幕末 ぼくたちの好きな新選組 第五章 誠の旗を立て~新選組結成~

第五章

誠の旗を立て~新選組結成~

1863年2月29日 清河の攘夷親兵宣言

3月13日 浪士組江戸帰還

3月15日 京都

4月11日 孝明天皇、石清水神社行幸

4月20日 将軍家茂、5月10日の攘夷断行を約束

4月21日 将軍家茂大阪に退去、浪士組はその護衛をする

 清河の野心

「御所に我らが攘夷の親兵となる事を建言するが異論はないはずであるな?」

清河は、この浪士組を幕府の軍事力とするつもりはなかった。

彼は朝廷に234名の浪士が攘夷の尖兵になる事を朝廷に建白し、朝廷直属の兵力とする事を目論んでいたのである。

2月29日、清河は浪士たちを一堂に集め、攘夷親兵の建白書を提出した事を伝え、浪士組結成の真意が将軍警護ではなく、攘夷断行の尖兵となる事である。

そして、江戸に帰還し、攘夷戦を行なうと宣言するのである。

ここで清河に同調しなかった一派がいる。

水戸藩脱藩浪士芹沢鴨とその一派5名と多摩の試衛館の道場主近藤勇とその仲間8名の計13名である。

彼らはあくまで京都に残る事を主張し、清河と激論の末、袂を分かつ事になる。

清河もまた彼らを切り捨て、江戸に帰還してしまう。

最終的に京都に残った浪士たちは芹沢、近藤らに殿内義雄らの一派7名が加わるなどして、計24名となった。

攘夷断行の謀略

3月13日、清河ら江戸帰還組は京都を発する。

その翌々日、3月15日には芹沢と近藤ら24名の京都残留組は会津藩預りの浪士組となっている。

この処置には慶喜の故郷である元水戸藩士である、芹沢の縁故がものをいった。

また近藤も妻が一橋家に仕えていたという縁故もあり、多少の伝手となったであろう。

話は前後するが3月4日。

将軍家茂が上洛する。

これに合わせ朝廷は4月11日の孝明天皇が石清水神社に行幸。攘夷祈願を行なった。

薩長土はこれに将軍を同行させ、攘夷断行を宣言させようとしたのである

さらにこの行幸で天皇自ら家茂に攘夷戦指揮の節刀を授与。

これを受け取れば、もはや攘夷断行は避けられないのみならず、日本の武力は幕府ではなく朝廷によって動員されるという事を国内外にアピールするという目論見であった。

 この事態だけは避けようと家茂はこの行幸を病欠し、代理の慶喜も儀式には参加したものの、やはり病を理由は拝刀の授与は避けたのである。

辛うじて幕府にとって最悪の事態は避けられた。しかし行幸に将軍が病欠した事が幕府の弱みとなり、ついに4月20日に幕府は5月10日からの攘夷断行と諸大名への攘夷命令を約束させられてしまう。

 想像以上に朝廷における反幕勢力の影響力が大きい事を思い知った家茂と慶喜は、京都を脱出し大阪へと逃れる。

政治的には幕府側の敗走と言ってもよかったろう。

この大阪退去に浪士組が同行し、彼らの初の任務となっている。

浪士隊の組織化

大阪で将軍警護と市中警備を行なった浪士組は、彼らは5月11日に帰京する。

彼らは大阪と京都で同志の募集を行い、それなりに大きな集団となっていく。当時の隊員数は36名。

このため幕府としても彼らを組織として組み込む必要が生じ、正式に京都守護職の一部署として編成される。

局長として芹沢と近藤、副長として土方歳三、山南敬助、新見錦が任命され、後の新選組となる武力集団の体裁が整っていくのである。

同時に追い詰められた幕府も強硬手段をとる事になる。

徳川家茂
1846~1866

徳川幕府14代将軍。

4歳にして紀伊徳川家の藩主となり、13歳のときに南紀派に擁立されて14代将軍となる。

幕末の動乱期の将軍として幕府衰亡期の将軍として働くが、第二次長州征伐の戦中に病没している。
4歳に紀州徳川家の藩主になったときからの、根っからの傀儡とも言うべき人物である。

しかし、傀儡とは言っても彼が衰退する徳川家を守ろうとし、そのために努力し続けたのは誰疑うことのない事実である。
40人の側室を持ち55人の子供を作って、諸藩へ養子を送って各藩の血統をかき回した11代将軍家斉。

水野忠邦を登用して天保の改革を断行するも評判が悪いとみるや、一気に水野を罷免し阿部正弘を登用するなど政治的に腰の定まらない12代将軍家慶。

心身ともに脆弱で将軍として明らかに不適格者であった13代将軍家定。
と良くも悪くもアクの強い君主が続く中、家茂は奇跡的なまでに人柄のよい人物であった。

彼は井伊直弼、勝海舟、徳川慶喜などを登用して、彼らに政治を委任するが、家茂の見事さは決して委任した家臣を裏切らないというところにあった。
彼は幕府維持のために、最高の傀儡として献身的に働き続けている。

公武合体策のために和宮と結婚し、病弱の身でありながら京都、江戸、大阪を後見役である慶喜の要請のまま往来し続けている。

彼は傀儡の将軍であったが、幕府維持のために傀儡として最高の働きをしようと努力し続けている。

そんな彼の評判は幕府内では格別で、幕臣や多くの中で彼を悪く言う者はいない。

口の悪い勝海舟ですらこの将軍には心から仕えていた。
おそらく彼は平時であれば最高の将軍、あるいは殿様として慕われた人物であったろう。

しかし、その人柄の良さは乱世を押し留める力とはならなかった。

幕府は彼の代で急速に衰退していく。

そしておそらくはその心労からであろう、わずか21歳の若さで彼は病没する。
人柄はよいがそれだけに繊細な彼が幕府滅亡の決定打となる第二次長州征伐の敗北を見ずに済んだのは、ある意味、歴史の慈悲だったかもしれない。
また繊弱な彼に神君家康以来14代続いた徳川幕府を捨て去る決断は到底できなかったであろう。

逆に14代将軍として慶喜が就任していれば、もっと早期な段階で大政奉還をしてしまったかもしれない。

ある意味、幕末の動乱を演出するために生まれた“歴史の傀儡”としての将軍であったのかもしれない。

皇女 和宮

家茂と公武合体のために結婚した和宮は、元々は有栖川宮熾仁と婚約しており、それを破棄しての婚儀であったため、彼女も内心複雑なものがあったろう。

しかし、政略結婚とはいえ和宮も家茂の人柄に触れて、夫婦仲は大変によかったという。
後に家茂が死去し、大政奉還が行なわれ、幕府は鳥羽伏見の戦いに敗れる。このとき官軍の総指揮をとっていたのが、かつての彼女の婚約者であった有栖川宮熾仁であった。
しかし、このとき彼女は徳川将軍家の正室として、徳川家存続と最後の将軍である慶喜の助命嘆願の書簡を朝廷に送っている。

また、13代将軍家定の正室である天璋院も、元々は島津家の出であったため、同じように嘆願状を出している。

いかなる血筋であろうとも、一度、家に嫁したらその家の者としての筋を通すという、当時の女性の道徳が垣間見えるエピソードだ。

武市瑞山

1829~1865
土佐藩士。

土佐に勤皇党を結成し、長州とともに京都で活躍する。

剣術、学問、識見ともに当時一流の人物であった。

しかし、歴史的には長州の尻馬に乗って、朝廷工作と暗殺に奔走し、山内容堂の逆鱗に触れて鎮圧されただけの人物でしかない。
むしろ、ここでは彼が率いた土佐勤皇党と坂本竜馬の関係を考えてみよう。

武市と竜馬は友人関係にあり、坂本も土佐勤皇党に名を連ねていたため、小説などでも二人の友誼は篤く、彼らは協力しあっていたように描かれる。

しかし、竜馬の行動を見ると、竜馬はまったく武市の陰謀に協力せず、むしろ妨害に近い行動を取っていたとしか思えない。

神戸海軍伝習所に多くの土佐藩士を抱き込むなど、竜馬が土佐勤皇党の活動と距離を置いていたことは明らかだ。
そして、竜馬の事跡を見ると、間崎哲馬、岩崎弥太郎、後藤象二郎など、竜馬の活動の要所要所で武市の暗殺した吉田東洋系の人脈が現れる。

また、竜馬の主だった人脈は、松平春嶽、勝海舟など幕臣側に属する者が多い。

これらを見ると竜馬は土佐勤皇党よりも、友誼などは別として思想的にも活動的にも山内容堂や吉田東洋の系列に属する人物であると言わざるを得ない。
後に長州が新政府の重鎮となったため、その同志であった武市が同情的な扱われ、竜馬もその同志とされている。

しかし、当時の竜馬の活動はむしろ土佐勤皇党を分派して、妨害しているとしか思えぬ所があり、どうにも単純な同志とは言えない。
『竜馬がゆく』での竜馬が最初から勤皇倒幕派であったという解釈がなんの疑いも無くまかりとおっているが、竜馬の行動や人脈はある時期まで佐幕派のそれとしか思えないことを、もう一度検証してみるべきではないだろうか?

至誠の人

厳しいことも書いたが、武市が至誠の人であったのは確かだ。

山内容堂による勤皇党弾圧が始まったとき、彼は久坂玄瑞に長州に逃れるよう言われている。

しかし、彼は一個の武士として、主君を裏切る真似はできなかった。

その結果が壮絶な切腹に繋がるが、士道を貫いたことは確かであった。

ただ、彼が政権を取った手段が暗殺であってことが、どうにも彼の印象を暗くしてしまったことは否めない。

吉田東洋
1816~1862

土佐藩参政。

門閥政治の打破、洋式兵器の採用など土佐藩の藩政改革を推し進めた。

教育者としても優れ門弟として岩崎弥太郎、後藤象二郎、板垣退助などを輩出している。

土佐が生んだ最大の傑物であり、彼が武市により暗殺されたことが結果的に幕末に土佐藩が出遅れる要因になったと言えるだろう。

間崎哲馬

1834~1863

吉田東洋の門人の一人であり、また土佐勤皇党の主要な人物の一人である。

山内容堂の信頼も篤く、竜馬を松平春嶽に引き合わせた人物でもある。

人々が単純に勤皇と佐幕に分かれていたわけでなく、情勢や人情の流れで両派を揺れ動いていたというのがわかる。

単純に勤皇佐幕に色分けできるものではないのだ。

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