264年一月に鍾会の讒言を受けて斬られている。

そして、その鍾会もまた成都において降将である姜維とともに独立を企てて叛乱して失敗し、やはり斬られている。

かくして、三国のうちの一角が滅亡し、時代は新たな局面へと加速していくのである。

鍾会・鄧艾対蜀

分進合撃

移動経路や平坦の都合から、軍を分けて進撃し、同一目標を討つこと。

戦略戦術において、敵の目標を分散させて対応力を超えさせるよう利用する場合もある。
曹操や諸葛亮ほど強大な権限を持って一国の内政や外交にまでまたがるドクトリンを確立したわけではない。だが、一国における軍事システムを転換させ、あらたな戦略戦術のドクトリンを確立したという点からすれば、鍾会はこの二者に次ぐ人物であったと言える。
魏軍における鍾会の最大の功績は、蜀征伐などでは軍事の中央集権化を推し進めた曹操の築いた軍事システムを、さらに一歩進めて多方面に作戦展開を可能にするシステムを築いた事であろう。

前述したように、曹操の築いた軍事システムの最大の弱点は、多方面で作戦を展開した場合、曹操が存在しない方面における作戦能力の低下である。
これは魏軍の宿痾とも言うべき問題であり、曹操の死後も魏軍の作戦の可否が、司馬懿の有無次第というような状態がしばしば見受けられる。
こうした魏軍の弱点を解決するために、鍾会は戦前における作戦計画の立案を綿密に行っている。

各方面の司令官に作戦計画の教示を徹底する事で、多方面作戦の展開を可能にしたのである。

これは言うのは簡単であるが、文盲な武官が普通であった古代中国においては、極めて困難な事である。

また各司令官の忠誠心と作戦に対する信頼感が必要であり、魏軍将兵の教育水準とモラルの引き上げが必要とされたのである。
そして、それ以上に事前に綿密な作戦計画を立案する事が必須とされる。

敵地どころか国内の詳細な地図ですら満足になかったこの時代にあって、鍾会の立てる作戦計画の緻密さは突出している。

特に蜀侵攻作戦における、鄧艾、諸葛緒らに教示した各方面の進軍計画は、漢中内部の詳細な地図や蜀軍の配置を徹底的に調査していたことがよくわかる。

実際、後漢から三国時代、晋代におけるまで鍾会ほど緻密かつ高度な軍事計画を立てる人物はおらず、同時代において彼の頭脳は、非常に突出したものがあったろう。
鍾会の立案した蜀侵攻作戦は、漢中における蜀の主力軍である姜維を包囲すると同時に、漢中と益州の戦力を分断するものであった。

これは前述した蜀国内の漢中司令部と成都政府の分断状態の弱点を正確に突くものであり、敵の包囲と勢力の分散を同時に行なう高度なものである。
この鍾会の立案した漢中侵攻戦に対して、姜維はいち早く包囲を脱出し、剣閣まで退避することで辛うじて、蜀本国と漢中の分断を防いでいる。

一個の戦術家として姜維は決して無能ではない。この防衛作戦の展開は、唯一の正解と言える。
しかし、鍾会と鄧艾は、それ以上に臨機応変の才略を見せる。

鄧艾は単独で蜀国内に侵入し、一気に成都を陥落させてしまう。

さすがにここまで防ぐのを姜維に求めるのは酷である。

これは完全に鍾会と鄧艾の作戦勝ちとしか言いようのがない。

鍾会(字・士季)

225~264

漢成立時に帷幄にあって貢献した大軍師張良。彼になぞらえて同時代の人間に「子房(張良の字)」と呼ばれた人物が二人いる。
一人は曹操の下で、その覇業に貢献し、曹操陣営の軍師団の筆頭とも言うべき荀彧。

そして、もう一人がこの鍾会である。
とにかく政戦両略に関しての才幹という点で、鍾会は突出している。

魏において曹氏に代わって司馬氏が実権を握っていく過程で、彼は司馬懿の二人の子司馬師と司馬昭に仕えている。

この二人の下で鍾会は、凄まじいまでの活躍をみせる。
司馬氏の専横に毋丘倹と文欽が寿春で蜂起すると、鍾会は司馬師の幕僚として参加。

諸葛誕を使い陽動作戦をとらせ、同時に徐州と青州の兵で毋丘倹らが、呉との連絡とるのを断ち、寿春を包囲。

さらに鄧艾を使って、文欽を誘い出しこれを殲滅。陽動を伴った多方面作戦を同時進行させるという離れ業を展開。
毋丘倹を鎮圧してすぐに起こった諸葛誕の寿春での反乱でも、鍾会は急逝した司馬師の後をついだ司馬昭の下で、呉との連携を本国との離間策で断ちきると同時に、二六万という大兵力を動員して寿春を包囲するという作戦を展開している。
この他にも宮廷工作など、司馬氏の政権奪取のほとんどに貢献しており、まさに子房と呼ぶに相応しい活躍ぶりを鍾会は見せている。

そして263年、幕僚として働いていた鍾会に蜀討伐の総司令官として軍権が与えられる。

この戦いで、鍾会は鍾会本軍、鄧艾軍、諸葛緒軍の三方面から漢中へ進行。姜維を包囲しつつ漢中を奪取する戦略を展開している。

この戦いは姜維が驚くべき機動力を見せて、鍾会の包囲網を破る。

彼は自らの構想が予定通りにいかなくても、破綻させることなく蜀侵攻作戦を続行し、姜維を剣閣に止めつつ鄧艾に成都を突かせて、ついに蜀を降伏させてしまう。

これまでの鍾会の作戦を見てもわかるように、彼は多方面での同時侵攻と、州単位に広がるような大規模な包囲作戦を得意としている。

こうした多方面の作戦展開は、それまで二方面がせいぜいであった。

これを鍾会は三方面以上で駆使し、ほぼ同時に敵軍を大きく包囲するという離れ業を展開するのである。

行軍や補給、連絡など、徹底した計画の緻密さと実行力を必要とされる作戦は、鍾会の構想力の大きさと緻密さをそのまま表現していると言ってもよい。
そして、この鍾会が得意とした多方面における同時侵攻と大包囲作戦は、羊コや杜預らに受け継がれ晋のドクトリンとして成立していくのである。

その意味では鍾会は曹操、諸葛亮と並んで、戦争そのものをデザインする事のできた稀有な人物であった。

曹操から始まる戦争技術の発達は、鍾会をもって一つの頂点を迎えると言ってよい。
とはいえ、非常に高い戦略構想力を持つ鍾会であるが、実戦指揮官としては、蜀侵攻戦で不手際が目立つ。

漢中や剣閣での姜維との戦いは、蜀の主力軍の拘束という役割を果たしているが、その兵力差を思うと鍾会の不甲斐なさが目立つ。

実際、彼は実戦の指揮能力はそれほどなかったし、それを必要としないまでの戦略を練り上げるのが彼の本領であったろう。

それに彼には、その弱点を完璧に補完する指揮官がいたのである。

鄧艾(字・士載)

197~264

地の利という言葉がある。

戦争において、地の利を得ることは百万の味方を得るに等しく、三国時代においても北方の寒冷、呉の長江、蜀の天険など枚挙に暇がない。

普通、こういった地の利というものは、「地元」の側が有利に展開するものであり、外征側は敵国の地の利に翻弄されるのが常である。
しかし、ここに地の利というものに徹底してこだわった指揮官がいる。

それがこの鄧艾である。

鄧艾は吃音であったせいで出世できず、郡役人どまりであったが、いつも赴任先で高い山や沼地などを測量し、地図を描いて軍営を置くべき場所などをチェックしていたという。

周囲はこうした鄧艾を嘲笑していたが、司馬懿はこの鄧艾の異能に眼をつけたことで、彼の異能とも言うべき地政眼は花開く。
始め彼は屯田など内政担当官として才能を発揮する。

このときも灌漑や開墾計画などで、地政眼を発揮する。
そして、242年に侵攻してきた姜維との戦いで彼は戦場に登場する。

行く先々で測量と地図の作成を行ないながら、常に戦争を構想していた鄧艾。

彼の恐るべき才能は、敵の軍事行動と地形を照らし合わせる事によって、敵軍の状況や意図を完璧に把握してしまうところにあった。

演義では姜維優位に描かれている姜維の北伐における鄧艾との戦いは、実際のところ姜維の軍事行動を鄧艾が完全に把握してしまい打ち破るといった一方的なものであった。

ことに段谷の戦いでは、鄧艾は潰滅的な打撃を与えてしまっている。
涼州雍州の軍事行動可能な辺りの地形を把握しきっている鄧艾にとって、姜維は自ら罠に飛び込んでくるようなものであったのである。

鄧艾の異能は侵攻作戦においても発揮される。

鍾会が立案した蜀侵攻作戦は、漢中は併合したものの剣閣で鍾会本軍が拘束され、膠着状態に陥る。

ここで鄧艾は鍾会に進言して、ほとんど行軍不可能とされる間道づたいに一気に成都を突こうとするのである。
おそらく鄧艾は成都への地図を入手していたのであろう。

地図さえあれば鄧艾は、ありありとその地形を思い描く事ができた。

そして彼は誰もが不可能と思った迂回作戦を成功させてしまう。
これに対して蜀はなけなしの軍を集めて諸葛瞻に与え、鄧艾軍と緜竹で決戦する。

この戦いで鄧艾軍の先鋒を担った鄧艾の息子鄧忠は、諸葛瞻に敗れる。

しかし、鄧艾は屈せず、自ら指揮を取り蜀の最後の防衛軍である諸葛瞻軍を打ち破るのである。
鄧艾を名将たらしめているのは地政眼だけではなく、この成都侵攻戦に見られるように、鄧艾の作戦遂行に対する意思力だ。

通常ならは難路である上に、完全に敵国の中で孤立するような作戦は立てない。

そして諸葛瞻との戦いのように一度敗勢に立った場合の危機感も格別のものがあったろう。

ここで鄧艾は蛮勇とも言うべき意思力を発揮する人物であった。
作戦立案で傑出した構想力を持つ鍾会と、作戦実行に飛び抜けた意思力を持つ鄧艾は誠に名コンビであったという他ない。

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