三国志 戦争篇 第八章 曹操の北伐

第8章 曹操の北伐
決戦のあとの併合戦

202年5月 袁紹病死
204年5月 曹操、河北征伐に出撃
204年9月 袁家の根拠地ギョウ陥落
205年1月 袁譚、曹操に討たれる
206年3月 曹操、并州の高幹を討伐
207年夏 曹操、烏桓を討伐
207年冬 袁煕・袁紹、公孫康に討たれる

袁紹の死

官渡にて袁紹軍を大いに打ち破った曹操であったが、これは袁紹の侵略をしのいだというに過ぎなかった。

官渡以後も袁紹陣営は強大であり、袁紹は冀州での反乱の鎮定に忙殺されつつも曹操に付け入る隙を与えなかった。

それでも彼の失意は大きかったのだろう、202年5月、一貫して後漢の動乱における中心であり続けた袁紹は病死する。
袁紹の後を三男である袁尚が継ぐ。

この機に乗じて曹操は北方平定のため出兵する。

これを袁紹の長子である袁譚が黎陽で迎え討つ。

当時、袁家は長子である袁譚派と袁尚派に分かれていたため、当初、袁譚は袁尚の支援を受けられなかった。
しかし、黎陽での袁譚の敗勢が明らかになると、さすがに自ら袁尚は黎陽支援に向かう。

しかし、内部分裂したまま曹操と戦って勝ち目がある筈もなく、203年3月に黎陽は陥落する。

曹操はそのまま袁家の本拠地である鄴に攻め入るが、一旦、兵を引き上げてしまう。

共通の敵である曹操が引き上げると、たちまち袁譚と袁尚の間で内紛が勃発する。

これが曹操の狙いでもあった。

この内紛で袁譚は敗れ、平原へと敗走する。

そしてなんと父の仇である曹操に降伏してしまうのだ。

北方平定

204年、五月曹操と同盟した袁譚に対して、袁尚は討伐のため自ら平原に出兵する。

慌てて袁譚は曹操に救援を求めるが、曹操は袁譚を放置して、一気に留守となった鄴に攻め入る。
鄴において守将である審配は見事な指揮振りを見せて頑強に抵抗する。

しかし、袁譚と曹操に挟まれた袁尚は鄴を救援できず、孤立無援となった鄴は九月に陥落。

北方の覇者袁家の本拠地鄴はついに陥落し、袁尚は幽州へと逃亡する。

翌205年一月には、曹操は南皮で反乱した袁譚を討伐し、袁譚を斬って、曹操は確実に袁家陣営を殲滅していく。
一方、幽州に逃亡した袁尚はこの地を守備していた袁紹の次男袁煕の下に身を寄せて反撃の機を伺うが、配下に裏切られまたも逃亡し、異民族である烏桓の下に落ち延びるのであった。
205年12月、袁紹の甥である高幹が并州で挙兵する。

曹操は辺境である并州に遠征し、三ヶ月にわたる戦いの末、206年3月并州を平定、高幹は逃亡。

彼は荊州まで逃亡し、捕らえられ殺害されている。
これにより河北において曹操は、ほぼ袁家の残存勢力を殲滅したと言える。

しかし、河北においてなおも袁家を慕う民は多かった。

このため曹操は袁家の遺児たちを根絶せねばならず、烏桓討伐を決意するのである。

烏桓の勢力範囲である幽州北部は、行軍ですら困難な地であったが、それでも曹操は袁家の遺児を全滅する必要があった。

207年五月から行軍だけで三ヶ月を要して、曹操は烏桓の根拠地である柳城に到達する。

八月、白狼山で曹操軍と烏桓の軍は激突し、騎兵指揮を得意とする張遼を先鋒とした曹操軍は烏桓軍を撃破する。

その結果、烏桓は曹操に降伏するが、袁尚と袁煕はさらに東方の公孫康の下に逃げ込んでしまう。

だが、烏桓すら討伐する曹操軍の鋭鋒を恐れた公孫康は、袁尚と袁煕を斬り、その首を曹操に送って帰順する。
かくして官渡の戦いから7年の苦闘を経て。曹操は河北を平定することに成功したのである。

曹操対袁家陣営

敵勢力の分断~侵略戦争の常道~

敵地へ遠征する形になる侵略戦争では、兵力や国力に差があっても一枚板となっている勢力を滅ぼす事は困難である。

このため敵勢力をいかに分断させるかが、重要となる。

官渡の戦いにおいて曹操は大勝し、袁紹軍は兵員七~八万を討たれるという損害を受けた。

袁紹軍は潰滅的打撃を受け、ひとまず袁紹の天下への野望が頓挫したわけだが、それでも河北における袁紹陣営は健在であった。

袁紹の敗北を受けて冀州では叛乱が続発したが、袁紹はこれを鎮圧。

勝者である曹操に付け入る隙を与えなかった。

実際、この時点で軍事力のバランスこそ官渡の勝利により曹操側に傾いたが、国力そのものは戦乱の中心であった中原を根拠地とする曹操は、河北一帯を治める袁紹に及ばなかったろう。

しかし、袁紹は202年に病死する。

これを機会に曹操は河北へ侵攻を開始し、黎陽で袁紹の遺児たちと戦う。

この戦いで曹操は勝利し黎陽を陥とすが、袁紹の遺児たちの抵抗はしぶとく、翌年の3月まで手間取る。

ここで、曹操は勝利したにも関らず撤退するのである。

古来、侵略戦争には常道というものがある。

国力や将兵の力量がよほど冠絶していない限り、一枚板となって抵抗してくる勢力は、侵略を跳ね付けるものである。

実際、大航海時代から帝国主義華やかなりし頃まで、欧米列強が植民地を得る常道としていたのは、目的の国に内乱を起こさせ、内乱側か鎮圧側を支援する事で、目標の国を乗っ取ってしまうことであった。

実際、幕末の日本でも幕府をフランスが支援し、薩長側をイギリスが支援して、日本での権益を争う状況となったことがある。

また冷戦時代も、ベトナムやアフガニスタン、朝鮮など西側と東側で一国が分裂させられた例は枚挙に暇がない。

逆に言えば、純粋に軍事力のみで侵略して成功する例は、三国志の時代ですら少なく、何度も曹操軍を撃退した張繍や赤壁における孫権など、軍事力の差を跳ね返す例は多い。

呉や蜀が滅んだのも、むしろ魏や晋の軍事力に屈したというよりも、すでに内部崩壊を起こした結果であった。

曹操は強大な袁家陣営を併合するに当たって、袁家を分断することを考えたのである。

袁紹在世当時から長子である袁譚と三男袁尚が、後継者を争い、袁紹の死後になると武将や豪族たちは完全に二派に分かれる。

曹操は力攻めで両派を結束させる愚を嫌い、撤退した。

案の定、曹操の撤退後、両派は武力衝突を始め、それに敗れた袁譚は曹操に支援を求めるのであった。

20310月に始まる曹操の北伐は、迎え撃つ袁尚にとっては曹操と袁譚という二つの敵と戦うことになる。

こうした状況に持ち込んだ時点で曹操軍の勝利は確定していた。

事実、袁譚征伐に向かった袁尚は、その隙に河北の首都とも言える鄴を曹操軍に包囲されてしまう。

この戦いで鄴を守る審配が激しく抵抗するものの、結局鄴は陥落し袁尚は逃亡する。

後に袁譚も曹操に討たれ、河北は曹操の手に帰す。

曹操(字・孟徳)

155~220年

機動戦の覇者曹操

曹操の得意としたのは機動戦である。

呂布から騎兵軍団を吸収した曹操は、この騎兵軍団の運用法を抜本的に変えている。

呂布はこの騎兵軍団を打撃戦力として運用していたが、曹操はこれを機動戦力として位置付けたのである。

騎兵を正面決戦における打撃力ではなく、その優れた機動力を活かして、戦争の主導権を握るための戦力。

それが曹操の騎兵の運用法であった。

後述するが、曹操はその運用法を証明するように敵の弱点を当時としては常識外れの行軍速度で突いて、戦況を引っくり返すという戦術を多用している。
この運用法は戦術面ばかりでなく、河北攻略戦での烏桓との戦い、荊州攻略戦での劉備追撃など、戦略面でも有効であった。

その機動力を最大限に活かして敵に戦争準備を整えさせる暇を与えず、戦いの主導権を握る。

これが曹操の機動戦の覇者たる所以でもあった。

曹操の必勝パターン

機動力と関連づけられるが、曹操が得意とした戦術がある。

それは正面に敵主力を引きつけて、戦線を維持しつつそのまま迂回し敵の背後や補給拠点などの弱点を突いて、敵軍を崩壊させるという戦術である。

この迂回強襲戦術を曹操は袁術との匡亭の戦い、呂布との鉅野の戦い、袁紹との烏巣強襲など、とにかく多用しており、彼にとっては勝ちパターンとも言える戦術であった事がわかる。

それを可能としたのが、強行軍に耐え得る練度に優れた兵士と、主力が直轄兵であるため造反の恐れなく曹操が戦線を空にできるという統制力の高い軍団であった。

曹操軍の弱点

曹操軍の編成を見ると、他の陣営を圧倒する統制力と曹操の直轄兵力に驚かされる。

前述したようにこれは曹操軍の強さでもあったが、一方で曹操軍の弱点でもあった。

他の陣営では配下の武将たちは私兵集団を率いる独立兵力であった。

その軍事力を背景に軍団を統率が可能であったが、曹操軍の場合、配下の武将たちは曹操旗下の軍人であり、独立して統率できる兵力は実に寡少であった。

このため曹操陣営の軍は、曹操自らが率いたときは無敵を誇ったが、それ以外の武将が率いた場合驚くほど脆かったのである。

自身がもっとも優れた軍人であった曹操にとって配下の武将たちは、あくまで手足であり分身となりえる存在ではなかったのである。
また戦いが曹操の迂回強襲を許さない正面決戦になった場合、敵陣営は曹操の動きだけを把握しておればよかった。

このため曹操は赤壁の戦いや定軍山での劉備との戦い、濡須口での孫権との戦いなど、正面で対峙する持久戦となると、簡単に機動力を封じられてしまうのである。

とにかく曹操在世時の軍編成は曹操中心の編成であり、これが曹操軍の強さと同時に弱点でともなっていた。
官渡の戦いで軍権を沮授や淳于瓊、郭図に委譲した袁紹陣営。

赤壁で周瑜を総司令官とした孫権陣営。

荊州で関羽に独立した行動を許した劉備陣営。

これらの分権的な軍団が、曹操率いる中央集権的な軍団と戦い、時に曹操に敗れ、時に曹操軍を打ち破っていく。

どちらの編成にも一長一短があるあたりが、三国志を軍事的に見た場合の面白さのひとつであろう。

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