言論と表現の自由

これはたぶん法的にも倫理的にも守ってもらえないだろうし、大多数の同意も受けられない考えだという事は百も承知である。

しかし、それでも私は「表現の自由と言論の自由は無制限に守られるべきだ」という考えを持っている。

そのせいで傷つく人がいても、犠牲が出ても、最悪人死にが出ても、私は「それでも表現の自由と言論の自由は守らねばならない」と唱え続けるだろう。

もちろん私だって不愉快な表現はあるし、反対している言論も多い。

しかし、それらを表現する事と発言する事の自由は、それらも含めて守らねばならない。

私は私で「その表現は不愉快だ」と言うし、「その言論には反対である」と反論をするだろう。

はっきり言えば、これはユートピアに向かう思想や思考ではない。

むしろ、傷つく人は多く出るし、犠牲となる弱者も多数出てしまう事も知っている。

極論すれば全米ライフル協会が「銃を持つ権利」を唱えるのと同様なレベルで、社会的リスクを背負わねばならない危険思想なのだ。

たぶん、私は表現や言論の力を信じているし、それはともすれば銃器どころか兵器よりも危険なものだと思っている。

だが、それでも表現者として言論者として「表現や言論の自由は守らねばならない」と言い続ける。

だからこそだ、表現や言論には相応の責任が問われる社会であるべきだし、そうあってほしいと思っている。

ヘイト発言をする人は相応の社会的評価を受けていいし、匿名や捨てアカウントでの発言は相応の軽さしか持たなくあってほしい。

むしろ、「表現や言論は自由だからこそ」表現や言論の責任を背負わねばならないし、リツイートやまとめサイトなどで拡散する人たちも、同様に責任を問われるべきだと思っている。

「表現や言論の自由は守らねばならない」からこそ、表現者や発言者はその表現と発言に相応の評価と責任は背負わねばならない。

つまりは、受け手側も「表現と言論の自由が守られねばならないからこそ、受け手も表現や言論を享受することの責任」にも自覚的であらねばならないと思っている。

大変難しい課題だが、表現や言論の自由は守られるというのは、表現や言論に自覚的な享受者たちから相応の評価と責任が帰ってくる社会になるべきだと思っている。

表現や言論の自由は、表現者や言論人だけの問題だけではない。

それを享受する側のリテラシーや責任も問われるという事なのだ。

そんな重い社会は、はっきり言うとかなり精神的に重圧と思う。

言ってしまえば、表現や言論が規制された社会で、その判断を政府や出版社や企業などに任せてしまった方が、表現者も言論人も享受者側も楽なのだ。

だが、私はその「楽さ」は受け入れたくはない。

少しでもその重圧と責任を背負いつつ、表現者であり言論人であり享受者でありたいと思う。

理想論であり、「実害が出るし実際に出ている」考え方であるとは知りつつも、基本的にはこの考えを枉げないで生きていこうといつも思っている。

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