幕末 ぼくたちの好きな新選組 第八章 近藤勇の咆哮~池田屋の変~

第八章

近藤勇の咆哮~池田屋の変~

1863年 9月26日 新選組、間者6名を粛清
    9月27日 大和の天誅組鎮圧
    10月12日 生野の変
1864年 3月27日 天狗党蜂起
    6月5日 池田屋の変

浪士組から新選組へ

芹沢に代わり新選組の主導権を握った近藤と副長土方歳三は、ただちに間者の掃討を開始する。

長州は浪士組が活動を開始した当初から間者を送り込んでいたのである。

9月26日、隊内の御倉伊勢武、荒木田左馬之助ら4名の隊士を間者であるとして処罰。

さらに彼らとともに脱走しようとした二人の間者もあった。その結果、6名のうち3名が殺害され、3名は逃走する。
近藤と土方は50名ほどの隊士のうち芹沢派4名、間者6名合わせて10名と約二割もの隊士の粛清を行なったのである。
逆に言えば、近藤と土方が隊内を掌握し、名実ともに寄せ集めの浪士隊から新選組に生まれ変わらせるにはこれだけの犠牲が必要であったとも言える。

各地で蜂起する志士たち

9月27日。攘夷親征に呼応しようと大和で蜂起していた浪士集団天誅組が討伐され、首謀者の吉村寅太郎は自害。
10月12日には生野で平野国臣ら浪士たちが農民2000名を率いて挙兵。だが14日には農兵たちに裏切られ平野らは捕縛。
翌1864年3月27日には筑波にて武田耕雲斎ら水戸浪士たちが挙兵。天狗党と呼ばれる最大1000名もの勢力となる。
これらの乱は8月の政変で中央情勢が変わり各地で佐幕派が主導権を握り、勤皇派が追い詰められた挙句の行動であった。
そんな情勢の中、勤皇派志士たちは、京都の情勢を再び転換させる以外に手段はないと判断し、非常手段に出るのである。

池田屋の変

京都で再び尊皇攘夷派の勢力を取り戻すために、肥後藩士宮部鼎蔵ら勤皇派志士たちは、大規模テロを画策しする。

その内容とは、京都御所に火災を起こし、近畿に潜伏する攘夷派志士たちと共に蜂起。その隙に天皇を拉致し、京都守護職松平容保を暗殺するというものであった。

京都で浪士たちが大規模なテロを画策しているという情報を得た新選組は、全力を挙げてこの計画の摘発に乗り出す。

そして6月4日、首謀者の一人、古高俊太郎を捕縛。拷問により、テロのアジトを突き止める。
近藤らは直ちにこの情報を会津に報告。

アジトの候補である四国屋に土方率いる20余名、池田屋に近藤率いる5名を配置し、会津藩兵の到着を待った。
しかし、会津藩兵の到着に遅れ、このままでは浪士たちを逃がしてしまうと判断した近藤は、沖田総司、藤堂平助、永倉新八、近藤周平のわずか5名で突入する。

夜陰の奇襲とは言え、その日池田屋に参集していたのは30名余り。

いずれも血腥い京都で生きてきた浪士たちである。
これに単身飛び込んだのが局長近藤勇であった。

咆哮は池田屋に響き渡り、隊士たちを勇気付け、浪士たちを圧倒する。

激闘の中、沖田が病を発し喀血、藤堂が額を割られ、永倉も指を削がれる。

だが、四国屋から土方の救援が到着し、遅れてきた会津藩兵が非常線を張ったところで勝敗は決した。
浪士たちの死者11名、捕縛23名。新選組は死者2名を出したが圧倒的勝利である。

特に局長の近藤は、先頭に立って戦っていたにも関らず無傷であった。

京都における最大のテロ計画を未然に察知し、少数をもって鎮圧した新選組の武勇は、一躍京に轟くのである。

土方歳三

1835〜1869
新選組副長として事実上の隊務や組織を仕切っていた人物である。

新選組の組織力や団結、その戦闘力は彼の作り上げたものであるとされる。
とはいえ、司馬遼太郎の『燃えよ剣』以来、土方が過大に評価されすぎている部分もある。

芹沢派、殿村派、近藤ら試衛館一派、山南ら北辰一刀流系、伊東甲子太郎一派など、様々な派閥に分かれて内紛を繰り返していた新選組が活躍できたのは、近藤の人望とあ彼の決断力にあると言えるだろう。

土方の持ち味は、敵を粛清するにあたっての決断力にあると言える。
先に挙げた派閥の全てを土方は徹底的に潰して試衛館一派で、新選組をまとめあげている。

この冷徹さこそ土方の特徴であり、むしろ新選組内では憲兵隊長のようなイメージがあったろう。

変な話だが、近藤健在時の土方の強さは外敵よりも、内部に向いていたと言ってもよいだろう。

局中法度はなかった?

有名な局中法度であるが、実は局中法度についての記録はない。

ただ永倉新八の『新選組顛顛末記』の中で“禁令”として、「士道に背くこと、局を脱すること、勝手に金策すること、勝手に訴訟を扱うこと」の四カ条が挙げられているが、どうも局中法度のイメージほど厳格に扱われていなかった模様である。

実際、土方や近藤は“士道”については人を云々できない。

例えば幕臣に取り立てられたとき、四人の脱藩隊士が「二君に仕えられぬ」と士道における筋を通して切腹しており、武士の生まれでない近藤と土方に痛烈な皮肉を浴びせている。
また金策についても芹沢ばかりが悪いように思われているが、実は芹沢暗殺後も近藤らは隊内財政のために強引な金策を行なっている。

このように局中法度は実在せず、申し合わせ程度の恣意的なものであったのだろう。

軍中法度

むしろ土方らしさが現れているのはこちらだろう。

持ち場を離れず一切の指揮は組長に従うこと。

敵味方の強弱を論ずるな。

組長が死ねばその場で戦死し、臆病風に吹かれて逃げれば処罰する。

など、新選組の規律と呼ばれるものはこちらに準拠していた模様である。

この軍中法度は第一次長州征伐にあたって作成されたものであり、それ以前の新選組は規律などあったなきに等しい組織であった。
また有名な一番組~十番組という制度は、軍事用編成である。

市中警備では番組というものはなく、副長助勤たちが隊士を率いて巡察を行なっていた。

新選組の由来

新選組の名は会津藩の軍制に由来すると考えてよいだろう。

武術に優れた者を選び、軍中で主君を守る部隊を会津藩では新選組としている。

初期の新選組は完全に会津藩の支配下にあったと考えてよい。

有名な隊服の色である浅葱色も会津藩の身分制度において、最下級の武士に与えられる色でもある。

芹沢粛清後、浪士組に与えられた名と色がこれであり、当時の彼らの立場がわかる。

ちなみにさすがに会津藩最下級に位置する浅葱色は彼らも嫌ったか、この隊服が使われたのは一年にも満たなかったという。
ともあれ新選組の組織や軍制は会津藩に準じ、また同一行動がとれるように会津藩に合わせたものと考えたほうが自然であり、土方の家業や海外の兵制に由来したものというのは、さすがに小説的想像に過ぎるだろう。

山崎烝

?~1868

大阪出身。新選組副長助勤、諸士調査役兼監察。

新選組における諜報担当として活躍していたとされる人物である。

別な記録では四国の阿波出身とも書かれているが、室町時代から阿波と大阪は同一文化圏として扱われていたので、特に違和感はない。

新選組がまだ浪士組であった初期に行なった大阪での隊士募集に応じて隊員となっている。

関東出身者の多い新選組の中で、京都や大阪の地理に通じた彼が重宝したのは言うまでもないことだろう。

池田屋の変において、池田屋の店員に化けて、新選組の手引きをし、浪人たちの刀を隠したという手柄が有名であるが、これは後世の創作のようだ。

彼は池田屋の変後に行なわれた論功行賞の記録に漏れている。

とはいえ、ネイティブに関西弁を操れる上に武家出身でもない彼が、地元から様々な情報を得るのに活躍したのは事実であり、むしろその事実からもっとも判り易い形で創作された話という事ができるだろう。

また、こうした諜報員として働きのほかに、彼は学才に優れていたらしく新選組が公卿と折衝にあたる場合、必ず彼が近藤や土方に同行して補佐していたようだ。

外交と内偵という、もっとも機密に属する部分を担当していた山崎は、その職制の性格からはっきりした活躍の記録はなく、謎が多い。

なにしろ、その死でさえ、子母澤寛の記録では、江戸引き上げの船上で死んだとされるが、永倉や島田の記録では大阪、あるいは橋本で戦死したとあり、引き上げの船上にあったと記録がない。

おそらく彼の死は、隊士ですら知らないまま、行方不明になったのであろう。

その生まれからすれば、江戸へ帰還したとは思えず、大阪で生涯を終えたに違いない。

ある意味、その死すら謎に包んでしまったあたり、その諜報員としての有能さの証明であろう。

町医者の出身山崎?

町医者の出身であったと言われる山崎だが、実はそのあたりもはっきりしない。

ただ、松本良順が新選組を訪問した際に、山崎を助手として使い、医術の手ほどきをしたのは確かである。

彼の出身はともかく、諜報、外交に長けただけでなく、医術も松本じこみであった山崎は、後世が知る以上に新選組では重要視された人材であったろう。

近藤周平

18481901

新選組7番組隊長谷三十郎の弟で、後に近藤の養子となる。

池田屋の変に参加したと伝えられるが、周平は参加していなかったとの説もある。

そのためかは知らないが、後に近藤から離縁されているが、それが幸いしたか明治後も生き残り、大阪府で警察官として天寿をまっとうしたようである。

宮部鼎三

18201864

肥後藩士。肥後の兵学師範であり、同じ長州の兵学師範吉田松陰の友人である。

初期からの勤皇の志士。

池田屋で新選組に襲われ、逃げきれず自刃。

彼の死により九州の大藩肥後細川家は維新に乗り遅れたとさえ言われる、勤皇の志士の重鎮であった。

ちなみに人斬り彦斎こと河上彦斎の師でもある。

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