酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第二十二回 呉の南方開発

『東夷南越~呉の本当の敵、呉の南方開発と歴史的意義~』

呉は地味か?

いわゆる『三国志』は、魏・呉・蜀の三国鼎立時代を描いた歴史であり、物語であるとされている。

まあ、実際には一番ダイナミズムに富んでおり、人気もあるのは後漢末期から三国鼎立する「まで」という意見もあるが、それに関してはまた別の話となる。

ともあれ、どうにも三国鼎立した後に激しく争っているのは魏と蜀であり、呉の動きが鈍いと感じる人も多いのではないだろうか。
曰く「呉は地味」。
曰く「呉の動きは鈍い」。
曰く「存在感が薄い」。
などなど。
たしかに、事実上の中央勢力となっている魏や幾度となく北伐をしかけ、魏を滅ぼすことを国是としている蜀に比べ、呉は魏に対して挑む事自体が少ない。

また蜀に比べると侵攻したとしても熱心でないという印象を受ける。魏と蜀を天秤にかけて、領土保全を第一に考えているという、三つ巴というには位置一つ冴えない印象が、三国鼎立後の呉にはあるというのも確かだ。
そして、その印象は呉の史書に残る基本政策を見てみると、ほぼ正しいと言える。
何故なら、呉という国はその国是として魏や蜀と戦うよりも優先度の高い「敵」が存在していたからだ。

呉の本当の地勢

『三国志』を扱った様々なメディアにおける「地図」を見てみると、ほとんどの呉の領土が長江以南の中国大陸の大部分を制覇しているように描かれている。

たしかに、これは形式上は間違っていないのだが、三国鼎立時代の呉の実態を表しているとは言いがたい。
実際の所、呉の孫氏政権の支配が及んでいる地域というのは、実は長江流域沿ったような形で東西に細長く伸びたような形になっている。

これは荊州においても同様で、「地図」で受ける印象よりも呉の孫氏政権は遥かに狭い地域しか支配の及んでいない政権なのであった。
しかし、これは特に孫氏政権の支配力が脆弱であったというより、後漢から三国時代にかけての「中国文化圏」というのは長江以南においては、驚くほど影響力が薄かったのである。

そもそも、この地域は春秋戦国時代から「越」と呼ばれ、漢民族の文化圏とはまた別な文化圏を形成していた。

前漢の時代においても、荊州南部から交州にかけては、南越国の支配下にあり、揚州南部は閩越国の支配下にあって、武帝の頃に両国とも征伐されて従ったという地域である。
後漢の頃は彼らは無数の少数民族に分かれて半独立勢力のような存在になっている。

それらが一括りに漢民族から「百越」や「山越」と呼ばれていたというのが実情であった。

そして、後漢王朝が衰えるとともに、その支配下から逃れ、たびたび各地で反乱や暴動などを起こしている。

このあたり、非常に曖昧で、たしかに制度上は荊州、揚州、交州と漢王朝の支配下にあるのだが、実際には各地に「百越」や「山越」といった異民族や漢民族の流民や逃亡者たちが集落や部族を構成しており、中央の掣肘を受けないような状態にあった。
ちなみに夷陵の戦いに登場する異民族の武将沙摩柯もまたこういった「百越」なり「山越」なりの部族の王である。

「百越」や「山越」というのは、そういう名の異民族がいるわけでなく、長江以南に存在する異民族たちを一括りにした呼び方であり、その中には「逃亡した漢人の集落」も含まれていたりする。
このように元々が長江以南は当時、未開拓な異民族の領域といっても同然な地域であった。

長江沿岸部に沿った範囲でしかない呉の孫氏政権としては、この地域の「山越」や「百越」を討伐して支配し、屯田して開発するのがその政権強化への至上命題であった。

わざわざ強大な軍事力を持った魏と正面から戦うよりも、容易に国力を高めることができる開拓地と、教化して自国民にすべき異民族たちが南方には無数にいるのである。

交州士氏政権

さらに甚だしいのは、最南端にある交州で、この地域には士燮という人物が現れ、周辺の異民族たちに支持され、ほぼ完全な独立王国のごとき勢力を形成しているた。

しかも交州の士氏政権は後漢末期の混乱期には、かえって安定した統治を行なっており、さらに毎年漢王朝に朝貢を行い、盛んに南方と中原で海洋貿易を行なって、一代経済圏を作り上げている。

後に孫権は歩隲に命じて交州に侵攻しようとすると、士燮は息子の士キンを人質として降伏しているが、孫権は士氏政権の経済力や地域の土豪や異民族たちの支持の強さに手を出せずに、毎年朝貢させることと引き換えに独立政権を認めている。

この士氏政権の孫氏政権への加入は、孫権にとっては大きな意味を持っていた。
この時代の交趾は、東南アジアだけでなく、インド、アラビア、果てはローマ帝国まで続く「海のシルクロード」と呼ばれる南方交易の一大貿易センターとも言うべき存在であった。

この都市と海路でリンクすることによって、孫権は呉を中心としたひとつの経済圏を確立するという目的ができた。

孫権としては交州の士氏政権に朝貢させるだけでなく、支配領域をリンクさせることができれば、その南方交易による利益がより活性化できるだろうという目論見もあったに違いない。

この時代、南方からは東南アジア産の犀、象、玳瑁、果物、銀、銅。インド産の綿織物が流入しており、これと引き換えに中国が提供していたのは鉄器や青銅器、それから蜀産の絹などであった。
当時の中国は特に哲の生産において、鉄を鍛錬して錬鉄を作るという技術が発展しており、製鉄と鉄製品の生産においては世界一の質と量を誇っていた。

鉄生産による燃料の確保のために森林が伐採されすぎてしまい、これが後漢の頃からの飢饉や天候不良の一因になっていると言われるほどであったが、それでも膨大な国土と人口を誇る中国の鉄製品の質と量は世界に冠絶するものがあった。
余談だが、孫権は南方だけでなく遼東の公孫淵と帝位即位時から何度も使者を往還させており、公孫淵を臣従させてもいる。

どうも孫権の海路交易による経済圏確立の構想は南方だけでなく、遼東の公孫淵を交州の交氏と同じように朝鮮・烏桓・鮮卑・倭などの東アジアも視野に入れていたようだ。
三国鼎立後において呉が魏と戦うことに熱心でなかったのも無理はないのである。

南方こそが出世コース

そして呉の武将たちもまた魏や蜀との戦いではなく、その多くが南方の征伐や開拓において活躍している。
まず、最初に挙げられるのが演義やゲームなどの印象からすると意外かもしれないが、「苦肉の策」で有名な黄蓋である。

彼は孫堅の代より孫氏に仕えており、群盗や異民族が暴れている地域があると、その長官となって鎮撫に当たっている。

彼はもちろん武力にも優れており何度も討伐において功を挙げているが、注目すべきはその統治においてあまり文書に目を通さず、穏やかな統治を心がける。

そして役人や支配下の者たちがそれに乗じて不正を働き始めると、またたくまに不正を見つけて徹底的に処罰するという、硬軟合わせた対処で地域の者たちを心服させていた。

彼のこの能力は荊州南部の呉が武陵、長沙を支配したときにも発揮され、この地域の異民族たちは彼の支配に心服し、蜀への忠誠心を捨て去ったという。
このような南方の異民族の征伐と統治に関しては、韓当・蒋欽・凌統などなど、ほぼ主だった呉の武将は携わっており、彼らは魏や蜀との戦いよりも多くの戦歴を南方において重ねている。

また呉の重鎮である陸遜も、夷陵でその名を轟かせるまでは南方での異民族の討伐と統治に当たっている。
呉の武将たちの戦歴を史書で追えば追うほど、呉の孫氏政権の主戦場は魏や呉と中原の覇権を争うのではなく、南方において「百越」や「山越」を討伐し、鎮撫し開拓することであったことが明らかになる。

そう、呉にとっての本当の敵は魏や蜀などではなく南方の異民族たちなのであった。

南方の名将賀斉

こういった「呉の主戦場」である南方においてひときわ派手な活躍を見せており、呉の軍人たちの中でも華やかな武将がいる。

魏や蜀との戦いにはほとんど携わっていなかったために、『三国志演義』や小説やゲーム、マンガなどでスルーされている武将に賀斉(字・公苗)という人物だ。
彼は若くして会稽郡の役人となり、山越と組んでいた任侠の徒を討伐し、会稽郡の山越の討伐に活躍し名を轟かせていた。

後に孫策が会稽郡を支配すると、彼に従い会稽郡の各地で服従民たちを討伐し、県や邑の機構を立てなおして孫策軍に一万もの兵を編入させている。

まだ小勢力であった当時の孫策にとって、一万の兵というものがどれだけ大きかったかは想像に固くない。
とにかく賀斉の用兵は大胆さが身上で、四万戸もの不服住民が四つの山に立て篭もって抵抗したときは、わずか百数十人に敵中の目をかいくぐり山を上る。そして分散し、夜中に四方から太鼓を鳴らして、すでに賀斉の兵が山中に上ってしまったものと勘違いさせ動揺したところを五千の精鋭で奇襲し、七千も首級を挙げている。

その後も各地で南方を転戦して孫氏政権の南方開拓に寄与し続けている賀斉は、まさに南方征伐のエキスパートであり、隠れた呉の名将なのであった。
また彼は豪奢で派手好きだったことでも知られており、彼の部隊は武器甲冑や軍用品はきらびやかで精巧な高級品ばかりであった。

その乗船は彫刻や透かし彫りがなされて美しく彩色され、船上では青の蓋を立て、真紅の幔幕が張り巡らされ、並べられた矛や盾には色鮮やかな花模様が描かれていたという。

こうした華やか極まりない艦隊で、彼は曹休を戦わずして撤退させるという功績も立てている。

これについては、おそらくは南方においてそれを可能にするだけの経済的な権益を保有することを孫氏政権内で認められていたという証明でもある。

いかに彼が呉の孫氏政権において重要な存在であり、また呉において南方が重視されていたかが伺える。

このように三国鼎立時代において呉は魏や蜀と戦うよりも南方の開発と経営に熱心であり、物語として三つ巴の戦いを期待する人たちにとっては地味な印象を拭えないのも無理はないのであった。

呉の遺産

しかし、皮肉なことであるが、このように熱心に呉の孫氏政権が南方を開発し、南方交易の巨大な権益を生み出す一大経済圏を形成していたことは、後に大きな歴史要因となる。

呉を滅ぼした晋が、八王の乱によって北方を追われると長江流域を防衛戦として「南朝」を成立させることを可能にしたのである。
後漢までは漢民族にとっては異民族の地域であった長江以南は、晋だけでなくその後もしばしば北方の騎馬民族たちによって滅ぼされた漢民族王朝の「避難先」として利用されることとなった。

何度となく中国の歴史は黄河流域の北方政権と長江流域の南方政権に分裂するというパターンをたどっていくことになる。
このような中国史の「南北朝パターン」が形成される大き要因として、魏や蜀を主戦場とせず地道に南方の開発と経営に勤しみ、一大経済圏を作ろうとしていた呉の孫氏政権の功績があったということは、「『三国志』の時代が中国史に与えた影響」の一つとして覚えておいてもよいだろう。

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コメント

  1. にょん より:

    三国志新聞で宴席の料理について呉が一番美味しいんだよ!みたいなコラムがあって、そういえば広州や揚州の方が料理美味しいよね~と変に納得した覚えがあります(笑)
    士ショウは結構な名君だったみたいですね。
    子供たちは結局征服されて庶民に落とされたり殺されたり…。呂岱酷スギィ!

    賀斉はいつの間にかコーエーゲー出られるようになりましたが、もうちょっと能力欲しいですね。
    呂蒙軍団の赤い服装もそうですが、将軍が勝手に決めていいんですかね…。軍の格好って活躍や存在感をアピールする意味もあったんでしょうが。