感想『果しなき流れの果に』

おそらく日本のSF史上、一つを挙げろと言われたら必ず名前が挙がるであろう小松左京の『果しなき流れの果に』をようやく読んだ。

いろいろ機会なかったり絶版になってたりしたので、後回しにしていたけど、いつかは読まなくてはならないと思っていた名作である。

しかし、ダメだった……。

さすがに1965年の作品、いわば50年前の作品は古すぎた。

たぶん、日本のSFのタイムパラドックスものには必ず影響を与えているであろう作品なので、そういう意味ではむしろ陳腐化しているということが、この作品の偉大さなのだ。

そもそも「タイム・パトロール」という概念そのものがもう無理なんだね……。

昔は藤子不二雄の作品に必ずでてきたことでおなじみの「タイム・パトロール」。

「歴史を修正しようとする人間を監視し、正しい歴史を守ろうとする管理者」
この概念そのものが、もう古い。

たぶんインターネットのせいで、「言論や思考ですら管理しきれるものではないし、誰も管理できないし、しようと思ってないで無限に放置されている」というのが意識の隅々まで行き渡ってしまっているからだ。

「正しい歴史」なんてないし、そもそもタイムマシンが発明されたら「無限の数のパラレルワールド」が存在することになるわけで、無限の数あるパラレルワールドを管理するという事自体がパラレル・ワールドの概念に反してしまっている。

別に歴史改変が行われようとも、それは宇宙の中の小さな地球のほんの些細な人間のいち歴史程度が改変されることにすぎないし、そんなものどうでもいいんである。

1965年ごろは、まだ「歴史は一直線に流れている」と思い込まれていたし、世界は管理されるものであったし、一次元的な理解のされかたをしていた。だから人類の滅亡に大騒ぎしていたし、「歴史改変」が大変なことのように思われて、ワクワクされていたのだ。

そのワクワクの大事な悪役として「タイムパトロール」はいたし、時間を管理している人間がいるに違いないと思われていた。

これってある意味、まだ「政府が強大で思想統制とかできちゃう」とか幻想を抱けていた時代の産物で1980年代ぐらいまでは普通に信じられていた共同幻想だった。

その大きな実験として共産主義とソ連と衛星国家と冷戦構造が存在したのは、語り始めると長くなるから、ここでは置く。

そういう時代の作品なのだ。

しかし、インターネットと携帯電話の普及によって広がってしまった意識の無政府状態を思うと、「政府はそんなに万能じゃないし、自分の国もまともに管理できてないよね」ということが知れ渡ってしまった。

小さな小さな惑星の一国の政治のいち時代ですら管理できていないのに、無限の可能性が存在する時間やパラレル・ワールドなんて管理できるわけがない。

そもそも時間を監視して管理するという「タイム・パトロール」という存在をSF的幻想としてすら受け入れられなくなってしまっているのだ。

人間はそんなに有能じゃないし万能なわけがないって、すでに諦めがついちゃってるんだよ、みんな。

だから、『果しなき流れの果に』はタイム・パトロールやそれを操る超意識や更に宇宙を統御する巨大な超超意識というオチは、「いやー宇宙も世界もそんなに都合よくできてないでしょー」って白けてしまうだけになってる。

別に世界も宇宙も時間も管理する必要はないし、意識する必要さえない。

無限という存在は意識してしまったとたんに有限になってしまうし、ましてや無限というものを監視したり管理できるわけがない。

歴史はいくらでも変わっているだろうし、タイムマシンがあっても無限の時間の一部をいじっているぐらいで世界は崩壊なんてしないし、そんなことさえどうでもいいのだ。

タイムパラドックスというものが真面目に考えられていた時代、つまり意識そのものが一次元的であった時代の作品だよねーという。

もちろんなんども言うけど、この作品が書かれたのは1965年で、今から50年以上昔の話だ。

当時この作品がいかに鮮烈であったかは知っているし、この作品のフォロワーが無数にあったのも知っている。

その上で、「あー、もう我々はタイムパラドックスやタイムパトロールが出てくる作品を真面目に受け止められなくなってるんだなあ」という意識の違いが強く感じられた。

別に「正しい歴史」なんてないし、なくてもいい。

歴史が修正された世界があっても、別にそれは一部分にすぎないし、果てしなくどうでも良いことなのだ。

果てしなき流れの果てはどうでもいいし、ない。

時間も歴史も管理する必要もないし管理されてもいない。

繰り返すが私は「タイム・パトロール」ものは藤子不二雄作品で出会って、色んな作品を見てきたしワクワクしてきた世代の人間である。

それだけに、あー、もうタイム・パトロールという概念は無理だなー。

って白けている自分にビックリしているし、意識変わっちゃったんだなということがよく理解できた。

そういう意味では『果しなき流れの果に』は読んで良かったし、バロックSFとしては十分に面白かった。

けど、もう意識の方で、こういう作品は作れないし作る必要がなくなっているなと、同時に感じたのである。

古典を読む面白さとはこういうところにあるのだろう。

同じ人間なんだけど、もう意識や概念が変わっているんだなぁという詠嘆を味わう。

そういう意味でとても有意義な読書であった。

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