三国志 戦争篇 第一章 太平道の乱

第一章 太平道の乱

ひとつの王朝の断末魔

太平道(張角)VS官軍(何進、皇甫嵩、朱儁、盧植)

1676月 第一次党錮の禁

1699月 第二次党錮の禁

1842月 太平道蜂起

1845月 長社の戦い

1851月 太平道の鎮圧される

後漢の衰退と政治情勢

光武帝劉秀によって成立した後漢王朝の歴史は、外戚と宦官による宮廷内の抗争の歴史であった。

後漢のほぼ全時代を牛耳っていた彼らが、国内外の統治よりも宮中で権力抗争に終始していたため、後漢は初代皇帝劉秀在世時を頂点として、時を経るごとに衰退していく。

中央政府である後漢王朝の衰えと反比例して地方では豪族たちの力が増大し、彼らは地方において自立の気運を強めていく。

一方で豪族たちは、官僚として子弟を政府に送り込み、宮廷の宦官支配を排除しようとする。

だが、宮廷工作に長けた宦官たちは二度に渡る党錮に禁という弾圧によって、逆に彼らを排除してしまうのであった。

宮廷内を追われた地方豪族出身の官僚や学生たちは、やがて後漢の政治改革ではなく“革命”を志すようになり、とある宗教結社と手を組む。

その教団の名は太平道。

張角を教祖とする道教の教団である。太平道は地方豪族たちの支援を受けて急速に勢力を拡大し、政治色を強めていくのであった。

 太平道の蜂起

184年2月、ついに太平道は決起を企図し、宮廷に渠帥の一人馬元義を送り込む。

宦官たちを買収して、太平道が河北中原全域で同時多発的に叛乱を起こした後の、宮廷の対応を封じるという工作であった。

しかし、この宮廷工作は失敗し、馬元義は捕らえられ処刑される。

馬元義の処刑により叛乱計画が露見したとみた太平道は、先手を打つべく青、徐、幽、冀、揚、荊の各州で一斉蜂起する。

これに対して後漢政府側の対応は遅れる。党錮の禁により実務派の官僚たちを排除していた後漢宮廷は、太平道の叛乱という非常事態に対応する能力を失っていたのである。

ようやく3月になって、後漢政府は党錮の禁を解き、官僚たちを復権させるとともに、豪族と宦官に顔が利く何進を大将軍とする事によって、ようやく指揮系統を統一するのである。

何進は、皇甫嵩、朱儁、盧植の三人を前線指揮官に任命し、太平道討伐に当たらせた。

官軍側はまず潁川と汝南に駐屯する太平道軍主力を攻撃する。

汝南・潁川は交通の便もよく各地への連絡も容易な要所である。

この地の太平道軍は戦力として主力というだけでなく、叛乱軍の指揮や連絡の中枢でもある。

その意味でも、汝南・潁川の太平道軍と官軍の戦いは、この戦いの帰趨を決する決戦であった。

官軍を率いる朱儁は、この地の太平道軍を撃破する。

これに対し太平道軍の武将波才は兵力を糾合して、同じ潁川郡の長社に駐屯する皇甫嵩を包囲し朱儁と皇甫嵩の両軍を分断し、各個撃破しようとする。

だが、騎都尉曹操による奇襲が功を奏して、皇甫嵩軍は朱儁軍と合流に成功し、波才軍を撃退する。

この決戦で汝南、潁川を失った太平道軍は、主力を失ったに留まらず指揮や連絡の中枢を失い、全国規模での組織立った動きを封じられる。

長社の決戦以後の官軍と太平道の戦いは、官軍による掃討戦と言ってもよいだろう。鉅鹿、宛城などに立て篭もる太平道軍は各個に撃破されていった。

最後に残った広宗の張角直轄の太平道軍は、張角の病死とともに降伏し、河北中原に広がった太平道の叛乱はひとまず鎮圧されたのであった。

分析 太平道VS後漢王朝

非対称型戦争

正規軍と正規軍の戦いではなく、正規軍とテロリストの戦いなど非対称の組み合せで行なわれる戦争の形態。

アメリカ一極構造の現在の国際情勢下における、新たな国家間戦争の形態となると言われている。

いまだ記憶に新しいアメリカ同時多発テロ。

この事件により世界は、戦争が従来型の国家間軍隊と軍隊の戦争ではなく、軍隊とテロリズムの非対称型戦争が大国を揺るがす事を認識する。

現在、非対称型の戦争については、中国や北朝鮮なども冠絶した超大国であるアメリカに対抗する手段として検討している。

冷戦後のアメリカ一大国時代という国際構造における戦争の形態として注目されている。

こうした非対称型の戦争の構造自体は、古代から存在しており、テロやゲリラ戦による正規軍との戦いや国家転覆などは枚挙に暇がない。

そうした例のひとつが太平道の乱である。

太平道の蜂起は、まさにこの非対称型戦争の典型であった。

太平道側は全国の信者たちに同時多発的に蜂起させ、地方を混乱させる。

それとともに宮廷に馬元義を送り込み宦官たちを取り込んで中央政府を混乱させ、対応を遅らせる。

まさに謀略による中央政府の機能停止と社会混乱による国家転覆手段として、非常に優れた計画であったろう。

だが、馬元義は捕らえられ宦官の買収は失敗する。

とはいえ、この失敗自体は太平道にとって致命的ではなかったろう。

当時の後漢宮廷は、宦官と豪族の権力抗争だけに腐心しており、謀略なくとも機能停止状態にあった。

実際、馬元義の失敗で蜂起の日程を早めて、太平道は2月に挙兵するが、これに対して後漢政府は3月に対応を始める。

この1ヶ月は後漢政府にとって致命的になってもおかしくはなかった。

この間に太平道側は、さらに地方に浸透してしまえば、おそらく鎮圧は不可能になっていただろう。

しかし、太平道は官軍が編成されるとの報を受け、汝南・潁川に戦力を集めて正面決戦を挑んでしまうのである。

非対称型の戦いを対称型の戦いとしてしまった事が、実は太平道側の致命的失敗となる。

正面決戦となると正規軍の将兵たちの練度がものを言う。

正面決戦を挑んだ太平道は、長社の決戦において官軍に敗北し、その後鎮圧されるがままとなる。

だが、正面決戦を挑んだ太平道主力と教祖張角一党を鎮圧したものの、地方における太平道の残党たちは生き残る。

青州一党、黒山賊など、彼らは独立勢力として盛んに活動して、後漢政府衰退の一要因となっていくのである。

むしろ太平道による非対称型戦争は、張角一党が鎮圧後に理想的展開を迎えたと言えるかもしれない。

彼らは盛んにゲリラ戦やテロなどを展開し、後漢から国家としての統制力を削ぎ取っていったのだ。

彼らのうち青州の太平道残党たちは、後漢政府から天下を奪い取る男、曹操の下へ下り後漢王朝を終焉させる。

そして道教は後漢の後の魏王朝において国教化し、太平道はその目的を遂げている。太平道の戦いは張角の死後も続いており、結局は彼らが勝利者となったのである。

人物 何進(字・遂高) ?189

 適材適所であった大将軍?

大将軍として太平道討伐の指揮をとった人物である。

一般にそれほど才幹の評価される事はない人物であるが、後漢の政治情勢の中で彼が果たした役割は、思いのほか大きいのである。

太平道の乱勃発時に彼が大将軍として登用されたのは、後漢宮廷のやむを得ない事情があった。

当時は党錮の禁により、宦官たちと豪族出身の官僚たちの対立はいよいよ深刻となっていた。

宦官たちは私兵を持っておらず、さらに軍官僚たちも宦官たちと対立し動かない。

ここで登用されたのが、霊帝の外戚である何進であった。

彼は外戚として、豪族たちと立場は近かった。

さらに屠殺業の娘であった何進の妹を帝の妃に引き立てたのは宦官たちであり、宦官とも縁が深かったのである。

さらに当人は元の身分が低く、豪族たちのように自前の勢力を持たなかったのも、宦官たちにとって利用しやすかったのもある。

つまり豪族たちと宦官たちで対立する後漢宮廷をまとめる中心となれるのは、当時、彼をおいて他になかったのであった。

彼自身の政治軍事の手腕は、評価は難しいが、太平道討伐に皇甫嵩、朱儁、盧植という当時の名将たちを起用している。

さらに太平道の乱後は西園八校尉として、袁紹や曹操といった人物たちを登用している事から、少なくとも人事に関するセンスがあった事だけは間違いないであろう。

最期は袁紹や袁術とともに、宦官一掃を謀るが、宮廷内クーデターを大々的に行なおうとしたて機密を漏洩させてしまう点で、軍事的才能は評価に値するものではないのだろうが。

皇甫嵩(字・義真)195

 太平道の乱を勝利に導いた名将

 太平道の乱の討伐に起用された武将の一人である。太平道の乱の趨勢を決めた長社の戦いを制した事で、官軍を勝利に導く。

 官軍の戦略は潁川の太平道主力を叩く事で、各地の太平道軍を分断するというものであった。この戦いで、当初は先に兵をまとめて朱儁による反撃が開始されるが、これが太平道の波才によって敗れる。

 勢いに乗った波才は、続いて皇甫嵩軍を包囲し、これを殲滅しようとする。ここで皇甫嵩が敗れれば、洛陽までほぼガラ空きとなり、そのまま後漢は滅亡しただろう。

ここで皇甫嵩は、夜陰に乗じて火計を行なう事で反撃に転じる。

おそらくこれは計算していたのだろう。

ほぼ同時に兵を再編成した騎都尉曹操が救援に駆け付け、波才軍を奇襲、さらに兵を再編成した朱儁も救援に訪れ、波才軍を逆に包囲するのである。

 皇甫嵩・朱儁・曹操軍を合わせても波才軍の兵力には及ばなかったが、火に撒かれた上に包囲されたと思い込んだ波才軍は、撤退する。

これを官軍側は徹底的に追撃する事で戦果を拡大、数万の首を斬ったとされるほどの大戦果を挙げるのである。

 これによって敗北寸前であった戦況は官軍側に一気に傾き、官軍の勝利となる。

その最大の功績が長社で包囲されつつも屈せず、逆に反撃に転じた皇甫嵩にあったと言える。

 後に彼は辺章・韓遂の乱でも功績を挙げるが、董卓の乱後は戦いの場を宮中に移して、董卓や李傕・郭汜の下で衰退する漢の権威を支える事に腐心する。

だが、その努力も空しく、彼は失意のまま死ぬことになる。

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