酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第二十四回 曹操

『孟徳所感~曹操、この偉大なる軽薄男~』

曹操観の移り変わり

筆者が三国志に接し始めた30年前と現在を比較してみて、三国志界隈において何が一番変化したかと言えば、誰がなんと言おうとも曹操という人物の扱いとそのイメージだろう。

かつて曹操と言えば悪辣な逆臣であり、主人公である劉備たちにとってはラスボス的存在というのがお約束であった。

日本の場合、吉川英治や横山光輝の『三国志』では両作家ともに曹操がお気に入りだったらしく、白面の冷酷ではあるが知的で魅力あふれる敵役として描かれていた。

しかし、それでもやはり曹操は『漢室に対する逆臣』であり『討伐すべき巨魁』であることには変わらない。

陳舜臣の『秘本三国志』が曹操を主人公として描いていたのが例外としてあったぐらいであった。
このため筆者もライターとして名を挙げたのは曹操と魏陣営びいきという立脚点で正史の中の人物像を紹介する立場をとった。

その頃は、「なんだか珍しいことを書く奴だな」という目の引き方をしたのが運よく功を奏したという形になったものである。

その後、各所で曹操の再評価が見受けられるようになる。

やはり決定的に影響が大きかったのが、当時『沈黙の艦隊』や『課長島耕作』などで人気絶頂期にあったモーニングにおいて曹操を主人公とした『蒼天航路』が連載されたことだろう。

曹操はもはやかつての主人公役であった劉備や諸葛亮と同等かそれ以上に人気のある「もう一人の主人公」という地位にまで登りつめている。

ましてや正史を立脚点とする人々からすれば「元々『三国志』は曹操が主人公だったのだ」という感想を抱くに違いない。

曹操は冷血漢?

さて、そのような曹操であるが、彼については「乱世の奸雄」という言葉がある。

この言葉のイメージがあまりにも素晴らしいキャッチフレーズとなっているために、現在ですから、冷酷かつ冷静な合理主義者で、己が覇道を貫く野心あふれた支配者というようなイメージが一般的である。

だが、実際のところ史書に残されている曹操の人物像は、冷酷とは程遠い気さくで軽薄な、言ってしまうとある意味、小物感さえ漂うのである。
こんなエピソードがある。
曹操の正夫人であった丁夫人は、長子として早くに亡くなった劉夫人の遺児である曹昂を我が子のように可愛がっていた。

だが、その曹昂は張繍との戦いで曹操の身代わりとなって戦死してしまう。

このため気の強い丁夫人は曹操に「私の子供を死なせておいて、よく平気な顔をしていられますね!」と泣きながら難詰した。

これが手に負えなかったのか、曹操は一旦彼女を実家に返している。

ここまでなら普通によくある話で済むだろうが、曹操はしばらくしてほとぼりが覚めると彼女のところを訪れ、自ら迎えにきた。
そのとき、機を織っていた丁夫人は「公がおみえです」と奴婢が伝えてきても振り向きもしなかった。

そこで曹操は丁夫人の背後から近づき「こっちを向きなさい。迎えに来たから一緒に車に乗って帰ろう」と彼女の背を撫でながらなだめた。

しかし、丁夫人は無言で機を織り続ける。

曹操は後ずさりながら部屋を、「まだ許してくれないのかい?」と彼女の様子を見るが、丁夫人は無視したままであった。

それでもなお曹操はもう一度「じゃ、本当にお別れだ!」と未練がましくいうが、その言葉にも丁夫人は答えなかった。
非常に未練がましいうえに女性に高圧的になれない曹操という人物の姿が伺えるエピソードである。

女性に限らず曹操という人物の言動は、当時の他の群雄たちと比べても非常に軽い。

曹操軽薄説

曹操はその成業の最大の功臣とも言える荀彧を迎えた時「我が子房だ」と前漢の張良に例えている。

他にも重臣である鍾繇を前漢の蕭何に例えたり、典韋を悪来になぞらえたりしている。

もちろん、古代の人物にたとえて人を称揚することは、この時代の中国の知識人たちの常套文句なのであるが、それにしても曹操は誰彼かまわない。

本当に軽々しくといっても良いほどに、ことあるごとに配下の者たちを古代の人物や出来事にたとえて絶賛するのである。
『曹瞞伝』という曹操に対してアンチ的な立場で書かれた記録に、

「曹操は軽々しくて威厳がない人物で、音楽が好きで、歌妓をそばにおき、 いつも昼間から夕暮れまで遊んでいた。

軽快な仕立ての絹の服を着て、腰には小さな皮の袋を提げ中にはハンカチや小物を入れてあった。時には四隅のない略冠で客に会った。

彼は人と話すといつも冗談をばかりで、隠し事はせず、楽しみ大笑いすると頭を杯やお椀に突っ込んで、肴とお膳で頭巾がドロドロになった、そんな軽薄な輩であった」

と悪意を込めて書いている。

しかし、あながち間違えてもいないような軽薄とも言える言動が曹操には多いのである。

軽薄さこそが曹操りの真骨頂

この曹操の人格として根本にある軽薄さが、どうも同時代人にはたまらなく魅力的であり、一方で悪まれたのだろう。
なにしろ、曹操は太平道の乱の長社の戦いで功績を挙げて以来、各地を転戦して当代随一の戦上手として評価される軍人である。

また『孫子』を現在に残る形で編集した軍事学者でもあった。

そんな経験も理論も豊富な軍人に「きみは古代の○○を思わせる名将だ」と褒められて有頂天にならない軍人は少ない。
政治家としても孝廉に挙げられて以来、幾多の上奏文が評価され天子を推戴する大物政治家である。

学者としても蔡邕や鍾繇などと交わり、当時随一の学識を持ち、名だたる文人たちを従えた華やかな建安文壇の中心人物である。

遊びでも酒を愛し、女を愛し、囲碁の達人であり、得意即妙な勇壮な詩を賦すことのできる当時きっての粋人であった。

そんな人物が気さくに話しかけてきてくれて、話し込んでいるうちに「君が一番私をわかってくれる」だの「君は古代の○○を思わせる人物だ」と、彼の持ち前と学識と豊富な語彙で絶賛してくれるのだ。
人間というものは食欲、性欲、睡眠欲と同じぐらい、人によってはそれ以上に承認欲求を満たしてくれる人に従うものである。

とどのつまり、恋愛も親子の愛情も忠誠心も信仰も、皆その承認欲求の形を変えたものであるとさえ言えるだろう。
曹操はそれをもっとも理想的な形で叶えてくれるのだ。

彼の周囲に当時の名だたる人物が集まっていったのも無理はないだろう。

同時代人にとって曹操の魅力というのは、万能の天才とも言うべき自身の政治軍事文化遊興とあらゆる方面に優れた才能と、それに似合わないような気さくさと軽薄さにあったと言える。

一方で保守的でもあった曹操

また、曹操は漢王朝を終わらせる魏国の基礎を作ったためか、どうも型破りな改革者のようなイメージを持たれている。

だが実際のところ彼が中原と河北を制することができたのは、むしろ政治的立場が保守派とも言える立ち位置にあったからだ。

むしろ、政治的立場としては宮中で軍事クーデターを起こし宦官を皆殺しにしようとしたり、董卓に皇帝が長安にかどわかされると、代わりに劉虞を皇帝として建てようと画策したりする袁紹の方が、後漢末期における改革派といった方が近い。
袁紹は決して一般的なイメージからなる、名家に育ったことを鼻にかけて保守的になっているような人物ではない。

官渡の戦いで敗れたことからレッテルを貼られてしまうが優柔不断な人物でもない。

むしろ、外戚と宦官の権力争いリレー状態になっていた漢王朝の秩序を真っ先に、かつ意図的に破壊した人物であり、その後の混乱期を最も上手く立ちまわって河北四州という圧倒的な勢力を築いた人物でもあった。
いわば同時代の印象としては、袁紹はまさに「改革派の旗手」とも言うべき人物であったのである。

そのため後漢王朝の秩序に飽いた人物や新時代に賭けた野心家たちが集まっていき、一大勢力を築きあげていったのである。

加えて袁紹は容姿も優れており、政治にも軍事にも長けており、その行動力も果断で決断力もあった。
だが、どうも本人が自分が優れているという自負がありすぎたのか、権力の委譲を好まず独裁権を振るってしまう傾向があった。

むしろ、曹操よりも袁紹のほうが「覇道を征く冷徹な野心家であり改革者」というイメージがより近い。

曹操の元にはどうもそういう「覇道を征く冷徹な野心家であり改革者」袁紹についていけなかったような穏健派の官僚たちや豪族たちが集まって行ったようだ。

というよりも、ほかならぬ曹操自身が、元々は袁紹と親しくその相談役のような位置にいたというのに、袁紹の宮中クーデターや劉虞の推戴などの過激な改革運動について行けずに離れたという経歴があったのも大きい。
そして、曹操はそのような保守派の期待に応えるような形で天子を奉戴し、後漢王朝の存続を国是としていったのである。
一般に官渡の戦いで天下を決する袁紹と曹操は、前者が保守派で後者が改革者というイメージで捉えられがちであるが、実際のところその政治的立場は正反対のものとして捉えたほうがよい。

弱き男、曹操の魅力と欠点

この戦いでも曹操は、郭嘉に「袁紹には勝てそうにないので悩んでいる」や荀彧に「官渡を放棄して都に帰りたい」などと弱音を吐いている記録が残っているというのも面白い。

どうも当時の曹操はかなり精神的に追い詰められていて、誰彼かまわず愚痴や悩みを打ち明けていた様子がかいま見える。

そういった弱々しさをさらけ出してしまうあたりも、当時の彼の陣営の者たちにはたまらない魅力として映っていたのだろう。
実際、彼の『苦寒行』や『却東西門行』などの詩は人間や自分の弱さを素直に吐露してしまっている詩であり、彼の精神の有り様が大変良く出ている。

当時の人にとって曹操という人物の魅力は、儒教的秩序と道徳から離れた人間としての弱さや感情を認めてくれるという面があったというのは大きかったと思われる。

ただ、曹操は人間としてあまりにも軽すぎて、誰彼かまわず「自分のことを一番わかってくれるのは君だ」という殺し文句を言って回りすぎたという感はある。

もちろん曹操にとってはそれはいつもその場では真実であったのだろうが、そうやって有頂天にさせられた側にしてみれば、次々と心を移してしまう曹操をいつしか信じられなくなっていったに違いない。
その代表格が、曹操の人材面を支えた荀彧だ。

彼は曹操が苦手とする宮中政治を担当し、また数多くの人材を発掘して曹操に紹介してきた。

さらにはことあるごとに弱気になりがちな曹操の精神面を支えてきたのである。

彼は感情的にも、また立場的にも曹操と同格の漢王朝の臣下という気持ちであり、曹操の強さも弱さも熟知していた。

そのため、曹操の配下という意識をついぞ持てなかったに違いない。

曹操陣営における荀彧の影響力というのは、政治軍事に彼の人脈が張り巡らされており、その気になればいくらでも曹操を追い落とすことができるほどのものであった。
荀彧にしてみれば曹操は決して忠誠心を持って従うような「主君」などではなく、その創業からの同志であり、感情的にも支えてきた男だ。

一番近い言い方をすれば、まさに曹操の「女房役」そのものである。

そんな彼は曹操は最終的に袂を分かって、荀彧は憂悶の内に死ぬことになるが、どうにも筆者からするとあまりにもジゴロのように人たらしを続けていく曹操との間に余人には計り知れない「痴情のもつれ」があったように思えてならない。
荀彧に限らず、曹操は確かにその気さくさと軽薄さによって人を惹きつけ、いつしか河北中原を制するまでになった。

その一方で、そんな曹操を信じることのできない者たちやその軽薄さを嫌うもの、威厳のなさに従う気になれない者たちも多数現れてしまうことになる。
魏王朝は曹操の人格的魅力と政治軍事における才幹によって強大なものとなったが、ついに『権威』と『秩序』というものを確立することのできないまま短命王朝に終わってしまったという印象がある。
それはひとえに創始者である曹操のパーソナリティによるものであり、その成立も崩壊も、遠因は曹操の人格的軽々しさにあったように思える。
紀元三世紀の中国はまだ「人間味あふれる軽い政府」によって社会秩序を確立するには早かったのだろう。
そういう意味ではまさに現代的な目で見れば魅力的な洒脱さと軽薄さを持つ曹操は早すぎた英傑、つまりは「超世の傑」であったと言えよう。

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