酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第二十八回

いきなり回数が飛んだが、内容的にここに帰結するので、先にこちらを貼りますです。

『夷陵の戦い 最初にして最大のつまづき、張飛の死』

夷陵の戦いについて調べていくにつれ、劉備陣営の破綻の根本的な始まりはこの戦いの始まる直前に張飛を失ったことではないかと思うしかなくなっていった。

夷陵の戦いにおける劉備の敗戦の要因の一つ一つが、張飛という、劉備陣営における軍事の二枚看板の最後の一人を失ったことに繋がっていくのである。
そこで今回は、夷陵の戦いというものを考えるにおいて、劉備陣営が何を失い何を誤ってしまったのかを考証することによって、逆説的に「夷陵の戦いにおける張飛の役割と存在」というものを考えていきたいと思う。

劉備の盾 関雲長

劉備軍において「万人の敵(万夫不当の意)」として評価された関羽と張飛は、文字通り劉備軍の二枚看板として挙兵当初より別格の扱いを受けている。

それは劉備陣営だけでなく、曹操や孫権といった敵陣営から見た場合でも同様であったろう。

関羽と張飛はどちらも得がたい「単独で一軍を任せて戦果を期待できる」将軍であり、劉備が戦略を立てるにおいて関羽か張飛に別軍を任せられるというのは、戦略的自由度で得られる大きなアドバンテージとなった。

敵からは劉備を警戒しつつも関羽か張飛に備えねばならないという抑止力になるのである。
そんな関羽と張飛であるが、この両者の実績と得意分野を調べてみると見事に「盾と矛」の役割分担を果たしていることに気がつく。
劉備陣営において関羽は劉備と行動を共にしてその武勇とともに下の者に慕われやすいという人格的影響力を発揮して本軍の指揮を高めるという役割を果たしている。

実際、関羽が曹操の下に降っていた官渡の戦いのときに劉備は袁紹軍の部将として別働隊を率い許昌近郊において後方撹乱を行なっているが、このとき劉備軍は曹操によって差し向けられた曹仁軍に一撃で粉砕されたといっても良いほどあっさり破られているのである。

本来の劉備の用兵は当代随一の軍略家であった曹操ですら難戦を余儀なくされるほど粘り強いことに定評があるのだが、この戦いだけは不思議なほどあっさりと破られている。

率いていたのが寄せ集めの兵であったという理由もあるが、そういう兵から慕われ奮起させることができる関羽がいなかったというのはやはり大きかったのだろう。
劉備が益州を得たとき関羽は荊州を任されているが、やはり劉備陣営における荊州という一大要所を守る『盾』としての役割を果たすには関羽しかいなかった。

また、彼の人格的影響力は荊州の人民や兵、豪族たちを心服させるにはちょうどよかった。

とはいえ目上や同僚のものたちに辛く当たる彼の性格が、孫権との軋轢を起こし、傅士仁や糜芳たちに背かれてしまい、結果的に荊州と関羽を失ってしまったのは劉備にとっては最大の打撃であったのは言うまでもない。

劉備の矛 張益徳

一方、張飛は『矛』として別軍を与えると大きな力を発揮する。

演義や三国志系の創作物では粗暴な勇将として描かれることの多い張飛であるが、実際の地位や功績を調べると、むしろ厳格な秩序を旨とする知将とも言うべき人物であった。

劉備が袁術と戦っていたとき張飛に徐州の留守を任せたときは、あまりにも部下に厳ししすぎて曹豹などに背かれ呂布に徐州を奪われる結果となり、厳しすぎる彼は将兵たちに鬱憤のたまりやすい留守居役は向いていないのがわかる。

だが一方で、一定の戦果や目標などで配下にわかりやすいモチベーションを与えることができる別軍を任せたとき、張飛の真価は発揮される。

本隊から離れても秩序を保ちながら、決して戦略目標から将兵の目を逸らさない彼は、益州侵攻における江州方面で大戦果を挙げている。

おそらくこれは劉備の期待以上の働きであったのだろう。

劉備はこの戦いで見せた張飛の『別軍を与えたときの真価』を大変高く評価していた。次なる劉備軍の戦略目標である曹操の領土となった漢中での戦いでは、まずその前哨戦として劉備は張飛に1万の軍を与えて張郃と戦わせている。
劉備というのは軍事においても内政においても独裁権を握るのを好み、実際、あらゆる軍事、内政、外交のいずれを任せても強かに能力を発揮する梟雄である。

特に劉備は様々な軍閥を「強力極まりない私兵集団を率いた人物」として渡り歩き、どの陣営においても一目置かれていたというほどのベテラン軍人である。

そんな劉備が、本隊が苦戦したため急遽荊州から呼び寄せた益州侵攻戦のような止むに止まれぬ事情からではなく、最初から戦略的な意図を持って一軍を他人に任せるというのは、劉備陣営においては果てしなく大きな衝撃であり、劉備の張飛に対する軍事的能力への評価の高さが伺える。
対する張郃は言うまでもなく韓馥、袁紹、曹操という陣営を渡り歩き、そのいずれにおいても軍の要として重んじられた名将である。

後に劉備が夏侯淵を破ったあとで「夏侯淵を破っても、まだ一番の大物が控えておる」とまで言っている。

そこまで評価している張郃を当たらせたというのも張飛への信頼感が現れているだろう。そして張飛は見事にそれの期待に応え、張郃軍を山道の狭隘な地形に誘い込んでこれを撃破している。

『夷陵の戦い』での張飛への期待

このように劉備にとっては「別軍を与えた場合もっとも信頼出来る武将」である張飛は、関羽の仇を討つための孫権討伐戦においては、ほぼ確定的な予測として語れる事として漢中侵攻戦と同様に先鋒大将として、最初の一軍を任せる気でいた。

そして劉備は本軍として益州で張飛の戦いぶりを見ながら、総攻撃の機会を見るという役割に徹していたに違いない。
よく誤解されることとして近代以前の古今東西の戦争において「先鋒大将」というのは、決して戦場における突破役といったような猪突猛進な人物が任されるものではない。

近代以前のロクな通信手段がなかった時代における「先鋒大将」というのは、本軍に先んじて戦場の設定や戦機の動勢など全てを任されるという全権委任ともいうべき大きな権限を与えられる役割である。

ある意味、総大将以上に重大な役割であり戦争というものを知っている人物が行なわなければならず、また先鋒大将が敗れると、想定していた戦略すべてが崩壊してしまい将兵が動揺して、全軍崩壊の危機に陥るということになる。

その良い例が諸葛亮の第一次北伐における先鋒大将馬謖の敗北であろう。
張飛の戦歴を見ると、その軍秩序を保つ手腕と判断の冷静さ、戦機と戦場の設定する手腕など過不足なく持っている。

その上、張郃との戦いで見せたように「狭隘な地形を利用した戦術」で卓越した手腕を持ちあわせているため、長江沿いの狭隘な地形での戦いにもその手腕を期待できた。

何より大きいのは張飛にとっては、荊州から長江沿いの行軍はかつて益州侵攻戦で一軍を率いて進軍した経路であり、地の利を心得ているということだ。

今のようにロクな地図もGPSもないような時代で「その道を知っている」「通ったことがある」「軍を率いつつ通った」「戦闘態勢で進軍した」という各段階の経験は、そのまま経験が戦力の違いに繋がるほど大きなものである。

張飛は「戦闘態勢で大将として進軍した」経験の持ち主であり、劉備陣営、孫権陣営を通してもっとも濃厚な経験と地の利を持っていたと言ってもよかった。
本軍を温存したままで張飛に先鋒大将として戦場の設定を任せても、張飛はおそらく成功したであろうことは間違いない。

そして孫権陣営にとっては、まず張飛を破るのに大苦戦せねばならず、その上、劉備という当代屈指の軍人が本軍を温存しているのである。いかに陸遜でもこれは手に余ったに違いない。

実際の夷陵の戦いでは、劉備が本軍を率いて孫権陣営に対して巫とシキを急襲し、これを打ち破っている。

だが、どうも軍の秩序において大いに不安視させるものがあったようだ。

この時期、劉備軍では馮習を領軍将軍という地位につけている。

「領軍」や「護軍」という官職は、全軍における軍監とも言うべき官職であり、おそらく全軍の指揮統制とそれにともなう事務処理などを統括する立場であったと見られているが、どうも馮習では力不足であった模様だ。

戦後、『季漢輔臣賛』では「蜀軍があのような惨めな敗戦をしたのは馮習が呉軍を侮っていたためである」と戦犯扱いをされているが、『領軍将軍』という地位にある人物がそのような評価を受ける働きしかできなかったのは、張飛という軍秩序の要を失っていた劉備軍の指揮統制能力がいかに脆弱になっていたかがわかるだろう。

そして劉備の敗因

夷陵の敗戦の理由として劉備が長江の湾岸に数十の陣営を作って駐屯させていたというものがあれ、これについて魏帝曹丕が「劉備は戦さを知らない」などとコメントしている。

だが地形の問題というよりも、おそらくは指揮統制力の衰えから陣営を分断配置させ、それぞれの陣営で統制や補給などを分散処理させねばならなかったという事情もあった。
ここで視点を呉に移して陸遜伝の記述を読み解くと、夷陵の防備を固めた陸遜はひたすら劉備軍の士気と統制を観察していたことがよく分かる。

夷陵の戦いを巡る記述においては劉備軍の士気や統制における記述が多い。

むしろ夷陵の戦いや陸遜で有名な火計よりも、陸遜本人は劉備軍の士気と統制をひたすら観察し、そしてときとして一当てして様子を見るということを行なっている。

陸遜は、秩序の要であった張飛を失っていた劉備軍の最大の弱点は、士気と統制能力であり、長期戦になれば馮習などがにわか作りに再編成した軍組織が破綻していくと予測していたのだろう。
そして陸遜の慧眼どおり劉備軍は長期戦になり、次第に奢りと油断を露わにするようになる。
陸遜は統制を失っていた劉備軍を火攻によって急襲し、これを打ち破る。
ここで劉備軍のもう一つの弱点が露わになる。張飛を失った劉備軍は、その頭脳が劉備本隊にしかない一枚腰の軍隊であった。

このため劉備本隊が急襲されてしまうと、あらゆる士気統制能力が崩壊し、全軍に影響力を発揮できる人物がいなくなるのである。

指示する人間が誰もおらず、補給も退路も「誰を頼っていいのかわからない」状態になってしまって踏みとどまれる将兵など存在しない。

劉備という絶対的な統率者が急襲され指揮能力を失うと、恐慌状態になった劉備軍は恐慌状態となり各個撃破されてしまう。

夷陵の戦いが兵士ばかりでなく、異常なまでに武将クラスの人的損害が大きくなってしまった理由がこれである。

劉備が唯一の統率者であったため、これが失われると将兵は誰の支持に従えば、誰を頼りにすればわからなくなってしまい、ひたすら益州に向けて混乱したまま帰還するしかなくなる。

しかし、地図すらあやふやな時代である。指揮する人間もなく、無事に帰還できるわけがなく、恐慌状態になった劉備軍は追撃する呉軍の草刈り場となってしまうのであった。
この最後の局面ですら劉備は張飛を失ったことの大きさを痛感せねばならなかったろう。
そもそも張飛がいれば全軍の指揮統制の処理が滞ることもなく、また厳格な張飛がいればいかに勝利を重ねようと軍が油断して怠惰を見せるようなこともなかっただろう。

現に漢中の戦いでは劉備軍は早々と1年以上も対陣して、あの偉大な統率力を誇る曹操軍に先に音を上げさせたほどなのだ。

夷陵の戦いでも持久戦に持ち込まれたとしても、まだ総大将として日が浅い陸遜に対して有利に対陣することができただろう。

事務処理能力もさることながら、張飛の歴戦の貫禄と勝利を重ねた安定感は、将兵たちの指揮統制をどれほど安定させたか計り知れないものがあった。
そして最後の最後の段階で陸遜の強襲を受けて劉備本軍が壊乱したとしても、張飛という二枚腰での軍容であれば将兵たちは劉備からの連絡や司令を失ったとしても張飛の率いる軍を頼りにできた。

明かりに虫が集まるように敗兵たちが集まり、また張飛が劉備の代理者として軍秩序を立て直しにかかっていれば、ここまでの損害はありえなかったに違いない。

呉軍もまた劉備軍と張飛軍を同時に当たれるような戦力も軍人もいなかったのだ。

この二枚腰の軍容であれば、敗戦はありえなかっただろうし、敗戦したとしてもここまで惨憺たるものにはならなかったに違いない。

このように、どうも夷陵の戦いの劉備の敗戦の要因をいちいち突き詰めていくと、かえって張飛という人物の劉備軍における重要性が露わになっていく。
本当に根本的に劉備の夷陵の敗戦とは、ひとえに「張飛がいないまま戦ってしまったこと」に尽きるのではないだろうか?
軍人として独裁的に軍権を振るい戦果を重ねてきた劉備であったが、その率いる軍の規模が大きくなるにつれ、「二枚目の切り札」は必須のものとなっていたことに、劉備はうすうす気づいてはいたのだろう。

だが、「二枚目」を失ったからといって、それを認めるわけには「当代屈指の名将」劉備はできなかったに違いない。

張飛なしでも十分に戦える。

そんな過信、いや認めたくない心理的間隙を、陸遜は完全に看破していたのだろう。
夷陵の戦いとは、突き詰めるところ劉備軍にとっても孫権軍にとっても「張飛を失った劉備とは?」について考え続けることであったに違いない。
すでに死んでいた張飛だが、彼は「夷陵の戦い」においてここまで大きな存在であったのである。
劉備にしてみれば、そもそもこの戦いは「張飛がいてこその戦い」であり、むしろ張飛を失ったまま進められた現実の戦いの方が劉備から見ると「IFの世界」であったといえよう。

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