幕末 ぼくたちの好きな新選組 第四章 毒をもって毒を制する~浪士組結成~

第四章

毒をもって毒を制する~浪士組結成~

18621224日 松平容保 京都守護職として藩兵千名と入京

18621228日 清河の建白を受け浪士組結成議決

1863年2月6日 浪士組編成完了

1863年2月23日 浪士組、京都壬生に来着

1863年3月13日 浪士組、江戸へ帰還。芹沢、近藤らは残留

会津軍、入京

京都守護職に任じられた松平容保は、当初は彼らを思想的な存在として見て、言路洞開策を慶喜に建白するなど穏やかに浪士たちと対話しようとしていたようである。

しかし、前述したように彼ら長州や土佐、そして浪士たちの目的は思想ではなく、社会騒擾そのものにあった。

さらにこの時期、幕府は“公武合体”策を取る事で、朝廷を勤皇派から取り戻す政策をとっており、そのために将軍徳川家茂の上洛が迫られていた。

だが、テロの捜索や鎮圧と将軍の警備は、同じ治安維持活動でも全く別系統な職務である。

この双方を会津藩が担うのは厳しく、また幕府兵力である旗本たちはすでに軍事力としては使えないほどに弱体化していた。

京都の治安維持や将軍の警備などは会津藩兵が担えるだろうが、それとは別にカウンターテロを行なう組織が必要とされる事に幕府は気づくのであった。

このような状況下で現れたのが清河八郎という男である。野心家である彼は、関東で浪士たちを募集し、その力をもって関西の浪士たちを討つという政策を、勤皇系幕府官僚を通じて建白するのである。

まさに毒をもって毒を制する政策に、幕府は乗る。186212月に浪士組の募集が議決され、正式に募集が開始される。

この応募に関してひとつの動きがある。

それは一橋慶喜の勢力増強である、将軍後見職となった慶喜だが、一橋家は領土を持たない御三卿であり、自前の軍事力を持っていない。

このため慶喜は実家である水戸から藩士を借り受けるなど、なんとか自前の勢力を整えようとする。

この浪士組は山岡鉄舟など一橋派とも言える勤皇系の幕臣が推進した政策であり、単なる京の治安維持とは別に幕府内では一橋派の私兵とする意図があった。

少なくとも募集に応じた浪士たちの中で、水戸系浪士の芹沢鴨一派、そして妻が一橋家の祐筆を勤めていた近藤勇ら試衛館一派の二組は、内密にこの意を受けての応募であった事は後の行動を見ても明らかである。

1862年3月の将軍上洛に合わせて、浪士組は編成される。

2月6日には江戸出発、これは2月13日の家茂の江戸出立に合わせたものである。

そして2月23日に浪士組は壬生に駐屯。ここで清河はこの浪士組が幕府の私兵ではなく、天皇の私兵となり攘夷の先駆けとなると演説する。

完全なる幕府に対する裏切りであった。

この発言に幕府は3月4日の将軍上洛を控えていた事もあり、ただちに清河ら浪士組に江戸への帰還を命じるのである。

これに対して芹沢一派と近藤一派は清河らと袂を分かち、京都の残る。この彼らの行動について新選組関係の書物などで、いろいろ取りざたされているが、

彼らが残った理由は簡単である。彼らは一橋派の幕臣の意を受けて募集に応じた者たちであり、内密に彼らの処遇は保証されていたが故の行動と見たほうが自然であろう。

この残留した芹沢ら水戸系浪士5人と近藤ら試衛館一派の7人、そして双方に顔が利いた北辰一刀流系の山南敬助と藤堂平助。彼ら15人の浪士たちこそ、後の新選組の雛型となる。

 慶喜の悩み

京に入った慶喜と容保は、幕府の権威を取り戻すべく朝廷工作と治安回復に尽力する。

だが、慶喜には決定的に欠けているものがあった。

それは自分の手勢である。

会津藩兵は松平容保のものであり、指揮権は容保にある。その上、一橋家は所領を持たない御三卿でしかない。

このため手足となる藩士も足らず、彼は故郷の水戸藩から藩士を借り受けたりしていた。

だが、有事には彼が幕府の指揮官として御所や京都を制圧せねばならない立場に置かれた今。彼が自前の軍事力を欲したのも当然だと言えるだろう。

 清河八郎の提案

この時期は国内の政情不安と同時に、対外的にも緊張が高まって時期でもあった。

前年の8月21日には薩摩藩士による英国人斬殺事件、いわゆる生麦事件が起きている。

これに刺激されるように長州藩士による英国公使館放火など、外国人に対するテロが盛んに行なわれていた。

長州や薩摩などは攘夷が国是であるとの言質をもって、盛んに海外に対して挑発的な態度を取っており、対外的には一触即発の情勢となっていた。

そんな状況に頭を悩ませていた幕府に、一人の浪士が知人の幕臣を通じて一つの政策を提案する。

浪士の名は、清河八郎。

彼は京都の治安維持と防衛のために、世の中に溢れる浪士たちを糾合して新たな軍事力とするという提案をするのである。

この提案は幕府、それも慶喜にとって願ってもない案であった。

幕府にしてみれば、外国人に対するテロの取り締りを強化した事をアピールできる事が第一。

さらに京の治安を悪化させる浪士たちの背後には長州藩がおり、治外法権である藩邸などに逃げ込む場合が多い。

これを討つのに会津藩兵では、どうしても藩対藩の外交的問題になってしまうのである。

このため後手後手となりがちであった浪士討伐に、ほとんど徒手空拳で自由な立場の浪士たちを使うのは当を得た策に思われたのである。

慶喜もまた自分の直属も同然の兵力を得る事が出来れば、京都における幕府の軍事力を一気に増大させる上に自らの影響力を強化する事ができると考えた。

折りしも幕府は、前述した薩長土による親兵設置を「京都は将軍自ら防衛する」と蹴ったため、3月に将軍自ら上洛する事になっていた。

そのために京都の治安と幕府の威信回復は急務となる。

このような事情から、将軍上洛に間に合うように、この一介の浪人の提案は12月に議決され。1月には浪士組の募集が開始される。

 浪士組結成

2月4日、小石川伝通院には234人の浪士たちが集まった。

幕府、一橋慶喜、そして提案者である清河八郎、各者各様の意図を秘めながら、2月8日、将軍警護のために家茂の上洛に先んじて進発する。

2月23日。彼らは京都に入洛し、壬生に駐屯する。

このまま将軍の到着を待ち、おそらくは彼ら234名は慶喜の指揮下に入る事になっていたであろう。

しかし、ここで提案者であり浪士組のリーダー格であった清河八郎は、主だった者たちを集めて驚くべき提案をする。

「御所に我らが攘夷の親兵となる事を建言するが異論はないはずであるな?」

清河八郎

18301863

新選組の前身である浪士組の創設者であり、浪士組の長として勤皇の独立勢力を作り上げようとした野心家である。

庄内の豪農斎藤家という郷士に生まれた彼は、学問は江戸最大の塾のひとつ東条一堂の私塾に学び、剣は北辰一刀流の免許皆伝である。

しかし、正規の藩藩士でないため、彼の才幹を活かす場がなかった。

彼の特異なところは、自分の才幹を活かす場所を求めて仕官に奔走するのではなく、自ら勢力を築き上げようとしたところにある。

まず、彼は私塾を開き、自分の信奉者を増やしていく。

彼は私塾で同志や信奉者を作りそれを背景とするほうが、下手に藩士となるよりも大きな影響力を持つ時代になっていると考えていた。

また剣や学問の付き合いから人脈もできる。

彼は山岡鉄舟や松岡万といった幕臣、薩摩藩士伊牟田尚平や益満休之助といった人物たちと虎尾の会を結成する。

虎尾の会は尊皇攘夷派の志士集団として、同志である伊牟田尚平らを通じて薩摩藩を上洛させ、朝廷の下で尊皇攘夷国家を作り上げようとするのである。

そのために九州を遊説し、九州の尊皇攘夷の志士たちに上洛して、この企てに参加するよう促している。

幕末に京都に志士たちが多く参集したきっかけともなる遊説でもあった。

この企ては島津久光が彼らの動きを警戒し、寺田屋にて過激派薩摩藩士を粛清したことで頓挫するが、一介の郷士がこれだけの大謀略の中心となっていたという彼の才幹と行動力には驚くほかない。

薩摩を動かすのに失敗した彼は、今度は山岡鉄舟ら幕臣の同志たちを通じて、京都で暴れる過激派志士の取り締りとして浪士組の結成を建白する。

ちなみに京都に集まった過激派志士たちは、元々が清河の九州遊説の影響で上洛した者たちである。マッチポンプもここまでくれば見事というほかない。

浪士組を結成しその首領に納まった彼は、上洛してすぐに同志たちに、浪士組は幕府の手先ではなく朝廷直属の武力集団として独立すると宣言する。

浪士組250名を中心として、自分が遊説して集めた志士たちを結集すれば、朝廷を担いで京都を占拠し“清河幕府”を築く事も可能であると考えていた。

まさに恐るべき大謀略である。

だが、驚いた幕臣の同志たちの通報により、清河の企ては幕府の知るところとなり、清河と浪士組は江戸に帰還させられる。

この時、清河と袂を分かって京都に残った者たちが後の新選組となる。江戸に帰還して間もなく清河は暗殺され、生涯を終える。

だが幕末の京都の動乱において、京都に志士たちを集めたのも、それを取り締まる新選組の母体を作ったのも彼であり、一面では京都の動乱は彼の壮大なる自作自演劇であったと見る事もできる。

藩を背景にしなかったため、彼の働きは矮小化されがちだが、一個人の力でここまで幕末史に影響をもった人物は他に少ないであろう。

清河八郎3歳

天保4年に庄内は大飢饉に見舞われる。このため村人は困窮し、思い余って16人の若者が斎藤家に押し入り米を盗んだ。

当時3歳であった清河八郎(当時は斎藤元司)は、その様子を隠れながら逐一観察、家人を通じて通報させた。

彼の通報により15名が斬首、一名が追放されている。

自分の言葉で人が動き、15人も斬首されるという幼児体験が、後の清河の陰謀気質に影響を与えたというのは、あまりにも穿ちすぎだろうか?

山岡鉄舟

18361888

幕臣。新政府の江戸攻撃に先立って、勝海舟と西郷隆盛の江戸開城会談をお膳立てした人物として名が高い。

若い頃より新影流、樫原流槍術、北辰一刀流などの武術を学び、いずれにおいても天才的な腕を発揮している。

また槍の達人である旗本山岡静山の薫陶を受け、その剣禅一致とも言われる、精神性の高い武道に開眼している。

当時における代表的な武道家の一人であったろう。

その剛毅一途な性格からもわかるように、政治的な動きをしない人物であったが、北辰一刀流での縁が清河八郎に心酔し、彼の浪士組結成の幕府内での協力者として働いている。

以後、幕末期はほとんど動きを見せていないが、その剛毅な性格と武道家としての評価は高かった。

そして大政奉還後の江戸城攻撃前、勝海舟は新政府軍への降伏の使者として彼を選ぶ。

官軍の陣を通過する際、「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎、大総督府へまかり通る」と叫びながら通る彼の気迫に、官軍の誰も止めることができなかったという。

事実上の官軍指揮官の西郷と会談し、あくまで武力攻撃を考えていた西郷は、さまざまな無理な要求を連ねる。

だが、鉄舟は「もし、島津公が慶喜の立場となれば貴殿はこの条件を受けられるか?」と一歩も引かない。

この言葉に西郷は折れ、勝との無血開城会談に応じたであった。

維新の土壇場で江戸を救ったのは尊皇も攘夷も関係ない、一個武士としての気迫であった。

幕末随一の道場は?

幕末の剣術というと、多くの志士を輩出した北辰一刀流の千葉道場。

千葉道場と並び江戸三大道場と呼ばれた、神道無念流、鏡心明智流なども有名だ。

しかし、その三大道場の上に位置される道場がある。それが幕府直轄の道場であり、山岡も指南役を務めた講武所である。

この道場の流派が頭取である男谷精一郎が修めた直心影流であり、格、力とともに江戸最強の流派とされた。

講武所は千葉道場が多くの志士を輩出したのと同様に、榊原鍵吉、勝海舟など多くの幕臣系門人を輩出した。

ちなみに近藤勇も男谷の指南を受けたことがあり、その気迫を褒められている。

その縁か、講武所の剣術師範として候補に上がったことがあったが、採用されることはなかった。

榊原鍵吉

1830-1894

直新影流の門人であり、幕末の剣術の凄まじさを後世によく伝えた人物であろう。

明治20年、明治天皇の御前で開かれた剣術披露で、多くの剣士たちが失敗した“兜割り”を当時57歳であった榊原が、見事に成功させている。

剣が生死の分かれ目だった時代に生きた男の凄味を感じさせるエピソードである。

男谷精一郎

17981864

幕臣で勝海舟の従兄弟にあたる。直新影流を学び、江戸本所に道場を開設。

国防の一策として幕府に講武所の設置を建白し、幕府直轄の道場講武所の頭取役、剣術師範となる。

当時、剣術までも国防の一策であったことがわかる。

幕末期最強の剣士の一人であり、後に剣聖とまで呼ばれた人物である。

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