うまなみ三国志 三国志編 第七回 孔明の北伐~さあ、みんなの大好きな孔明さんだよー~

第七回 孔明の北伐~さあ、みんなの大好きな孔明さんだよー~

・蜀の丞相諸葛亮(・孔明)

223年、劉備に代わって劉禅が皇帝に即位した蜀は、滅亡の危機に瀕していました。

夷陵の敗北は蜀の軍事と経済に深刻な打撃を与え、劉備の死は蜀の国威を極度に低下させたのです。

222年、成都にほど近い漢嘉の太守黄元が蜀に叛旗を翻したのを皮切りに、223年に益州軍の雍闓、牂牁郡太守の朱褒、越巂の異民族の王高定と、立て続けに反乱が勃発します。
ここで獅子奮迅の働きをするのが蜀の丞相諸葛亮です。

徐州琅邪郡の生まれ。劉備の幕僚となり、荊州、益州を奪取するという劉備の行動に指針を与えています。

劉備の配下としては、主に内政と組織運営の面で活躍していました。

劉備が帝位を称した後は、丞相として劉備を補佐していました。

劉備は死に際し後継者である劉禅の補佐を頼み、「もし息子にその器量なくば、君が帝位を継げ」とまで言ったほどです。

彼は屯田政策、塩鉄の専売制、蜀錦などの殖産興業の奨励といった数々の経済政策を行ない、蜀の経済を立て直します。

その一方、呉に鄧芝を派遣し外交関係の修復にも努めるのでした。

呉は魏の曹丕が南下していたこともあり、蜀からの講和と同盟の再締結の申し出を受け入れるます。

諸葛亮の最大の功績と本領は、劉備の死の直後にあります。

夷陵の戦いで軍事力の大半を失い、内政面でも劉備の死に呼応して反乱が各地で勃発。

さらに本来同盟者である呉とも敵対してしまいました。

蜀はこの時点で滅びるのが自然、と言うほどの惨状だったのです。
彼は塩鉄の専売制、蜀錦などの殖産興業などを行い、まず経済から立て直す。

次いで呉との外交関係の修復に努めます。

そして南方の反乱を討伐し、その地の統治体制を整え、後方生産地にしてしまいます。
完璧な蜀再興策であり、彼の政治家としての偉大さが分かります。

また北伐によりほとんど帝都である成都におらず、漢中にいたにも関らず、政治的に破綻がなく、蜀の内政面は北伐を支えてなお充実しておりました。

まさに不世出の大政治家であったのは間違いありません。
この時期の諸葛亮の大いなる働きによって、一時は滅亡寸前であった蜀は内政外交の両面で立ち直っていきます。
225年、蜀を再建した諸葛亮は、ようやく南方の反乱の鎮定に乗り出し、これらをすべて治めていきます。

諸葛亮はここでも優れた手腕を発揮し、この南方の異民族たちを後方の重要な生産力として確保することに成功したのでした。

・ 孔明の出師

227年3月。諸葛亮は『出師の表』を上表し、魏に対して進撃を開始します。

漢中を足がかりとして北への進撃を開始。

乱世において5年の歳月は、ひとつの時代に等しいのです。

夷陵の戦いで国力の大半を失った蜀は、早くも天下の争いから脱落していたと見られておりました。

事実、蜀は呉と講和した以外に益州に篭って、表立った動きを見せていませんでした。

その蜀が名実ともに最大勢力である魏に対して進撃したのですから、魏にとっては大いなる驚きでした。

しかし、この五年間、蜀は丞相諸葛亮を中心として殖産興業に腐心し、さらに南方で続発する叛乱を鎮定し、再び外征可能なまでに国力を回復させていたのです。
それに加えて諸葛亮は、予め上庸の孟達と内応の約束を取り付けており、十分以上の勝機はあっての北伐でした。
これに対して魏は226年に、先帝曹丕が病没していたものの新帝曹叡の下、さしたる混乱を見せず対応します。

まず、司馬懿が蜀に内応した孟達を防備を整える暇も与えず撃破して斬ります。

そして曹真を司令官として蜀を迎え撃ちます。

曹真は諸葛亮による鄧芝と趙雲を囮とした陽動作戦に乗ってしまいます。
だが228年初頭、街亭において蜀軍の最前線である街亭において馬謖は山頂に布陣。

これに対して張郃は馬謖軍の水を断つという戦術で馬謖軍を潰滅させてしまったのです。

このため蜀軍の戦線は崩壊。

唯一勝ち目があったとも言える第一次北伐は、馬謖の致命的なミスによって敗北してしまうのでした。

・ 5度に渡る北伐

228年11月、諸葛亮はふたたび北伐の兵を起こしますが、これは魏の曹真は蜀の進撃路を予期していました。

曹真は要衝である陳倉には城が築き、郝昭に守らせました。

この防備体制に、諸葛亮は手も足も出ず、また補給も満足に用意していなかったこともあり、撤退します。
229年、諸葛亮は三度目の北伐を行うがこれは中原進出のためのものではなした。

武都、陰平を併合して、北伐初の戦果を挙げて漢中に帰還しています。

231年、諸葛亮は四度目の北伐を行ないます。

病没した曹真の後をうけて司馬懿が魏軍の指揮を取り、祁山において開戦します。

これは蜀軍有利に終わりますが、補給が続かず撤退を余儀なくされます。

諸葛亮は、この撤退戦において第一次北伐で活躍した張郃を討ち取ることに成功しています。

234年四月。諸葛亮は三年の準備の末、五度目の北伐に出撃します。

五丈原において魏の司馬懿と蜀の諸葛亮は対峙し、にらみ合いとなります。

今回の北伐は三年もの準備をかけており、規模において第一次北伐と同等という最大級のものでした。

さらに諸葛亮はこれまでネックとなっていた補給の問題を解消するために、五丈原で屯田を行ないます。

食料を自給することで長期対陣を可能にしようとしたのです。
この計画は半ば成功し、蜀軍はこれまでのように補給が続かず撤退するということもなく、五丈原で魏軍と対峙を続けました。

しかし、やはり対陣が長引いて不利なのは、遠征軍である蜀であり、諸葛亮は幾度となく決戦を挑みます。

ですが司馬懿は挑発に全く乗らず、防備を固め続けました。
司馬懿の持久戦略が正しかったのです。

234年8月、内政責任者でありながら、遠征軍司令官を兼ねていた諸葛亮が、激務の果てに過労により陣没したのです。

蜀軍は魏延と楊儀の間で内紛が起こりつつも撤退します。

かくして五度に渡る北伐は、諸葛亮の悲願が果たされることのないまま終焉を迎えます。

・ 北伐の戦略とその功罪

三国時代の一角を担う蜀の事実上の建国者は諸葛亮です。

名目上の劉備の蜀は夷陵の敗戦によって瓦解していました。

実際、兵力や軍需物資の大半を失い、国内には内乱が続発し、国家としての体裁は一度崩壊しています。

外交においても、本来同盟関係にあった呉と決別して、孤立。
このような状況にあった蜀を軍事、内政、外交と全ての面で立て直したのが諸葛亮です。

このため蜀は諸葛亮がデザインした国家として再生します。
本来、軍事とは外交の一手段であり、外交が国家戦略の解決手段である事を考えれば、一国の軍事が国家の戦略に直結するのは当然です。

そのためにどの国にも、国家戦略から戦術の確立、兵士の装備までを包含した基本原則を作り上げるものです。

三国志において、ここまで自覚的にドクトリンとも言うべきものを作り上げたのは、曹操と諸葛亮だけでしょう。
曹操は太平道を吸収し青州兵を編成してから、兵力の集中運用と機動戦、それを支える兵站を基本として、魏という国家をデザインしていきます。

これについては何度も書いてきました。
これに対して、諸葛亮はまさに曹操の作り上げた魏に対するカウンターとなる国家として、蜀という国をデザインしていったのです。

諸葛亮の作り上げた蜀は、どこまでも北伐のために作り上げられた国家であり、軍事力でした。

漢中に外征用の総司令部を作り、そのために兵力の大半を駐屯させます。

そのために作られた蜀軍は、対魏戦に特化された兵力です。
諸葛亮の項目にも書きましたが、諸葛亮は曹操が作り上げた魏軍が機動力を重視しているのに対抗するために、火力でこれを撃退する方針を取っています。
連弩の発明や、歩兵の装備を剣から殺傷力に優れる刀に変えたこと。

そして現在伝わっている八陣図を見ると、前衛に歩兵を置き、中心に弩兵を置いて、両翼に騎兵を置いて弩兵をサポートさせる陣形である事がわかります。

つまり蜀軍の主力は刀を装備した重装歩兵の防御力と、連弩や弩兵の攻撃力でした。

いわばギリシャ・マケドニア時代の密集方陣(ファランクス)とその戦術思想は同じであり、これに騎兵によるサポートを加えて改良した陣形でした。
魏軍の機動戦に対する、火力での優位。これが蜀軍の戦術ドクトリンです。

そして、こうした戦術思想を取っている以上、当然戦略もこれに対応したものが選択されます。
第一次北伐において、漢中方面司令官であった魏延が、長安奇襲を進言しています。

これが退けられたのは諸葛亮と魏延の対立や、諸葛亮の慎重さというよりも、蜀軍そのものの構造のためであった事だったのでしょう。

長安奇襲のような機動戦は魏の得意とする分野であり、諸葛亮は魏軍の術中にはまるような戦略を選択できなかったのです。

演義では神算鬼謀というかほとんど魔法使いのような戦い方をしている諸葛亮ですが、実際の彼はこのように敵と味方の戦略や戦法を計算し尽して戦おうとした、まさに理論派の司令官でした。
このように練りに練った軍事ドクトリンをもって、北伐に乗り出した諸葛亮ですが、さすがに魏そのものを滅亡させることまでは考えていなかったでしょう。

彼としては涼州や長安までを占領できれば上出来と考えていたのではないでしょうか?

なぜならば彼の戦法では、山がちな西方では有利であるが平原の多い中原に出ると、一気に機動力に優れた魏軍に有利となるからです。
では何故、彼は守勢に入ろうとはせず北伐をしようとしたのだろうか?

それは蜀という国の存在自体にあったでしょう。

蜀には大きく分けて劉璋時代から使えている益州派と、荊州から劉備についてきた荊州派の二大派閥がありました。

彼らをまとめるには、どうしても外敵や共通の目的が必要であり、劉備の夷陵の戦いなども荊州派に圧されて行なわなければならなかったという面もありました。
共通の敵を作るために、自分たちの政府を正当化するために、北伐は行なわなければならない事業した。

もし諸葛亮が益州に引き篭もっていれば、おそらくは内紛が続き自然に空中分解を起こしていたでしょう。

事実、夷陵の戦いの後には何度も内乱が起こっていたし、北伐の最中にも何度も派閥争いによって諸葛亮の脚がひっぱられるという事態が起きていました。
ここで諸葛亮が見事であったのは漢中に司令部を置いて、北伐を行なう部署と益州を治める部署を完全に分けて、北伐によって蜀という国が衰亡しないようにした事でしょう。

漢中は張魯が独自の教団によって自立できたほど豊かな土地であり、また銅銭を発行できるほどの銅の産出量の見込める土地でした。

さらに魏や呉とも盛んに貿易を行うことのできる地域であり、蜀の絹や鉄、銅や銅銭などによって漢中の北伐軍は余程の被害に遭わない限り独自に自軍をまかなうことができたのです。

諸葛亮が余り無理な戦略をとらず、極力被害を受けないような戦い方をしていたのもそのような理由があったのでしょう。
こうして諸葛亮が生きている間は、五度も大規模な外征を行なったにも関わらず、蜀の国内は決して揺らぐことはなかったのです。

だが、反面、彼が死んだ後になると漢中の北伐司令部と成都の蜀王朝は、二重政府状態となってしまうという弊害が起きるのでした。
そして諸葛亮亡き後、明らかに北伐は漢中の司令部の存在理由のために行なわれるようになっていき、ついには姜維が大敗北するなど、蜀自体を滅ぼす要因ともなっていくのでした。

豆知識 蜀は蜀じゃないよ

ちょっとしたことですが、蜀は自らを「蜀」と名乗ったことは実はありません。彼らは一貫して後漢の後継者を名乗っており、「漢」を名乗っておりました。

ですから、小説やマンガなどで蜀の人間たちが自分たちを「蜀」と呼んだりするのは、実はありえないことだったりするのですね。

もちろん地方名としてならばありなのですが。

とはいえ、やはり漢ではあまりにも紛らわしいので、後世の史書や地の文、そしてここでも「蜀」と書いたり「蜀漢」と書いたりするわけですね。

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