酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第八回

『胆力無双~趙雲の実像にできるだけ迫る』

謎多き人気キャラ 趙子龍

趙雲(字・子龍)、言われるまでもなく三国志でも屈指の人気を誇る人物である。

さまざまな三国志関係のメディアを見回してみると人気の安定感という意味では諸葛亮や関羽などよりも上かもしれないというほどに、常に良い立ち位置を確保されている人物でもある。
しかし、一方で史実を基礎にして、趙雲の実像に迫ってみようとすると悩んでしまうのも事実だ。

前述したとおり、三国志の数ある登場人物の中でも屈指の人気を誇る人物だけに、毀誉褒貶いずれの方向で派手に書いても映える人物だ。

また史書における記述の少なさからも、いくらでも膨らませて書こうと思えばできるのである。

実際、史書『三国志』における「趙雲伝」の記述は異常なほどあっさりしており、出身地と、公孫瓚の配下から劉備の下に来たこと、長阪での活躍、漢中攻略戦での活躍、北伐での活躍、あとは官職や子孫についてなどと、本当に簡素な記述に書かれているのみである。

そして、あとはだいたい大部分の記述は注として付記されている『趙雲別伝』という著作者不明の趙雲のエピソード集が占めている。
さらに趙雲伝は「関張馬黄趙」伝の中にまとめられており、後にこのカテゴライズ方式に基づいて『三国志演義』では「五虎大将軍」という設定が生まれている。

しかし、この中で趙雲は長い間流浪しまくる劉備に仕えてきた関羽や張飛に次ぐほどの古参にもかかわらず、与えられている官職が同時期の関羽や張飛などと比べて、常に格下に留められている。

それが一番顕著に見られるのが、219年に劉備が漢中王に即位したときに、四方の将軍を制定したときのことだろう。
劉備はこのとき前将軍に関羽、右将軍に張飛、左将軍に馬超、後将軍に黄忠を任命している。
劉備陣営の武を象徴する二枚看板である関羽と張飛。

後漢の名将馬援の子孫であり涼州においては大きな軍閥を率いていた馬超。

劉備陣営においては最大の戦果とさえ言える曹操の宿将夏侯淵を討ち取った黄忠。

というように最盛期の劉備陣営を代表する将軍として彼ら4人が挙げられたのだろう。
このとき趙雲は翊軍将軍に任命されているが、後に制定される九品中正法では一格下に制定されている将軍位であり、そういった品秩以上に前後左右の四方将軍位は、「今現役の武官たちの代表」という評価を受ける大きな栄誉職でもあった。

これは漢や魏の制度でも同様である。
そういう意味では、劉備在世当時の趙雲は、新参の馬超や黄忠よりも格下の扱いをされていたのは確かなようだ。

趙雲に対する反発と疑い?

こうしたことから、なまじ三国志関係の創作物での多くに趙雲が良い立ち位置を振り分けられていることへの反動が当然のように生じて、「実は趙雲は大した武将ではないのでは?」「趙雲は実は無能」「趙雲は劉備に信頼されていなかった」などという極論を導き出すことも可能であった。

ネット上などで様々な人が様々な立場で歴史に対して書ける時代ゆえに、そのような評価を下している人も少なくない。
ただ、その一方で趙雲は長阪では劉備の息子である、後の皇帝劉禅を救っているという一騎駆けの武力は当然評価すべきであろう。

また、兵を率いても漢中攻略戦では数々の武勲を挙げており、中でも曹操軍の前に単騎で立ちはだかり、弩による奇襲によって曹操軍に多大な損害を与えたという戦果は劉備に「子龍の一身、全て是れ胆なり」と絶賛されていることからも、戦術能力は高かったのは間違いない。
また劉備が趙雲を信頼していなかったというのも、まずはありえない話で、長阪では「趙雲が曹操軍に走った」という報告を受けた劉備が「趙雲が私を裏切るわけがない」と即答している。

また蜀の人物たちを並べて評価している『季漢輔臣賛』という文書において、趙雲は「重厚な性質で、選り抜きの兵士を率い、勇猛でたびたび勲功をたてた」と書かれていることからもその人格は厚い信頼を受けていたと思われる。
このあたりを総合してみると、趙雲はその個人的武勇、戦術能力、人格については劉備からも高く評価されていたし、おそらくは劉備陣営の精鋭部隊を率いて、劉備の身辺守護や、いざというときの予備兵力といった立ち位置にあったと思われる。
そういう意味では古参の武将としては十分な存在感を示しているとも言えるのだが、それでも関羽や張飛に次ぐナンバー3的な位置にいないのは納得がいかないという人も多いだろう。

特に新参者である馬超や黄忠よりも格下というのは、疑問に思われるかもしれない。
ただ、一つ言えるのは劉備の四方将軍は漢中を奪取した劉備が、きたるべき完全に曹操との決戦を意識したものであったことを考えると、関羽と張飛の二枚看板は当然入るとして、涼州で自ら軍閥の指導者として曹操を苦戦させた馬超、曹操に挙兵時から従い親族でもあった夏侯淵を討ち取った黄忠が入るのも無理はないのである。
逆に考えて、むしろ古参である張飛や関羽と差がなぜつけられてしまったのだろうか?

劉備在世時には趙雲は劉備と別に軍事行動をすることはほとんどなく、強いて言えば益州攻略戦のときに諸葛亮とともに江州方面を戦っているぐらいだろう。
また後に漢中の太守を魏延が拝命されたとき、元々その候補として衆目されていたのは張飛であり、趙雲は挙げられていない。

また後の街亭の戦いで馬謖が先鋒大将抜擢したおりにも、その候補として考えられていたのは魏延と呉懿であった。
このように重要な戦略拠点や戦略行動を率いる人物として趙雲の名前が挙げられることはなく、それがまた「趙雲無能説」の根拠にされていたりもする。

だが、これは酷というものだろう。そもそも軍における任用や立ち位置が、ゲームのように有能無能で決定されるのであれば歴史はもっと単純である。

有能無能で測れない軍人の資質

実際は近代以前の軍隊の人事においてもっとも重要な要因になるのは門閥であり、いかに多くの私兵を率いて軍に参加しているかである。

しかし、これは「では名門で多数の兵を率いていれば個人的能力は関係ないのか?」ということを意味するのではなない。
そもそも豪族などが多くの兵を率いることができるというのは、それを軍として組織するするだけの下級指揮官たちが部下に多く存在しているということであり、また軍という巨大な官僚組織を動かす官僚たちが揃っているということでもある。
特に中国はすでに漢代から巨大な文書行政を行なっていた地域であり、軍の命令や組織などにおいても文書による組織化が早くに進んでいたのである。

後漢や三国における軍制では武官と並んで侍中、主簿、長史などの文書処理を行う文官が将軍の下にはつけられている。

もちろん将軍本人も多数の書類を扱うことにもなるのはいうまでもない。
豪族や士大夫たちというのは言ってしまうと私兵の数よりも、そういった文書の扱いを早くから学んでいることと、また秘書官や祐筆になれるような部下たちを持っていることで軍の組織を動かす能力を有しているがゆえに軍の中で重用されるのである。
戦略眼や戦術能力、個人的武勇とは別に自身か側近たちの文書処理能力も加味されて軍でどのような地位を占めるかが決定される。

意外かもしれないが、基本的に三国志に登場する人物たちは、王平が「十文字しか知らない」ということが逆に特筆されるほど、識字能力を当然のように有していたインテリ層が中心なのである。
軍隊というものは口頭での命令による行き違いは、その規模が大きくなればなるほど致命的なものになる。

命令や報告の文書化による状況把握と証拠能力は必須なのだ。

これは古今東西の軍に共通する「軍隊という名の官僚組織」の肝でもある。
そういう意味では関羽と張飛もまた、そのような文書処理能力は持っていたが故に劉備陣営の二枚看板として重用されていたのである。

それは個人的な能力だけではなく、それを補佐する名も無き無数の側近たちの働きもあっただろう。
おそらく趙雲が関羽や張飛に比べて大きな兵力を任されたり、本体とは別個の軍事行動を任されることが少なく、そして結果的に官職において格下の扱いを受けてしまったのは、そうした文書処理能力とそれを補佐する祐筆や秘書官がいないか少なかったからだと思われる。

趙子龍の真価とは?

むしろ逆に趙雲は目や声の届く範囲での兵士たちの指揮能力は非常に高く、人格や忠誠心も信頼されている。

そういった「独立した組織能力」を持つ者たちに次ぐ地位が与えられ、後に史書においては劉備陣営を代表する武官として関羽、張飛、馬超、黄忠と併記されているのは、むしろ大変高く評価されていると言えるのではないだろうか?
個人的な能力としては劉備陣営の武官の中でも趙雲はやはり屈指のものがあったのだろう。
一方で夷陵の戦いの承前においては劉備は趙雲の進言を受け入れなかった。

それは趙雲は個人的な評価は高かったものの、組織人としては劉備の決定を覆せるような政治的組織的な影響力を持っていなかったことの裏返しでもあった。
また、そのような組織や派閥とは一切無縁であったことも趙雲が「寡黙な忠義の人」として後に描かれる要因になったのだろう。
そう考えるとむしろ趙雲の史実における扱いは、趙雲が演義などで個人的な武勇や見栄えのする戦術能力を発揮していく下地になったのかもしれないと、むしろ魅力的に思えてくるのである。

「官僚組織」劉備軍における、もっとも実務面で信頼され、能力を評価されてきた中級指揮官。

趙雲の真価はそういうところにこそあったのではないだろうか?

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