目次
第六章 孫策の覇道
もう一人の創業者
194年 揚州において陸康、劉繇が袁術より離反
195年春 孫策、廬江の陸康を討つ
195年 孫策、丹楊郡を平定
195年12月 袁術、徐州に出兵。
196年 孫策、会稽郡、呉郡を平定
197年春 袁術、帝位を僭称
197年春 孫策、袁術に絶縁状を送り独立
袁術と孫策
河北中原において袁紹と曹操の二極に動乱が収束していく一方で、新たに南方において一つの勢力が勃興しつつあった。
名将孫堅の遺児孫策の陣営である。
孫策はかつて孫堅が派閥の領袖として仰いでいた袁術の配下、として袁術の寿春攻略や徐州などで戦功を挙げていた。
194年、陶謙の死に乗じ、袁術は徐州に攻め入ろうとする。
だが、根拠地である揚州において陽州刺史劉繇、廬江太守陸康らが離反する。廬江を失い、丹楊郡を劉繇に奪われた袁術は、揚州を失陥する危機に陥る。
ここで袁術の廬江鎮圧の任務に抜擢されたのが、弱冠20歳の孫策であった。
195年春、孫策率いる袁術軍によって廬江は陥落。
陸康の離反に対し、いち早く廬江攻略を命じた袁術と補給が整わぬ前に電撃的に廬江を包囲した孫策の、両者の行動の早さが勝因である。
この戦いで孫策は、廬江太守に任じられると約束されていたにも関らず、袁術はこの約束は反故にする。
このため孫策は袁術からの独立を模索し始める。
江東の小覇王
袁術と劉繇は丹楊郡を巡って争う事になるが、袁術は徐州へも食指を伸ばしており、両者の対峙は膠着状態となる。
これを打破したのが孫策であった。
孫策は自分の守備する歴陽をほぼ空にして進撃を開始。
そして軍を二つに分け呉景に横江津を、孫賁に当利口攻略させる。
この戦いで、劉繇の武将張英と樊能は両戦場を神出鬼没に往還する孫策の指揮に翻弄され、敗走する。
この戦いで長江の渡河地点である横江津と当利口を攻略した孫策は、一気に劉繇が駐屯する牛渚を攻撃する。
この孫策の速攻は、横江津と当利口で敗れた劉繇軍の混乱をそのまま突くものであり、孫策は見事に牛渚をも陥落させるのである。
長江渡河に成功したのみならず牛渚という橋頭堡を得た孫策は、丹楊南部の平定に取り掛かる。
孫策は抹陵攻撃に手間取る隙を突かれ張英と樊能に牛渚を奪還されるという失策を犯すものの、再奪還に成功する。
さらに曲阿に残る劉繇を敗走させ、ひとまず丹楊郡の平定に成功する。
この時点で孫策とその軍は袁術軍の別働隊としての地位を確立する。
195年12月、袁術は徐州攻略に乗り出す。
南方を孫策に任せ、自らは徐州攻略に向かったである。
南方を任された孫策は丹楊郡に続き、呉郡と会稽郡の平定に乗り出す。
すでに孫策の武威は南方で鳴り響いており、彼は会稽太守の王朗と南方で山越族を率いていた厳白虎を破り、江東・江南と呼ばれる地方をまたたくまに平定してしまう。
一方、袁術は徐州を攻略できなかったものの、新たに徐州の主となった呂布と同盟する。
徐州の呂布と孫策が平定した揚州南方を合わせ、2州にまたがる大勢力を築いたと判断した袁術は、197年春。得意の絶頂の中で帝位を僭称する。
かねてより独立の意思を固めていた孫策にとって願ってもない好機であった。
ただちに孫策は袁術に絶縁状を送り独立する。
さらに呂布も袁術から離反。
袁術も曹操に大敗を喫し、袁術の威信は一気に低下する。
もはや袁術に孫策の独立を止める力を失う。
かくして、わずか二十代前半で孫策は江南、江東に独立勢力を築き上げ、“江東の小覇王”と呼ばれるようになる。
孫策VS劉繇、袁術
兵力の集中運用
袁術、劉繇などの戦略には共通した特徴がある。
193年の曹操との戦いに敗れた袁術が、寿春で陳瑀に背かれている。
このとき袁術は揚州の九江郡と廬江郡の太守に連絡をとり、寿春を包囲して、陳瑀を降伏させている。
そして、劉繇と陸康が袁術に叛乱したときも、劉繇は揚州各地に檄文を発して豪族たちを動員するとともに、横江津を押さえて、鎮圧にきた袁術軍の呉景と孫賁の動きを封じている。
これで、廬江の陸康とともに呉景と孫賁を半包囲して、両軍の動きを膠着させるという状況をつくり上げたのである。
各地の豪族や太守たちと連絡を取り、これを動員して敵を包囲するというのは、この時期の動乱の常套手段であった。
元々、後漢は豪族社会であり、基本的にそれぞれの兵力を有する豪族たちは独立勢力である。
さらに当時は、また後漢の太守や牧といった官職と権限の影響力が残っており、各軍閥の領袖たちも主君であるように彼らを動員し命令することはできなかった。
このため、反董卓連合軍のように無理に足並みを揃えた軍事行動を取ろうとすれば、身動きがとれなくなる可能性すらあったわけである。
こういった豪族や地方官僚の集合体であった当時の軍閥たちは、どうしても袁術や劉繇のとったように、各地の豪族や地方官僚たちの兵力を動員し、各自でそれぞれ独自の軍事行動をさせるような戦略をとる場合が多くなる。
こういった、基本的な命令系統の事情から戦略が制限されてしまうのが、当時の軍閥の事情であったわけだが、この事情から脱却した陣営もあった。
一人は太平道の兵力を吸収して、自分の直轄兵力した曹操。
そして、もう一人が孫策の陣営である。
孫策は父孫堅が妖賊討伐で大活躍した、南方出身の英雄である。
彼自身も、正史三国志では「彼に逢った者は皆心服した」と描かれるほど卓越したカリスマ性に恵まれていた人物でもある。
そして人を熱狂させる英雄的資質の持ち主であった。
彼はそのカリスマ性をもって熱狂し易い南方人をまとめ上げる。
この曹操と孫策に共通するのが、兵力の集中運用である。
彼らは豪族たちの事情を気にする事なく、自らの軍勢を動員してバラバラの指揮系統で動く他の軍閥の軍勢を破っていったのである。
曹操も孫策も優れた戦術家であったが、それ以上に彼らの覇業において大きかったのは、彼らには自らの命令で動く兵力が他の陣営に比べて大きく、そして自由な軍事行動をとれるという点であったろう。
孫策の場合、兵力を一箇所に集中させすぎて牛渚を奪取されることもあった。
他の陣営ならば配下の豪族たちが、離反したり動揺して危機となるだろうが、孫策陣営の場合ほとんど動揺を見せずに、再奪還を果たすことができた。
これも彼の直属の兵力が大きかったからである。
孫策(字・伯符)
175年~200年
袁術の一武将として
名将孫堅の長子であり、江東江南地方を制して、孫家陣営を築き上げた人物である。
徹底した速攻と兵力の集中運用。
戦略面でも戦術面でもこれが孫策の特徴である。
孫策が本格的に歴史の舞台へ登場するのは揚州で袁術に対して、陸康と劉繇が反旗を翻したときである。
揚州の反袁術の旗手である劉繇は、最初彼らを討伐に向かった孫賁と呉景に対して、彼らに先んじて渡河点である横江津と当利口を抑えてしまう。
このため孫賁らは歴陽で劉繇軍と膠着状態に陥ってしまう。
これは長江を渡河させないばかりでなく、陸康の廬江討伐に向かえばその背後を突くという、劉繇の見事な戦略であった。
ここで袁術は孫策を起用し、廬江へと派遣する。
このときの袁術の決断は褒められていい。
孫策は陸康の迎撃準備が整う前に廬江を包囲。
廬江はわずか四ヶ月で物資が尽きて降伏したことからも、開戦準備が整っていなかったことがわかる。
続いて孫策は歴陽に派遣されるが、この膠着状態を彼は歴陽をほぼ空にして強行渡河し、横江津と当利口を同時に攻撃させたのである。
孫策は両戦場を転戦し、ほぼ同時に陥落させる。
さらに孫策は、横江津と当利口からそのまま牛渚を攻撃。
劉繇軍は横江津と当利口での敗北から立ち直る暇を与えられずに、牛渚から撤退するのである。
曹操と孫策と
この戦いからもわかるように、孫策の戦略戦術の特徴は、自陣すら空にしてしまう徹底した兵力の集中運用と、敵に迎撃の準備を整えさせない機動力にある。
確かに丹楊攻略戦では奪った牛渚を空にしてしまったため奪還されるという失態も演じている。
だが、すぐさま再奪還を果たすなど、孫策はとにかく自分の持つ兵力を一兵たりとも死兵とせず、使い切る人物であった。
そしてこの効率よい兵力の運用によって、彼は瞬く間に江東江南を制して、20代前半で南方の一勢力にまで伸し上がるのである。
面白いことに曹操もこの兵力の集中運用と機動力を生かした戦略戦術を得意としている。
一方で孫策に敗れた劉繇や曹操に敗れた袁術や袁紹などは、大兵力を背景に敵を包囲していくような戦略戦術を好んでいる。
こうも得意戦略戦術が綺麗に勝ち組と負け組に分かれた理由には、当時の軍制の事情があったろう。
当時のほとんどの陣営は豪族たちの私兵が中心であり、それぞれの豪族たちに指揮権が分かれていた。
このため、大まかな司令を与えて、敵を包囲するという戦略や戦術が一般的であったのだ。
兵力の集中運用と指揮権の統一は、太平道残党を吸収した青州兵を中核とする曹操。父孫堅と自分自身の武勇によってカリスマ的な指導力を誇る孫策。
彼らのような、例外的な指導力を誇る人物あっての戦略戦術であったのである。
青州兵を中核にする事で自軍を徹底的に組織化した曹操、“小覇王”と称されるほどのカリスマ的指導力を誇った孫策は、当時の戦争の革命児とも言える存在であった。
この二人の対決は、天下を争うというだけでなく、軍事的側面からも非常に興味深いものがある。
事実、曹操が官渡で袁紹と対峙する隙を突き、孫策が北上するという計画はあったようだ。
しかし、200年、孫策は暗殺され、わずか25歳でこの世を去ってしまうのであった。