幕末 ぼくたちの好きな新選組 第六章 壬生狼~局長芹沢鴨の時代~

第六章

壬生狼~局長芹沢鴨の時代~

1863年 5月10日、幕府、攘夷断行の日限
5月20日、姉小路公知暗殺される
7月18日、長州藩、攘夷親征を朝廷に建議
8月13日、攘夷親征の大和行幸の詔勅が下される

攘夷断行と長州の暴走

1863年5月10日。

朝廷に幕府が約束した攘夷挙行の日付である。

もちろん幕府には本気で攘夷戦を行なうつもりはない。

しかし、当時すでに攘夷論を盾に反幕色を勤めていた長州藩は5月10日に馬関海峡で米国商船を砲撃したのを皮切りに、単独で攘夷を挙行する。

これは長州が幕府ではなく、攘夷と朝廷の名の下で軍事行動を起こすという宣言でもあった。
この攘夷行動を行なった事で、長州は朝廷や帝に対する影響力も増大し、この時期の京都政界の主役に踊り出る。

ここでひとつの事件が起きる。
姉小路公知暗殺事件である。

公家の中でも若き重鎮として知られた彼の死は、その容疑者が薩摩藩士であった事で、薩摩は公家からの支持を失い、京都政界の中心からすべり落ちる。
朝廷、幕府、会津、薩摩、長州。

当時、京都政界はほぼこの五者で動いていた。

このうち幕府は4月の失敗からか沈黙。

続いて薩摩が追い落とされ、朝廷は長州の牛耳るままとなっている。

残った会津は孤立してしまい、京都における長州藩の独走状態が続くのである。
ここで7月18日、長州藩はいよいよ最終的な手を打つ。

攘夷親征の建議である。長州は天皇直属の軍として攘夷戦を行なうというもので、これは事実上の毛利家の幕府からの独立宣言と王政復古の号令とも言うべき建議であった。

そして8月13日、攘夷親征の詔が下される。

食い詰め浪士隊の暴挙

こうした情勢の中、大阪と京都を往復する将軍の警護や京都市中の取り締りなど、浪士隊一行は慌しく働いている。

この時期、すでに有名な浅葱色の隊服に”誠”の旗は、すでにあったが、当時の印象としては食い詰め浪士の集団にしか見られていなかったろう。

6月、彼らは大阪の市中取り締りを命じられ、大阪に出る。

ここで力士たち20人余りと乱闘になり、完全に圧倒してその武力を見せつける。
ここで力士らと浪士隊は和解し、8月7日から12日にかけて相撲興行を行なっている。

しかし、局長である芹沢は遊芸の興業を行なう事を苦々しく思っていた。

相撲興業というヤクザな稼業に手を出せば食い詰め浪士の印象がますます濃くなる。

その夜、芹沢は以前に出資を断られた大和屋の焼き討ちという行動に出ている。

浪士組は金に困っていないというアピールからか、彼の出身である水戸藩がいつのまにか政界の傍流に落ちていた鬱屈からか、ともかく暴挙は暴挙である。

薩摩と会津の秘密同盟

京都政界から追い落とされた薩摩が、攘夷親征の詔勅に危機感を覚えたのは当然だろう。

彼らは京都政界復帰のために会津と提携する事を決断するのである。
孤立していた会津はこれを受け、薩摩と同盟を結び長州を追い落とすクーデターを画策する。

ここで会津は、浪士組の大和屋焼き討ちの処分のためという名目で、国許に帰還しようとしていた交替要員の藩兵を京都に帰還させるのである。

これで新規に上京した藩兵と、交替のために帰還しようとしていた藩兵とで会津は約二倍の兵力となる。
結果的に芹沢の暴挙がカモフラージュとなり、会津はクーデターの兵力を秘密裏に増強する事に成功するのである。

芹沢鴨

1827(?)~1863

新選組局長。新選組の設立当初、近藤とともに局長を務めていた人物である。本名は光幹。

芹沢家は常陸の土着の郷士である。

室町時代には芹沢城の城主であったという名門であり、後に徳川光圀によって水戸藩に仕えるようになった。

さらに全国的に知られた家伝の傷薬があり、幕末でも相当に裕福な家だったようである。

粗暴で野蛮とされる芹沢だが、むしろ彼の性格は何不自由なく育ったが故の我侭であると見たほうがよい。

芹沢は潮来の郷校で医学と水戸学、すなわち尊皇攘夷思想を学ぶ。

水戸藩には各地に郷校というものがあり、水戸より各地の郷校に学者が派遣され、藩士の育成にあたるという制度があった。

しかし、幕末になると藤田東湖や武田耕雲斎などの思想家たちが、水戸藩の目の届かぬ地方の郷校で尊皇攘夷思想の教育や議論を行なう場となる。

後に彼らは藤田東湖の子藤田小四郎を中心に天狗党を結成する。

この中で芹沢は天狗党の中心である玉造勢300を率いていたというから、その立場の重さがわかる。

長岡事件により芹沢は捕らえられ死罪になりかける。

しかし、井伊が暗殺され、政治総裁職松平春獄に安政の大獄の大赦を求める建白書を出した者がおり、その一環として芹沢も釈放される。

この建白書を出した者こそ、清河八郎であった。

だが、釈放された芹沢は、天狗党を除名される。

天狗党を除名され江戸に出た芹沢は清河の呼びかけによる浪士組に参加し、清河らと袂を分かって、会津藩御預浪士として京都に残留する。

会津藩御預の身分を得た経緯として、京都に上ろうとしていた一橋慶喜の意向があった。

手勢を持たない慶喜の京都における手勢として、同じ水戸出身の芹沢らが期待された故の人事だ。

斉昭の息子として尊皇攘夷派のホープであった慶喜は、天狗党でも期待の人物であった。

しかし、将軍後見役として佐幕色を強めていく過程で、慶喜は尊皇攘夷派と距離を置くようになる。

それに伴い水戸藩でも天狗党への弾圧が始まる。

京都守護職の手先である新選組もまた佐幕派の尖兵となり、完全に生粋の尊皇攘夷派である芹沢の思想とは異なった集団となっていく。

天皇の御座する京都で、幕府の手先として仕事をしている新選組に芹沢は我慢がならなかったであろう。彼の行動は自暴自棄となっていく。

やがて芹沢は近藤一派によって暗殺されるが、これは新選組の内部抗争などではない。

佐幕派としての慶喜や会津藩にとって、芹沢が完全に邪魔になった末での粛清人事であった。

彼の粗暴さにも原因があったかもしれないが、なによりも幕府内部での組織の論理が働いた末での運命であったろう。

もっとも初期からの尊皇攘夷志士である彼が、幕府の手先に成り下がった末。

身内に暗殺されるとは、彼自身にとってあまりに皮肉な運命であったろう。

だが、彼自身としても、新選組局長の名は汚名でこそあれ、守るべきものでもなかったろう。

長岡事件

日米和親条約締結のころ。孝明天皇は水戸藩に攘夷を求める密勅を下す。

これをきっかけに安政の大獄が始まり、幕府は水戸藩に密勅の返還を迫る。

これに反発し、天狗党玉造勢は水戸と江戸の間にある長岡宿に屯集し、密勅返還を阻止しようと蜂起する。

これを率いていたのが、当時下村継次を名乗っていた芹沢であり、彼のもっとも華やかな時期であったと言えるだろう。

桂小五郎

1833〜1877
長州藩士で、後に維新三傑の一人とされる維新の功労者である。

幕末の志士たちの中でも、もっとも早くから政治行動を始めた人物である。

後に長州の勤皇派の人材を多く輩出した松下村塾において、吉田松陰の弟子というよりも、補佐役のような形で松陰の活動を助けている。
いわば、長州における最古参の志士であり、長州の勤皇派の兄貴分的な人物であった。

池田屋の変、禁門の政変、蛤御門の戦い、第二次長州征伐など、長州におけるほとんどの政変に関わり、その渦中にいながら生き残っている。

その履歴だけでも他の志士を圧倒したであろう。
しかし、当人はむしろその履歴を誇りとして長州を牛耳るような真似はせず、むしろ吉田松陰や高杉晋作、久坂玄瑞といった長州の行動家たちの暴発の尻拭い役に徹していた。
その華麗な履歴にも関らず、派手なエピソードのない桂小五郎。

自己主張はしないがしっかりと志士たちの行動をフォローしてくれる桂は、誰もが認める長州の中心人物であった。

というよりも、風土の気質なのか藩士の教育がそうだったのか、とにかく勝手に暴発しては放り投げるという人物ばかり揃った長州藩で、彼のようなフォロー役が存在していたというのは奇跡に近いものがある。
確かに高杉晋作などに比べてみると、その業績は華麗ではない。

しかし、長州の代表として常に現れるのは彼の名である。

逃げの小五郎

桂小五郎は神道無念流の師範代であり、その剣術は江戸でも評判であった。

しかし、逃げの小五郎と呼ばれた彼は、常にその剣術をもって戦おうとはせず、生涯人を殺めたことはなかった。
よく語られる話であるが、実は幕末期にあってその倫理観はごく普通のものであった。

過激派志士や新選組による人斬りがクローズアップされがちだが、江戸時代は殺人などの犯罪件数が特に少なかった時代であり、現在よりもむしろ殺人が異常とされる時代でもあった。

つまり桂だけでなく、まともな武士ならば人斬りなどしないのは、当時でも普通の倫理観であった。
それだけに人斬り集団であった過激派志士や新選組に対する忌避も大きかった。

両者とも、汚れ役としての役目を押し付けられた面もあるが……。

殿内義雄

1830~1863

京都に残留した浪士組の一人。

芹沢派、近藤派とともに9人の同志を抱えた一派を率いていた。

しかし、浪士組結成当初に芹沢と近藤たち一派により、殿内は斬殺され、残った殿内派は浪士組を去った。

結成最初の派閥争いであり、この後も派閥争いを殺人で解決する新選組の体質を決定付けた事件ともなった。

新見錦

1836~1863

新選組局長の一人。

水戸天狗党時代からの芹沢の同志である。

芹沢の片腕的存在であり、近藤らによる芹沢一派掃滅の最初の犠牲者となった。

謎の多い人物で、また名が田中伊織という説もあり、墓や死亡した場所も二説存在する。

近藤らの芹沢処断が、いかに不透明なものであったかを象徴する人物である。

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