酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第十二回

『ディズニーランドも真っ青の古代中国の総合レジャー施設「上林苑」』

普通「庭園」というと、のんびり景観を楽しんだり、心地良い風景の中で茶や酒を飲んだりといった、穏やかなイメージを抱くだろう。

それは現代においては完全に正しい認識である。

しかし、古代中国における庭園文化の成立は、いささか殺伐した背景から始まっている。
中国においては庭園のことを「園林」と呼ぶが、そもそもの園林が作られた理由は君主や貴族たちが、軍事演習を兼ねた狩猟を行う場として、平地や森林を独占したことに始まる。

つまり、中国における庭園すなわち「園林」とは、平時における狩場兼軍事演習場として作られたものであった。
三国志にも袁紹や曹操が任命される官職に「西園八校尉」というものがあるが、この軍事的官職に「園」という文字が付いているのも、平時において軍の集合する場所が園林であったことを表している。

このように極めて血なまぐさい背景から始まったのが中国の庭園文化であるが、これが画期的に変化するのが漢代である。
元々、長安の郊外には秦の始皇帝が造営させた広大な園林が存在しており、歴代の皇帝たちはここで狩猟や軍事訓練に興じていた。

漢の武帝という極めて精力的な皇帝が即位し、しばしば興が乗りすぎて園林の外に飛び出してしまい、周辺の住民に迷惑をかけていたという。

漢の武帝と言えば漢帝国の絶頂期を築き上げた名君であるが、彼は「つい園林の外に出てしまうのならば、園林そのものを広げればいいじゃないか」という、さすがの気宇壮大な発想の転換を行い、始皇帝が築いた園林を大拡張する。
こうして造営されたのが、古代中国における最初の本格的な庭園と言われる「上林苑」である。
外周三百里(約121.5㎞)と史書に記されているが、どうもこれは史書にありがちな誇大表現ではなく、近年の発掘調査によって史書通りの巨大さが証明されつつあるという。

数字だけではピンとこないだろうから、比較してみると山手線が一周約34.5㎞であり、だいたいその3.5倍と書けば、その壮大さが想像できるだろうか?
この上林苑の中には、馬車一千台、騎馬兵一万を収容できるほどの大きさの離宮が70も建設されていたという。

さらに昆明池という人口の池が作られており、数百もの楼船を浮かべた水軍の訓練も行われていた。

もはや庭園というよりも一大駐屯地という観があるが、これに加えて重要な機能として武帝は民間での貨幣の鋳造を禁止した際に上林苑に貨幣鋳造の施設を作り、その担当官を置いている。
このように軍事的にも政治的にも重要な意味を持つ上林苑であったが、この園林が中国における庭園史上のエポックメイキングと言われるのは、昆明池という人工池周辺に築かれた庭園機能にある。
昆明池は水軍の訓練を行う場所であったと同時に、皇帝や貴族たちの一大娯楽施設として機能している。

昆明池の周囲には館が立ち並び、「観」と呼ばれる周囲の景色を楽しむための高所建築が建てられていた。

皇帝たちは、昆明池に船を浮かべて遊び、宮女たちの歌や音楽を楽しんでいたのだ。

皇帝の舟遊びの際には、前述した数百もの楼船が旗を並べて池を照らしていたという。もちろん夜になればこれらの船上には篝火が焚かれ、夜間の昆明池にはさぞかし幻想的なイルミネーションのごとき光景が展開されていたことだろう。
また昆明池は多くの魚が放流されており、そこで採れた魚は祭祀に用いられる他、長安にも供給されていた。

面白いのは昆明池周囲の楼閣から池や鳥、魚などをかたどった水槽が多く出土している事だ。

想像であるが、皇帝やその客人たちは、昆明池で採れた新鮮な魚を、膾や羹にして楽しんでいたのではないだろうか? ちなみに古代中国では膾がごちそうの一種として描写される詩が多く残されているように、鮮魚の生食は行われていたので、「採れたて昆明池の鮮魚」は皇帝とその側近たちなればこその贅沢であったのだろう。
これに加えて上林苑が建設された時、武帝は配下に命じて世界各地の植物や果樹を植えさせている。

武帝と言えば、中国ばかりでなく、東南アジアや中央アジア、モンゴルまでその影響力を発揮した漢代最強の皇帝であったので、想像を絶するほど幅広く植物や果樹が集まったことだろう。

鮮魚ばかりでなく、採れたてのフルーツや野菜も楽しむことができたのだから、古代においては破格のグルメである。
そもそも園林は狩猟場でもあったと書いたが、その機能も最高のものが整っている。上林苑には世界各地から集められた珍しい動物たちが放たれており、これらの数や種類を管理する役人たちもあった。

いわばハンティングも行えるサファリパークである。
そう上林苑とは庭園というだけではなく、古代中国の技術と権力を総結集した「遊園地」であり「植物園」であり「動物園」でもあり、すべての娯楽を総合した「楽園」であったのだ。

これはあくまで推測にすぎないが、元々は軍事演習や狩猟に使われていた「園」という言葉が、動物園や植物園、楽園など娯楽施設をイメージするようになったのは、上林苑の壮大な歓楽施設としての機能の影響が大きいのではないのだろうか?
この漢代の絶頂期に作られた上林苑は、三国志の舞台となる後漢に至っても使用されている。

もちろん帝都である洛陽にも同じ名前の「上林苑」が作られているが、武帝のそれとは比較にならない小規模なものである。

このため光武帝が長安の昆明池に行幸したという記録が残っており、北魏、唐代に至るまで維持され皇帝の行幸が行われている。

後漢、魏晋、五胡十六国、唐に至るまで、上林苑の昆明池は総合娯楽施設として皇帝や貴人たちを楽しませ続けてきたのだろう。
中国において「庭園」とは、元々は血なまぐさい狩猟や軍事演習のや駐屯地であったが、上林苑を境にあらゆる娯楽を詰め込んだ一大レジャーランドとして位置づけられるようになっていくのであった。

静的イメージのある「庭園」という言葉であるが、古代中国ではもっと即物的に楽しめる「楽園」を意味していたのである。

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