三国志 戦争篇 第十一章 荊州の冷戦

荊州の冷戦

赤壁の戦果を巡る外交戦

劉備VS孫権(周瑜、魯粛)

209年 劉備、荊州南部を領有。

209年冬 周瑜、江陵を併合。

209年冬 劉備、孫権の妹と結婚

214年夏 劉備、益州を併合。

217年 魯粛死去

 赤壁の戦いの戦果

赤壁の戦いに勝利した孫権と劉備の両陣営は、積極的にその戦果を拡大しようとする。

208年十二月まず孫権が北上し合肥と九江に攻め入った。

だが、この方面は赤壁での被害とは無縁であり曹操軍の防備は固く、209年三月に至っても孫権軍ははかばかしい戦果を挙げられず、撤退することになる。

一方、激しい争奪の対象となったのが荊州であった。

赤壁の戦いの指揮をとった周瑜は、そのまま荊州の物資集積地である江陵に攻め入り、撤退した曹操に荊州の守備を命じられた曹仁と対決する。

さすがに曹操陣営でも一、二を争う名将である曹仁の抵抗は激しく、戦いの中で周瑜が負傷するほどであった。

しかし、一年にわたる激闘の末、209年冬、曹仁は江陵より撤退。周瑜は荊州の要衝である江陵を奪取することに成功する。

一方、曹仁と周瑜が激しく争う中、漁夫の利を得たのが劉備であった。

劉備は長沙、武陵、桂陽、零陵の四郡をほとんど抵抗もなく併合し、荊州南部を自勢力としてしまう。

赤壁の戦いでもっとも利益を得たのは劉備だと言ってもいいだろう。

荊州の領有権

荊州南部を併合した劉備に対し、荊州併合を悲願とする孫権は。

まず孫権がとったのが妹を劉備に娶わせることであった。

表向きこれは孫権と劉備の同盟を強化する政略結婚であった。

だが、荊州南部で劉備に出し抜かれた周瑜は、孫権に進言し結婚の挨拶に訪れた劉備を拘束し、奪われた荊州南部を奪回しようと孫権に進言したのである。

だが、この謀略は親劉備派である魯粛が孫権を止め、また劉備も荊州南部の領有権について“孫権より借用する”という体裁を整えたため、周瑜の謀略が採用される事はなかった。

その後、周瑜は益州に侵攻する作戦を立案し、その戦争準備を整えていたが、210年、志半ばで病死する。

周瑜の後、孫権陣営の主導権を握った魯粛は、劉備と交渉し、漢昌以西を劉備が、以東を孫権が治めるという条約を結ぶ。

そして、劉備が益州を得た後に荊州を孫権に譲渡するとして、孫権と劉備の同盟関係を修復したのである。

212年、劉備は益州の劉璋を攻め、214年にようやく劉璋を降伏させ益州を併呑する。

このため劉備は孫権に荊州を譲渡する義務が生じたのだが、劉備は言葉を左右して履行を引き伸ばす。

さらに劉備陣営で荊州を守備する関羽が、強硬な態度で孫権に接したため、危うく両者の間で武力衝突に発展しかけるのであった。

この対立は217年に曹操が再び南下し孫権を攻めた事と、魯粛が関羽に単身で会見を申し入れて関羽を屈服させることで、ひとまず劉備が折れて荊州南部を孫権に譲渡する事で収まるのである。

だが、この外交によって劉備陣営は孫権の領土欲に辟易し、孫権陣営は劉備の外交姿勢に信用が置けなくなり、両者の外交関係は一気に冷えていく。

そして、217年、赤壁以前より一貫して孫権と劉備の間を取り持っていた魯粛が病死してしまう。

赤壁の戦い以後、劉備は常に孫権陣営を外交的に翻弄し続けながら益州と荊州を領有していった。

劉備と孫権の外交戦は劉備が勝利し続けていたと言える。

だが、後に劉備は外交戦は勝利すればよいというものではないと言う事を思い知らされる。

孫権VS劉備

外交戦

結局のところ、戦争とは外交手段のひとつに過ぎない。

そして、外交は国家戦略を実現される手段に過ぎない。
そういう観点からすると、孫権陣営と劉備陣営の外交戦の変貌がよく見えてくる。

本来、孫権と劉備の同盟は南下してくる曹操の脅威に対抗するための防衛戦略として結ばれたものである。

これは赤壁の戦いにおいて、ひとまず曹操を退けた後も同様である。

そもそも、この戦略を推し進めたのは孫権陣営の魯粛であり、彼は曹操の追撃を受けて潰滅状態に陥っていた劉備を拾い上げて、孫権と同盟させる。

この魯粛の外交戦略は常に一貫しており、彼は荊州人士に人望があり、また曹操陣営を熟知している劉備と手を結んで、曹操と対抗するという姿勢をとっていた。

だが、赤壁の戦いで孫権軍が勝利すると、孫権軍の軍権を掌握する周瑜を中心として、劉備を駆逐し荊州、益州を領有して単独で曹操に対するという、戦略を打ち出す勢力が現れる。

特に荊州は、孫堅・孫策時代から孫家陣営が渇望してきた土地であり、非常に孫権陣営では支持を集めやすい戦略であった。
しかし、周瑜の死後、軍権を掌握した魯粛は、荊州侵攻派を押さえながら劉備を育てていく。

そして、彼は益州を劉備に取らせて、三国鼎立させることで曹操の勢力に対抗する事を実現させるのである。

魯粛は外交手腕によって自らの戦略を実現させた、この時代でも稀有の人物であり。

当時、孫権陣営、劉備陣営を合わせてもっとも発言力の大きかった人物であろう。

とはいえ、魯粛の遠大な戦略を理解できている者もまた両陣営には少なかった。

というよりも、両陣営の豪族や配下たちにとって、いつ攻めてくるか分からない曹操の脅威よりも、利害関係に直結する領土問題のほうが切実であった。
このため孫権と劉備の同盟に常につきまとう、荊州の領有問題がこじれるにつれ、両者の外交問題は矮小化していく。

本来、曹操に対抗するための外交関係であったものが荊州の領有問題が焦点となり、孫権と劉備の同盟関係は悪化の一途をたどる。
それでも魯粛が健在なころは、同盟関係は保たれていたが、彼の死後、孫権陣営と劉備陣営は荊州問題の対立によって、敵対関係にまで悪化する。

本来、国家の重要な戦略のために決定されるべき外交が、国内の利害関係や感情によって左右されてしまうというのは、どの時代でもどこの国でも例として見られる現象だ。

現在の日本でも、国益よりも感情によって外交が左右される例は枚挙にいとまがない。
劉備陣営と孫権陣営の外交関係は、国家戦略から始まった外交が、いつのまにか両国の感情によって対立して、矮小化しついに破綻するという、典型的なモデルケースであった。

魯粛(字・子敬)

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赤壁の戦い後の情勢

赤壁の戦いで劉備と同盟を結び、周瑜なき後は孫権陣営の軍権を握り、三勢力の鼎立を形成させた人物の一人である。

赤壁の戦いとは曹操が中国統一するのを阻み、三国鼎立時代へと至る契機となった戦いであったのは言うまでもない。

この赤壁の戦い後の転換期ともいうべき時期における、曹操、孫権、劉備陣営の間で天界された外交戦は、まさにもうひとつの戦いと呼ぶに相応しいものであった。

赤壁の戦いにおいて、曹操軍の戦力はほとんど減じられておらず、早くも211年には関中へ大規模な出兵を行なっている。

一方、孫権陣営は徐州進撃が果たせず、荊州方面も江陵で苦戦しているという状況であった。

曹操陣営の西方への勢力伸張は孫権陣営に危機感を与えた。

曹操はゆくゆくは漢中、益州にまで手を伸ばすかもしれない。

長江流域を勢力の中核としている孫権陣営にとって、長江の上流である益州を抑えられることは死活問題であった。

こうした危機感から周瑜は益州出兵を献策する。

だが、周瑜はまもなく病死してしまい、魯粛が孫権陣営の軍権を握る。

魯粛の大戦略

ここで魯粛子敬は周瑜の益州出兵策を破棄するが、これは戦いそのもの成否より益州を得た後の事も考えていたのだろう。

豪族たちの発言権の強い孫権陣営は、益州のような遠隔地を領土に入れた場合、その統治者が独立しかねない危うさがあった。

このため魯粛は独力で天下を二分し曹操と対抗するという周瑜の戦略を破棄し、変わって同盟者である劉備に益州を取らせて共に曹操と対抗するという戦略を彼はとる。

魯粛は劉備との同盟を強化しつつ、荊州に圧迫を加えて劉備に益州へ向かわざるを得ないように画策していく。

周瑜の死後、魯粛は劉備と交渉し荊州東部を孫権が領し、西部を劉備が保有する条約を結び、劉備にプレッシャーをかけている。

まもなく212年に劉備は益州へ出兵しているが、これも魯粛による「劉備に益州を取らせる」という戦略構想なしには実現しなかったであろう。

つまり天下三分の計とは、構想そのものは劉備陣営にもあっただろう。

しかし、赤壁の戦いの後に西部へ勢力を伸張していく曹操に対する危機感から、孫権陣営の魯粛が劉備を使って実現させた防衛戦略として成立させたものであった。

実際、孫権陣営には赤壁の戦いで漁夫の利をせしめた劉備を憎む者も多く、孫権陣営と劉備陣営は何度も一触触発の危機に陥っている。

もし魯粛という人物がいなければ、劉備は孫権に背後を晒して益州に出兵することはできなかった。

そして双方動けないうちに曹操が漢中を併合してしまえば、張魯に対する寛大な措置を見た益州の劉璋がそのまま降伏してしまった可能性は極めて高い。

そうなれば、もはや益州、荊州、徐州から進撃してくる曹操軍にもはや対抗する手段はなかった。

間違いなく魯粛はそこまで読みきって、劉備を使って三国鼎立の体制を作りあげていた。

自らの戦略を実現する手段として、外交はまったく軍事に替わる事はない。

その意味で、外交という手段によって自らの戦略を実現し、赤壁後の勢力均衡を作り上げた魯粛は、間違いなく偉大なる戦略家であったと言って間違いないのである。

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