幕末 ぼくたちの好きな新選組 第七章 試衛館の絆~芹沢鴨暗殺~

第七章

試衛館の絆~芹沢鴨暗殺~

1863年 8月18日、禁門の政変
8月21日、浪士隊に新選組の名が与えられ、市中見回りの職権を認められる。
9月16日、新選組局長芹沢鴨、暗殺される。
9月18日、芹沢鴨の葬儀、近藤勇が唯一の局長となる。

 禁門の政変

薩摩と会津は、会津が窓口となり密かに長州追い落としの朝廷工作を行なう。

そして8月18日、夜陰に紛れて会津と薩摩と京都所司代の連合軍は御所の各門、つまり禁門を封鎖する。
その中には芹沢たち浪士組の姿もあった。

彼らは最初、所司代の兵に追い出されそうになるが、芹沢が大喝して押し通ったという。

この時の堂々たる態度に会津や薩摩の兵も浪士組の存在を見直したと言われている。

浪士組にしてみれば、この有事こそが食い詰め者と言われる自らの名を挙げる絶好の機会であり、逃がせる筈もなかった。
そして、朝。参内してきた長州藩士やその派閥の公卿を完全に締め出し、朝議を断行。

長州派公卿の追放と長州藩の御所警備の解任、藩主親子の入京禁止、長州藩士の御所出入りの禁止などを決定する。
この政変に長州藩は激怒。

一指触発の状況となるが、薩摩・会津の兵力は圧倒的であり、長州藩は仲間の公卿たちとともに、京都を退散する事になる。
一夜にして京都の政治地図は塗り替えられ、一気に会津を中心とした佐幕色の強い政界となっていくのである。

新選組誕生

この禁門の政変において、浪士組も功あったとして、彼らに朝廷から”新選組”が名を与えられる。

この新選組の名は会津軍の編成にある名で、本陣の藩主親衛隊とも言うべき編成名である。

本来、会津藩が与えるべき隊名を、あえて朝廷からという形式にしたあたりに、会津の朝廷奪回を象徴しているだろう。
そして8月21日には、正式に隊の職務として市中見回りの職務権限が与えられる。

本当の意味で彼らが合法的な治安組織として認められたのである。
功績を評価されたとはいえ、芹沢の大和屋焼き討ちも、その処分のために藩士を帰還させた以上行なわなくてはならなかった。

また、長州藩を追い落とした今、過激派攘夷浪士の総本山である水戸の元藩士である芹沢の存在は会津にとっては不気味だったろう。

また水戸藩も藩内は穏健派が勝利していた事もあり、京都で活動する過激派浪士芹沢の存在は邪魔であった。
しかし、会津が藩として局長である芹沢処分すれば、会津藩も監督責任を負わねばならない。
かくして芹沢と二分する派閥である近藤らに白羽の矢が立つ。

近藤に芹沢暗殺の命が下り、近藤らは副長の新見錦を切腹に追い込んだのを皮切りに、9月16日には局長芹沢鴨を暗殺。18日に”何者かに殺害された芹沢局長”の葬儀を行っている。
この暗殺劇によって、近藤が唯一の局長となり派閥争いの絶えなかった新選組は試衛館一派の独裁するところとなる。

後に知られる形での新選組はこのようにして生まれたのであった。
京都を追われた長州藩であるが、彼らは米国や仏国などと戦闘を行ない敗北していた。

だが、この欧米との戦闘により、長州はすでに単純固陋な攘夷から意識を改革。

6月には奇兵隊など武士に限らない身分からなる部隊の編成を開始し、さらなる軍備を増強している。

一方で京都の復権を果たすべく、志士たちと様々な政略を画策していた。
新選組に与えられた使命とは、京都に残る長州藩やその味方である志士たちの動きを察知し、これを取り締る事であった。いよいよ新選組の戦いが始まる。

所司代 京都所司代の事。幕府の京都における出先機関であり、朝廷や公家の監視を行なう。

禁門 御所や宮城の門の総称。

近藤勇

1834〜1868
言わずと知れた新選組局長。
多摩の郷士である宮川家に生まれ、天然理心流を学びわずか八ケ月で目録が与えられる。

その天分に惚れ込んだ道場主近藤周平の養子となり、天然理心流試衛館の道場主となる。

道場主として門下生の沖田総司や土方歳三を率い浪士組に参加。京都で清河八郎と袂を分かち、芹沢鴨らとともに新選組を結成する。
近年、新選組関係の書籍などでは土方歳三や沖田総司たちがクローズアップされ、彼の存在が希薄になりがちであるが、やはり新選組の中心人物は彼だ。
近藤勇という人物を語るに当たっては、一つの姿を挙げればよい。

新選組にとってその名を不動のものにした池田屋の変での彼の戦いぶりである。
近藤は局長自ら池田屋に乗り込み、池田屋に参集した30名あまりの浪士たちの中に斬り込む。

その中で、彼は「エイオウ」と気合いの篭った声を挙げながら戦い、隊士たちはその声にずいぶんと励まされたという。

夜間のほとんど暗闇の戦闘の中、自らの所在を明らかにする声を出すというのは、並の胆力ではない。

局長自ら死地に立ち、危険を犯しつつも、声で隊士たちを励ましながら戦う。

戦闘指揮官として最高の姿が池田屋の近藤には見られる。
よく“新選組最強は誰か?”という議論がされるが、単純な剣の腕などは問題ではなく、実戦における新選組最強の人物は間違いなく彼だと言える。

当時の隊士や敵である浪士たちほど、それを実感していたに違いない。

そして、それこそが新選組における近藤の求心力そのものであったろう。

彼の鬨の声が挙がるところ、隊士たちは自分たちの無敵を信じて最高の力を発揮する。

そんな最良の戦闘指揮官が近藤勇という人物である。
しかし、逆に言えばそこが彼の限界でもあった。

幕府が衰亡する直前に、彼は幕臣に取り立てられ、複雑な政治情勢の中に放り込まれる。

だが、結局、彼は甲州鎮撫など、慶喜や勝海舟らに翻弄されるがままになる。

というよりも、そこまで彼に期待するほうが間違いだ。
ともあれ、新選組という武力集団において、最高の戦闘指揮官として君臨した人物。

それが近藤勇の人物像であり、それ以上でも以下でもない所こそが彼の真価というべきだろう。

浪士組募集と近藤の妻

近藤は試衛館の道場主として同志たちとともに浪士組に参加する。

近藤の妻は御三卿の一つ清水家の家臣の家に生まれ、若い頃は一橋家の祐筆を勤めていた。

浪士組が将軍後見役である一橋慶喜の京都における手勢としての働きを期待されており、彼が妻の人脈を通じて一橋家と通じていたことも考えられる。

なんの目算もなく道場を畳んで浪士組みに参加し、感情のもつれで清河と袂を分かって京都に残ったというのは考えにくい。
こうして考えると、浪士組の京都残留派が、水戸系の芹沢一派と一橋家に伝手のある近藤一派であったという経緯がおのずと理解できるだろう。
そして後に水戸藩の激派と距離を置き、天狗党の虐殺を命じた慶喜の存在を考えれば、芹沢一派の粛清を命じたのが誰であるかというのも明らかだ。
武家社会は強固な官僚組織の側面もあり、単純な思想や感情で動くものではない。

京都守護職という幕府の組織に連なる新選組もまた、幕府内部での派閥で動くのである。

一貫して慶喜派であった新選組は、最後まで慶喜に翻弄される事も運命づけられたのであった。

原田左之助

1840~1868

新選組隊士。近藤たちの試衛館時代からの同志であり、副長助勤、十番組隊長など、新選組の主要幹部として活躍した。
松山藩士の出だが、中間という最下級の武士であった。

最初は江戸の松山藩邸で働いていたが、郷里に戻り若党たちを集めて暴れ回っていたらしい。

その時に中間の身分であることで「切腹の作法も知らぬ下郎めが」と罵られ、本当に自分の腹に刀を突き立てたという。
これが原因かどうかはわからないが、やはりこういった激情の男は田舎にはいたたまれなかっただろう。

松山藩を脱藩。江戸に出奔し、いつのまにか試衛館に寄宿するようになる。
その後、試衛館の浪士組参加を経て、新選組の幹部となるが、面白いことに彼は試衛館一派とは一線を隔している。

新選組の中核に、近藤、土方、沖田という試衛館生え抜きの派閥がある。
それに対して永倉、原田、斎藤という試衛館の寄宿者たちの派閥があった。

彼らはあくまで近藤は、主君ではなく同志の一人に過ぎず、近藤や土方が彼らを部下扱いするたびに反発していく一派である。

彼らに共通するのは「江戸っ子」気質と言える。曲がったことや形式ばった事が嫌いで、野暮を忌む。

そんな江戸前気質の彼らは、近藤らの形式主義、階級意識を嫌った。
とはいえ原田は松山、斎藤は明石、永倉は松前の藩士であり、むしろ多摩出身の近藤たちのほうが江戸に近い。

今も地方出身者のほうが東京を強く意識するように、彼らも江戸を愛し、その江戸っ子気質を強く意識していたのだろう。
特にその中でも、原田は故郷が肌に合わず出奔してきた人間であり、むしろ江戸の水が誰よりも合っていたのだ。

彼の言動は常に「江戸っ子」を意識した気風のよさが窺える。

新選組の解体後、彼は仲間である永倉と離れてまで江戸に残り、彰義隊の一員として最後まで江戸に残るのである。

かれにとっての本当の故郷は、松山ではない。

彼の直情を愛し、また彼もその気質を愛した江戸であったのだ。

満州で馬賊となった原田

日清戦争当時、満州の馬賊で幕末を回顧する老人がいたらしい。

その正体が原田左之助であったというが、維新初期に中国に渡るルートはほとんど存在しておらず、眉唾の伝説だろう。

秋月悌次郎

1824-1901

会津藩士。

薩摩藩士高崎佐太郎とともに禁門の政変を画策する。

とはいえ政治家というよりも詩人としての資質に恵まれた人物であり、後に会津の運命を描いた「行くに輿無く 帰るに家無し」という詩は、会津を象徴する悲憤慷慨の詩として人口に膾炙する幕末きっての名詩のひとつである。

楠小十郎

?~1863

子母澤寛に「隊中美男五人衆」の一人として書かれる。

新選組初期からの隊員だが、彼は長州の間者であり、芹沢粛清後の長州間者摘発において原田によって斬殺されている。

ただそれだけの人物だが、隊内きっての美男が、実は間者だったという倒錯した設定により、マニアックな人気を集めていたりもする。

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