目次
第七章 官渡の戦い
天下分け目の決戦
199年12月 張繍、曹操に降伏
200年 曹操、徐州で劉備を撃退
200年1月 袁紹軍、曹操討伐のた南下
200年2月 白馬の戦いにて顔良討たれる
延津の戦いにて文醜討たれる
200年8月 陽武郊外にて袁紹軍主力が曹操軍を打ち破る
200年10月 曹操軍、烏巣を襲撃、淳于瓊を斬る。
袁紹軍、官渡を攻撃するも高覧、張郃が曹操軍に降伏
袁紹軍、崩壊。
袁紹と曹操
中原、河北における動乱を勝ち抜き、最後の二極となったのはこの二者である。
河北四州を制し、兵力国力ともに最大勢力の袁紹。
帝を受け入れ、さらに袁術、呂布など中原の激戦を戦い抜いた曹操。
さらに199年末には、曹操に根強く抵抗していた張繍が降伏。
200年に入ると曹操は、徐州で独立し袁紹側に寝返った劉備を攻撃する。
本拠地である許を曹操が空けて、劉備討伐に向かった事で、その間隙を突く好機が袁紹に訪れる。
袁紹配下の田豊は、直ちに出兵を進言するが、袁紹は息子の病気を理由に拒絶してしまう。
劉備は徐州を放棄し、袁紹の下へと撤退し、曹操はいよいよ袁紹との対決の体制を確立する。
200年、袁紹はついに曹操と対決すべく軍を南下させる。
だが袁紹陣営では、疲弊している曹操軍に対して持久戦を強いるべしと主張する田豊と沮授。短期決戦で曹操を殲滅すべしと主張する審配と郭図の二つの派閥に分かれる。
これにかねてより揉めている袁紹の子である袁譚と袁尚後継者争いが絡んでしまったため、内紛は激化する。
その結果、審配と郭図らの派閥が勝利し、袁紹は短期決戦を選択。
さらに田豊を投獄され、沮授は全軍を統轄する監軍であったが降格され、郭図と淳于瓊の二人と同格とされる。
袁紹軍は開戦前から指揮系統が三分割されてしまっていたのである。
官渡の決戦
この指揮系統の分割の弊害は早くも出る。
先鋒として出撃していた顔良と文醜という、袁将軍が誇る勇将たちが、白馬と延津において曹操の巧みな罠に陥り各個撃破されてしまう。
この敗北に袁紹軍は陽武において再編成を余儀なくされた。
ここで沮授はもう一度持久戦と後方攪乱の策を進言するが受け入れられず、沮授は病を理由にサボタージュする。
これに怒った袁紹は沮授の指揮権を剥奪する。
200年8月、再編成を終え陽武を出た袁紹軍は陣営を築き防備を堅めながら漸進していくという、大軍の利を最大限に活かした戦術を採る。
これを脅威と見た曹操は、袁紹軍に決戦を挑むが兵力の2割~3割を失うという大敗を喫するのである。
この戦いで袁紹軍は緒戦の敗北を取り返す。
曹操は渡河点である官渡に撤退し、ここを絶対防衛線とする。
これに対し袁紹は官渡まで進み、曹操軍を包囲。
この戦いは、完全に袁紹のものだったろう。
攻城戦を得意とする袁紹は官渡を包囲する砦を築き、これを地下道で連絡させるという重厚な包囲戦を行なう。
対する曹操軍は兵糧も尽き、敗北は必至かと思われた。
しかし、ここで袁紹の幕僚である許攸が、袁紹陣営の派閥争いから裏切って曹操に降ったのである。
彼は袁紹軍の補給計画を暴露し、一大補給基地である烏巣の奇襲を進言するのである。
この策に曹操は自ら兵を率いて、烏巣を強襲。烏巣の守備をしていた淳于瓊を斬ったのである。
この事態に袁紹軍は混乱。
指揮系統が淳于瓊軍と郭図軍に分かれていたため連絡が遅れる。
官渡の曹操陣営を攻めるが、官渡は完全に防備は固められており、張郃と高覧は攻めあぐねて曹操軍に寝返ってしまう。
後方と先鋒が崩れた袁紹軍は、完全に崩壊。
曹操軍はこれを徹底的に追撃し、最終的に死者、投降者あわせて七~八万という大戦果を挙げるのであった。
曹操対袁紹
スタッフとライン
官渡の戦いにおいて兵力に劣る曹操軍が袁紹軍を打ち破った理由については、様々に語られている。
袁紹軍内部の不和、烏巣の奇襲、緒戦の敗北などなど……。
しかし、それぞれの個々の要因が何故起こったかということを考えると、一つの結論が導かれる。
官渡の戦いにおいて、袁紹陣営と曹操陣営の意思決定機関の構造はまったく違っていた。
袁紹軍は田豊、沮授、郭図、淳于瓊、張郃など、軍議において前線指揮官と参謀が混在して意見を述べ合っている。
古代中世においては、ごく普通の軍議の形態であり、これは袁紹陣営が劣っているというわけではない。
ところが袁紹陣営の敵となった曹操陣営は違っていた。
曹操陣営では、前線で戦う指揮官と参謀の役割が、ほぼ完全に分かれている。
戦略や作戦を立案する参謀たちに軍の指揮権はなく、逆に前線指揮官たちは作戦には口出しさせていないのである。
曹操陣営は、まさに近代におけるライン(前線指揮官)とスタッフ(参謀)という組織構成をとっていたのである。
官渡の戦いは、この組織構成の優劣が如実に分かれた戦いとなった。
袁紹陣営は軍を率いる指揮官たちが戦略や作戦に関るため、それぞれの現場の都合と利害が作戦に持ち込まれてしまっていた。
特に沮授、郭図、淳于瓊の間での派閥争いは、幾度となく袁紹軍の指揮系統を変えるという異常事態ももたらしてしまっている。
これに加えて袁紹の後継者争いにおける派閥の事情まで軍議の場に持ち込まれてしまった。
結果として許攸の裏切りを引き起こしている。
とにかく、官渡における袁紹軍は、現場や派閥の都合が戦略や作戦を立案する場にまで持ち込まれる弊害が露呈する。
これに対して曹操陣営では、参謀たちは軍の指揮権を持っておらず、それぞれ自由で戦略や作戦を提案する事ができている。
そして、その意思決定と責任は常に曹操が掌握し、この指揮系統が揺らいだことはない。
官渡に限らず、曹操陣営の一大特色はラインとスタッフの分業が徹底されていたところにある。
このため曹操陣営の参謀たちは、現場の都合などに左右されることなく、冷静に状況を把握し戦略や作戦を立案することができた。
そして現場では曹操が総責任者として前線指揮官たちに司令を下すので、現場も余計な事情に左右されることなく命令を遂行できた。
こうしたラインとスタッフの分業は、三国志の時代において曹操在世当時の曹操陣営のみが有効に活用していた模様である。
三国時代になって、軍事組織が整備されていくが、諸葛亮や鍾会、司馬懿など司令官と参謀を兼ねる例の方が多くなり、曹操時代よりも分業が曖昧になっている。
そう考えると曹操の組織思想はまさに“超世の傑”というべき先進性とを持っていたことがわかる。
曹操(字・孟徳)
155~220年
曹操軍の強さの理由
乱世の奸雄と評され、呂布、袁術、袁紹などを破って河北中原を制し、当時の中国の八割を平定した覇王である。
三国志を軍事的に見た場合、曹操以前と曹操以後に分けられる。
そう言ってしまえるほどに当時の戦争における曹操の役割は大きい。
豪族社会であった古代中国において、戦争というのは盟主や主将を豪族たちが担いで、その私兵を率いて行なうものであった。
そのため、あまり緻密な戦略や戦術は駆使されてはいなかった。むしろ戦いは兵数や士気の高さなど、力押しの要素が大きかったのである。
ここに劇的なまでに当時の戦略や戦術のレベルを引き上げた者がいた。
それが自身が、『孫子』の現代の形に遺したほどの軍学者であった曹操である。
彼は若い頃か軍事研究を重ねており、太平道の乱では長社の戦いで見事な奇襲を挙げて戦功を挙げている。
しかし、曹家は有力豪族というほどの私兵はもっておらず、宦官の出自ということもあった有力豪族の支持も乏しかった。
そのため董卓の乱では、絶対的な兵力の不足から董卓軍の徐栄に惨敗している。
ほとんど袁紹の軍師権客将といった立場ていた曹操が飛躍するのは、192年に青州の太平道残党を吸収してからである。
三十万と史書に書かれる大兵力は、豪族たちの息のかかっていない、純粋な彼の直轄兵となる。
さらに彼は「屯田」を行い、流民を吸収することで、大規模な直轄兵力を支える兵站を整える。
この直轄兵に対して曹操は「歩戦令」などの操典を配布し、呂布軍に対する対騎兵戦術を始めとする、集団戦闘を徹底的に叩きこむのである。
河北中原を制する過程での曹操軍の「器用さ」は特筆に価する。
曹操軍の兵たちは、野戦、防衛戦、攻城戦、機動戦など、ほとんど万能にこなしている。
さらに曹操の無茶な戦略的要求に応えて連戦を続けながら、北方攻略戦のような難行軍にも耐えている。
兵の練度が他の陣営と明らかに違っていることがわかるだろう。
曹操の行動力
後漢末期における曹操陣営の強さは、ひとえに曹操の思うままに動く強大な兵力とそれを支える兵站、これに尽きる。
他の陣営が配下の豪族たちの都合によって、その戦略から戦術までを左右されるのに対し、曹操は純粋に自らの戦略によって動く事ができた。
その事は曹操陣営と他の陣営を単に「戦争の数」で比べるだけでも明らかだ。192年以降、曹操は220年に没するまでほぼ連年戦い続けた。
特に赤壁の戦い以前は、ほとんど一箇所に留まることなく戦い続けている印象すらある。
明らかに行動の自由と回数で他を冠絶していた曹操に、他の勢力が敗れていったのは当然であったとも言える。赤
壁以前の曹操は、ただ一人、「別なゲーム」を戦っていたのである。
曹操の進撃が長江や益州といった天険によってようやく停止したことを考えると、いかに他の陣営にとって曹操の行動力が脅威であったかを逆に証明している。
曹操以後、曹操の行なった流民を吸収し、屯田によって直轄兵を維持するという政策は、他の陣営にも受け継がれた。
ようやく曹操陣営と同じ土俵に立つことで三国時代は形成される。
以後、戦争は私兵集団の力比べから、より戦略戦術を重視する時代へと移るのであった。