幕末 ぼくたちの好きな新選組 第二章

第二章

粛清・弾圧・テロリズム~安政の大獄と桜田門外の変~

18576月 阿部正弘急死

1858年4月 井伊直弼、大老に就任

18587月 一橋慶喜登城禁止(安政の大獄開始)

1860年3月 井伊直弼、暗殺される

幕府を二分する派閥

話は前後するが、幕府内には開国と同じぐらい重視されていた問題があった。十三代将軍徳川家定の後継者の問題である。

阿部たち開明派の藩主たちは揃って徳川斉昭の息子であり英邁の噂高かった一橋慶喜を推す。

これに対して保守派の官僚や大名たちは紀州家の徳川慶福を推すのである。阿部の挙国一致体制がすんなりと幕府内に受け入れられたわけではない。

ペリーの来航という外圧用の暫定的な体制であるとの見方が主流であり、南紀派とはそういった反阿部派の勢力そのものであった。

ここで開明派の推す慶喜が将軍となれば、阿部の国家構想はほぼ完成しただろう。

しかし1857年6月、日米通商条約の締結に向けて奔走していた阿部は急死する。

この機に反撃したのが保守派の官僚たちである。

彼らはただちに阿部の後継者である堀田正睦を失脚させ、井伊直弼を大老に就任させる。

そして、井伊が中心となって将軍の後継者を慶福と定め、将軍継嗣問題に決着をつけてしまうのである。

反動としての安政の大獄

井伊を始めとする保守派官僚たちは、改革派に対して凄まじい弾圧を行なう。

阿部の死後、幕府内の勢力を失った改革派は、朝廷を動かして慶喜継承を成立させようとする。

この運動の結果、水戸藩に慶喜を推薦する詔勅が降るが、南紀派から見ればこれは朝廷の越権行為であり、改革派の重大な謀反であった。

このことを理由に南紀派は、一橋派の関係者に対する処罰を一斉に開始する。

安政の大獄と呼ばれるこの弾圧劇は徳川斉昭、一橋慶喜ら改革派の藩主を始め、100名近い公家、大名、藩士が死罪、切腹、遠島、蟄居などの処罰を受けるという大規模なものとなった。

これは保守派の改革派に対する粛清であると同時に、外様大名や朝廷、そして世論などが政治に口を出す体制を一掃し、従来のように権力を徳川家と譜代、旗本たちに取り戻すための言論弾圧という側面もあった。

同時に井伊は積極的に開国を推し進め1858年6月には日米修好通商条約調印。そしてオランダ、ロシア、イギリスとも修好通商条約を締結していく。

桜田門外の変

井伊は積極的に開国を行なう事により、通商を幕府で独占し、幕府の経済力と軍事力の強化を構想していた。

阿部の構想とは違い、諸藩ではなく幕府のみが肥大する井伊の構想に、改革派のみならず保守派の大名たちまで危機感を募らせていく。

1860年3月、井伊は桜田門外において元水戸藩士に暗殺される。

暗殺理由は斉昭や藩主徳川慶篤の処罰に対する報復であったに過ぎない。

だが、この暗殺は劇的な政治効果をもたらす。

ひとつは井伊の死により、保守派と改革派はひとまず和解し、一橋慶喜をはじめとして処罰されていた改革派の藩主たちが復帰したことであった。

このため幕府内の深刻な対立は、ひとまず小康状態をとなるが、この政治的結末が幕府の外に思わぬ波及効果をもたらしたのである。

幕府の大老が白昼堂々暗殺され、その暗殺によって劇的に政治的状況が変わってしまった事実。これにより人々は知る。

テロリズムによって幕府を揺るがす事が可能である、と。

井伊直弼(18151860

1858年に大老に就任。阿部正弘に始まる幕府の開国路線を引き継ぎ、アメリカ、イギリス、ロシア、フランスと修好通商条約を結び、事実上の開国を成し遂げた人物である。

大老就任前の彦根藩主時代には、阿部正弘が各藩主に出した開国か攘夷かの諮問に、堂々と開国論を展開した数少ない藩主であった。

当時、外様譜代を問わず、藩主たちの中では屈指の教養を持った知識人であり、彦根では藩校を築くなど明君として称えられた人物である。

そういった事跡や言動から見れば阿部正弘の作ろうとした、徳川家を中心とする挙国一致政策を引き継ぐのに相応しい人物であったかもしれない。

しかし、阿部と彼が決定的に違うのは、国内政治に関する考え方である。

阿部は徳川家を大名たちの連合政権の盟主として見ていたのに対し、井伊は徳川家を絶対君主として見ようとしていた。

阿部が外様大名たちの見識や国力を国政に活用しようといたのに対し、井伊は徳川家の祖法として外様大名を政治に触れさせるのを徹底的に排除しようとした。

つまり、国内政策においては革新主義であった阿部に対し、井伊は保守派の頂点に立つ者であった。

その彼が取った政策は、国外政策においては阿部の路線の引継ぎと、国内政策における徹底的な阿部路線の排除である。

阿部が幕府に持ち込んだ外様大名や朝廷の影響力を幕府から徹底的に排除しようとした彼が、その強硬手段としてとった手段が“安政の大獄”なのである。

水戸藩への勅書降下より始まったこの事変は、開国派の井伊による攘夷派の弾圧と解釈される場合が多い。

だが、井伊が大獄で排除しようとした人物たちの中には開国主義の者たちが含まれており、国外政策の対立によるものでないことがわかる。

この大獄の本質は井伊と保守派官僚による徳川絶対主義の復権を賭けた弾圧劇であった。

しかし、この大獄を始めとする井伊の独走は、弾圧を受けた一橋派のみならず、幕府内部でも疎んじられるようになる。

100人を越える逮捕拘禁者は、公卿や幕臣、藩士たちであり、幕府と無縁の者ではない。

井伊に対する怨嗟の声は幕府内部でも広がっていく。また徳川幕府は伝統的に独裁を嫌う体質があり、井伊の独走は疎まれた。

井伊は1860年、桜田門外にて水戸と薩摩の浪士に暗殺されるが、おそらくそれがなくとも暗殺ないし失脚していたろう。

誰よりも徳川家を信奉し、頑迷に徳川絶対主義を取る彼は、もはや誰にとっても目障りな人物になってしまっていた。

時代は、もはや彼を必要としなくなっていたのである。

そしてこのことは、すなわち徳川幕府をも時代が必要としなくなっていたという、証左であったろう。

このことを証明するかのように、井伊の暗殺を機に時代は、幕府内部の改革論から“佐幕と倒幕”へとシフトしていくのである。

不遇の身で育てたもの

彼は彦根藩主井伊直中の14男として生まれている。

当然、藩主の座など望むべくもなく、部屋住みとして一生飼い殺される立場にあった。

根っからの貴種であれば、よくも悪くも権力抗争の巣窟である徳川家の現実を知らされる。

しかし部屋住みの身である彼は、純粋に徳川家に対する憧憬と忠誠を育んでいったのだろう。

後に兄たちの急死により彦根藩主となり大老となった彼が、徳川絶対主義を貫いていく背景に、そんな境遇があったろう。

徳川斉昭 18001860

 水戸家九代藩主。最後の将軍徳川慶喜の父。阿部の進める雄藩の政権参加において海防参与として幕府の改革に携わる。

 頑迷固陋な尊皇攘夷主義者というイメージがある斉昭だが、その実態はまるで正反対である。彼は阿部や島津斉彬らと同じ、開明派君主に属する人物である。

彼が水戸藩内で行なった政策は、藩校である弘道館に医学館を設立、藩内で種痘を行なうなど西洋医学の取り入れに熱心であった。

また太平洋に接する地理から、早くから海防の重要性を認識しており、海防基地である海防館、砲台の建築、農兵の設立し、洋式兵制を取り入れるなど西欧の技術取得に熱心であった。

また、反射炉を築き、軍艦朝日丸を建造している。

 彼は尊皇攘夷思想の源流である水戸学を生んだ水戸藩主であったが、積極的に西欧の技術を取り入れた上での国防を考えており、後に開明派君主として称えられる雄藩藩主と変わらぬ思想と政策の持ち主であった。

 しかし、阿部の急死後、井伊によって斉昭と水戸藩は、将軍継承問題の一橋派の代表として安政の大獄における最大の標的となる。

このため多数の人材を失い、また幕府も積極的に水戸藩の改革派と保守派の対立を煽り、水戸藩は内部分裂を起こす。

このため水戸は幕末の動乱に乗り遅れてしまうが、逆に水戸藩と斉昭は幕府にとって最初の脅威でもあった証拠でもある。

 幕末の開明派藩主として彼は再評価されるべき人物であろう。

徳川の血筋

 水戸家の系図を見ると、頑迷なまでに純血主義をとっていたことが分かる。

 養子などにより尾張や紀州の藩主が藩祖の血統がほとんど残らないのとは対称的に、水戸藩は藩祖である徳川頼房の血統を頑迷に守っている。

 特に11代将軍徳川家斉が行なった、自分の子を養子として縁組させて各藩の藩主とする血統支配政策から逃れた、会津と並んで数少ない親藩でもあるという点も注目に値する。

 このあたり、幕末の対立が紀州派と水戸派に分かれた理由が、単なるイデオロギーの違いというだけでなく、将軍家をはじめとする徳川家の血統を巡る、すなわち家斉系の血統と純血主義を取っていた水戸系の血統の間で起こった御家騒動という面があったことがわかるだろう。

吉田松陰 18301859

 長州藩士。長州藩の軍学師範として国防の重要性を憂い、各地を遊学する。天性の教育者で高杉晋作、久坂玄瑞など幕末期に活躍する志士を多く育てた。

 ペリー来迎時には密航を企て、罰せられるなど行動力に富む人物であった。

 これで名を知られたか、安政の大獄では罪状も曖昧なまま斬首されている。

関鉄之介 18241860

 水戸藩士。桜田門外の変の現場指揮官。斬奸状にみえる彼らの主張は、井伊の政治的独裁に対する反発であった。

 また藩主を罪に陥れられた事に対する、藩士としての“忠義”でもあったろう。

 彼らは決して倒幕派ではなく幕政改革の主張者であったが、皮肉なことにこの事件は倒幕の最大のきっかけとなった。

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