三国志 戦争篇 第九章 荊州攻略戦

第九章 荊州攻略戦
劉備の戦略と曹操の電撃戦

二〇八年七月 曹操、南方征伐に出撃
二〇八年八月 劉表、病没する。
二〇八年九月 劉琮、曹操に降伏する
二〇八年九月 劉備、新野を脱出し江陵に向かう
二〇八年九月 曹操、劉備を追撃、これを破る

中原の覇者、曹操

袁家を殲滅し、河北と中原を制した曹操は、当時における人口密集地域をほぼ制したことになる。

さらに曹操は帝も擁しており、名実ともに天下を八割方平定したと言っても過言ではなかったであろう。

それになにより、袁紹、袁術、呂布といった名だたる群雄を打ち破った実績は、残った独立勢力を畏怖させるものがあった。
この時点で当時の多くの者たちは、曹操の天下は定まり、あとは残敵掃討の段階に入ったと考えていたろう。

そして、その天下人曹操による次なる平定の矛先となったのが、南方の荊州であった。
当時、この地を制していたのは劉表。

董卓の乱後の混乱に乗じて荊州の主となった彼は、袁術、孫堅、孫策などと干戈を交えつつ、中原へ出ることなく荊州を維持し続けてきていた。

そして劉表の下には、意外な人物が客将として仕えていた。
劉備である。

袁紹の下についていた劉備は、官渡の戦い以前に袁紹より後方攪乱の命を受けて、汝南で曹操に対してゲリラ戦を展開していたのである。

官渡において袁紹が敗れるのと同時期に、彼は曹操配下の曹仁に敗れ、荊州の劉表に身を寄せていたのであった。

劉備の戦略と曹操の速攻

208年七月、曹操は荊州平定に向けて出兵を開始する。

攻勢が防御か、荊州の世論は分かれ……なかった。

八月、劉表が突然病死してしまうのである。

後継者となった劉琮とその外戚に当たる荊州の豪族蔡瑁らは、ただちに降伏を選択する。
ここで立場を失ったのは、樊城に駐屯していた劉備であった。

対曹操戦の前線を担う立場として抗戦の構えを見せていた劉備は、博望陂において曹操軍の先鋒である夏侯惇を破っていた。

ところが、劉琮の降伏により彼は一気に後ろ盾を無くし孤立してしまうのである。

しかし、乱世において様々な陣営を渡り歩いてきた劉備は老獪であった。
劉備は劉琮が曹操に降伏を決めたとはいえ、主戦派の者たちを取りまとめきれてないと判断。

荊州の反曹操勢力を糾合して、独立し、あくまで曹操と抗戦しようと画策するのである。
劉備は配下の関羽に襄陽の軍船を持ち逃げさせ、さらに夏口の劉琦と連絡とともに抗戦派の者たちを吸収する。

劉備本隊は生産力となる流民たちを率いて、荊州の物資集積地である江陵を奪取し、豊富な物資を背景に荊州南部で独立する。

以上が劉備のとった戦略であり、十分以上に成算のある戦略であった。
しかし、劉備にとって不幸であったのは敵が曹操であるということであった。

曹操は劉備の動きを見て、その狙いを看破する。

自らわずか五千の軽騎兵のみを率いてで劉備を追撃するのである。

一昼夜に三百余里という常識外れの速度で劉備軍に追いつき、これを急襲する。

流民との混成状態で行軍していた劉備軍は、この奇襲に大敗。

劉備は江陵を諦め、夏口に敗走する。
これにより曹操は無事に劉琮の降伏を受け入れ荊州の掌握に成功する。

一方、独立の目論見が外れ、一転して敗軍の将となった劉備であったが、彼の利用価値を見出していた者があった。

荊州の次に曹操の矛先となる孫権陣営の重臣魯粛であった。

魯粛は独断で劉備との同盟を決定し、劉備の配下である諸葛亮を孫権陣営に送り込んだのである。

劉備対曹操

電撃戦と焦土戦術

第二次世界大戦において、ナチスドイツ軍がフランスのマジノ戦を突破するために編み出したのが、戦車と航空機の機動力を最大限に活かし敵の防御力を無化する“電撃戦”である。

敵の防御線突破するための戦術として名高いが、広義の意味で使うならば機動力によって敵から戦いの主導権を奪い取る手段として使ってもよいだろう。

例えば敵の防御線を突破する手段として、敵の防御線が確立される前に機動力によって突破してしまうというのも、立派に電撃戦と呼んでもよいのである。

こうした意味で、荊州における劉備の戦略を無化した曹操のとった手段は、まさに電撃戦と呼ぶに相応しいものであった。

河北中原を制覇した曹操が、荊州侵攻を開始すると、まもなく荊州の主劉表が病死する。

後を継いだ劉琮は曹操に降伏してしまう。

とはいえ、大部分の荊州の豪族や将兵たちは、この展開についていけず混乱するばかりであった。

ここで劉備は、襄陽の水軍と江陵の軍需物資を奪い、それを背景に混乱する荊州の豪族や将兵たちに呼びかけて、荊州南部に割拠しようという戦略を打ち立てるのである。

曹操軍が劉琮の降伏を受け、支配権を確立する間に、劉備は関羽に荊州水軍を強奪させ、劉備は江陵を占拠する。

劉備が荊州北部の民を引き連れて行軍したのも、民を奪いとってしまうことで荊州北部の生産力低下させ、江陵の軍需物資接収と合わせて、曹操の大軍を補給難に陥らせるという意図を持った一種の焦土戦術であった。

劉備は十分な勝算をもって江陵への進撃を開始した。

ところが、この劉備の意図を曹操は完全に看破する。

曹操は劉備が新野を脱し、襄陽の軍船が奪われたという報を聞くと、ただちに行動を開始する。

彼はわずか五千の軽騎兵で追撃部隊を編成し自ら劉備を追ったのである。

この戦いにおける曹操軍の追撃部隊の速度は一日に三百里(130km)という、当時の軍事常識からかけ離れた非常識な速度であり、さらに遠征直後の強行軍であり将兵の疲労も大きかったろう。

兵力の寡少もあって非常に危うい追撃戦であった。

しかし、この速度の非常識さ故に曹操はこれが劉備軍に対する完全な奇襲となると読んでいた。

流民も合わせて数万人に膨れ上がった劉備軍は、まったく予想だにしていなかった曹操軍の追撃を受け、完全に崩壊する。

劉備は自らの戦略における最大の目標地点であった江陵を諦め、夏口へ逃亡せざるをえなくなる。

これにより、劉備の江陵から南荊州に割拠するという戦略は崩壊することになる。

まさに曹操はその快速を持って劉備が築こうとした防衛線を、確立される前に突破し崩壊させてしまったのである。

まさに戦術的にも戦略的にも電撃戦のお手本と言うべき戦いが、荊州において展開されていたのである。

劉備(字・玄徳)

漢の血を引くと自称し、苦難と末に益州で蜀を建国。

三国時代の一角を築いた人物である。

演義のみならず正史においても、劉備は曹操や呂布など、敗走している局面が多すぎるせいで、どうにも戦下手という印象が拭いされない。

しかし、彼は太平道の乱で義勇軍を挙兵して以来、歴戦を重ねた武将として各陣営で重用された人物であり、決してその実績は軽視できるものではない。

というよりも、こと戦況を見る目の確かさに関して彼は当時において曹操と並んで最も優れた軍人であった。

劉備の戦略戦術眼の特徴は、味方に対してすら幻想を持たないリアリストとしての目である。

とにかく劉備の戦況の見切りの速さは、曹操以上に素早く、彼の前半生においてあれだけ敗走を繰り返したにも関らず生き残った事でもわかる。

特に曹操という追撃戦や機動戦の名手、呂布といった騎兵戦の猛者に対して、何度も敗れながらついにその手に落ちる事がなかったというのは特筆に価する。

むしろ彼の敗戦の多さは、戦況に対する読みが優れていたせいで、敗勢でいらぬ抗戦をして被害を増やすことを避けていたためとすら思われるのである。

常に保有していた兵力が寡少であったため、ほとんど撤退の見切りにのみ費やされていた劉備の軍事的才能であったが、赤壁の戦い以後からついに本領が発揮される。

とにかく劉備の戦略は曹操以上と言えるほど抜け目がない。

赤壁の戦い後、劉備は最大の敵である江陵の曹仁を周瑜に押し付けて、さっさと荊州南部を平定してしまっている。

その後の益州平定戦でも、あらかじめ内応者を多数作っておいただけでなく、はじめは劉璋への支援者として内部に入り込んでその隙を突こうとしている。

そして劉備の最大の戦いであった定軍山の戦いでは、漢中の防衛を担う夏侯淵の突出しがちな性質を利用して、これを見事に討っている。

そして、曹操との直接対決では、曹操の不得手とする正面からの持久戦に持ち込んで、ついに曹操に対して初めての勝利を手にしている。

劉備という人物の戦況や敵味方に対する分析能力と現実主義は非常に高く、勝勢に乗ったときは、恐ろしいまでの抜け目なさとして発揮されるのであった。

しかし、劉備のその生涯の最期にその現実主義を捨て去ってしまう。

関羽が孫権に討ち取られたことに激怒し、彼は益州の全軍を動員して荊州に攻め入る。

この戦いでも歴戦の将帥としての手腕は発揮されており、緒戦は連勝を重ね、呉班を囮として陸遜を翻弄しようとするなど戦いを有利に展開していく。

だが、これに対して陸遜は、夷陵において徹底した持久戦を強いて蜀軍の戦意を挫き、最期には火攻によって潰滅させている。

このとき陸遜は劉備の戦歴からその逃げ足の速さを熟知していたのだろう。

反撃に当たってまず行なったのが、劉備の退路を断つ事であった。

夷陵の戦いは、現実重視の戦略戦術眼、戦況の見切りの速さ、そして犠牲を出さない撤退の素早さなど、劉備の得意とする分野全てが封じられた戦いであった。

文字通りの完敗であった。

劉備は成都にも帰らず白帝城で没するが、これは「全ての面で負けた」という彼の敗北感の大きさをそのまま現している。

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