三国志 戦争篇 第二章 董卓の乱と反董卓連合

第二章 董卓の乱と反董卓連合軍

戦乱の幕開け

董卓軍VS反董卓連合軍

(董卓)VS(袁紹、劉岱、橋瑁、袁遺、孔伷、韓馥、南陽を袁術、曹操、孫堅)

1898月 何進暗殺される

1899月 少帝董卓によって廃される

1901月 反董卓連合結成

1902月 孫堅、董卓軍を破る

1902月 董卓、長安へ遷都

漁夫の利を得た者

太平道の乱を鎮圧した大将軍何進の下には地方豪族出身の官僚たちが多かった。

彼らは太平道鎮圧により何進の発言力が増大したこの機に、宦官たちの排除を画策する。

何進たちは地方の軍閥たちを洛陽に召集し、宮廷を制圧しようと計画する。

だが、この動きを察知した宦官たちは、宮廷内で何進を暗殺。

何進暗殺を知った袁紹と袁術は急遽クーデターを敢行。

彼らは手勢を率いて宮廷内に突入し、宦官たちを虐殺し、皇帝の身柄を確保しようとする。だが、宦官たちはいち早く皇帝を拉致し、宮中を脱出していた。

このクーデター劇は思わぬ強硬手段により宮廷を追われた宦官、皇帝を確保できなかった袁紹・袁術側ともに痛み分けと言えるだろう。

ここで決め手を失った両者をよそに、漁夫の利を得た者がいた。その名は董卓。

涼州で独立し軍閥を形成していた彼は、何進の召集を受け洛陽に向う途上で、まったくの偶然から宦官に拉致されていた皇帝の身柄を確保するのである。

董卓は何進と宦官の両勢力が排除された宮中の政治的空白に見事に乗じ、洛陽を制圧する。

涼州の軍勢という武力と皇帝の身柄という権威を手中にした彼に対抗できる者はおらず、董卓は一気に後漢王朝を席巻する。

これに反発したのが、結果的に董卓に出し抜かれた形となった袁紹や袁術、曹操たち何進派の官僚たちである。彼らは董卓の制圧下にある洛陽を脱出する。

彼らは檄文を各地に送り、董卓討伐を訴えた。この檄文に洛陽以東の領主や豪族たちが呼応し、反董卓連合軍が結成される。

反董卓連合の戦い

反董卓連合軍は河内に駐屯する袁紹を盟主とし、酸棗に劉岱、橋瑁、袁遺、孔伷が潁川に、韓馥が鄴に駐屯し、洛陽を東から圧迫。さらに南方から南陽を制した袁術が洛陽を脅かすという形勢を取った。

だが、連合軍側の諸侯は強兵で知られる董卓軍と直接戦って損害を受けるのを恐れ、動きは鈍かった。

そんな情勢下、唯一動いたのが袁術の配下に所属する孫堅であった。

彼は南方より洛陽に進撃を開始する。これに対し、董卓は配下の胡軫と華雄を派遣する。

しかし、孫堅は陽人において華雄を斬り、胡軫軍を撃破する。

途中、孫堅の勢いを恐れた袁術によって一時補給が断たれるという事態があったが、そのまま孫堅は快進撃を続け、洛陽まで九十里という位置まで迫る。

帝を擁し洛陽を制圧していた董卓であったが、本来彼の根拠地は西涼にあり、実際に駐屯していた兵力は多くはなかった。

胡軫の軍が敗れたことで余剰兵力を失った董卓は、洛陽を放棄することを決意する。董卓は光武帝以来の帝都であった洛陽を焼き払い長安へと撤退してしまう。

これを連合軍の中で唯一、曹操だけが董卓を追撃するが、彼は董卓軍の後衛を守る徐栄によって撃退されてしまう。

孫堅の活躍以外に見るべき戦果のない連合軍だが、董卓が洛陽から追い払った事で彼らは面目を保ったとし、解散する。

董卓とそれに反発する諸勢力の戦いという形となったこの戦いは、後漢王朝の動員によらず各地の軍閥が挙兵した事で、各軍閥が王朝から完全に独立するという結果をもたらした。

以後、漢王朝は名目だけの存在となり、地方の独立勢力による戦乱の時代が幕を上げるのであった。

董卓対反董卓連合

連合軍

複数の陣営が同盟して敵陣営に対抗するための形態。

反董卓連合軍において、董卓軍と戦ったのは孫堅と曹操のみである。そして、戦果を上げたのは孫堅のみという非常に偏った連合軍であったと言える。

実際のところ、戦争そのものに関して言えば、連合軍はまったく機能していなかったと言えるだろう。

挙兵自体は橋瑁による三公の檄文偽造による呼びかけと、董卓によって虐殺された名門袁氏の復讐を大義名分として掲げる事で、中国東部の実力者たちをほぼ全員動員できたと言ってもよかった。

つまり反董卓連合軍結成と袁紹を首班とするまでは、非常に順調にいっていたのである。

しかし、その後の運営については完全に失敗している。

まともに動いたのは孫堅だけであり、主力である東部諸侯の軍勢はまったく動いていない。

実は連合軍という形態において、もっとも重要なのは区々たる戦略や戦術ではなく「利害の調整」である。

第二次世界大戦においても、アメリカ、イギリス、ソ連、中国の連合国間で戦争中から「戦後」についての利害調整が、何度も行なわれている。

関ケ原の戦いにおいても、西軍と東軍の戦後の利害調整がどちらがうまくいっていたかで勝敗が決したようなものである。

しばしば「とらぬ狸の皮算用」とか「空手形」など揶揄される利害調整であるが、複数の陣営が歩調をそろえるのには不可欠な要素であり、反董卓連合軍ではそれが行なわれなかったために、連合軍として機能しなかった。

とはいえ、反董卓連合軍が形式として勝利したのは、戦争としてではなかった。

連合軍という形態のもうひとつの効果である、政治的効果が威力を発揮した事に連合軍の勝利があった。

中国東部の諸侯のほぼ全員が董卓に反旗を翻したことにより、董卓は洛陽において政治的に孤立する。

こうした孤立感を煽る政治的効果が連合軍という形態における、もうひとつの効果である。

湾岸戦争における多国籍軍や、イラク戦争におけるアメリカの国際世論に対する必死なアピールなど、敵陣営に孤立感を高めて、敵を屈服させる政治的効果こそ連合軍という形態の最大の威力と言ってよい。

その意味では、東部諸侯たちをほぼ動員できたという時点で、反董卓連合軍は成功していたと言えなくもない。

ここで董卓が強気に反撃に転じ、連合軍に決戦を挑んでいれば足並みの揃わない連合軍は瓦解していたであろう。

実際に董卓の撤退後、袁紹と袁術の内部抗争によって瓦解してしまっている。

しかし、董卓は配下が孫堅に敗れた時点で、長安に撤退してしまっている。

演義などでは世論など気にしない暴虐な君主として描かれる董卓であるが、実際のところ彼の政治立ち回りはかなり小心さが伺える。

反董卓連合軍は董卓の小心さと弱気さ、そして唯一戦闘に勝利した孫堅によって救われたと言える。

董卓(字・仲穎) 139~192

 手抜きの天才?

涼州で軍閥を形成し、袁紹と袁術による宮廷内クーデターの折に帝を手中にして、宮中の実権を掌握。その暴政によって後漢に止めを刺した男として有名。
董卓という人間の軍事的才能を評価するのは、難しいと言えるだろう。

当時、その武勇を恐れられていた事は間違いなかったが、反董卓連合軍との戦いではまともに戦わずに長安へと撤退してしまっているため、その真価を見極めにくくしている。
董卓という人物の軍事的才能は、ひどくアンバランスな所が見受けられる。

とにかく、この董卓の用兵というのは、気まぐれとしか言い様がなく、当人のやる気次第としか言いようがない。

彼は涼州において、羌族と百度以上も戦い、彼らを撃退したのみならず、羌族と親交を結んでいる。

彼が凶暴な人物でなく、異民族をも心服させる大度な人物であった事がうかがえる。
当時、羌族や匈奴といった北方の異民族たちは騎兵を操り、漢人にとっては天敵とさえ言える存在であり、漢人兵より圧倒的に強かった。

それを幾度も打ち破っているのだから、決して戦下手な人物ではない。
しかし、董卓は太平道の乱の時に、異民族討伐の手腕を買われ、宦官によって罷免された盧植に替わって指揮を取っている。

だが、これには惨敗して罷免されてしまっている。

かと思えば、直後の辺章・韓遂の乱では、数万の羌族に囲まれながら、巧く堰を切って天然の防壁とし、他方面の官軍がことごとく惨敗する中、唯一兵を全うするという離れ業を演じている。
ようするに、涼州における自分の軍閥に関る戦いでは驚くべき軍事センスを発揮し、無関係な戦いでは完全に手を抜いているとしか思えないのである。

董卓の才能と限界

董卓の軍事センスは政権奪取時にも伺える。

帝を得て洛陽に入った彼は、寡少な兵力を夜に都から脱出させ昼に盛大に軍を入城させるという機略で誤魔化しながら、洛陽で最大の兵力を持つ何進の弟何苗を暗殺してその兵力を吸収している。

さらに丁原の配下の呂布を寝返らせてその兵力も吸収している。

この情勢把握能力と行動の素早さは、大きく評価すべきであろう。
とにかく董卓が自分の利益が関ったときの決断の早さと確かさは、他を圧倒している。
その意味では、反董卓連合軍との戦いにおいて、孫堅軍と一戦して破れるとすぐに長安に引いたのも決断の早さの証明であったろう。

おそらく彼の戦略眼と決断力は、一軍閥の長としては申し分ないものがあったと言える。

事実、董卓が長安へ引き篭もった後、連合軍は内部分裂を起こし、解散してしまっている。
だが、同時に董卓もまた中原を制覇する戦いから降りたも同然となってしまい、地方勢力の一つに留まることになる。

おそらくこれが董卓の把握できる限界であったのだろう。その意味では、彼は天下を争える人物ではなかったと言える。

董卓の個人武力

董卓の個人的武勇は呂布をも恐れさせたものがあった。

弓の名手であり馬上で左右両手で弓を扱えたという。

また、刺客に腹を刺されても倒れず、そのまま刺客を絞め殺したというのだから尋常ではない。

呂布より強かったかもしれない。

孫堅(字・文台)158~192

妖賊討伐のエキスパート

後漢末期における名将を挙げよと言われたら、まず間違いなく名を挙げるべき人物である。
軍人としての孫堅の履歴は、華麗という他ない。

十七歳のときに海賊の胡玉を討伐したのを初陣として、会稽の妖賊句章を討伐して私兵を得て以来、各地の賊を討伐して勇名を馳せた。
太平道の乱のときに、主将の一人朱儁は特に願い出て、自軍の参謀に当たる佐軍司馬として配下に組み入れている事から、当時から妖賊討伐のエキスパートとして名が轟いていたことがわかる。

孫堅は朱儁と協力して太平道討伐に参戦し、宛での戦いでは篭城する太平道軍に対して先頭に立って奮戦し、一番乗りを果たしている。
どうも、孫堅は先に挙げた董卓と対称とも言える存在であったようだ。

太平道の乱で、あからさまに手を抜く董卓と、先頭に立ち奮戦する孫堅という対称軸は、186年の辺章・韓遂の乱で露わになっていく。
孫堅は総司令官である張温の下で羌族と奮戦するが、董卓はとにかく自軍を温存する事にその軍事センスを発揮する。

この董卓に激怒した孫堅は、張温に対して何度も董卓を処刑するように進言しているのである。

孫堅と董卓

董卓が洛陽の実権を握ると、それに反発した諸侯らによって反董卓連合が挙兵される。

これに真っ先に応じた孫堅は、荊州刺史王叡、南陽太守張咨を斬り荊州を把握する。

そして都から逃亡してきた袁術に南陽を譲り渡す。

董卓討伐の旗頭の一人である袁術を担ぐ事で、王叡と張咨を斬った名分を董卓討伐のためと擦り変えたのである。
反董卓連合の中で孫堅のみが董卓を恐れずに動いたのは、前述したように叛乱討伐時に同僚とした働き、その怠戦ぶりを目の当たりにしていたからだろう。

とにかく董卓は自勢力が減殺される事を徹底的に忌む癖があり、兵力を出し惜しむ傾向がある事を孫堅は見抜いていた。
事実、孫堅の進撃に対して董卓は自ら兵を率いることなく、胡軫と華雄を派遣したのみであった。

そして陽人の戦いで孫堅がこれを破ると、たちまち長安に撤退する。

孫堅の孤軍とすら言える突出ぶりは、凶暴とすら思われていた董卓の意外な吝嗇さと臆病さを熟知していた故の計算されたものであったのだ。

孫堅の戦術

このように、あらゆる戦いで功績を挙げた名将孫堅であるが、欠点もあった。

孫堅の戦術は、敵の弱点を見抜き、そこを徹底して突くところにある。

当時、一般的だった戦術が数に任せて敵を包囲するというものであった。

これを孫堅は広がった敵の弱点を把握し、そこを一点突破するという戦術を多用した点で彼の戦術は画期的であった。

だが、これを自ら兵を率いて行なうため、しばしば彼が孤立するのである。

このため太平道との戦いや陽人の戦いで、危うく討ち取られる状況に陥った。
後に彼は劉表との戦いで、流れ矢に当たって死亡するが、これも戦場を単騎で行動していたせいでもあった。
ちなみに兵力の一極集中と、それを主将が行なうという戦術は、そのまま息子である孫策に引き継がれる。

そしてまた本人が突出しすぎてしまうという癖すら受け継いでしまうのである。

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