王佐にあらず~鍾会編~

『王佐にあらず』というタイトルで、鍾会編と荀彧編で対比させて、後漢と魏晋時代に『王佐の才』と言われた二人について語りたかった。

これを書いてて気づいたんだけど、この鍾会って人間は、本当にイヤなやつでド畜生なんだけど、不思議なぐらい女の匂いがしない。

というより40で早逝するまで、妻を娶ったという記述がない。

鍾会ぐらいの名士で、妻の記述がないのは大変珍しい。

当時の魏晋の世相を考えると、かなり濃厚にホモ。

たぶん、ホモ。

しかもヤンデレ。

たぶんマザコン。

軍事にかけても政治にかけても、たぶん魏晋で一、二を争う天才。
なのに性癖と性格は歪みきっている。

こういうやつが好きなので、調べていくうちにすげー可愛くなった、鍾会。

いいキャラしているよ、コイツ

王佐にあらず ~鍾会編~

あらすじ

鍾会、字を士季という。

鄧艾とともに蜀を滅ぼした張本人として、演義でも著名な人物である。

三国志に登場する数多くの人物たちの中で、「天才」という称号を与えるのにもっとも相応しい人物は、彼かもしれない。

魏の相国をはじめ軍事・政治の高官を歴任し続けた、重臣中の重臣鍾繇の子として生まれ、5歳のときに魏の名臣蒋済に「この子の目はただ者ではない」と評された彼ほど、恵まれた人物もいないだろう。

その後、司馬氏に仕え、毋丘倹、諸葛誕の反乱の鎮圧など、司馬氏が天下を握るに当たっての、すべての謀議を司り、司馬昭をして「我が子房」と言わしめたほどの鍾会は、蜀攻略作戦を立案し、自らその総司令官として蜀へ侵攻する。

そして、見事彼は蜀を滅ぼしてのけて、その勢いは天に上るばかりであった。名門の出でもある彼はこのまま司馬氏の股肱として位人臣を極めてもよかった筈だが、しかし、彼は蜀において自立を画策し、最後に自ら招いた災厄によって生涯を終える。

いったい、魏が生み出した最高の天才とも言うべき彼は、どうして反逆を志したのか?

鍾会には母があった。

張昌蒲という、この女はまさに毒婦であった。

魏の重臣鍾繇に使える妾となると、彼女は正妻の座を狙って正室の孫夫人の悪口を広めたり、数々の陰謀を企てる鍾会が生まれるとますます彼女は増長して、孫氏を毒殺しようとする。

賢明で慎ましい孫氏はそれでも、毒を盛られた事を鍾繇に訴えようとせず「嫡と庶が争うのは、家を破滅させ、国を危機に陥れる行いです」と言うような女性であった。

その毒婦の子として生まれた鍾会は、その母によって歪められる。

服はいつも紺か青の安い服しか着せられず、しばしば虐待を受けた。

鍾会には鍾毓という兄がいたが、張夫人は鍾会を後継ぎとして迎えられるよう様々な陰謀で鍾毓を落とし入れようとする。

しかし、鍾会は才幹はさほどではないがお人好しで器量の深い兄を慕っていた。そのため、しばしば母の陰謀から兄を守るために画策せねばならなかった。

こんな話がある。

子供時代、鍾繇の酒を兄の鍾毓とともに盗み飲んだ。それを見ていた鍾繇が「なぜ拝礼をせずに飲んだのか」と尋ねると、「そもそも盗みというものは礼から外れていることなので、拝礼をしませんでした」と答えた。

これも張夫人の仕業だった。

彼女はあえて子供の好きな蜜を酒に混ぜるところを見せ付けて、鍾毓が飲みたがるように仕向けたのであった。

そして父の目の前で醜態を晒させようとしたのである。それを知った鍾会は進んで自分が飲み始め、さらに悪びれた事を言って自分を悪者としたのであった。

六歳のときに父鍾繇は死ぬが、鍾繇は早くから厳として鍾毓を後継として届けて、様々に手を打っていたので、張夫人が手を出す余地はなかった。

そのかわり、その死後張夫人は正夫人気取りで孫夫人が鍾繇より離縁されたなどと広めたり、家財を私して贅沢三昧。

それでも鍾会と鍾毓は相変わらず、貧しい服しか着させてもらえず、周囲の笑いものにしばしばなった。

それ以上に辛かったのが、鍾会を金になる廷臣にしようと徹底して教育する張夫人は学者を雇い鍾会を教育させるのだが、それが明らかに母の浮気相手である事であった。

男女の事を知らぬ年であったが、聡い彼がその異様な気配を感じぬわけにはいかなかった。

その学者は傅嘏、字・蘭石という20歳の若者であった。硬骨の士としてしられるが、若い頃の彼もまた、頽廃の魏王朝の色に染まった若者でもあった。

ただ、富裕な女を騙して小遣い銭でも得ようとこの仕事をはじめた傅嘏であったが、彼は逆に鍾会の才知に惚れ込んでしまう。

そして、彼は生涯、彼の保護者代わりとしてさまざまに助言などしてやる立場となる。

その後、十五歳という年齢で太学に上った彼は、そこで運命の出会いをする。

王弼という、一つ年下の少年は紹介にとって初めて、同年代で同じレベルで語り合える相手であった。『老子』の注釈を王弼と鍾会はときに議論しながら作り上げ、ほかにも二人は『道論』などを共著として次々と論文を書き上げていく。

二人はやがて曹爽・何晏のサロンに招かれるようになり、そこで酒宴を楽しみ、老荘の思想について語り合い古今の人物を論じ合った。

時に音楽に親しみ、投壷を遊んだ。

当時の魏はまさに建安文化の爛熟期であり、ただ文学を論じ酒に親しむだけでなく、美貌を称えられた何晏は煌びやかに女装をもって着飾り、五石散という麻薬に耽溺する、そんな耽美的な雰囲気を漂わせていた。

もちろん、男色もしばしば行なわれたというより、儒学が禁ずる男色に惑溺するのも彼らの粋の一つですらあった。

このような耽美なる文化に鍾会は「女は汚いものだ」という思想には激しく共感し、王弼に対してもそのような気持ちを持ってしまっていた。

とはいえ、母が家財を握り、美服など用いさせて貰えない鍾会は、彼らのサロンでは笑いものになってしまう。

王弼と鍾会は、曹爽・何晏らの華やかさに憧れつつ、また曹爽・何晏らも彼らの才幹と学識を認めつつも、なんとなく馴染めないのであった。

ところが249年、曹爽が司馬懿のクーデターによって滅ぼされると、何晏らのサロンにいた面々は誅殺される。

この政変の中で、鍾会は彼らと距離を置いていたのと名門鍾家のためか、難を逃れるが、王弼が連座してしまう。

正確には、司馬氏によって捕らえられる前に王弼は自殺してしまったのである。

後に彼は病死と伝えられるが、学者として名高かった彼を後に天下を取る司馬家が殺したと伝えるわけにはいかなかったので、筆が枉げられたのである。

王弼の死に絶望した彼は世を捨てようと竹林の七賢として清談に耽っている一派があると聞き、彼らを訪ねる。

しかし、彼を迎えた嵆康は彼を無視する。

嵆康を訪ねたとき、嵆康は刀鍛冶に熱中していた。

鍾会は近づいていき、ただ待っていたがいつまで待っても声をかけてもらえず、立ち去ろうとしたときに「何を聞いて来たのか。何を見て去るのか。」と聞かれこう答えた。

「聞くことを聞いたから来ただけだし、見たことを見たので帰るだけだ。」

鍾会は嵆康を待っている間にバカバカしくなっていたのだ。

司馬によって殺された王弼の無念を晴らすために、彼は司馬昭に仕える。

司馬氏の恐ろしさは、彼がもっともよく知っていた。故にその中に入り込む事で、彼は司馬氏を滅ぼそうと考えたのである。

もとより抜群の才幹を持つ彼である、毋丘倹、諸葛誕の反乱においては参謀としてその作戦を司り、夏侯玄の粛正などに抜群の才能を発揮し、いつしか彼は司馬昭に「その王佐の才、まさに我が子房よ」と称えられるほどになる。

しかし鍾会は内心嘯く「我が才は王佐にあらず」と。

そして念願の独立した司令官となる機会が訪れる。

先年、段谷の戦いにおいて鄧艾に敗れた蜀の姜維は、漢中防衛の兵力も割いて北伐に出手は破れていた。蜀の玄関口となっている漢中の防衛システムが崩壊している事は蜀征伐のまたとない機会であった。

そして、彼は蜀征伐の作戦案を完璧に練り上げ司馬昭に上奏する。そして、その指揮は自分が取ると。

彼の指揮するに当たって常に言っていたのは「戦さに名将などいらない」であった。 「勝てる兵力と兵站を整えて、敵の及ばぬところを攻めれば負けるわけがない」。

しかし、それを整えるのは並々ならぬ頭脳が必要である、その頭脳を鍾会は余す所なく持ち合わせていた。

兵站、進軍など、ほとんど一刻単位での計画を練り上げ、それを書写して諸将に配ってそのとおり行動するようにさせたのである。

この指揮ぶりと言動に鍾会に対する反発は大きかったが、それは鍾会の思う壺であったろう、彼は反発する諸葛緒、許義などから軍権を奪い自分のものにしていく。

そうすでにこの時点で鍾会は自立の意図を秘めていたのである。

鍾会は鄧艾とともに蜀を陥落させるが、この鄧艾をも陥れて、彼を殺して彼は魏軍全軍を掌握する。

さらに残った蜀の姜維も手なづける事で、いよいよ彼は蜀において自立の意思を明らかにする。

ところが鍾会は魏軍を掌握していたというのは思い込みでしかなかった、彼の反乱に魏軍は従わずかえって殺されてしまうのである。

元々は魏曹家を立てて司馬氏という君側の奸を討つ名目で蜂起する意図であったと思われるが、それを公表する前に、企みが漏れて殺されるのである。

彼としては蜂起が成功すれば、あとは、逆に三路一斉に逆に攻めれば魏を破れると思っていたであろう。

(鍾会が姜維に諸葛亮に兵力があれば、このように攻めれば北伐はなったであろうという戦略に教えて、姜維を自陣に組み入れるシーンを入れる)

鍾会の死後、杜預という彼の副官であった男が、呉をまるで鍾会の立案した作戦のように、鍾会の得意として分路同時侵攻作戦で落とす。

彼は述懐する。

わずか彼が死んだとき、まだ40歳でしかなく、そして彼は独身のままであった事を。

そんな鍾会は死後、一つの伝記を密かに書いていた事が明かされる。

それは、亡き母に関する者で、その中で鍾会は母は慎み深い賢夫人であったと、事実とはまったく反対の事が書かれているのである。

母の為に歪み、ついには女を愛する事すらできなくなった若き天才の複雑な思いが、そこには隠されているようであった。

鍾会 関連人物

鍾会(字・士季) 225264

鍾繇(字・元常) 151230

漢の名族鍾家に生まれ、その仁徳と才識によっと知られる。漢王室に仕え、早くから曹操の台頭を見抜いて、献帝と曹操の間を取り持った人物である。その功績もあって、曹操に深く信頼され、長安など関中方面の政治軍事外交を取り仕切っていたようである。官渡の戦いでは関中の豪族たちから馬500頭を取り寄せて、曹操に支援を送っている。

その後、関中において馬超、韓遂らが反乱を起こしたときには、その討伐に功績を挙げている。荀彧が曹操にとっての子房(張良)であるとするならば、彼は蕭何とも言うべき人物であったと言えるだろう。事実、魏王朝が成立した後には、相国、大理、太傅へと上って位人臣を極めている。

張昌蒲 ?~257

鍾繇の側室の一人で、鍾会の母。鍾会によっとてその伝記が記されているが、慎み深く教育熱心で、鍾会を清貧に育て上げたと称えられている。また、正夫人に変わって家事を取り仕切っていた孫夫人という女性がおり、金銭に貪欲で、張夫人は彼女にたびたび苦しめられたという。一度は毒殺されかけたが、賢明な張夫人は家を乱すまいと、黙っていたという。これらの事から、張夫人は鍾繇より深く信頼され、孫夫人は離縁され張夫人は正妻に納まった。

と鍾会は記しているが、どうも、すべては鍾会が捏造した伝記のようである。

蒋済(字・子通)?~249

魏の名臣。曹操、曹丕、曹叡、曹芳と四代に渡って仕えた文官であり、主に東部での孫権の戦いで活躍した軍師である。

「瞳を見ればその人間の価値がかわる」という人物評を論文を書き、これが太傅であった鍾繇の目にとまる。鍾繇は彼を家に招いて末子である当時五歳であった鍾会に引き合わせたところ、その才質に驚き「ただならぬ人物になるだろう」と評価している。

鍾会が世に知られるきっかけとなった人物である。

鍾毓 (字・稚淑) ?~263

鍾会の兄で、鍾繇の嫡子。

十四歳で散騎侍郎に上り、頭脳の明晰さ、人柄のよさ父鍾繇を思わせるものであったという。その後、散騎常侍に上るが、曹爽の蜀征伐に反対し、曹爽によって侍中に転任、魏郡太守に左遷される。しかし、これが幸いし、司馬懿による曹爽掃滅後、中央に返り咲き、御史中丞、侍中、廷尉に昇進する。

司馬家に信頼され、毋丘倹、諸葛誕の乱後は青州刺史、都督徐州諸軍事、都督荊州諸軍事などを歴任する。

鍾会との確執の様子はなく、むしろ鍾会とともに司馬家を補佐し重用されていたことから、兄弟協力して鍾家の隆盛に尽力していた模様である。

傅嘏(字・蘭石) 209255

北地郡泥陽出身。

20歳のとき陳羣にその才幹を見出され、官吏の勤務評定など人事に携わる。正始年間に尚書郎、黄門侍郎へと上るが、何晏の性質を疑い曹爽の弟である曹義に忠告した。このため何晏に憎まれ、免職されてしまう。

司馬懿のクーデター後、河南伊となり、尚書へと昇進。

この頃から地方行政の改革などを提案し、内政や人事などに辣腕を振るう。

毋丘倹・文欽の乱においては諸官が反対するなか、王粛とともに司馬師自ら征伐すべきだと説いた。

精錬潔白の士であり、また豪気なる性格であり、陳寿、裴松之にもその見識・器量を絶賛されている。当時司馬陣営の軍師として活躍して、その才能を花にかけていた鍾会に「キミは野心がその器量よりも大きくて、功業なしがたい。慎み深くしなければならないぞ」と忠告している。

この人物の忠告は鍾会は受け入れたらしく、その後、彼は自らの言動を慎むようになっている。(諸葛誕の反乱を討伐した後、鍾会は司馬昭に昇進を打診されたものの、これを固持して受けなかった)

その外にも「傅嘏は常に、才能と性格が一致しないと論じていたが、鍾会はそれを集めて論述した(ちなみに鍾会は才能と性格は一致するという論文を書いているので、よき論戦相手であったようだ)」、「傅嘏は司隷校尉の鍾会は年はたいへん若かったが、傅嘏は叡智をもって鍾会とつきあった」とあり、鍾会にとっては、数少ない親身になってくれる人物であったようである。

王弼(字・輔嗣)226249

鍾会の数少ない友人の一人。

年十余で『老子』を愛好し、明晰な言葉でこれを解釈して論じたという。何晏、鍾会のどちらとも仲がよく、彼らと『道家』について語り合った論が、後の道教についての解釈の祖となる。具体的には訓詁学中心の漢代儒学に対して老荘思想をとりいれた新解釈は、魏晋の玄学(老荘学)の基礎となっている。また何晏との哲学的対話は清談の風を開き、“正始の音”として後世まで尊ばれた。“無”を言葉では教えられないものとし、“無”を説いた老子よりも、“無”にふれなかった孔子を、“無”の体得者として高く評価。『老子注』(現存)を著して何晏を敬服させた話は有名であるが、ほかに『周易注』(現存)を著し、いずれも六朝・隋唐時代に盛行した。

穏やかな快楽主義者で、酒宴を楽しみ、音律に秀で、投壷(壷に矢を投げ入れる遊び)が上手であった。精密な論述家であった何晏、経験と全体的な判断力に富んだ鍾会に対し、高邁かつ幽玄な理を説いた王弼の論は、常に彼らを感嘆させていたという。

249年、わずか23歳癩病にかかってなくなったときは、何晏、鍾会、傅嘏たちだけでなく、司馬師など魏の有識者たちも嘆き哀しんだという。

曹髦(字・彦士) 241年~260

魏五代皇帝。

254年、司馬師によって廃された曹芳の後を継いで魏の皇帝となった。司馬師に訊ねられた鍾会によって「才能は陳思王(曹植)、勇武は太祖(曹操)」と評されたほどの人物であり、若い頃よりその器量を期待されていた。

しかし、すでに彼が即位した時期は司馬家の支配が完全に定まっており、反乱を起こした毋丘倹も諸葛誕をただちに討伐されてしまつていた。

鍾会と鍾毓は曹髦の側近として、曹髦とともに学び論じ合う学習仲間となる。若い皇太子や皇帝の学習仲間というのは、ほぼ彼らのブレーンといってもよい立場であり、鍾会と鍾毓は同時に司馬家側の皇帝監視役でもあったのだろう。

この中で彼らの議論の中で「帝国の始祖である高祖と夏王朝を中興した少康はどちらが上か?」というものがあり、皆が「高祖のほうが優れている」と論じる中、曹髦は「少康の功績はそれに劣るものではない」と、王朝の始祖に王朝を中興した人物の功績は劣るものではないと強行に主張した。

衰退する魏の皇帝として、彼の切ないまでの主張であったろう。

後に彼は司馬家の専横に反発して、わずか百名の兵で宮中で反乱する。司馬家の重鎮であった賈充によって曹髦は斬られるが、皇帝弑逆を行なってしまった司馬昭の衝撃は大きく、この事は陳寿の『三国志』の中で歪曲され、厳重に秘される事となった。

夏侯玄 (字・太初) 208254

夏侯淵の従子、夏侯尚の子。

名族夏侯家のまとめ役となり、曹爽の死後、力を増していく司馬家に対してクーデターを企てるものの、失敗する。

捕らえられた夏侯玄の取調べ役となったのが鍾毓、鍾会の兄弟であった。このとき、鍾会が夏侯玄に対してなれなれしい態度をとった事に、夏侯玄は激怒し「鍾君、きみはどうしてそんなにおしつけがましいのだ」と怒鳴ったという。

鍾会のことだ名士である夏侯玄に自分を認められたくて、自分の一存で命を助けられるとでも言ったのであろう。

鄧艾(字・士載) ?~263

吃音のため不遇を囲っていたが、その農政の才能を司馬懿に見出され、彼に仕えるようになる。西部の農政改革に尽力するとともに、その地形を見る能力によって軍事にも才能を発揮し、たちまち西部きっての名将として名を挙げる。

段谷において姜維に壊滅的な打撃を与え、これがため蜀の軍事、経済は半ば崩壊したと言われている。この戦いの勝利が、魏をして蜀征伐を決意させたといっても過言ではないだろう。

鍾会による蜀征伐においては、敵の主将姜維の討伐を担当し、姜維が剣閣に立て篭もった後は、別路を通って緜竹を出て、諸葛瞻を破り成都を陥落させている。文句なく蜀討伐の軍功第一であったが、その後、成都において専断権を発揮して、専横を働いたという事で鍾会に訴えられ、その軍権を取り上げられ本国に護送されてしまう。その護送途上で、彼は殺されてしまうのであった。

司馬昭(字・子上) 211265

司馬懿の次男、事実上の晋帝国を築いた人物であり、鍾会を深く信頼して「司馬昭の子房」といわれるほど重用する。一方で、鍾会の野心を見抜いて、彼が蜀討伐に成功した後も、十万の兵を用意して自ら率いて鍾会に備えている。

司馬師(字・子元) 208255

鍾会が最初に使えた司馬家の人物。鍾会を最初に重用し、本格的にその才能を活用した人物である。毋丘倹の乱のとき病没するが、その後を司馬昭と鍾会がうまくまとめ上げて、司馬家の魏の支配は揺らぐ事はなかった。

司馬懿(字・仲達) 179251

諸葛亮を破るなど数々の軍功を挙げた魏きっての名将。魏において司馬家台頭の基盤を築き、後の晋帝国の基礎を築いた。

鍾会とは年齢は重なるが、面識があったかどうかの記録はない。

曹爽(字・昭伯) ? ~249

魏四代皇帝、曹芳の代に司馬懿とともに魏を掌握し、後に司馬懿を太傅に棚上げして、その政治の実権を握った。244年に蜀征伐に失敗し、面目を失うもののそのまま強権を発揮して、宮廷を牛耳った。しかし249年、司馬懿のクーデターによって失脚、同志である何晏ともども誅殺される。

何晏(字・平叔) 193249

魏きっての奇人。何進の孫であり、母の尹氏が曹操の側室となったので宮中で成長し、曹操にかわいがられ曹操の娘をめとる。風流人で,つねに白粉を塗り,自分の影を気にして歩き、麻薬の一種である五石散を服用したと伝えられる。幼少から秀才の聞こえがあったが、文帝に憎まれ、明帝には浮華の士として退けられた。明帝の死後、曹爽の腹心となり。司馬懿の排斥に関与。吏部尚書の要職につき知人を多く登用した。249年、司馬懿のクーデターによって曹爽一族とともに誅殺された。王弼とともに、訓詁学中心の漢代儒学に対して老荘思想をとりいれた新解釈をとなえ、魏晋の玄学(老荘学)の基礎を築き、清談の風をひらいた。『論語』『易経』『老子』を研究し、儒学の“道”を無によって、“聖人”を無為の体得者として解釈しようとした。『老子注』を書いたが、王弼の注をみて敬服して書きかえ,『老子道徳論』2巻(「列子」張湛注に逸文が現存)を著した。『論語集解(しっかい)』10巻(現存最古の『論語』の注釈書)の主編者。

嵆康(字・叔夜) 224年~263

竹林の七賢の一人で、その主導的な人物の一人。曹操の孫娘を妻とし、魏の宗室の姻戚として中散大夫に任じられたので、嵆中散とも呼ばれる。

非凡な才能と風采をもち、日頃からみだりに人と交際しようとせず、山中を渉猟して仙薬を求めたり鍛鉄をしたりするなどの行動を通して老荘思想に没頭した。また気心の知れた少数の人々と清談という哲学論議を交わした。琴を演奏することを好み、「琴賦」(『文選』所収)を作ったり、謎の人物から学んだという広陵散と呼ばれる琴の曲を得意とするなど、音楽理論に精通していた。

その珍しい記録に残っている当時のホモカップルの二人が、建安の七子である阮禹の父こと、彼自身も著名な文学者であった阮籍。もうひとりが哲学者で音楽家でもあったスイ康という人物です。

彼らは「金属を砕き、蓮のようにかぐわしい友交を結び」という中国の記録ではホモだちを現す定型句がつけられる仲で。あるとき、彼らの友人の妻が二人の仲を怪しんで、二人を家に招いて夜に寝室を覗いて確認したところ、仲睦まじい様子が見て取れた。

鍾会はこの人物と仲良くなろうとして、彼の家を訪ねたが、無視される。

阮籍(字・嗣宗) 210263

阮瑀の子。はじめ蒋済が招いて、尚書郎となり、曹爽の下で参軍となったが、病気を理由に郷里に帰った。次いで司馬懿が招いて従事中郎に取り立てた。酒を飲む便宜のために、求めて歩兵校尉に移った。読書・山行に親しみ、形式的な礼法に反対した。方外の人には青眼をもって、俗人に対しては白眼をもって接したという。司馬昭がかばい続けたので寿命を全うした。竹林七賢のひとり。「詠懐詩」などの詩も残した。『阮歩兵集』。

諸葛緒 (?~?)

魏の武将の一人。鍾会の蜀征伐に従軍するが、鍾会が諸葛緒の軍勢を自分のものとしようとしたため、最初の作戦案で命じられた姜維の退路を絶つ事に失敗したとの事で失脚し、軍を取り上げられ本国に護送されている。

後に呉に亡命している。

許義(?~26

魏の猛将許褚の子であり、宮中でも重んじられていた。鍾会軍において先発隊として蜀路の整備を命じられたが、鍾会が橋を渡る時にその橋に穴が空き、鍾会の馬が脚を穴にとられたため鍾会によって斬られた。

胡烈(字・玄武) ?~?年

鍾会の蜀討伐に護軍として同行した。先鋒として進軍し、姜維が到着する前に蒋舒 を降し、傳僉を討ち取って陽安関を破り、備蓄物資を手に入れた。 鄧艾が諸葛瞻を破って成都に迫ると退却する姜維を会と共に追撃した。

鍾会が魏に対して反乱を起こすと、胡烈は他の将帥たちと共に軟禁された。鍾会の部下の丘建はむかし胡烈が司馬師に推薦した人物であり、胡烈が軟禁されているのを気の毒に思って食料を運ばせた。すると元の胡烈の部下たちも胡烈に物資を送った。胡烈はやってきた部下に、「丘建が内密に、鍾会がお前たちを殴り殺す棒と、死体を埋める穴を用意しているということを教えてくれた。」というウソを伝え、同じ内容の手紙を自分の息子の胡淵に送った。この噂は瞬く間に成都の魏軍に知れ渡り、胡淵が自分の部隊を率いて暴動を起こすと他の部隊も一斉に蜂起し、騒ぎの中で鍾会は殺害された。

姜維(字・伯約) 202264

蜀の武将であり、蜀軍を率いて最後まで鍾会に抵抗する。敵将ながら、風格を持った鍾会は彼を気に入り、同じ馬車に同席させるほどの親密さをもって彼を遇した。後に鍾会は彼とともに蜀で独立を企てるが、失敗し、鍾会とともに惨殺されることになる。

杜預(字・元凱)222285

後に呉を討伐する総司令官となる人物。

鍾会の蜀征伐に側近として付き従い、彼の作戦や軍事面で様々な事を学んだようである。呉征伐における、多方面作戦はあきらかに鍾会の得意ととした戦略であり、軍事面における師とした事は想像に難くない。

そう考えると司馬家に仕えて曹家を半ば滅ぼし、蜀を征伐し蜀を滅ぼした鍾会は、間接的に呉を滅ぼしたと言えるのかもしれない・・・

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