三国志 戦争篇 第三章 北方争奪戦

第3章 北方争奪戦
河北の覇権

袁紹VS公孫瓚

出来事
191年春 袁紹の帝として劉虞擁立するも失敗
191年春 連合軍解散
191年7月 袁紹、冀州を掌握
192年1月 界橋の戦い
193年10月 公孫瓚、劉虞を殺害
195年 袁紹、公孫瓚討伐のため出兵
199年3月 易京にて公孫瓚自害

 袁家二人の時代

連合軍の解散には、董卓の撤退以外の理由があった。

連合軍は東部の諸侯を率いる袁紹と南方より洛陽を攻め入った袁術に二分されていたが、これがそのまま2大派閥として連合軍を分裂させていたのである。

特に配下の孫堅によって事実上独力で董卓を撃退させた袁術の発言権の増大は、盟主である袁紹を脅かすものがあった。

董卓が長安へ撤退した後の連合軍は、袁紹派と袁術派の対立に重点が置かれ、むしろ解散というよりも分裂といったほうが正確だろう。
分裂後、各地の諸侯たちは袁紹派か袁術派のいずれかに属し、各地で抗争を続ける。

袁紹派には劉表、曹操などがつき、劉表が南方から袁術を攻撃。

袁術派には公孫瓚や孫堅が所属し、公孫瓚が北から袁紹を圧迫。

それぞれ派閥の領袖たちが敵派閥の別働軍と戦いあうという、どちらも似た状況で、それぞれの力量を試されているのが面白い。
中でも北方における公孫瓚の袁紹の戦いは熾烈を極めた。

当時の袁紹は人望や名声には恵まれていたものの、冀州を韓馥から奪ったばかりであり、国力も軍事力も充実にはほど遠かった。
一方、公孫瓚は烏桓・鮮卑などの異民族討伐で名を馳せたも猛将であり、青州や徐州の太平道残党を吸収して、精鋭部隊である白馬義従に象徴される強大な軍事力を保有する勢力であった。

袁紹と公孫瓚の激闘

公孫瓚と袁紹は界橋において激突する。

この戦いは公孫瓚が誇る白馬義従という精鋭騎兵部隊の突撃を、袁紹軍の対騎兵戦術に優れた麹義という武将が撃退し緒戦を制する。

以後も袁紹軍は本陣を公孫瓚に襲撃されるが、袁紹はここで将兵を鼓舞しながら奮戦する。

公孫瓚にとっては最大の勝機であったが、彼は自分が攻撃しているのが袁紹本陣である事に気づかず、あと一押しを躊躇い、撤退してしまうのであった。
公孫瓚を撃退したことで国内を固める余裕のできた袁紹は、冀州を治めつつ公孫瓚の弱体化を謀る。

まず公孫瓚は異民族討伐で名を挙げたが、その反面で烏桓や鮮卑たちの恨みを買っていた。

袁紹は異民族たちの扇動を行い、彼の足元を揺さぶる。

また公孫瓚と同じ幽州を拠点とする皇族の劉虞を動かし、公孫瓚を攻撃させたのである。
この工作に公孫瓚は劉虞を殺害するが、これは袁紹の罠であった。

皇族であり、幽州においても人望の高かった劉虞を殺害したことで、公孫瓚に敵対する勢力は大義名分を得る。

燕においてエン柔という人物が、その旗頭として烏桓、鮮卑、漢人を糾合して、蜂起する。

これに合わせて袁紹は自ら公孫瓚討伐に乗り出すのである。
幽州で孤立した上に東西の二方面で攻撃された公孫瓚は、瞬く間に勢力を失い、最後は易京という地に城を築いて篭城する。
千もの楼閣を築いた易京城は難攻不落とされたが、袁紹は地下道より楼閣を崩すという戦術で、一つ一つ楼閣を破壊していく。

公孫瓚は外部に救援を求めようとするが、そのことごとくを袁紹は封じつつ、徐々に楼閣が陥落させていく。

この状況は心理的にも追い詰める効果があったろう。

やがて公孫瓚は妻子ともに自殺するのであった。
界橋の戦いから易京陥落まで七年におよぶ袁紹と公孫瓚の戦いは袁紹が制し、彼は河北四州を占める大勢力に成長する。

袁紹対公孫瓚 総力戦

その国や団体の蔵しているあらゆる面の能力をすべて注ぎ込んで行う戦い。

最終的に敗者になってしまったために袁紹という人物とその陣営は、戦争遂行能力に関して疑問符がつけられている。

だが袁紹とその陣営は、基本的に非常に能力の高い陣営であり、官渡で曹操に敗れるまでは最強の陣営と呼んでもおかしくはなかった。

袁紹陣営の強さとは、自らの長所を熟知しその威力を最大限に発揮しようとする点である。

その袁紹陣営の長所とは、一言で言ってしまえば袁紹が後漢きっての名門袁家の出身であるという事であり、宦官の掃滅や反董卓連合軍において中心として活躍していたという実績である。

この名門であるという点を、袁紹陣営は戦争においても最大限に利用し、戦争を有利に導いていく点に袁紹の強さはある。

袁紹は戦争を行なう場合、必ず敵の周囲の陣営、配下の豪族、近隣の独立勢力などを扇動する。

名門袁家の政治的効果を利用し、敵を外交的に孤立させ、勢力内に反乱を起こさせ、配下に疑心を起こさせる。

袁紹と戦う陣営は、軍事面だけではなく外交、内政などを徹底的に揺さぶられるのである。

つまり、好むと好まざるに関らず、総力戦を強いられるのであり、軍事能力だけでなく外交、内政能力までも問われるのが、袁紹陣営との戦いとなるのである。

袁紹の公孫瓚との戦いは、まさにその典型であり、正面決戦のみでの軍事能力では公孫瓚は袁紹を上回る実力の持ち主であったろう。

事実、界橋の戦いにおいて終始攻勢にまわっていたのは公孫瓚であり、袁紹は防戦一方であった。

しかし袁紹は宮廷を動かして、公孫瓚と停戦。公孫瓚軍が撤退すると、すぐさま公孫瓚の勢力の異民族たちを動かし反乱を起こさせる。

さらに公孫瓚と仲の悪い劉虞を動かし、これを敵対させている。

さらに公孫瓚が劉虞を殺すと、公孫瓚に「皇族殺し」の悪名を与えて、幽州で大規模な反乱を起こさせる。

さらに公孫瓚は配下からも離反者が相次ぎ、袁紹は易京まで公孫瓚を追い詰めてしまうのである。

武力のみで伸し上がった公孫瓚にとって、袁紹にしかけられてこの総力戦は対応しようのないものであったろう。

まさに袁紹陣営の恐ろしさはここにある。

外交において名門袁家の名は最大限に威力を発揮するのは言うまでもなく、また内政手腕も袁紹陣営は「晋代になっても河北では袁家を慕う声があった」と極めて高い能力を持つ。

袁紹にとって、外交内政をも含めた総力戦は、まさに必勝パターンであったのだ。

後に官渡の戦いでも袁紹軍は、外交で孫策らを扇動し、劉備に後方攪乱をさせ、曹操に対しても総力戦を仕掛けている。

しかし、曹操も屯田政策など極めて高い内政手腕を持っており、外交においても帝を雍することで袁家の名に対抗する名分を得ていため、袁紹側のアドバンテージはなくなっていたのであった。

袁紹本初

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 袁紹は戦下手?

名門袁氏の当主として後漢の動乱を制し、河北において大勢力を築いた人物である。

官渡の戦いにおいて曹操に敗れたため、どうも戦下手という印象のある袁紹であるが、むしろそれは彼にとって気の毒すぎる評価と言えるだろう。

袁紹という人物は決して戦下手ではなく、大勢力を背景にした戦略戦術においては、むしろ曹操よりも得意であったとすら言えるかもしれない。

袁紹の戦略の特徴は、敵に正面決戦を強いつつも、外交や謀略によって敵の後方を攪乱しながら、敵勢力を弱らせていくというものが基本となる。

このもっともよく現れた例が公孫瓚討伐時であろう。

袁紹は冀州から幽州の公孫瓚を圧迫しながら、鮮卑や烏桓といった異民族たちや公孫瓚と敵対する劉虞といった勢力を動かして、公孫瓚の勢力を内部から崩壊させてしまっている。

これと同様に曹操との戦いでも、曹操を官渡に縛り付けながら、汝南に劉備を派遣して後方を攪乱し、劉表や孫策といった曹操に敵対する勢力を動かして後方から曹操勢力を崩壊させようとしている。

戦術面においても大軍を擁したときの袁紹はそつがない。

特に彼は攻城戦と野戦築城を得意としていた。

易京の戦いでは易京の城を陣地で取り囲みつつ、地下道で楼閣を破壊して難攻不落と言われた易京を陥落させている。

また官渡の戦いでも、緒戦で勝利して士気上がる曹操軍に対して陣営を連ねて迎撃し、大打撃を与えている。

また官渡の戦いでも、官渡城を陣営を取り囲んで、地下道で攻め入り、楼閣から弓の雨を降らせ、曹操軍を降伏寸前にまで追い詰めた。

官渡の敗因

しかし官渡において袁紹軍は敗れる。

その敗因はただ一つに起因するだろう。

当時、袁紹陣営は後継者争いで袁譚派と袁尚派に二分されていた。

この勢力争いに袁紹陣営の許攸も巻き込まれ、許攸は曹操陣営に逃げ込む。

そして烏巣奇襲を進言するのだが、さらに言えば当時の袁紹陣営はやはり派閥争いのために、淳于瓊と郭図に指揮系統が分断されてしまっていた。

そして烏巣を淳于瓊が、官渡の本隊を郭図が指揮しており、両軍は分断されていたのである。

曹操の奇襲は、これを完璧に突いたものであり、逆に言えばこれ以外に曹操の勝機はないというところまで袁紹は曹操を追い詰めていたのである。

袁紹が大軍を得意とした理由

袁紹の戦略を見ると、彼が大規模な作戦を得意とした理由には、配下に大きな権限を与えて自由にさせるという人事の傾向があった。

一方で曹操が配下に権限を与えず、指揮系統を統一する事に腐心し、そのため大軍の運営を不得手としていた事とは好対照であったと言える。

だが、これは陣営の派閥争いを激化するという副作用を伴った。

大きな権限を持った司令官たちは、常に派閥争いに腐心し、何度もその対立で軍の運営すら危うくしていく。

官渡では、当初は沮授が総司令官であったのが、後に沮授、郭図、淳于瓊の三頭体制となり、最終的に沮授が罷免され郭図と淳于瓊の2頭体制となっている。

これでは指揮の統一が取れるわけもなく、結果的にこれが袁紹軍の敗因となってしまったのである。

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