三国志 戦争篇 第十六章 蜀の迷走 姜維の北伐

蜀の迷走
姜維の北伐

蜀(姜維)VS魏(鄧艾、陳泰、郭淮、王経)

分裂する蜀

夷陵の戦いで崩壊寸前に陥った蜀を建て直し、五度にも及ぶ北伐を敢行して内政を破綻させなかった諸葛亮は、文句なしに偉大な政治家であったろう。

しかし、一方で彼は負の遺産も蜀に残してしまっていたのである。
北伐にあたって諸葛亮は漢中に総司令部を置き、北伐の軍務を取り仕切るとともに、蜀の内政をも司っていた。

この政軍両面を漢中で行なうシステムは、諸葛亮存命時にはまったく破綻をきたさず、むしろ諸葛亮の優れた政治力と統率力を最大限に発揮するものであったろう。 しかし、一方でこれは事実上国内統治の実権が都である成都ではなく、漢中に遷っていたという事を意味し、蜀には二つの政府があるのも同然であった。
諸葛亮の死後、このシステムはあっさりと破綻する。

漢中に置かれた北伐司令部は諸葛亮の遺志を継ぐとして北伐の続行を主張し、成都では国内で防備を固めて内政に勤しむことを求めた

。蜀国内は完全に漢中と成都に分裂する。諸葛亮の遺志を継いだ蒋琬と費禕は、外征派が蒋琬を担ぎ、守勢派が費禕を担いで互いの政治姿勢を主張する。

238年、蒋琬は上庸方面から船舶で漢水を下り荊州の魏勢力を攻撃する作戦を立案する。

だが、この作戦は費禕が成都より漢中に派遣され、中止される。

蒋琬はこの計画が中止されたことで、外征を諦めたようだ。
243年、費禕は大将軍となり軍務の最高権力者となる。

これで国内は守勢派で固められる。

ところが、これをよしとしない者があった、外征派の中でもっとも急進的な姜維であった。

姜維の北伐

246年、蒋琬が死去すると漢中の実権を握った姜維は、盛んに外征を主張する。

費禕は外征派の代表である姜維を抑えきれなくなり、兵力を限定しての北伐を敢行。

249年、魏より司馬氏に反抗して逃亡した夏侯覇が蜀に降る。

姜維はこれを奇貨として北伐を開始する。

249年、250年と行なわれた北伐においては、兵力も不足しており満足な戦果は挙げられなかった。
253年正月、費禕は暗殺される。

これで自分を抑える者がいなくなった姜維は、四月、待っていたかのように南安へ出兵。
以後、姜維は漢中において成都の掣肘をほとんど聞くこともなく、毎年のように姜維は北伐を行なう。

度重なる姜維の出兵に蜀は疲弊した。

そして256年にはついに段谷の戦いにおいて、姜維は鄧艾に空前の大敗北を喫するのである。この大敗で漢中は外征の兵力および中級指揮官の大半を失うのである。
弱小国蜀にとっては夷陵の戦い以来の大損害であった。

ここで姜維は、ついに229年に諸葛亮が整えて以来、一貫して蜀を守り続けていた、漢中の防衛兵力に手を付けるのである。
漢中の防衛兵力を外征軍に回した姜維は、257年、258年と立て続けに魏へ出兵している。
255年に狄道で王経を討った以外、ほとんど戦果のない姜維の北伐は蜀を疲弊させただけではなく、その生命線である漢中の防備をも削った戦いであった。

確かに自らを省みず戦うというのは、一面美しくはあったろう。

しかし、段谷の敗戦以来、各地で叛乱が続発し、民たちは戦費を賄うために重税に喘いだ。

姜維が主導する蜀が自滅への道をひた走っている事は、傍目にも明らかであった。

姜維対魏軍

軍事の陥穽

軍隊とは国家最大の暴力組織である。

これが軍隊そのものの権益のために国家を消耗させ始めたとき、国家は亡国への道を歩んでいく。

軍隊というのは一国における最大の暴力組織であると同時に、多くの国家において最大の官僚組織でもある。

役人は自らの仕事のために仕事を作り出す。

官僚組織がその予算や組織を保守するために仕事を作り出すというのは、どこの国でも見かける構造である。

これは民間企業でも同様で、組織や予算のために仕事を作り題すよく見られる。いわば、組織というものが持つ本能とすら言える構造であろう。

そして、こうした構造は軍隊という強大な組織においてもまったく動揺である。

軍人たちは、自分たちの給料が減らされるのを好まないし、自分たちの部下を減らされるのを忌む。

現代に至るまで、いや現代においても国家における最大の暴力組織である軍隊は、その力を背景にして大きな発言権を持っている。

このため軍縮というのは極めて困難であり、さらに言えば軍隊が自らの組織の維持や権益の拡大のためだけに、戦争を起こすというのもよく見かける。

実際、第二次世界大戦の原因の一つは、第一次世界大戦後の世界的軍縮傾向に反発した各国の軍隊が、自らの仕事と権益を守るために起こした戦争であるという見かたすらできるほどだ。

特に日本においては露骨に、軍隊という官僚組織の保身のために起きた戦争であったと言える。

これとまったく同じ現象が起きたのが、諸葛亮死後の蜀であった。

諸葛亮が編成した漢中司令部は、その死とともに役割を終えるべきものであった。

漢中の司令部に与えられた、成都すらも凌駕する権限と兵力は、蜀の建国者であり丞相であった諸葛亮あってのものである。

しかし、一度与えられた権益や兵力を自ら手放す軍人などいない。

諸葛亮の死後の蜀政界は、蒋琬や姜維を中心とした漢中の権益を維持しようとする派閥と、費禕を中心として成都に権限と兵力を戻し軍縮を行なおうとする派閥での、軍縮と軍拡のせめぎ合いが繰り返される。

それでも蒋琬と費禕が健在であった時代は、両者の間である程度の合意がなされ、均衡を保てていた。

しかし、蒋琬と費禕が死んだ途端に姜維を中心とする漢中の派閥が暴走を始める。

いわゆる姜維の北伐は、魏に対する外征などと言えるようなものではなく、漢中の軍人たちが自らの権益を保守しようとするために、自ら仕事を作り出すという構造で行なわれた無益な戦争に過ぎない。

蜀という国家よりも、漢中における身内の権利のために行なわれた、この北伐戦は蜀を疲弊させる。

国家を防衛し、国益を獲得するための軍隊が、軍隊の維持のために国家を疲弊させる本末転倒の現象。

これは歴史における典型的な軍国主義国家の末期的症状であり、諸葛亮死後の蜀は、その典型とも言うべき道を歩んだ。

姜維が守ったのは蜀ではない。漢中軍の身内だけである。

姜維(字・伯約)

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 蜀滅亡の首謀者

諸葛亮の衣鉢を継ぎ、諸葛亮の死後も北伐を続けるものの、蜀漢は滅亡したため果たせなかった悲劇の武将とされる人物。

蜀という政権はその防衛戦略から漢中に多大な兵力と、その司令官に政治軍事の権限を与えていた。

これが諸葛亮が北伐を行なうようになると、総司令官である諸葛亮が漢中に在住し、益州全体の政治軍事を統轄するようになる。

このため蜀は漢中と成都の二重政権状態となり、戦地で諸葛亮が没したためこれが解決されないままとなってしまう。この二重政権状態を最大限に利用したのが姜維であった。

元々、姜維は涼州からの降将であり、益州出身者と荊州出身者が大部分を占める蜀においてなんの人脈もない人物であった。

しかし、軍人としてそれなりに有能であった姜維は、北伐を重ねるねうちに漢中の前線武将たちの信望を集めるようになる。

そして諸葛亮の死後、漢中と成都に分裂した蜀政権において、漢中の外征派の最右翼として、漢中政権の中心人物となっていくのである。

蜀が守勢に回れば、漢中政権は成都に吸収され、外征用の戦力が縮小されるのは言うまでもない。

そうなれば軍人たちは地位も権限も削減されるのは言うまでもない。

こういった事情から漢中の軍人たちは成都に対して、常に外征を唱え続ける。

その中でも、どの派閥にも属せず、極めて政治的に弱い立場にいる姜維が、唯一自分の居場所としてもっとも強硬に外征を唱えたのは当然であったろう。

そしてもっとも強硬派である彼は、自然に漢中外征派の中心になっていく。

つまり諸葛亮の死後の北伐とは、漢中における軍人たちの軍縮とリストラに対する抵抗というまでに形骸化してしまっていたのである。

このような事情で行なわれた北伐が、ろくな戦果を挙げられなかったのも当然であったろう。

そして戦争のための戦争は、国内を疲弊させていくが、それでも漢中の軍人たちは自らの権益を守るために外征を繰り返していく。

典型的な軍事による国家の崩壊が、諸葛亮の死後の蜀では展開されていた。

姜維の北伐は256年、段谷において夷陵以来とも言うべき大敗北を喫し、蜀の外征兵力は底を尽く。

ここで姜維は誰も手をつけなかった蜀の生命線とも言うべき漢中の防衛戦力を、外征軍に編入してなおも北伐を続ける。

北伐を中止すれば、姜維ら外征派の軍人たちは、敗戦や国家を疲弊させた責任を取らねばならない。

それを糊塗するための保身のための北伐は、蜀の滅亡まで続いたのである。

姜維は魏軍の方が?

国運を担う司令官として姜維は最低であったが、決して無能な戦闘指揮官ではない。

むしろ彼は機動力を重視した指揮官であり、鍾会による蜀併合の戦いでは、徹底した包囲戦略をとられながら、異様なまでの機動力でその包囲網を脱している。

とはいえ、姜維は諸葛亮の遺した「機動力を火力で制する」というドクトリンを捨て去った上での戦略戦術を得意としている。

劉備、諸葛亮と続いた戦略戦術の系譜の外にいた人物であり、むしろ魏軍の系譜に連なる。

蜀滅亡後、姜維を鍾会が評価し重用しようとしたのも、そうした理由からであろう。

そう考えると姜維はあらゆる意味で蜀にいるべきではなかった。蜀にとっては特に……。

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