うまなみ三国志 三国志編 第八回 三国時代から晋へ~そしてどの国もなくなった~

第八回 三国時代から晋へ~そしてどの国もなくなった~

・台頭する司馬氏

237年6月、魏、呉、蜀に続いて遼東の公孫淵が独立を宣言します。

国号は燕。

しかし、翌年八月には、魏の司馬懿によって討伐され、あっさりと滅亡してしまいます。
蜀の北伐を退け、燕を討伐した司馬懿は、魏において並ぶ者がないほどの権勢を築きあげていきます。
239年1月、魏の二代皇帝曹叡が崩御。

曹叡の遺言により、皇族である曹爽と並んで司馬懿が三代皇帝曹芳の後見人となります。
当初は皇族であった曹爽が魏の実権を握っていました。

しかし二四九年、司馬懿はクーデターを実行し曹爽とその一派を誅殺し、宮中より曹爽の勢力を一掃。
これにより司馬懿が丞相となり、魏には司馬一族による独裁政権が築かれました。

以後、魏は事実上司馬氏の支配下におかれることになるのでした。
252年4月、呉の大帝孫権が逝去します。

享年71歳であった。

彼の晩年は老耄し、後継者争いによって、呉の大功臣である陸遜が憤死するなど、晩節を汚したという様相を示していたようです。

同年八月、続いて魏の丞相司馬懿が死去。

この二人の死は、まさに魏、呉、蜀が天下を争っていた時代の終焉を思わせる出来事でした。
253年3月には蜀を支えていた大将軍の費?が宴席で刺殺されます。

また十月には呉の軍事責任者である大将軍諸葛恪が、やはり宴席で誅殺されるという事件が起こります。

一国の宰相クラスの人物が立て続けに暗殺されるというこの事件は、この時代の不安定さをよく表わしています。
魏においても内部反乱が相次ぎ、三国ともに天下を他国と争うのではなく、内部抗争に血道を上げていくという陰鬱な時代が始まります。

長かった「三国志」の時代は、結末へと向おうとしていました。

蜀と魏の滅亡

魏における司馬氏の台頭は、国内で相当の反発を招いていました。
255年一月、当時、魏の実権を握っていた司馬師(司馬懿の息子)の専横ぶりに反発した毋丘倹と文欽が寿春で蜂起。

この反乱は、諸葛誕によって鎮圧されるが司馬氏に対する国内の不満は収まりませんでした。

同年司馬師が急逝し、その弟である司馬昭が代わって魏の実権を握りますが、彼の司馬師に輪をかけた専横ぶりに新たな反乱が発生します。

257年五月、今度は毋丘倹らを討伐した諸葛誕が、同じ寿春で司馬氏に叛旗を翻したのです。

翌年二月にこれも鎮圧されるが、連鎖して起きたこれらの反乱劇は、いかに司馬氏の支配に反感を持つ者が多かったかが伺える事実でした。
そして260年五月、極めつけの事件が起こります。

魏の五代皇帝曹髦が、専横を極める司馬昭を討つべく宮中で挙兵したのです。

従ったのは僅か三百人。曹操、曹丕、曹叡と、君主自らが陣頭に立ってきた曹家最後の親征がこれでした。
しかしこれはあまりに無謀な挙兵であり、曹髦は司馬昭の部下に殺されます。

ここで注目したいのは、司馬昭が曹髦を殺したという事実です。

皇帝を殺すということは三国志においても悪名高き董卓しか行なっていない非道です。

司馬昭と司馬一族は、帝殺しという汚点を歴史の中で背負い続けることになります――。
鍾会という男がいます。

魏建国の重鎮鍾繇の長子である毛並みのよさだけでなく、軍事と謀略においては当代随一の才能の持ち主だったでしょう。

彼は魏の曹氏が衰退し、替わって司馬氏が台頭する過程において、司馬昭の懐刀として才能を発揮。

司馬氏が権力を握る過程における宮中工作から、司馬氏の専横に毋丘倹や諸葛誕たちが叛乱を起こした際には、戦略面を立案して反乱軍を掃滅しています。

司馬昭の下で魏を衰退させた参謀とも言うべき存在です。
262年冬、前年司馬昭に蜀攻略の可能性を諮問されます。

このとき鍾会が立案した蜀侵攻作戦は、大規模戦略のお手本とも言うべきものでした。

鍾会は軍を三方面軍に分け、まず鄧艾率いる軍が甘松・沓中で姜維と全戦線で対峙。

さらに諸葛緒の軍が武都を攻略し、蜀の姜維の帰路を遮断。

鄧艾軍ととともに姜維を東西から挟撃。

そして、両軍は姜維軍を殲滅した後、東西二方向へ進撃し、巴蜀を掃討する。

一方、鍾会率いる主力軍は斜谷・駱谷道より進攻し漢中の占拠。

続いて蜀へ侵攻し成都を陥とす、というものであった。
鍾会は司馬昭よりそのまま総司令官として蜀攻略の指揮を取ります。

まず沓中に侵攻した鄧艾し姜維と対峙します。

姜維は漢中に鍾会が侵入してきたのに対し、撤退。彊川口において鄧艾の追撃を受けて敗北。
鍾会の大規模な漢中包囲戦略に対し、姜維は漢中の喉首に当たる陽安で迎撃しようとします。

しかし、鍾会の進撃は早く、陽安は失陥。

そのまま漢中は突破されてしまうのです。

鍾会が立案した戦略は、現実とは食い違ったが、鍾会は全体としては三方面軍によって姜維を翻弄し、漢中を突破するという戦略を破綻させることはありませんでした。

このあたり、鍾会の机上の戦略だけではない臨機応変な対応が光ります。
やむを得ず姜維は剣閣に篭り魏軍を迎え撃つ。

剣閣での姜維は鍾会の主力軍と前線するが、一方でこれは鄧艾と諸葛緒に行動の自由を与える結果となります。
鄧艾は剣閣で鍾会と姜維が対峙するのをよそに、間道を伝い成都を直接急襲したのです。

度重なる北伐で蜀本国にはほとんど兵力はないと見ての大胆なる奇襲でした。
これに対し、蜀軍は諸葛亮の遺児諸葛瞻になけなしの守備兵を与えて迎撃させます。

諸葛瞻は鄧艾軍の先鋒を破るが、鄧艾は一歩も引かずに逆撃して、諸葛瞻を討ち取りました。
この戦いにより、もはや成都は抵抗手段を失い、劉禅は鄧艾に降伏を申し入れます。

そして剣閣の姜維も武装解除。
かくして蜀は鍾会率いる魏の侵攻軍によって滅亡します。

さしもの天険を誇った益州も、内部は疲弊しきってより、侵攻軍を率いる鍾会と鄧艾という『三国志』の時代を通じても、屈指の名将の前にはひとたまりもなかった。
これは余談となりますが、蜀攻略で活躍した鄧艾は、264年一月に鍾会の讒言を受けて斬られています。
ところがこの鍾会、投降させた姜維とともにこのまま蜀において自立しようと企てたのです。

だが、この企ては失敗し、姜維ともども鍾会は誅殺される。
二六五年八月、司馬昭死去。

その後を継いだ司馬炎は、六代皇帝曹奐より禅譲を受け、皇帝に即位します。

国号は“晋”。

蜀に続いて三国最大の勢力を誇った魏は、内部から崩壊したのでした。

呉の滅亡

265年12月、蜀に続いて魏が滅亡。

魏の最後の皇帝曹奐は司馬炎に禅譲する形で、帝位から退いたのでした。
かくして魏と蜀の旧領は司馬氏の晋が支配するところとなり、残るは呉の孫氏のみとなります。
270年、呉は最前線の荊州の総指揮に陸抗を任命。

陸抗は、かつて夷陵において劉備を破った名将陸遜の遺児であり、その才幹はもしかすると陸遜以上のものがあったかもしれません。
当時、呉の皇帝は孫晧。

三国志の中で最悪の皇帝とされる彼の下で、呉は国力を疲弊させていました。

これをほぼ一人で支えていたのが陸抗した。

荊州には羊祜という武将が司令官として就任し、盛んに呉を圧迫しており、これに対峙できるのは陸抗をおいて他になかったのです。
272年、国境の重要地点である西陵という城において、この城の守備をしていた歩闡という人物が晋に寝返るという事件が起きます。

これに対して、ただちに陸抗は西陵奪還に出撃。羊コもまた西陵救援に向かう。
先に西陵についたのは陸抗であった。西陵城を設計した陸抗は、この城の守備力を熟知しており、強攻を避けます。

彼は二重の陣営を築き、内側の陣営で西陵城を包囲し、外側の陣営で晋の救援部隊に備えたのです。
これに対して羊祜は、陸抗の備えが堅いとみるや、陽動作戦として西陵ではなく江陵を攻撃します。

だが、陸抗はこれを陽動作戦と見抜いて動かず、西陵城の包囲を続けたのでした。
陸抗が動かないとみた羊祜は、陽動作戦から切り替えて、本格的に江陵を攻撃します。

これに対し陸抗は、江陵の周囲に堰堤を築かせ自ら江陵を水没させることで、羊祜が江陵を攻められないようにしてしまいます。

だが、羊祜は屈せず、水路を利用して輸送作戦を計画します。

これを察知した陸抗は、築いた堰堤を破壊し、この作戦を封じたのです。
この戦いは陸抗と羊祜の読み合いによって戦況が二転三転する、名勝負というに相応しい戦いでした。

戦況は読み合いに一歩勝る陸抗有利のまま展開し、ついに数ヶ月におよぶ対峙の末、晋軍は撤退。陸抗は西陵城を陥とし歩闡を斬ったのです。
この後、晋は陸抗の力を恐れ、呉に対して持久戦の構えをとります。

そして呉の人民に対して、保護政策を喧伝するのでした。

この効果は絶大で、孫晧の暴虐な政治に苦しむ呉の民たちは、次々と晋へ逃亡していきます。
これに対して陸抗も指揮権の範囲では善政を行い、民たちをひきつけます。

荊州における陸抗と羊祜の対峙は、両者が競って善政に勤めたため、荊州国境では余った食料が放置されていたも誰も盗まず、牛や馬が敵国に紛れ込んでも返還されるという、戦時の国境とは思えない状況が生まれました。

こうした対峙を続けた両者の間にはいつしか友情にも似たものが芽生えます。

病弱な陸抗が病に伏せたときに、羊祜は陸抗に薬を送り、陸抗はそれを毒味もせずに飲み、返礼として陸抗は羊コに酒を送り、羊祜も毒味なしにそれを飲んだといいます。
こうした両者の友誼に疑いの目を向ける者があったが、互いを好敵手と認めつつも、両者とも常に職務に忠実であり、敵を破るのに最善を尽くし、そうした疑いの目を退けたのです。
まさに三国志の最後を飾る名勝負がここに繰り広げられた。
274年3月、呉の名将陸抗が病死する。

この時点で呉の命脈は尽きたと言えたでしょう。

呉の政治、軍事の両面を独力で支えていたのが陸抗であり、それに代わる人材はもはや呉には存在しません。

陸抗の死を奇貨として、呉征伐を主張したのは、誰よりも陸抗の力量を認めていた羊祜でした。

彼を中心として晋による呉征伐は、繰り返し建議されています。
だが、やはり魏を受け継いだ晋にも赤壁の戦い以来、長江を渡ることができなかったというトラウマが残っていたのでしょう。
長江を渡って呉を討つという建議は常に重臣賈充を始めとする出兵反対派によって否決されてきました。
それを変えたのが278年に没した羊祜の遺言でした。

羊祜は呉における最大の癌である孫晧が帝位にあるうちに呉を攻めよ、と遺言したのです。

長年、陸抗と対峙し、呉と戦い続けた羊コの遺言は重く受け止めた司馬炎はついに呉征討を決断します。
その陣容は後漢末期からこの時代に至るまでに行なわれた戦争の中でも史上最大と言ってもいい大規模なものでした。
まず益州より王濬率いる大艦隊が長江を下って建業を目指す。
荊州の軍を率いては杜預が江陵より侵攻。
徐州の軍を率いて司馬伷が涂中より侵攻。
揚州の軍を率いて王渾が牛渚、横江より侵攻。
豫州の軍を率いて王戎が武昌より侵攻。
荊州の兵の一部を率いて胡奮が夏口より侵攻。
という六路に渡る大侵攻作戦でした。
279年11月、羊祜の後を継ぎ、荊州方面の司令官となった杜預を中心として、呉に対する侵攻作戦が開始されます。
杜預の指揮の下、晋軍は怒涛のごとく呉に殺到します。

杜預がこれを称して「破竹の勢い」と呼んだことで、この言葉は後世に残りました。

この言葉に象徴されるように、前任者である羊祜の代が練りに練り上げられた呉侵攻作戦は、空前の壮大さとともに水も漏らさぬ緻密さを備え、呉をあらゆる方面から殲滅していったのです。
これに対して孫晧は張悌に全軍を与えて迎え撃たせますが、王渾の軍と遭遇し惨敗。

この戦いで呉軍は戦力の大半を失います。
この戦いにおいて面白いのは、先鋒を担ったのが陸上戦力ではなく、水上戦力であったことでしょう。

益州方面から長江を下っていった王濬の艦隊です。
王濬の艦隊は、この日のために益州で長年建艦され続けてきたものです。

その木材の切れ端が長江を流れて呉に知られたというほどの大規模なものでした。

陸上戦力が呉の抗戦を封じる間に王濬の艦隊は長江を下り、西陵、荊門、夷道を陥落させ、さらに張象が率いる呉の最後の軍を一蹴しました。

結果的に王濬の艦隊が、呉の帝都建業に一番乗りを果たします。
皮肉なことですが、水軍の優秀さをもって知られ、赤壁の戦いを始めとして数々の水上戦を勝ち抜いてきた呉は、最後に自らを凌駕する水軍によって止めを刺されたのででしはた。
建業に迫った王濬の軍に対して孫晧は降伏し、呉は滅亡。

晋による天下の統一がなったのです。

ここにいわゆる「三国志」の時代は終わりを告げます。

・ 三国時代の歴史的意義

いったい「三国志」の時代というのは中国史においてどんな時代だったのでしょうか?
私は中国が古代から中世に移り変わったおおきな転換期だと思っています。

まず、文化的の発展を抜きには考えられないでしょう文学においては、曹操を中心とした建安文学のサロンが、詩というそれまで民間の娯楽に過ぎなかった文化を、中国文学において「士太夫嗜み」とまでになる地位に押し上げたことがあります。

また、その後の詩の形式の中心となる五言詩や七言詩が確率されたのもこの時代です。

おそらくは、この時代に普及したと思われる紙の存在も大きかったのでしょう。

この時代には、戦乱の時代であったにも関わらず多くの優れた著作が著されています。

「清談」とよばれる形而上的な、例えば「無」の存在についての議論などが交わされていたりします。

このように、戦乱の時代ではありましたが人文的にも大きな発展を遂げた時代であったと言えるでしょう。
また軍事上の発展も見逃せません。

董卓と反董卓連合の戦いから官渡の戦いまでにかけての戦争と、それ以後の戦争において戦争の指揮官として活躍する人物のタイプが明らかに変わっていることにお気づきでしょうか?

官渡の戦い以前は呂布、華雄、顔良、関羽といった、いわば猛将タイプの武将が戦闘指揮官として活躍し、華々しく敵を蹴散らしていくという戦いが中心でした。
ところが官渡以後の戦いとなると、戦争において花形として活躍するのが周瑜、諸葛亮、司馬懿、陸遜、鄧艾、鍾会、陸抗、羊祜といった知将タイプの人物が、知略を尽くして戦争を指揮するといった戦争になっていくのでです。
この戦争において花形となる将のタイプが猛将型から知将型に変遷していったのは、明らかに後漢末から三国時代にかけての戦乱期に戦争の形式が変わっていったことを意味しています。
三国時代は中国史上でも稀なほど数多くの戦争が各地で勃発していた戦乱の時代であるだけに、おのずと戦争の用法が発達を遂げねばならなりませんでした。
後漢末期が戦乱の時代となった当初は、勇猛さや人格的魅力を持って兵たちを統率し、士気を盛り上げる事によって戦いを勝ち抜く事が可能でした。

つまり、この時期の戦争というのは戦術や作戦などよりもむしろ兵の数と士気がそのまま戦況に影響する、後の時期に比べると戦争そのものの様相は単純だったのです。

そのため指揮官に求められる資質は個人的武勇、兵たちを鼓舞する人格といったものでした。

後漢という王朝はそもそもの成立が豪族たちの協力によって出来た王朝で、各地方の豪族たちは以前として広大な私有地と数多くの私兵(部曲という)を有していました。

そして後漢末期の混乱期ともなると、中央の統治能力が衰えたと同時に各地の豪族たちは漢王朝を見限って独立勢力となっていきます。

後漢末期に頭角を現す群雄たちはこういった豪族たちの盟主であるという色彩が強く、軍隊は私兵の連合体というような状態にあったのです。
このような状態では、満足に訓練を施すこともできないでしょううし、豪族として私兵を率いる指揮官たちに命令系統を整備するのも困難でした。

このため戦いはおのずと前述した兵数と士気の勢いで決まるような状況となり、活躍する将も猛将タイプの人物ばかりとなるわけです。
こういった状態に風穴を空けたのが曹操でした。
彼は彼自身が『孫子』に注釈を施して編集し、『孫子』という書物を現在まで残る形に編纂したという当代きっての軍事研究家でした。

彼は理論を実戦で立証しつつ、生涯を戦いの中で過ごし、史実に残るだけで70度近い戦争を経験するという当時においては最高の戦闘経験を持つ歴戦の軍人へと成長していきます。
その彼が理論を実践に移す事を可能にしたのに、青州兵の存在でした。

青州黄巾賊の残党を吸収した、この青州兵は豪族の手垢がついていないし、一から十まで彼のために存在する軍団でした。

曹操は純粋な直属の兵士とも言える青州兵たちに徹底的な訓練を施し、彼の軍事理論の通りに動く兵士へと鍛え上げていくのです。

実際、曹操は『歩戦令』という著書を著していますが、これは歩兵集団の機動から情報伝達、戦闘の手順までを事細かに記したいわゆる歩兵操典とも言うべき書物でした。
以後、曹操は青州兵を中心として、屯田によって集めた民たちから徴兵し、訓練を施しては直属の軍団として編成するという兵制を整備していきます。

豪族の私兵集団を集めた他の群雄たちと曹操が直接統率して訓練してきた軍団では、兵の練度はもちろんのこと、命令系統も整備されていきました。

曹操が思ったような戦術や陣形を縦横に展開する事を可能にしたのです。
そして、他国も曹操に習って兵制を大なり小なり改革していきます。

屯田による流民の吸収と中央直属の軍の整備。
こういった兵制の改革により、それまでに比べて指揮官の戦術や作戦に対する展開力に飛躍的な進歩を迎えたのです。

結果、戦争の様相は猛将たちの時代から知将の時代へとなっていくのでした。
このように後漢末から三国時代にかけては、実に明確に戦争の用法が変わっていったという、軍事史的な面でも特筆すべき時代でもありました。
また魏、呉、蜀という三国に分かれた事によって、春秋戦国時代以来、黄河文明と長江文明がそれぞれ発展し、独自に独立することが可能であることを示した時代である事も大きいでしょう。

後漢末期の混乱によって、多くの民が流民となりますが、曹操が始めた屯田制度は魏、呉、蜀にも取り入れられて盛んに、特に蜀や呉などにおいて開墾が進んでいきます。

その後、短い晋の時代を経て、長い五胡十六国時代や、その後も南北に分かれた王朝が中国史には何度も登場します。

黄河だけでなく長江でも王朝を成立させられるという事を示したという意味で三国時代の歴史的意義は大きかったのではないでしょうか?
多くの三国志ファンが経験したことでしょうが、世界史の教科書において三国時代がほとんど取り上げられていないことにがっかりした人も多いでしょう。

しかし、ただ単に、娯楽として面白い時代であったというだけでなく、十分に中国史においては重要な時代だったのではないでしょうか?

豆知識 頽廃する三国時代の文化と服飾

どうも戦乱で武骨な時代であったという印象のある三国時代ですが、曹操が興した魏王朝をはじめとして、そのような一面では語れない部分があります。

戦乱の時代に飽いた文人たちが、「清談」と呼ばれる形而上的な議論に没頭することや、ときには酒や麻薬によってトリップすることで現実を逃避していたという頽廃した時代でもあったという側面もあるのです。

特に「五石散」という麻薬が大流行し、全国で数万人とも数十万人ともいう死者を出したといいいます。

ちなみにこの「五石散」、服用してから発熱するが、これを覚ますために外を徘徊せねばならなかったらしいです。

これが「散歩」の語源であるという説があり、三国時代が生んだ奇妙なもののひとつと言えるだろう。
それとともに服飾についても、漢代のきっちりとした「袍<ホウ>」と呼ばれる筒袖の服装から、古代ギリシャやローマのトーガを思わせる、ゆったりとした皺の重なった「衫<セン>」せんと呼ばれる大きな袖が文人や貴族達に好まれるようになっていったのです。

後漢の時代、ローマとは使者が訪れたり、交易が行われたりしていたが、貴族や文人たちの服飾についての影響があったりしたのでしょうか?

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