酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第九回 槍

『戦地直槍~長兵の王たる槍の起源と特色』

長兵の王~槍~

現代の中国の軍隊でも歩兵の主力武器は「槍」である。
こんなことを言ったら「そんな馬鹿な」と一笑に付されるに違いない。しかし、これは厳然たる事実であり、中国の人民解放軍の装備を調べてみれば歩兵の主力兵器として「槍」の文字が見うけられる筈である。

とは言っても、この場合、「槍」というのはその名前で連想されるような長柄の刺突兵器ではなく、中国では銃のことを「槍」と表記しているというだけの、単純な種明かしになってしまうわけだが。
ともあれ、未だに銃についてそのような呼び方をしていることからもわかるように、古来、中国では槍のことを「長兵(長柄武器)の王」と呼ぶ。

武器としても武術としても、あらゆる武器と比較して特別な位置づけを持っていたのである。
実際、刺突というものは力点を一点に絞って敵の体を貫くという用法であり、その殺傷効率の良さと簡便さは打撃武器や斬撃武器とは比べ物にならないほど高い。

軍事に携わる者ならば、できれば操作が簡単で効果の高い刺突武器を主兵装として使いたかったことは想像に難くない。

特に集団戦においては、「突く」という動作は単純で覚えやすく、集団での運用が非常にしやすいという利点があった。

実際、中国に限らず日本、西欧でも銃が登場する以前においては、槍が集団戦における長柄武器の代表的存在となっていったのは無理もないだろう。
もともと、槍という武器の存在や用法そのものは石器時代からあった。だが、石や青銅器や練度の低い鉄を素材として長柄の刺突兵器を作るのは、穂先の強度という問題につきあたってしまう。

特に人口の多い中国においては、それだけ質の高い金属を数多く用意するのは困難であった。

このため自然に穂先の部分が大きくなっていき、刺突よりも打突や打撃武器としての色彩が強くなっていく。

「矛」という武器はこうしてできた。

このあたり「矛」と「槍」について明確な区分けはないとする見方があるのは、本来はどちらも同様の目的で作られようとしたものであるから、厳密に言えば区別はないとも言えるので無理はない。
ともあれ、中国において「槍」が兵士の主兵装として明確に登場するのは、唐代になってからである。
だが、その一方で「槍は諸葛亮が発明した」という伝説が存在していたりもする。

というのも無理はなく、後漢から三国時代にかけては戦争が各地で多発していた時代であるということもあって、「戟」が主力兵装となっていったと同時に、鉄の精錬方法が進歩していった時代でもあったのだ。

鉄の生産と槍の誕生

特に前漢に登場に後漢において急速に普及していった技術として、鉄の「鍛錬」というものが挙げられる。

熱した熱を叩くことによって不純物を取り除き、炭素の含有量を均質化すする技術だが、これが行われることによって鉄の硬度と粘りが、それまでの鋳造されただけの鉄より格段に向上されるのである。

後漢の頃には「百錬鋼」と呼ばれる錬鉄が現れており、基本的に武器はこの百錬鋼を用いて製造されるようになっていくのである。
この百錬鋼の登場によって後漢から三国時代においては様々な武器が登場するのだが、そのひとつに「槍があったのではないか?」というのは、あまり突飛な妄想でもないのである。

前述したように、槍という刺突武器の存在や用法は石器時代から存在しており、その有効性は百錬鋼によって作られた戟が刺突武器として有効であったということからも、刺突武器としての槍を企図する者がいてもおかしくはなかっただろう。

また槍と矛の明確な区別がつけられていなかった時代でもあり、主力兵器としては使用されていなかったものの、槍が当時すでに登場していたとも十分考えられるのである。

そして、それを企図した者として後世神格化されるまでになる諸葛亮の名前が、彼が武器や戦術の改良に熱心だったこともあり挙げられるのも無理はない。
また、槍という武器が後漢から三国時代にかけて存在していたかどうかは別として、それを必要とする素地があった理由として、後漢末期ごろにおける騎兵運用の発達が挙げられる。

後漢末期における戦争で、猛威を振るった戦術として西涼出身の董卓軍や五原出身の呂布軍が得意としていた騎兵突撃が挙げられる。

彼らの騎兵戦術は、有効な騎兵戦術として有名なアウトレンジから矢を射かけて敵を消耗させていくパルティアンショットではなく、騎兵の速度と重量をもって歩兵を蹴散らし恐怖させる騎兵突撃そのものであった。

実際、正史においても呂布や公孫瓚の騎兵が少数で敵陣に突撃して歩兵を蹴散らすという場面が数多く書かれており、後漢末期においては非常に騎兵突撃が有効な戦術であったことが伺える。
この騎兵突撃においては、突撃する側も戟では穂先の重量が重すぎて扱いづらかった。

特に馬上にあってはその重さや遠心力がバランスを取ることを困難にしていただろう。

さらに同様に騎兵と戦う側にとっても、戟の打撃部分は余計であり、むしろ槍衾のような形で敵の突撃を阻もうと考えてももおかしくはない。

実際、公孫?軍の騎兵突撃に対して、袁紹軍の武将麴義が極めて「槍衾」に近い武器の用法でその突撃を阻んだという描写が見受けられる。
戦術的な要求という点でも、「三国志の時代にも槍が登場していた」というのは、それほど突飛な話ではないのだ。特に後漢から魏晋時代については五胡十六国時代に多くの文化や技術、資料が散逸してしまっており、今後の研究では、槍の登場がもう少し遡るといったことは考えられるのである。
「長兵の王」を史実でも手にした三国志武将たちの活躍について、少し期待したいものだ。
そして、この後漢から三国時代において長足の進歩を遂げた鉄の製法と武器の生産は、もうひとつの東洋においてエポックメイキングとなる武器を生み出すのである。

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする