幕末 ぼくたちの好きな新選組 第一章

挙国一致 枯れゆく江戸の大樹~江戸幕府の衰亡~

18452月 阿部正弘老中筆頭就任

1853年6月 ペリー浦賀に来航

1854年2月 日米和親条約締結

18576月 阿部正弘急死

 徳川政権内部の派閥抗争

幕末の歴史が動きはじめるのは外圧からであったのは間違いない。ただ、それによって攘夷と開国に世論が沸騰し、幕末の世が始まるというのは浅慮だ。

歴史というはもっと実も蓋もない所から始まる。

阿部正弘という人物がいる。彼は天保の改革に失敗して失脚した水野忠邦の跡を継いで、幕府の実権を握った人物である。

当時、世界は帝国主義の先駆けとも言える時代であり、アジア近辺には盛んに欧米列強の艦が姿を現していた。

日本にも主に北方のロシアと太平洋のアメリカの艦が近海に姿を現し、時に開国を迫っていたのである。

おりしも1840年にはアジア最大の国家である清がアヘン戦争に破れ、アジアに対する欧米の野心が露わになった時代。

阿部が老中筆頭として政権を握ったのはそのような時代であった。彼は、その政権の史上命題を外交と国防に置いていた。

もはや鎖国政策も日本の軍事力も世界情勢に合わない事は、幕府首脳の間では常識であった。

しかし、当時、政権の中心にあった譜代大名や旗本からなる徳川官僚たちは、官僚的本能から旧来の政策や体制、利権を動かす事を好まず、現状の維持に汲々とするばかりであった。

こうした徳川官僚たちに愛想をつかした阿部は政権の原動力を薩摩藩主島津斉彬・福岡藩主黒田斉博・宇和島鍋島斉正といった開明派の外様大名に求める。

官僚体制を無視し、外様大名たちと連携した阿部だが、官僚たちの反発は大きい。徳川政権は開明的外様大名たちを中心とする阿部派と、旧来の幕藩体制の維持しようとする徳川官僚たちや保守的な大名たちによる反阿部派に分かれる。

 開国派VS攘夷派ではない

幕府の組織を握る徳川官僚たちの抵抗は大きかったが、アメリカとロシアによる日本の開国を迫る圧力は厳しく、阿部の唱える「挙国一致」的非常体制に表立って反対できるような情勢でもなかった。

 1853年にはペリーが黒船によって来航し、脅迫に近い砲艦外交を行なう。

これにより世論は攘夷と開国の二派に沸騰したとされているが、攘夷派の急先鋒である徳川斉昭や水戸藩は、思想は攘夷であっても阿部の挙国一致体制には賛成しており、むしろ対立は幕府内部の阿部派と反阿部派によるものの方が激しかった。

このような状況下で阿部は、ついに200年に渡る鎖国に終止符を打つ。1854213日、アメリカの全権大使ペリーと日米和親条約を締結する。

阿部は徳川官僚たちを抑えつけ、攘夷派も巧みに懐柔しつつ続く通商条約の締結に奔走する。だが1857617日に39歳の若さで死去してしまう。

そもそも攘夷と開国の争いの本質は、この後の徳川官僚主導で行なわれた幕府の開国が幕府の港のみであり、貿易で潤い国力をつけるのが幕府のみである事から、有力大名たちが反発し、世論や思想的に煽ったことに始まる。

少なくとも阿部の考えていた開国構想とは違ったものである事は確かだろう。

後に阿部派の大名たちが反幕勢力になる事を考えると、彼の急死によって幕府は、幕府も有力大名も手を組み挙国一致で国難に当たるという体制への道を自ら閉ざしてしまうのである。

彼の死により反阿部派の凄惨なる反撃が始まる。

阿部正弘 18191857

代々老中を輩出している福山藩阿部家に生まれる。

弱冠25歳で老中となり、水野忠邦が天保の改革に失敗した後は筆頭老中として幕府の政権を握る。日米和親条約を締結し、日本を開国させた政権担当者である。

彼の先任者である水野忠邦は“上地令(江戸・大阪周辺の諸藩の領土を徴収し天領とする)”など政策によって、幕府の軍事力と経済力を強化し、幕府の威信を回復しようとした。

しかし、これが諸藩の反発を受けて水野は失脚する。

その例を身近に見ていた彼は、薩摩藩主島津斉彬、福岡藩黒田長溥、佐賀藩主鍋島直正といった、当時藩政改革に成功し経済力と軍事力を強化していた外様藩に政権維持の協力を要請することで国難を乗り切ろうとするのである。

これがいかに抜本的な改革であったかは、徳川幕府の開祖徳川家康の基本政策が「外様大名には領土は与えるが政権には携わらせず、譜代親藩だけで政権を担当することによって国内を徳川家の一極支配とする」であった。

これを思えば、幕府にとって最大級の政治改革であったろう。

鎖国が「神君以来の祖法」といわれ開国を反対する根拠とされたが、鎖国は三代将軍家光の政策である。

むしろ外様大名に政治参加をさせる阿部の改革のほうが家康以来の基本政策を大転換させるものであったのだ。

阿部が思い描いていたのは、有力諸藩を政権参加させ、その軍事力と経済力によって国内を統治し、さらに海外へと当たろうとするものであった。

そのためには開国し、幕府を始めとして諸藩の軍事力や経済力を高め日本全体の国力を強化せねばならない。

そのために彼は、勝海舟や川路聖謨、永井尚志といった人材を登用しており、さらにその手を諸藩の藩士たちに広げようとしていた。

これは大政奉還後の新政府の政策であり、主体が幕府と朝廷の違いしかない。

思えば阿部は幕末という時代そのものを作り上げた人物かもしれない。

彼が諸藩に政権参加をさせた事で、西国の雄藩は政治に目覚める。

彼が断行した国外政策は開国と攘夷で世論を二分する。諸外国の圧力に対して挙国一致の体制をとろうとした彼によって、日本人はこの国を、ひとつの国家として意識する。

おそらく彼がほぼ挙国一致体制を築きつつあったことを思えば、幕末の動乱はなく諸藩の連合政権としての新生幕府を作り得たかもしれない。

しかし、彼が39歳で急死してしまったあたり、歴史はすでに徳川家を見放していたとしか思えない。

とはいえ、彼の政策には徳川官僚の反発も大きく、将軍家慶もたびたび政権交代を命じるような人物である。

彼が水野のように政変で失脚したということも考えられる。

すでに幕府は一人の人物が、強い意志を持って改革を断行できるような体制ではなくなっていたのである。

名門の御曹司

25歳で老中になつた阿部だが、阿部家は三代正右、四代正倫、五代正精、七代正弘と四代にわたって老中を輩出した名門中の名門である。この門地あってこその阿部の改革であった。

水野のあとは阿部?

阿部家の藩祖である福山藩は水野家の藩祖である水野勝成の跡をついでできた藩である。幕末も水野忠邦のあとを阿部正弘が継いだのは奇縁かもしれないが、もしかすると先例主義の幕府には水野のあとは阿部といった慣習のようなものを意識していたのかもしれない。

佐久間象山 18111864

松代藩士。幕末期を代表する学者の一人と言えるだろう。

一種、万能の天才と言うべき人物で砲術、科学、軍学、医学、言語学、漢詩、儒学など当時のありとあらゆる学問を修得したといってもよいほどに多彩な業績を残している。

彼は動乱期の学者に相応しく、単なる学究の徒ではなく、自分の学問によって日本の改革に当たろうとしていた。

松代藩主真田幸貫を通じて、ごく早い時期から海防の重要性や開国の必要性を説いていた。

またオランダ語にかわり、英語が主要言語になっている事を早期から見抜いていた人物でもあり、彼の国際情勢に関する知識は、当時にあって飛びぬけていた。

他に比肩し得る者がいないほどの才幹ゆえか、倣岸不遜な性格の象山であったが、教育者としては優秀であったようだ。

彼は弟子として勝海舟、吉田松陰、橋本左内、河井継之助など、尊皇佐幕を問わず幕末を彩った人材を多数輩出している。

特に勝海舟という最後に幕府を育てた人物と、長州における倒幕派の思想的支柱となった吉田松陰と、立場的には対極となったを育てたのは興味深いものがある。

また坂本竜馬も短期間だが、彼の塾の門を叩いており、象山の学識が思想的立場に関係なく突出したものであったことがわかる。

まさに当時における日本の頭脳とも言うべき人物であった。

彼は吉田松陰の密航に連座し、蟄居させられるが、後に14代将軍徳川家茂の招聘を受けて公武合体政策に携わる。

しかし、54歳のときに、人斬り彦斎と呼ばれた熊本藩の河上彦斎に暗殺され横死する。

明治後も活躍したであろう学識の持ち主であっただけに、まことに惜しい死と言える。

ちなみに河上彦斎は象山を斬ったのち、彼の業績を知り慙愧に絶えず、象山暗殺後、精彩を失ったという。

なお象山は松代藩では人気がなく、彼の死後佐久間家は断絶されられている。

日本初の電信実験

彼は軍学者としての立場から通信の重要性を知悉していた彼は、オランダの書物を元に松代で電信実験に成功している。ちなみに実験を行なった鐘楼は、真田家の藩祖真田昌幸が軍事連絡用に建設させたものである。この事から実験の目的が軍事利用のためであったのがわかる。

マシュー・カルブレース・ペリー 17941858.

アメリカより艦隊を率いて威圧外交を行い、開国の扉を開いた人物。彼の来航はオランダからの情報と阿部による情報開示によって国内では予見されていた。

突然の来航による驚きではなく、予見されていた来航により国内に開国論議が盛んに行なわれたという事実が、むしろ後の世論の沸騰に繋がっている。

水野忠邦 17941851

 徳川幕府老中。倹約令ばかりが有名な天保の改革だが、むしろ江戸大阪周辺の領土を幕府が徴収する上地令こそ天保の改革の眼目であった。

だが彼の幕府強権主義は失敗し、政権を継いだ阿部は全く逆の雄藩分権主義による改革を目指した。ちなみに彼の幕府強権主義は後の井伊直弼に引き継がれたが……。

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