うまなみ三国志 三国志編 第六回 三国鼎立へ~『三国志』はここからだ!~

第六回 三国鼎立へ~『三国志』はここからだ!~

・ 劉備の入蜀

この時期、益州では曹操軍が西へ動いたというだけで動揺している。このとき劉璋の側近である張松がこう進言しています。
「曹公の軍勢は強力で天下無敵でありますから、もしも漢中を占拠して張魯の軍需物資を利用し、蜀の地を取ろうとしたならば、誰もこれを防ぐことはできないでしょう」
「わしも言うまでもなくそれを心配しているのだが、まだ計略が立たないのだ」
劉璋の憂いに張松は進言している。
「劉豫州は殿のご一族にあたる上、曹公の仇敵です。用兵も巧みですから、もし彼に張魯を討たせれば張魯はきっと敗北します。張魯が敗北すれば益州は強力になり、曹公が来攻してもなす術もないでしょう」
劉璋はこれをもっともだと考え、法正に4000の兵を与えて劉備を迎えに行かせました。
しかし、この張松という人物こそが曲者でした。

彼はとうの昔に暗愚惰弱な劉璋を見限っており、誰か強力な君主の下で益州は統治されるべきだと考えていたのです。

彼は法正ら同志とともに、益州を売り渡す計略を算段していたのでした。
まず張松は、曹操こそが益州を統べるに相応しいと考えて、208年に荊州占領を祝す使者という名目で兄張粛とともに、荊州に駐屯していた曹操を訪ねています。

だが、曹操は張松の容貌が冴えないため、兄張粛をには広漢太守に任じたが、張松には県令の官職しか与えないという差別待遇をしてしまいました。ひどい。

当時、張松は別駕という職にあり、これは益州牧、治中に続く3番目の地位です。
張松はこれを恨みに思い、曹操に益州を与える計画を中止し、代わって曹操と敵対している劉備に目をつけたのでした。
そして、ついに兼ねてからの計画を実行する機会が顕われます。
張昭の同志である法正は、劉備の本拠地である公安を訪れるとともに、その指揮を劉備に委ねました。

表向きは益州救援の使者という事であったが、法正は密かに劉備にささやきます。
「将軍の英才をもって劉璋の惰弱に乗じてください。州の股肱の臣である張松は内部からこれに応じます。益州を奪い、その富みを資本として、四方の天険を根拠とすれば、大業を成就することもできるでしょう」
思わぬ成り行きで、兼ねてより目をつけていた益州への進出の手がかりを劉備は掴んだのでした。

劉備と諸葛亮にとっては願ってもない事です、ただちにある意味この悪辣な計画に乗り、益州に進撃する事を決定します。
劉備は益州を救援して張魯を討つという名目で、数万の歩兵を動員し、関羽と諸葛亮に留守を任せて益州に向います。
建安211年冬。龐統、黄忠、馬謖、陳震らを率いて劉備は益州入り。
劉備軍が辿り着くと、劉璋は兵3万を率いて劉備を迎えます。

劉璋は劉備を歓待する宴を催しましたた。

この宴は両軍の兵士たちも参加した盛大なもので、交歓すること百余日に及んでいます。
劉璋は劉備に連れてきた3万の兵を与え、さらに白水軍の指揮権をも委譲し、改めて漢中討伐を依頼したのです。

この依頼を受けて、劉備は漢中にほど近い葭萠まで進撃するが、そこで行軍を中止して動かなくなってしまいます。

ここで劉備は周囲の民心を鎮定して、益州奪取の機会を待ったのです。

もとより張魯など討つつもりなどありませんでした。
その好機が訪れるのは翌建安212年10月の事。

曹操が再び南下し、孫権軍と対峙します。

当然のごとく孫権は同盟者である劉備に援軍を依頼します。

ここで劉備は劉璋に、
「曹公が呉に迫り、呉は危機に瀕しています。孫氏と私は唇と歯のごとき密接の間柄ですから、これを見捨てることはできません。その脅威は張魯よりもよほど深刻なものです。どうやら張魯は消極的な賊ですし、心配する必要もないでしょう」
このような手紙を送って荊州に帰る姿勢を見せたのです。

そして、曹操軍を討つのも益州のためだとして、さらに一万の援軍と軍糧を求めたのでした。

しかし、いつでも張魯を討てるほどの大軍を擁しながら、一年近くも葭萠から動かない劉備にさすがの劉璋も疑惑を深めていました。

そこで兵士は4000しか送らず、軍糧も要求の半分しか送りませんでした。
ここでうっかり馬脚を表わしてしまったのが張松です。

張松は劉備が本気で荊州に帰還すると思い込み、葭萠の劉備と法正に書簡を送ろうとしました。
「今、まさに大業がたてられようとしている直前に、どうしてこれを放置して荊州などへ戻ろうとするのか?」
だが、この書簡は彼の兄である張粛の知るところとなってしまいます。

張粛は張松の裏切りにより一族が誅殺される事を恐れて、劉璋に張松と法正の計画を暴露。

劉璋は直ちに張松を捕えて、斬刑に処します。

そして、劉備の野心を知った劉璋は、劉備と敵とする事を決定し、益州北部の諸将に劉備軍を通過させないとようにと命じたのです。
一方、劉備のほうも劉璋が要求した援兵を送ってこなかった事を理由に劉璋を弾劾しています。
劉璋の事実上の宣戦布告を知った劉備は、益州への進撃を開始。

その手始めに劉備は白水に駐屯して劉備の支援をしていた楊懐と高沛を始末します。

この二人は、かねてから劉備の行動を怪しんでおり、劉璋に劉備を帰すように再三進言していました。

彼らの率いる軍が葭萠の近くに駐屯しているのは劉備にとってかなり目障りなことだけったのです。
そこで劉備は荊州に帰る事を決心したと偽って、二人を呼び寄せます。

劉備が帰ると知った彼らは無防備にも数人だけを連れて、劉備のもとを訪れたのです。

この二人を劉備は謀殺してし白水の軍を自軍に併せました。エグい。
葭萠関から益州に戻った劉備は、今までの君子面や任侠肌をかなぐり捨てて、益州獲りに手段を選ばなくなっています。

劉備はまず劉璋から借りた将たちや兵士たちを使うため、将兵らの妻子を捕えて人質としました。
そしてそれらの軍を率いて劉備は、黄忠と卓膺を先鋒とし進撃します。
これに対して劉璋は、劉璝、冷苞、張任、鄧賢を派遣して涪城で劉備軍を食い止めようとしします。さすがに実戦慣れした劉備軍が圧倒的で、たちまち敗北し緜竹まで撤退してしまっています。
そこで劉璋は李厳を派遣して、緜竹で諸将の総指揮を取らせようとします。

ところが、李厳は自分の軍を率いて劉備に降ってしまいます。

李厳軍をも吸収し強大化した劉備軍は、ここで諸将を分遣して益州の諸県を平定させます。
続いて劉備軍は雒城を包囲したが、雒城には劉璋の息子劉循を主将として張任と劉璝が立ち篭ってよく守備しました。

これまでの快進撃から一転して劉備軍は苦戦し、雒城攻撃に一年を要する事になります。
さらにこの戦いで劉備は龐統を失います。

龐統は雒城攻撃の指揮を自ら取っていたが、流れ矢に当たり死亡してしまったのです。享年36歳。楽ではなかった。
214年、雒城で苦戦した劉備は、荊州に援軍を要請しました。

諸葛亮はただちに関羽を荊州の守りとして残し、自ら張飛と趙雲を率いて益州に向かったのです。
荊州からの援軍を得た劉備軍は、ようやく雒城を落城させ、州都である成都に向かいこれを包囲します。

包囲すること数十日、劉璋の配下の中で、
「巴西、梓潼の民を涪水の西に移し、食糧をすべて焼き尽くし、固く守って戦いに応じなければ、やがて劉備は軍糧に事欠いて敗走する事になりましょう。そのときこれを追撃すれば劉備を捕えることもできます」
と進言する者がいた。だが劉璋は、
「敵を防いで民心を安んずるのが君主たる役割だろう。民を動員して敵を避けるなど聞いた事がない」
と言って取り上げませんでした。

乱世に臨んでは無能暗愚と謗られた劉璋でしたが、平時であったなら仁君として称えられた人間だったかもしれません。
成都包囲戦の最中、劉備の下へ馬超が降っています。

馬超は曹操に敗れた後、さらに夏侯淵に追撃され敗北し、漢中で張魯の客将となっていました。

だが、張魯の配下にその武勇を妬まれ、漢中をも出奔して涼州の氐族の下に身を寄せていました。
その馬超を、劉備は配下の李恢を使者にやって招いたのです。

寄る辺なき身の上であった馬超は、喜んで涼州の兵を集めて成都に赴いたのでした。
馬超の勇名は中原よりも涼州に近い益州の者の方が承知していたのでしょう。

馬超までが敵に回った事を知った劉璋は、建安十九年秋、開城して降伏したのです。

彼の下には依然として三万の兵と糧食も1年分あり、まだまだ戦えた筈でしたが、劉璋は自分が乱世で曹操、孫権どころか、最弱勢力であった劉備にすら太刀打ちできない事を悟ってしまったようです。
「私たちは二十余年もの間、益州にあっていながら恩徳を人々に敷いたとはいえない。さらに三年もの間戦い続けて人々を苦しませた。これはすべて私の責任だ」
劉璋の降伏の言葉です。
214年夏。劉備は念願の益州を得て、ようやく曹操や孫権に続く第三勢力として名乗りを挙げることになります。
中原と河北を中心に九州を制し、天下の三分の二を征する曹操。江東江南を征する孫権に続いて、益州と荊州にまたがる勢力を劉備が築いた事により、ここに事実上、三国鼎立の時代が始まることになるのでした。

荊州を巡る争い

荊州南部を併合した劉備に対し、荊州併合を悲願とする孫権。

まず孫権がとったのが妹を劉備に娶わせることでした。

表向きこれは孫権と劉備の同盟を強化する政略結婚です。

しかし、荊州南部で劉備に出し抜かれた周瑜は、結婚の挨拶に訪れた劉備を拘束し、奪われた荊州南部を奪回しようと孫権に進言したのです。

この謀略は親劉備派である魯粛が孫権を止め、また劉備も荊州南部の領有権について“孫権より借用する”という体裁を整えたため、周瑜の謀略が採用される事はありませんでした。
その後、周瑜は益州に侵攻する作戦を立案し、その戦争準備を整えていましたが、210年、志半ばで病死します。

周瑜の後、孫権陣営の主導権を握った魯粛は、劉備と交渉します。

漢昌以西を劉備が、以東を孫権が治めるという条約を結んだのです。

そして、劉備が益州を得た後に荊州を孫権に譲渡するとして、孫権と劉備の同盟関係を修復しました。
212年、劉備は益州の劉璋を攻め、214年にようやく劉璋を降伏させ益州を併呑。
このため劉備は孫権に荊州を譲渡する義務が生じたのですが、劉備は言葉を左右して履行を引き伸ばします。

さらに劉備陣営で荊州を守備する関羽が、強硬な態度で孫権に接したため、危うく両者の間で武力衝突に発展しかけるのでした。

この対立は217年に曹操が再び南下し孫権を攻めた事と、魯粛が関羽に単身で会見を申し入れて関羽を屈服させることで、ひとまず劉備が折れて荊州南部を孫権に譲渡する事で収まるのである。
だが、この外交によって劉備陣営は孫権の領土欲に辟易します。

一方で孫権陣営も劉備の外交姿勢に信用が置けなくなり、両者の外交関係は一気に冷えていきました。

そして、217年、赤壁以前より一貫して孫権と劉備の間を取り持っていた魯粛が病死してしまいます。
赤壁の戦い以後、劉備は常に孫権陣営を外交的に翻弄し続けながら益州と荊州を領有していました。

劉備と孫権の外交戦は劉備が勝利し続けていたと言えます。

しかし、後に劉備は外交戦は勝利すればよいというものではないと言う事を思い知らされるのでした。

・ 劉備の絶頂と関羽の死

215年3月、曹操がふたたび西に軍を向け、漢中の張魯討伐の兵を起こします。

曹操軍は、漢中の天険に苦戦しつつも順調に進撃し、七月には張魯の降伏を受け入れ、曹操は漢中を併合することに成功します。

ちなみにこの漢中を制していた張魯は、五斗米道という太平道と並ぶ道教の宗派の教主でした。

おそらくあっさり張魯が曹操に降伏したのも、曹操が青州の太平道を併合して以来、道教を保護する姿勢をとっていたからでしょう。

実際、張魯は魏において重用され、彼の息子である張盛の時代には太平道と五斗米道が統一されて「天師教」という道教の主勢力となっていきます。

実は張魯の子孫とその教団は現在も「正一教」という名前で残っているのです。

ちなみに現在の教主は張魯の祖父である五斗米道の教祖張衡から数えて64代目であるとのこと。
217年、曹操はふたたび大軍を発し、濡須口において孫権と激突します。

この戦いは両者痛み分けという形で終わり、名目上だけ孫権が曹操に臣下の礼を取るということで曹操は引き上げます。

この曹操に対する孫権の態度には、明らかに劉備に対する備えが伺えます。

またこの時期、何度となく孫権と劉備との間を取り持っていた魯粛が死去し、両者の関係はますます微妙なものになっていくのでした――。
こうした中、劉備は益州の喉元ともいえる漢中が、曹操に押さえられていることが最大の脅威であると判断。
217年、劉備軍は馬超を先鋒として漢中に進出します。

これを漢中防備を任されていた夏侯淵が迎え撃ちます。

これに対して曹操は交戦中であった孫権と講和し、曹洪を急派して、漢中を救援させます。

218年、下弁において馬超と曹洪の軍が激突し、曹洪は馬超軍を打ち破ります。
しかし、劉備本軍は陽平関に入り、漢中進撃を続けました。

これに対し孫権と和議した曹操は、自ら漢中に出陣するのです。
劉備は決して戦下手な人物ではありません。

むしろ当時は戦上手で知られていたほどでしたが、ただ一人曹操に対しては、常に敗北を続けました。

それだけにこの戦いには期するものがあったのでしょう。
219年春、劉備は陽平関を南下し定軍山に要塞を築き駐屯。

定軍山は漢中の西北に位置し、漢中と指呼の距離にある天然の要害で、まさに天王山というべき地です。

この地を抑えた劉備は、曹操の来援が到着する前に夏侯淵を攻撃し、曹操の従兄弟であり軍の重鎮でもあった夏侯淵を斬ったのです。
夏侯淵救援に間に合わなかった曹操は、定軍山を劉備から奪回すべく激しく攻め立てますが、劉備は頑強に抵抗し、山腹の要塞から出ることなく曹操軍を攻めあぐねさせました。

約2ヶ月に渡る定軍山の攻防戦の末、曹操軍は許からという長大な行軍の果ての戦いといいこともあり完全に疲弊します。

赤壁の教訓が頭をよぎったか、219年五月、曹操は漢中より撤退を決断するのでした。鶏肋鶏肋。
かくして劉備は漢中を併合。

益州の防備というだけでなく、長安への進撃路を確保したという意味で、戦略的にも大きな意義がある戦果でもありました。
また、劉備自身にとって長い間天敵として敗れ続けていた曹操を、堂々と正面から撃破した初めての戦いであり、当時の劉備は得意の絶頂にあったことは言うまでもありません。
ここで劉備陣営は漢中より長安をうかがうとともに、荊州より関羽を北上させたのです。
219年8月、曹操を撃退し、漢中を制した劉備は、荊州を任せている関羽を北上させます。

関羽は荊州の州都である襄陽に進撃を開始。

漢中より長安を伺いつつ、荊州より曹操陣営の首都である許を圧迫し、曹操に2正面作戦を強いる戦略です。

曹操は孫権と濡須口で痛み分け、さらに漢中で劉備に敗れており、その軍も国力も疲弊していると見ての、劉備一世一代の大戦略でした。
これに対して、赤壁の戦いより一貫して曹操に荊州北部の防備を任されていたのが曹仁です。

周瑜を大苦戦させ、これまで関羽に一歩も引かぬ戦いを見せていた曹仁は、樊城に出て関羽を迎え撃ちます。
関羽北上の報を受けた曹操は、自らは長安で劉備を警戒するとともに、ただちに于禁と龐悳に七軍を与えて曹仁救援に向かわせました。
于禁は関羽に包囲されている樊城を背後から攻撃し、幾度か交戦します。

そして樊城の北に陣営を構えましたが、運悪くここで長雨に祟られ漢水が氾濫し、于禁らの陣営を水没させてしまいます。

陸地の残る小山に分散した于禁軍は、それぞれ関羽の軍に各個撃破され、于禁は降伏してしまいました。
濡須口、漢中と勝利を得られず、さらに許では叛乱が起きていました。

今また天候に祟られて于禁の軍が敗れたと聞いた曹操は、天命が自分を見放したかと考えたのでしょう。

曹操はかなり弱気になり、荊州に近い許から遷都することを本気で考えたのです。
だが、ここで曹操の幕僚である司馬懿は、劉備と関羽の快進撃を苦々しく見ている者の存在を指摘します。

その名は孫権。
かねてより孫権と劉備は荊州問題で揉めており、劉備の勢力伸張を素直に喜べない立場にありました。

それだけでなく、この頃孫権は、こじれた外交関係を改善すべく娘と荊州の司令官である関羽を娶わせようと提案していたのです。

しかし、これを関羽は死者を口汚く罵って拒否するという態度に出てしまいました。
外交的にも個人的にも面子を潰された孫権は、曹操陣営の誘いに乗り、関羽の背後を攻撃する要請に応じてしまいます。

濡須口において孫権は漢に臣従する形で和議しており、この時点では外交的に孫権は親曹操といってもよかったのです。

またこれを機会に念願の荊州を獲得する利もあり、応じない理由は彼にはありませんでした。
孫権は呂蒙と陸遜に荊州攻撃を命じます。

この奇襲作戦は、関羽も劉備陣営もまったく予想しておらず、完璧に成功。

またたくまに江陵を占拠します。

これに応じて、劉封、麋芳、孟達といった荊州各地を守っていた武将たちが、次々と孫権陣営に帰順してしまうのです。

彼らは関羽の傲慢さに愛想を尽かしており、また、豪族出身の彼らが劉備や関羽に絶対の忠誠を誓う理由もなく、帰順は当然でした。
かくして、根拠地である荊州を失陥した関羽は補給線断たれ、また兵士たちの逃亡が相次ぎました。

これに対し、曹操軍は反撃を開始。于禁に続いて荊州救援に派遣された徐晃を先鋒として、関羽本隊を撃破します。
逃亡した関羽は、やがて孫権軍に包囲され、捕縛されます。
219年12月、関羽は斬られ、荊州は孫権の領土となります。

関羽の進撃開始からわずか3ヶ月。

あまりに短すぎる劉備の絶頂期でした。

漢の滅亡と夷陵の戦い

220年1月、曹操が病死。

その後を曹丕が継ぎ、10月に献帝より禅譲を受け、魏皇帝となります。

すでに、ずっと以前から名目だけの存在となっていた後漢王朝でしたが、ここに正式に滅亡することになります。
これに対して益州の劉備も221年4月に帝位を僭称。

ちなみに、蜀では「皇帝劉協は曹丕によって殺された」と宣伝していますが、実際は劉協は手厚く遇されており、234年まで生きました。
帝位に就いた劉備はその手始めの事業として、孫権討伐を宣言。

これに対して、諸葛亮と趙雲は反対するが、劉備は荊州進撃を強行します。

ひとつには、挙兵当時から義兄弟としてともにあった関羽が殺害されたことで、個人的な感情もあったでしょう。しかし、それ以上に切実であったのは、劉備陣営には荊州出身者が多く、彼らの動揺を抑えるためにも出兵は避けられなかったのです。
221年、劉備はほぼ益州の全軍を動員して、荊州へと進撃を開始します。
開戦当初、蜀軍の士気は高く、また劉備も歴戦の武将らしい指揮能力示し、巫において李異、劉阿を撃破しています。

さらに馬良らに命じて荊州南部の”武陵蛮”と呼ばれる異民族と連絡し劉備軍に呼応させています。
劉備軍の勢いを恐れた孫権は諸葛亮の兄である諸葛瑾を使者とし、和睦を申し入れますが、劉備はこれを一蹴。
濡須口以降、この時期の孫権の外交の変幻自在さは瞠目すべきものがあります。

彼は魏に臣従することで、魏の動きを封じたのです。

かくして後顧の憂いを断った孫権は、陸遜に兵を与えて、劉備を迎撃させます。
222年二月、劉備は自ら主力軍を率い長江の南岸沿いに進軍。

長江沿岸に七百里に渡る数十の陣営を築きます。

この戦いで劉備は呉班を囮として伏兵策を取りますが、陸遜はこれに乗りませんでした。
陸遜はひたすら夷陵で防備を固めて劉備と対陣します。

陸遜は配下にその弱気を糾弾されつつも、うまく軍を取りまとめて、半年もの対陣を続けます。

五月、陸遜は疲労の色が見えた劉備軍を攻撃するが、劉備はこれを撃退しています。

しかし、この勝利は、皮肉な事に劉備軍の慢心を生んでしまうのです。

閏六月、陸遜は全軍を挙げて劉備を夜襲。

疲労と油断に総攻撃を察知できなかった劉備軍は混乱し、撤退しようとしました。

だが、長江沿岸は地形が狭く、さらに陸遜は退路を断つとともに火攻を行なったため、進むも引くもならず火にまかれるのみとなるのでした。
兵の大半を失いつつも、辛うじて劉備は逃亡に成功する。しかし、馬良、張南、馮習、程畿といった配下を討ち取られ、ほぼ全滅と言ってもよい損害を受けたのです。
劉備陣営は、この戦いで益州の兵力、物資、人材のほとんどを動員してしまっており、そして夷陵において、ほぼ全てを失ってしまったのでした。

失意の劉備は成都に戻ろうともせず、白帝城に戻り、翌223年四月に病没。
夷陵の戦いで勝利した陸遜は、諸将が益州まで追撃すべきとするのを退け、撤退します。

陸遜の慧眼は、曹丕陣営が漁夫の利を得ようと再び南下し始めるのを見抜いていたのでした。
追撃はまぬがれたものの、この戦いで建国されたばかりの蜀は、軍事、経済ともに崩壊寸前にまで追い詰められ、各地で叛乱が続発します。

このため以後、蜀は一旦歴史の表舞台から姿を消し、丞相諸葛亮の下で、ひたすら国力の回復と叛乱の鎮定のみに腐心することになります。

豆知識 後漢代の度量衡

漢の滅亡を記念してというわけではないが、当時の度量衡をそのまま表にしてみました。
同じ漢字なのに、日本とは単位が違っていて混乱するでしょう。

例えば、関羽の身長が九尺と記録されているが、日本の尺貫法では2メートル70センチのありえないような巨人となりますが、当時の単位に直せば2メートル17センチと、確かに巨体ではいるが、ありえない体形ではなくなります。

このような誤解は、実は日本に流通する三国志関係の本で散見されるので、この表で改めて検証してください。

そう一日千里の馬といっても別に一日4000キロを走るというわけではないのです。

長さ
分 2.41mm
寸 2.41cm(10分)
尺 24.1cm(10寸)
歩 120.5cm(5尺)
丈 2.41m(10尺)
引 24.1m(10丈)
里 433.8m(360歩)

広さ
分 34.8486㎡
畝 348.486㎡(10分)
頃  34848.6㎡(100畝)


勺 2.02cc
合 20.2cc(10勺)
升 0.202 l(10合)
斗 2.02 l(10升)
斛 20.2 l(10斗)
石 20.2 l (10斗)

重さ
両 13.9g(24銖)
斤 222.4g(16両)
鈞 6.672kg(30斤)
石 26.688kg(4鈞)

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