三国志 戦争篇 第五章 徐州攻防戦

第五章 徐州攻防戦

係争絶えぬ要地

184年 陶謙、徐州の刺史となる

193年6月 曹操、徐州に攻め入り大虐殺を行なう

194年 陶謙、病死。劉備が徐州の主となる

196年 袁術と劉備が争う隙に、呂布が反乱し徐州を奪う

198年 曹操、呂布を討伐し、捕縛し斬首する

199年 劉備、曹操の下を離れ徐州で独立

200年 曹操、劉備を討ち徐州を奪還

 徐州を巡る争い

後漢から三国時代において、もっとも激しく争奪され続けた州と言えば徐州と言えるだろう。

太平道の乱以後の動乱期に、まずここを制していたのは徐州牧陶謙である。

陶謙は反董卓連合軍にも参加せず、徐州の支配権の確立に腐心していたが、193年に部下が曹操の父親を殺害してしまったため、曹操に攻撃される。

袁術を破って勢いに乗る曹操は、陶謙軍を打ち破り、徐州で大虐殺を行なう。

ところがここで曹操の本拠地であるエン州に、董卓を斬って出奔した呂布が入り、エン州を奪おうとしたため、やむなく曹操は撤退する。

曹操の脅威は逃れたが、陶謙は病死。その後を継いだのは、徐州に客将として招かれていた劉備であった。

一方、兗州において曹操はなんとか呂布を撃退することに成功するが、この呂布が敗走先として選んだのが徐州の劉備であった。

劉備は呂布を客将として招き入れたのである。

このころ揚州に逃げこんだ袁術は、力を盛り返し初めており、再び中原へ進出するべく、徐州を狙っていた。

そして、196年になって、ついに袁術は徐州へ侵攻を開始し、これを迎え撃つべく劉備も出兵する。

ここで呂布は、劉備の出兵した隙に徐州で反乱を起こし、徐州を奪い取ってしまうのである。

本拠地を奪われた劉備は袁術に敗れ、敗走。

やむなく呂布に降伏して、今度は逆に呂布の客将となる。

呂布は袁術と和睦し、ひとまず徐州の支配権を確立する。同年、劉備は彼が邪魔になった呂布に追われ曹操の下に身を寄せる。

この時点で、公孫瓚を攻略ながら河北で大勢力を築きかけている袁紹陣営、長安を脱出した帝を招き入れ中原で勃興しつつある曹操、そして、徐州の呂布と陽州の袁術の同盟という3極で争われていたと見ていい。

曹操は長安の李傕らや南陽の張繍などと争いつつ、徐州の呂布への工作を怠らなかった。

曹操は呂布の勢力範囲近くの小沛に劉備を置いて呂布を牽制させ、さらに徐州の有力者である陳登に内応させる。

197年には寿春で袁術を破り、呂布を孤立させる。

198年、故意に西の張繍に攻め入る体制を見せて、呂布がその隙に目障りな劉備を攻撃したのを見るや否や反転して徐州に攻め入ったのである。

曹操の逆撃に呂布軍は次々と敗れ、最後は下邳に追い詰められ、捕縛され斬首されるのであった。

これで徐州は曹操の支配下に置かれるが、199年、袁術とその残党が、徐州を通過し袁紹と合流する動きを見せる。

曹操は劉備に命じてこれを討たせるが、劉備は袁術を討った後に徐州を奪い徐州の主に返り咲く。

劉備は抜け目なく北方の大勢力袁紹と同盟し、曹操に対抗する。200年、曹操は劉備を討伐し、劉備は袁紹の下へ逃亡する。

これでひとまず徐州は曹操の支配下に置かれるが、208年の赤壁の戦い以後、南方の勢力である孫権との国境線となり、孫家陣営は執拗に北上して徐州を狙っていくようになる。

結局、徐州は三国時代の終焉まで、中原の曹家、司馬家陣営と南方の孫家陣営の間での争奪の対象となったのである。

後漢ら三国、晋の時代に至るまで、常に争奪の対象となり続けた徐州は、いわゆる『三国志』の歴史の中で最大の激戦区とも言える地であった。

第五章 徐州VS諸勢力

地政学

国家の政治的発展を地理的条件から合理化しようとする理論。

中国の歴史を通じて徐州というのは争奪の対象となってきた地域である。

古来、巨大な人口と豊かな土地をもって栄えていた地域であるが、それ以上に重要なのが、この地が黄河文明圏と長江文明圏を結ぶ地域であった事だろう。

中国に文明が起こって以来、徐州付近は北方と南方の文明圏を繋ぐ地域であり、幾度となく争奪の対象となってきていた。

この地がいかに重要な交通の要地であったかは、三国時代より後となるが隋の煬帝が、徐州を南北に貫く京杭運河を築いたことでもわかるだろう。

さらに東シナ海に面し、青島半島と隣接し、そして黄河と長江の中心に位置するこの地は、衰運の中心地であった。

まさに徐州は、あらゆる意味で中国における交通の中心であり、その交通の利便性から商業の中心地でもあった。

その意味で、この地が後漢末期から三国時代におけるもっとも激しい争奪の対象となったのも無理はない。

というよりも、中国史を通じて徐州は、この地を制する事が天下への近道であったと言えるほどの地域であった。

特に秦末において、劉邦がこの地で生まれ育ち、覇王項羽がこの地を本拠地としたのは、決して偶然ではないのである。

この徐州の重要性をもっとも理解していたのが曹操であった。

彼は陶謙が徐州を支配していた当時から執拗に徐州を狙い続ける。

彼は徐州で大虐殺を行なってまで陶謙を殲滅しようとし、その後の戦略においても、劉備、呂布と主を変えていった徐州を常に視野に置いている。

特に呂布の時代に入ってからの曹操の戦略は、劉備を小沛に置き、陳登親子を内通させ、張繍征伐ですら呂布に対する陽動作戦とするほどに、徐州を目標にし続けている。

これは曹操が呂布を手強く見ていたという理由もあるが、それほどまでに徐州を渇望していたという部分もある。

後に劉備が徐州を奪って曹操から離反しているが、このときの曹操の行動は実に早い。

袁紹に背後を突かれるリスクを伴ってまで劉備を攻撃し、徐州を奪還している。

袁紹との決戦に当たって、徐州を劉備に明渡すわけにはいかなかったのである。

赤壁の戦い後も、曹操は孫権の北上を押さえるために、合肥に張遼を置き、その背後の居巣に夏侯惇率いる徐州青州の二十六軍を控えさせて、絶対防衛圏としている。

後に曹叡の時代には合肥には新城まで建造して、さらに防衛線を強化して呉の北上を防いでいるのである。

三国志を通じて争奪の対象となり続けた徐州を、曹操は執拗に狙い、そしてこれを得た後は絶対に手放そうとはしなかった。

中原を制するに当たって曹操の戦略には常に徐州が視野にあったと見てよい。

まさに徐州を制する者が天下を制するとも言うべき地域であり、後の魏にとっては生命線とも言える地域だったのである。

呂布(字・奉先)

?~198

呂布はモンゴル系?

并州五原出身で、丁原、董卓と裏切りを繰り返し、中原でも暴れまわった乱世の申し子。
漢民族の歴史とは一面、騎馬民族との戦いの歴史でもあった。

騎兵ならではの機動力と打撃力を誇る騎馬民族たちの武力は、農耕民族である漢民族の比ではなく、彼らの略奪は漢民族たちにとっては天災と同様の災厄であった。

漢土の為政者たちは、騎馬民族をいかに封じるかが重要課題であり、そのために万里の長城など防壁を築き、ときには彼らの討伐を行なっている。
さて、この呂布という人物は、并州五原出身であり、この地理から漢人というよりも鮮卑に近い境遇で育っている。

鮮卑という民族は、モンゴル族の祖先であり、匈奴、烏桓、羌など数ある北方騎馬民族の中で、もっとも色濃く純粋な騎馬民族としての風俗を持った民族であった。
そんな民族の影響下で育った彼は、騎兵戦術の名手であった。

もちろんよく知られているように、彼自身の個人的武勇も優れていただろう。

実際、彼は化け物じみた体力を持つ董卓を討ち、その後の長安での戦いでも郭汜と一騎討ちして、これを破っている。

しかし、それ以上に彼が恐れられたのは、その騎兵戦術であり、実際彼は死の間際に曹操に「殿が歩兵を率い、私が騎兵を率いれば、天下は思うがままだ」と言い命乞いをしているほどだ。

それほどまでに、呂布とその配下たちの騎兵軍団は強力であり、中原を席巻していたのである。

 呂布と騎兵軍団

呂布の騎兵戦術は、実を言えば打撃力に特化している。

武勇にすぐれた呂布と、その配下たちの騎兵突撃は、ただ一部隊だけでも脅威であり、曹操などを悩ませている。

これに対抗するために、戦略戦術を練り上げていったのが曹操であった。
198年の呂布討伐の戦いで曹操は、配下の歩兵にこのような戦術をとらせている。

歩兵たちは隊列を整え姿勢を低くして騎兵を待つ。

そして、騎兵が歩兵を乗り越えんばかりの至近距離で矛や戟を揃えて立ち向い、さらに混乱した騎兵に弩や弓を撃ち込む。これは袁紹軍配下の麹義が得意としていた戦法であり、騎兵対策の常道であった。
さらに曹操は、彭城の陳珪と陳登を内応させ、泰山の臧覇たちと連絡を断つなど、徹底的に呂布勢力を分断させる事で、その兵力を集中運用させることなく、その打撃力を削いでいる。
194年の兗州失陥以降、曹操は常にその戦略と戦術の仮想敵を呂布と定めていたようだ。

曹操をしてそこまで意識させるほど呂布の騎兵軍団は強力であり、さらにその戦略と戦術を練り上げる上でのまたとない材料でもあったようだ。

ある意味、曹操にとって呂布とは、最大の敵であると同時に、自身の戦略戦術両面での教導役でもあった。
呂布を殺害したあと、曹操は張遼や臧覇といった呂布の配下を重用し、呂布の騎兵軍団を積極的に自軍に取り入れている。

一度は呂布自身を登用する考えでさえあったというから、曹操が呂布とその騎兵軍団をどれほど魅力的に感じていたかがわかるだろう。

とはいえ曹操は、呂布の騎兵軍団を吸収しただけではなく、その運用方法を抜本的に変えているのが興味深い。

騎兵を単純な打撃兵力と考えずに運用方を改変した曹操の運用法は彼の視点の広さが伺えるが、これは曹操の項目で後述。

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