うまなみ三国志 三国志編 第五回 赤壁の戦い~RED WALL~

第五回 赤壁の戦い~RED WALL~

・ 荊州争奪戦

曹操と劉備・劉表らの荊州を巡る戦いは、すでに官渡の戦いの時に始まっていjdq


200年、汝南においてゲリラ戦を展開し、官渡で袁紹と対峙する曹操の後方を攪乱していた劉備は、曹操に敗れ劉表の下に身を寄せjr。
演義などでは漢高祖劉邦をモデルにした大度だが軍人としては無能のように描かれがちな劉備ですが、その実像は百戦練磨の軍人と言うに相応しいのです。
黄巾の乱以来、彼は公孫?、陶謙、呂布、曹操、袁紹などの陣営に所属に、豊富な戦歴を重ねてます。

そして、どの陣営においても重きをなすほどの実績を重ねていました。

戦いに敗れ逃げ回っている姿の印象が強い劉備ですが、彼が敗れるのは後方で裏切りがあったり、寡兵をもって曹操や呂布といった当代随一の知将、猛将と戦わねばならなかったような場合だけです。
逆に言えば、曹操のような追撃戦の名手と戦って、未だ命を全うしている事自体が、彼の戦術や戦略眼と見切りの判断の巧妙さを表していると言えます。
つまり当時の劉備は、曹操には及ばないものの戦歴豊富かつ判断力に優れた名将として評価されていたのです。

また、その評価あってこそ、どの陣営に属していても重んじられ、また敵に回すことを恐れられたのです。
当時、劉表は南陽の地の平定に奔走していました。
南陽は後漢の時代光武帝劉秀が根拠とした地であり、後漢においても全国随一の人口を誇った豊かな地です。

黄巾の乱や袁術の暴政などによって疲弊しきっていたが、依然としてこの地の戦略的重要性は衰えていません。

この地は、かつて春秋戦国時代に楚と呼ばれていた地であり、周囲を山岳地帯が取り囲む盆地となっておりました。

さらには楚の時代に建設された長城が連なっています。

荊州を領有する劉表にとって中原の勢力に対する防衛線を築くのには最適の地勢にした。
袁術が去り、張繍が宛を領有するようになると、劉表は張繍と結んで、しばしば曹操に苦杯を舐めさせています。

特に宛や穣を包囲した曹操軍の後方を、劉表が遮断して曹操軍の兵站線を断つという戦略は、彼らにとって常道でした。

ところが官渡を前に張繍は賈詡の進言を受けて曹操に降ってしまいます。

張繍は中央に召還され、再び南陽は劉表の敵地となってしまったのです。
それから劉表はしばしば北上して南陽盆地を平定しようとしています。
劉備が劉表を頼ってきたのは、こんな時期でした。

名将劉備の来訪に劉表は喜び兵を与え、新野に駐屯させます。

まさに新野の土地は南陽盆地を全て見渡せる要衝です。
劉備は新野を根拠として盛んに北上して南陽の諸城を陥とし、劉表の期待に応えます。
そして、劉備と劉表は南陽盆地を見事に平定。

202年、曹操が河北の平定に向かった隙を突いて、長城を出て葉に攻め入ったのです。
これに対して曹操は夏侯惇・于禁・李典を送って葉の防衛に当たらせました。
ここで劉備は、葉の陣営を焼き払い撤退。
これを夏侯惇が追撃するが、これは劉備の策略でした。

劉備は夏侯惇を盆地内に引き込んで、博望の地において奇襲をかけて夏侯惇軍を撃破してのけました。
その後、曹操は西平まで軍を南下させ劉表を脅かしますが、これは河北の袁紹の遺児たち、長子袁譚と三男袁尚の勢力を二分させるための陽動作戦でした。

曹操の脅威が南へ向いたと見た、この二人はたちまち分裂して袁紹の跡目を争い始めるのです。
これを見た曹操は直地に北上を始めて、改めて河北平定に乗り出します。
一連の戦いで武功を挙げた劉備の声望は、徐々に集まっていきました。

彼に心を寄せる者は増え、彼の下に身を寄せる人士も現れはじめています。
この事は劉表に警戒心を抱かせるに十分であったと言えるでしょう。
南陽郡の平定がなり防衛線を確立したこともあり、劉表は次第に劉備を遠ざけるようになっていきます。

203年から孫策の後を継いだ孫権は江夏の太守黄祖を盛んに攻めており、これに対する防備に劉備を用いるのも手でしたが、劉表はそれをしておりません。

以後、劉備は前線に用いられる事はなく、それに対して、劉備は脾肉を歎ずる事で自分が無害である事をアピールせねばならなかったほどでした。
建安十二年、曹操が自ら北方へ烏丸討伐に遠征した折、劉備は劉表に今こそ許を突くべきだと進言します。

曹操ではなく、その配下の武将ならば夏侯惇を破った事でもわかるように、劉備はその欠点を知り尽くしておりました。

しかし、劉表はこれに従いませんでした。

翌年病死する劉表は身体も弱っており、すでに死期を悟っていたのかもしれません。

彼は曹操に対するよりも、後継ぎと定めた劉琮に対する劉備を警戒したのです。
その結果、劉備は劉表に新野ではなく樊城に駐屯する事を命じられます。
元々、劉表と劉備は劉備を新野に置き、曹操が長城に近付けばすぐに長城のいずれの防衛線でも救援に迎えるという体制を持って、曹操に対する防衛戦略を取っていました。
襄陽の劉表本軍、新野の劉備、そして最前線の楚長城。このラインにおける防衛戦略こそが、曹操の南下に対する荊州の防衛の要点中の要点であった筈なのです。

ところが劉表は劉備に樊城駐屯を命じます。
樊城は劉表勢力の本拠地である襄陽の漢水を隔てたすぐにある双子城です。

劉表は劉備を自分の目の届く所に置いたのでした。
劉備の無念たるや察するに余りありますね。
劉備とその軍が樊城にあるという事は、曹操が楚長城を越えようとしたとき、その防衛に駆け付けるのが間に合わないという事なのですから。
この時点で劉表はほぼ曹操に対する徹底抗戦の意思を捨てたのではないでしょうか?
208年7月。
曹操は本格的な荊州侵攻を開始します。

そしてその翌月、劉表は病死。
おそらく劉表が病で伏せていたのを曹操はすでに情報として察知していたでしょう。

前年、新野において南陽盆地を警戒していた劉備が樊城に下げられていた事も知っていたに違いありません。
曹操軍は一気に長城を越え、宛を陥落させます。
劉表の死により、ただちに劉表の側近である蔡瑁と張允は、劉琮を後継者として立てます。

それとほぼ同時に、曹操へ使者を送り降伏を申し入れたのです。
ちなみに劉琮は巷間に伝えられているように、曹操に素直に降伏したわけではありません。
むしろ抗戦派でした。
劉琮「今、諸君とともに先君の事業を継ぎ、楚国全土を抑えて、天下の伏勢を見守ればよいではないか。どうしてそれができんのだ?」
これに対し傳巽は、曹操がすでに宛に到達している事を知らせ、諭しています。
傳巽「劉備を使って曹公と戦うには力が足りません。将軍(劉琮)は御自身と劉備を比べてどう思われますか?」
劉琮「私の方が及ばない」
傳巽「劉備が曹公に敵わぬのであれば、荊州を保つ事はできますまい。逆に劉備が曹公を破るような事があれば、劉備は将軍の下風に立つ事を潔しとしますまい。どうかお迷いなさらぬよう」
樊城の河ひとつ隔てた向こうで行なわれたこれらのやりとりに、劉備は一切関る事を許されれませんでした。

それどころか、曹操の侵攻すら彼は知らされなかったのです。
これに激怒した劉備は劉琮勢力から離脱する事を決意します。
このとき劉備の陣営に加わったばかりの諸葛亮が「今、川を渡り、襄陽を攻めて劉琮を捕らえれば荊州は公の手に帰すでしょう」と進言しますが、これを劉備は「それは忍びない」と退けています。
これは別に劉備が甘いのではありません、劉備はこの時点で自分の立場を正確に理解していたのです。
そもそも荊州の劉表政権は劉表が荊州に赴任してきた折に、蔡瑁や?越、張允といった地元の有力豪族たちの助力によって成立した政権です。

その蔡瑁や張允らは、蔡夫人の産んだ劉琮を雍しており、ここで襄陽を襲って劉琮を殺したりすれば、彼らが一斉に反発するのは間違いありません。

なにより晩年の劉表自身が劉備を警戒しており、樊城に駐屯させたという事で、劉備に対する備えも怠っていなかったでしょう。
そのような状態では、荊州を得るどころか後背に敵を抱えた状態で、体制も整える間もなくすでに宛にまで至っている曹操と全面対決をする事になります。

それで戦えると考えるほど、劉備は甘い男ではありません。
ともあれ、これは諸葛亮が愚かであるというより、劉表政権との付き合いの長さと深さによるものでしょう。

内部事情を知らなければ、劉備の声望は荊州に轟いていたのは確かでした。
ここで劉備は二者択一を迫られます。
ひとつは、ここで配下を率いて江夏の劉琦の下に身を寄せる事。
江夏は孫家陣営との国境に接しており、荊州における東の要所です。

駐屯はしている兵力が大きく、さらに銅緑山を始めとする鉱山を多く擁する重要拠点です。

この地の太守である劉琦は、諸葛亮の進言によって江夏太守となったという経緯もあり、劉琮とは違って劉備陣営に好意を持っている事も大きな理由になります。
単純に保身を考えれば、ごく自然に江夏に身を寄せて、体制を整えるというのが自然でしょう。
ところが劉備は、もうひとつの道を選んだのでした。
それは、荊州の物資集積地点であり荊州の中心地である江陵に向かい、この地と物資を押さえ、江陵を根拠地として荊州南部において割拠して曹操軍と対しようという戦略です。
一度、行動を決めた劉備の動きは速い。
彼は襄陽と樊城の間に駐屯する水軍をまず抑えます。

元々、樊城に駐屯する軍は劉備の指揮下にあり、曹操の侵攻を防衛するという任務についている軍です。

これを劉備が指揮するのは、ごく自然であした。

劉備は自分が劉琮から離脱するという事をおくびにも出さずに水軍を掌握し、関羽に率いさせせます。

そして、この水軍を江陵に向かわせたのです。
その後、劉備は曹操軍の暴虐ぶりを呼号しながら、南下。
なにしろ、劉備は曹操軍による徐州大虐殺をこの目で見ている男です。

曹操軍の恐ろしさを説くのに、これほど好適な人物もありません。
元々、中国は黄河流域と長江流域では別文明です。

言葉も違うし、移動手段も食文化もまったく違う。

そのため長江流域の人間が黄河文明の侵略に怯える事は甚だしく、劉備の喧伝にいとも容易く乗りました。
この劉備の動きに注目していた者がおりました。
それは江東の孫権陣営より「劉表の弔問」という名目で派遣されていた魯粛です。
彼はこの時点で夏口にいましたが、劉備が襄陽を出て江陵に向かうと聞きつけると、ただちに江陵に向かって船を出したのです。
襄陽を始めとして、荊州北部の各地から劉備に付いて行く流民が集まり、十余万の流民と数千台の車が劉備に付き従います。
しかし、そのために1日十里余りしか進めませんでした。

この時代、標準の行軍速度として1日三十里をもって一舎という単位が存在しています。

つまり劉備軍の行軍速度は通常の三分の一に低下したことになります。

ちなみに後漢の1里は約434メートルですから、1日に約4kmの速度でした。
この行軍速度に苛立ったある人が劉備に進言します。
「すみやかに行軍して、まず江陵を保持すべきです。今、ここに大勢いるといっても武装している者はわずかで、もし曹操の軍がきたならばどうするつもりですか?」
これに劉備は答える。
「そもそも大事を成し遂げるには、人間を基本とせねばならない。今人々が私を頼ってくれているのに、これを見捨てておけようか」
と一見、ヒューマニズムな溢れた言葉を劉備は吐きます、この件に関しても劉備は冷徹な判断を働かせておりました。
まず劉備が荊州に割拠するに当たって、生産人口を移住させるのは国力という面において重要である事。
そして、すでに距離は引き離しており曹操が行軍してきても追い付けない距離は稼いでいる。

それに襄陽において劉琮の降伏を受け入れたならば、曹操としては降伏した劉琮やその配下の蔡瑁や張允、蒯越たちの慰撫と処置を行なわねばならない。
たとえ1日十里の速度であっても、十分に江陵に逃げ込めると判断しての劉備の言葉でした。
そうして彼らはようやく当陽にまで至ります。
彼らは信じられない声を聞く。
劉備の南荊州割拠の策は、彼の置かれた状況を見れば誠に時宜を得た物でした。

これが成功すれば、南荊州の劉備、江夏の劉琦、江東の孫権と曹操を半包囲する形で迎え討つ事ができます。

また江陵の物資を押さえてしまえば、曹操の兵站は限界に達しており、その大軍を養う事も難しくなります。
劉備は彼がとれる最善の戦略を取ったと言ってもよいのです。

演義などでは、ただの逃亡劇としか描かれない局面ですが、むしろ劉備の戦略眼と判断力、決断力が光る場面なのです。
しかし、劉備の不幸は、相手が三国時代どころか中国史上でも不世出の軍略家であった事でした。
宛を占拠した曹操は早くも劉琮の降伏と劉備の襄陽脱出を知る。
そして彼はこの時点で、劉備の意図を全て見抜いていたのです。
さしたる交戦もなく、容易い進軍に見えた曹操軍の荊州侵攻作戦であったが、曹操は今こそが自軍の危機である事を悟ります。

そして、まともな武将であるならば決して取らぬであろう決断を下す。
彼は輜重を捨てさせ、本隊を襄陽に急がせると同時に、軽騎兵のみでわずか五千の部隊を編成して昼夜を問わない強行軍で劉備を追撃させたのです。
一昼夜三百里(約130km)という数字がいかに非常識であったかは、通常の行軍速度が1日三十里であることからもわかるでしょう。
しかも、その数は精鋭の騎兵とはいえわずか五千。

あきらかに劉備が率いる兵力よりも少なく、さらに昼夜兼行の強行軍です。

このある意味、官渡の戦いにおける烏巣の奇襲以上に無謀な作戦を、曹操は自ら率いて実行したのです。
曹操はそれほどまでに劉備を恐れていました。

彼が江陵を押さえ荊州南部に割拠する事を、劉琮の降伏よりも重大時として判断したのです。

さらに劉備を討つには、配下では敵わないと見て自ら追ったのです。

劉備ほど曹操に何度も敗れた者はおりません。

しかし、その手を常にすり抜け続けたのも彼でした。

また、曹操ほど劉備を高く評価している者もいません。

まさか劉備自身ですら、曹操にこれほどまで重視されているとは思わなかったでしょう。
なにしろ、この曹操の作戦は本当に薄氷と言ってもよかったのですから。
ごくわずかに劉琮かその配下が心変わりすれば、曹操の奇襲部隊の背後を遮断するのは容易でした。

そして追い込むだけで曹操は容易く討ち取れたであろう。
事実、劉琮の配下で王威という人物が劉琮に、
「曹操は将軍がすでに降伏され、劉備が逃走したと知れば、軽兵で進軍してくる事でしょう。私に奇襲部隊数千を与えてくだされば、これを要害の地で迎え撃てば、彼を捕らえる事ができるに違いありません」と進言しています。
幾重にもリスクを重ねた上での曹操の奇襲攻撃は完全に成功。
多くの民を抱えた劉備軍は混乱し、劉備は妻子を捨てて逃げる始末でした。
この間、趙雲の阿斗救出や軍が潰滅して逃げる劉備の殿についた張飛が川を盾にして「我こそは張益徳、我と思わん者は参れ、死命を決せん」と大見得を切って劉備を逃がした逸話などがありますが、大勢には影響しません。
曹操軍は劉備軍を蹂躙し付くすと、江陵に向かって転身する。

見事なまでの一撃離脱で劉備軍を潰滅させ、そのまま江陵を確保してしまいます。
ほとんど彼自身が流民同然となった状態で、当陽に向かった関羽率いる水軍に拾われ、劉備は助かる。
このいわば時間と距離との戦いとなった劉備と曹操の戦いは、劉備軍の潰滅という結果に終わったが、それだけに終わらなかったのは彼らしい。
江陵が曹操の手に落ちたと知った魯粛は、ただちに当陽に向かい、この漢津という渡河地点で劉備軍を拾い上げます。
魯粛は劉備の雄図を称えながら、それが果たせなかった事を残念に思うと同時に、孫権と連衡して曹操軍に当たるよう説くのであった。
優秀な外交家は、味方を最も安い値で買い上げて、高く売りつけるものですが、このときの魯粛がまさにそれでした。

劉備にとって最悪の時期に、手を差し伸べる事によって、彼は劉備に大きな貸しを作ったのです。

この後、魯粛は一貫して劉備と孫権の同盟を重視して、曹操に対抗する戦略を取り続けますが、常に劉備陣営は魯粛に頭が上がらなかったのも、このためです。
ともあれ劉備と魯粛は、そのまま長江を下って夏口に至ります。
ここで江夏太守劉琦と合流して、なんとか軍勢を再編成します。

そして、正式に諸葛亮を孫権の下に派遣して、劉備と孫権陣営の同盟を結ばせます。
言ってしまえば、当初取れた筈の「もうひとつの選択」に戻ってしまっただけの事ですが、この一連の「戦い」で形には見えない劉備の得たもの、曹操の失ったものは大きかったのです。
まず劉備は反曹操の荊州における旗手として、荊州に劉備ありを印象づけた事。

この後、劉備の下には、曹操による荊州支配をよしとしない人士や豪族たちが集まってくるのでした。
また、劉備という、曹操を知り尽くした存在を曹操自身がどれほど恐れているか知らしめた事も大きい。

これにより孫権は劉備と手を結ぶ事に一気に傾きました。
そして、当陽の長坂における曹操の民たちの虐殺は、劉備の宣伝する「北方人である曹操軍の暴虐」をそのまま証明する事にもなりました。
まだ表面化はしていないが、これら全ての事象が、この後行なわれる、『赤壁の戦い』において、伏線となっていくのです。
その意味においても、208年における曹操の荊州侵攻から始まった一連の「戦い」は、単なる「戦争の下手な劉備がまた曹操に終われて逃亡した」と片付けてよいものではありません。

これはまさしく戦争であり、将兵よりもむしろ時間と距離を争う、一流の戦略家たちの読みあいともいえる戦いであったのです。
正しくこの戦いは、有名な「赤壁の戦い」の前哨戦とも言うべき戦いであった。

・ 劉備と孫権の同盟

荊州と同じく江東の孫権陣営もまた、降伏か抗戦かで二分されていました。

ここで主戦派である魯粛は独断で、あくまで荊州における主戦派の代表であった劉備と同盟してしまいます。

この時期の魯粛の働きはめざましい。

周瑜を招聘する一方で、魯粛は劉備の軍師である諸葛亮を孫権に引き合わせています。

言うまでもなく、劉備との対曹操同盟を締結させるためです。
この席で諸葛亮は、孫権に対してかなり挑発的な態度で臨んでいる。
「今曹操は中原を平定し、さらに荊州を破って威勢は四海を震わせております。このため英雄も武力を用いる余地もなく、劉豫州(劉備)は遁走して今に至るのです。将軍よ、あなたも自分の力量を推し量り、この事態に対処なされませ。もしも、呉越の軍勢をもって中国に対抗できるならば即刻国交を断絶されるに越した事はありませんし、もしも対抗できないのなら、兵器甲冑を捨てて臣下の礼を取って服従なさるがよいでしょう。いま将軍は、表面は服従するように見せかけて、内では引き伸ばし工作をして抵抗しよとしておられます。事態が切迫しているのに決断をお下しにならないならば、災禍は日ならずして訪れるでありましょう」
これに対して孫権は反論する。
「もしも君の言うとおりだとすれば、劉豫州はなぜ曹操に降伏せず、あくまで戦い続けるのだ?」
「劉豫州は王室の後裔であり、その英才は世に卓絶しております。多くの士が敬慕するのは、まるで水が海に注ぎ込むのと同じです。もし事が成就せねば、それは運命であり、どして曹操の下についたりできましょうや」
諸葛亮はあくまで孫権と対等に同盟を結ぶつもりでした。

もし敗残の軍である劉備が孫権に対して下手に出れば、その傘下に組み入れられてしまうだけになります。

そのため諸葛亮は同盟を結ばないならば、単独でも劉備は曹操と戦うだろうという気概を孫権に示したわけです
孫権は諸葛亮の挑発に乗ります。
「わしは呉の全部の土地、十万の軍勢をそっくりそのまま持ちながら、人の掣肘を受けるわけにはいかない。わしの決断はついている。劉豫州以外に曹操に当たれる者はいないと思うが、劉豫州は曹操に敗れたばかりだ。この後、どうしてこの難局にあたることができようぞ」
孫権は諸葛亮の痛い所を突いた、しかし諸葛亮は動じない。
「劉豫州の軍は長阪で敗れたとは申しましても、現在、逃げ帰った兵と関羽の水軍の精鋭合わせて1万人。劉琦が江夏の軍兵を集めればこれも1万人を下りません。曹操の軍勢は遠征で疲れ切っております。いま、将軍が本当に勇猛なる大将に命じて兵士数万を統率させ、劉豫州と計を供にし力を合わせる事がお出来になるならば、曹操の軍勢を撃破するのは間違いありません」
この言葉に孫権は納得し、劉備と同盟を結ぶことを決めました。
これを受けて元々が主戦派である孫権と周瑜は、魯粛より派遣された劉備陣営の諸葛亮とともに曹操との対決姿勢を明らかにして、降伏論者たちを押さえ込み、開戦を決定します。

降伏論にトドメを刺したのが周瑜の言葉でしょうう、

「曹操は水軍と歩兵が八十万と言っているが、彼が率いている中原の人数は十五~六万に過ぎません。しかも、その兵士たちは軍事行動が長く続いて疲れ果てております。荊州で手に入れた劉表の軍勢も最大限に見積もって七、八万止まりで、まだ完全に曹操に心服しておりません。敵は疲れ切った兵卒と心が動揺している軍勢をまとめているに過ぎません。人数が多いとはいってもまったく畏れるに足りません。精鋭五万が手中にあれば十分にこれを防ぎ止めることができます」
周瑜の言に従い、孫権は劉備と同盟し曹操と戦う事を宣言し、周瑜に三万の兵を与えて、曹操軍と対決するように命じたのでした。
一方、荊州を併合した曹操であったが、できれば彼は戦わずして孫権を降伏させたかったでしょう。

すでに荊州併合で補給線は延びきっており、また長い間、河北・中原を留守にするわけにもいきません。

荊州を固めて持久戦に持ち込むべしという進言もあったが、曹操は孫権があくまで抗戦することが明らかになると、短期決戦を挑むことに決定するのである。

・ 赤壁の戦い

一方、孫権の徹底抗戦の姿勢と劉備との同盟を知った曹操もまた、進撃して孫権を討つかこのまま荊州を固めて許に戻り態勢を整えるかの選択に迫られていました。
謀臣の賈詡はこう進言していた。
「公は昔、袁氏を破り、今また荊州を手中に収めました。威名は遠方に轟き、その勢いは天下に比肩する者がありません。古来より豊饒の地である荊州をしっかりと統治し、百姓を慰撫すれば、労せずして江東は屈服するでしょう」
しかし、この進言を入れず曹操は進撃を開始する。

曹操としては荊州を手中にした勢いと、江東の動揺を重視したのです。

このまま持久戦に持ち込めば、むしろ江東の動揺も収まり、夏口に逃げた劉備も彼を慕う者は荊州に多い故に力をつけていくでしょう。
また、あまり長い間許を空けるのも、中原と河北を統一したばかりの曹操にとっては不安な事でした。

事実、関中では馬超や韓遂が不穏な動きを見せています。
以上の理由から曹操は短期決戦を選択したのでした。
208年10月、曹操軍20万は水路陸口を目指し、一気に孫権陣営を突こうと出撃する。

しかし、不運なことに曹操軍の前に濃霧が発生したため方向を見失い曹操軍は数日をロスしてしまいます。

思えば、これが孫権軍の最大の危機であった。
周瑜率いる劉備・孫権連合軍は急ぎ長江を溯り陸口を占拠。
そして赤壁付近でさまよう曹操軍を発見し、これを奇襲しています。

この戦いで曹操軍は水軍に不慣れなところを見せ、奇襲に対抗することができず、大軍ながら混乱してしまい、曹操軍は退却を余儀なくされている。
最初の遭遇戦で敗北した曹操軍は烏林に接岸し、ここに水塞を築いて長江に臨みます。

一方、孫権・劉備軍もその対岸である赤壁に陣を築いてこれに対しています。
緒戦に敗れ、また一気に陸口を突くという当初の戦略が果たせなかった曹操は、一転して守旧の構えを取ります。

烏林に大要塞を築いて防備を固める一方で、船と船を繋いで板を渡してあたかも一個の巨大な戦艦のようにして兵や馬が行き来できるようにしたのです。

これは水戦に不慣れな北方の兵のために、少しでも陸上に近い環境を作ろうとしたのでした。
曹操にしては珍しく消極的な戦い方になっていますが、このとき曹操軍では疫病が発生していたのです。

長年の戦いで疲れていた上に船酔いなどもあり、北方出身の曹操軍主力は免疫力が低下していたのでしょう。

その被害は深刻で、曹操は再度退却を考えはじめます。
こんなときでした。

孫権軍の黄蓋が投降してくるという手紙が曹操の下に届いたのは。

最初の戦いを制したものの、曹操軍の防備の固さに手を出せず悩んでいる周瑜の下に黄蓋が訪れます。
「ただいま、敵は多勢で味方は少数です。曹操軍の船艦は互いに船首と船尾を連ねてますから、焼き討ちをかければ敗走させられます」
周瑜は黄蓋の策を受け入れ、蒙衝(中型の戦船)と闘艦(大型の戦船)を数十艘選び出し、それに焚き木と枯草を積み込んで中に油を注いで幔幕で覆い、火計の用意を整えました。
そして黄蓋に曹操に偽りの投降をさせたのである。
黄蓋の手紙には、自分はもともと帰順派であるが、周瑜や魯粛といった若造たちが浅はかにも徹底抗戦を唱えて戦端を開いてしまった。

私はとても付いて行けないので降伏する。というような事が書かれていた。
彼の脳裏には官渡の戦での許攸の裏切りがちらついたのでしょう。

このときの曹操は、意外なまでに素直に黄蓋の投降を受け入れています。
そして208年12月。黄蓋軍の擬装船は約束通りに曹操軍に接近してきていました。

そして擬装船の上では兵士たちが口々に「投降!! 投降!!」と叫んでいる。
曹操は黄蓋の投降が事実だと判断し、擬装船を水塞内に引きこんだのです。
黄蓋の船がすっかり入塞すると、曹操軍の官吏や兵士たちは歓呼の声を挙げた。

これでこの戦いは勝利できると信じたのでしょう。

彼ら兵士たちにとっても苦しい戦いだったのです。
しかし、次の瞬間、その歓声は炎によってかき消され、歓声は悲鳴へと変わります。
黄蓋軍の兵氏たちは、船に火を放つと海へ飛び込み、泳いで背後から付いて来ていた走舸(小型で快速の戦船)で逃げてしまったのです。
船は火計のための擬装船でした。

曹操が気付いたときはすでに遅く、炎は曹操軍の船を焼き、陸上にまで延焼し始めていました。
曹操は退却を支持し、曹操軍は多数の焼死者と溺死者を出して退却。
退却する曹操軍を追撃したのは劉備軍でした。

劉備は急いで退却する曹操軍を追撃しますが、曹操の逃げ足は素早く、これを捕捉する事はできませんでした。

それどころか、めぼしい部将の一人も討てなかったのですから、この追撃戦は完全に失敗であったと言っていいでしょう。

曹操は退却戦の途上で、追撃戦の途上で劉備をこう笑っている。
「劉備はわしに匹敵する英傑だが、計略を考えつくのが遅過ぎる。この大風に乗じて火をかけたならば我々は全滅しただろう」
劉備が火を放ったのは、曹操が危地を脱した後でした。
曹操は江東討伐が失敗したのを悟り、曹仁と徐晃を江陵に残し、襄陽には楽進を置いて許に帰還します。
この赤壁における戦いでの曹操軍の被害は実は意外なほど少なかったのです。

焼死や溺死した者のほとんどは水軍の主力となった荊州の兵でした。

そして何よりも曹操軍の人材的被害のなさは不思議なくらいです。

この戦いで、名立たる武将や軍師たちは誰も死んだり捕えれたりしておりません。

それどころか投降した者すらなかったのですから、官渡における袁紹のような大敗北でなかった事は確かです。

事実、その後も曹操陣営での政治軍事に渡る活動は衰えを見せておらず、依然として圧倒的な国力を維持し続けています。
この戦いで曹操が失ったもので大きかったのは、むしろ名望のほうでした。

もはや曹操軍の『無敗神話』は崩壊し、荊州兵を多数死なせた事で荊州における豪族たちの支持基盤も失いました。

また、中原河北を制して一気に天下を統べるという、時勢の気運も彼から離れて行きました。
赤壁において曹操は将兵の被害こそ少なかったものの、彼の覇業が完全に阻まれる事になったは確かです。

その意味では孫権と劉備は完全にその目的を果たしたことになります。

・赤壁の戦い始末記

赤壁の戦いの後、孫権の下に魯粛が帰ってきました。

戦闘の指揮こそ周瑜がとったが、この戦いにおける最大の功労者は彼でした。

臨淮の大豪族である彼が孫権を励まし、周囲の豪族たちを説得しなければ、いかに孫権が主戦論を唱えよ得とも開戦すらできませんでしたし、諸葛亮を連れて劉備と同盟を組ませたのも彼です。
魯粛が宮門に入ろうと拝礼すると、孫権も立ちあがって答礼し、
「子敬どの。私が馬の鞍を支えてあなたを馬から迎え下したならば、あなたの功績を十分に顕彰したことになるだろうか?」
この問いに対して魯粛はこう答え周囲を驚かせた。
「不充分です」
このあまりに不遜な応えに孫権すら驚き魯粛を見たが、魯粛は厳粛な顔で続けた。
「願わくば将軍のご威徳が全世界に及び、全中国を統一され、帝王としての事業を完成させられました上で、安車蒲輪(帝王が賢者を召し出すときの特製の馬車)によって私をお召しくだされましたならば、初めて私を十分に顕彰してくださったことになるのでございます」
この魯粛の豪気な応えに、孫権は手を打って嬉しげに笑った。
208年12月。

赤壁の戦いにいかに孫権軍が勢いづいていたかは、この月に孫権が自ら兵を率いて合肥を攻撃し、張昭に九江を攻撃させた事でもわかります。

しかし、赤壁の戦いの被害とは無縁の合肥や九江の守りは固く、翌年三月まで戦い続けたましたが、曹操軍が張喜に騎兵を与えて援軍に向かわせたため孫権軍は退却せざるを得ませんでした。

この戦いは少々孫権が調子に乗り過ぎたという部分が多い。
むしろ、赤壁の戦いに乗じて勢力を伸ばす事ができたのは、直接戦場となった荊州南部の周瑜軍と劉備軍でした。
赤壁の戦いが集結した後、周瑜軍は南郡まで進撃し、長江を挟んで江陵の曹仁軍と対峙します。

両軍が戦いを交える前に、曹仁は配下の兵を派遣して夷陵を占拠していた甘寧を攻撃します。

夷陵において甘寧は包囲され、周瑜に来援を乞うと、周瑜軍の諸将はいずれも曹仁と対峙している今、兵力を割くわけにはいかないと主張します。
そんな中、ただ一人呂蒙だけが周瑜と副将の程普に、
「陵公績(陵統)どのに留守をしてもらい、諸君と一緒に救援に向かおう。包囲を崩して甘公覇(甘寧)どのの危機を救うのに、そんなに時間がかかる筈もない。公績どのならば、曹仁の急襲を受けても十日は持ちこたえることが出来ることは私が保証する」
と進言しています。

さらに周瑜に三百人を割いて険阻な道に障害物を置いて通れなくすれば、夷陵の敵が逃亡するときにその馬を手に入れることができるとも言っています。
夷陵を包囲していた曹仁軍の別働隊は周瑜軍に不意を突かれ四散し、夜陰に紛れて逃亡した。

ここで呂蒙の献策が生きて、障害物に邪魔された曹仁軍の騎兵は皆馬捨てたため、周瑜は南方では貴重な馬を三百頭も手に入れる事ができました。
夷陵を救った周瑜軍は士気盛んになり、勢いに乗じて長江を渡河し、江陵へと攻撃をかけます。
周瑜軍の先鋒千人が上陸してきたのを見て江陵の守将曹仁は、300の兵を選抜して部隊長の牛金を派遣して、これを迎え撃たせました。

しかし、次々と上陸してくる兵に牛金は包囲され、今にも全滅させられそうになります。
曹仁は自ら牛金を救援に向かおうとすると、側近の陳矯らが
「賊軍は数多く勢い盛んで、とても対抗できません。数百人を見殺しにしたところで、何ほどの損害がありましょう。それを将軍おん自らが出向かれるなど言語道断です」
曹仁は返事もせず、直属の勇士数十騎を率いて城を出て、一気に牛金の包囲網に突入します。

そして牛金を救って包囲網を出ると、まだ兵士たちが包囲されたままになっていたので再び取って返して兵士たちも救いました。
この曹仁の勇姿に江陵の守備隊は奮起し、江陵は最前線で孤立していながら一年以上も周瑜軍の猛攻に耐え切っています。

赤壁の勢いで、荊州の要衝である江陵を一気に落とそうと考えていた周瑜としては、思わぬ苦戦だったでしょう。
しかし、建安209年冬、戦いの転機は訪れます。

周瑜はこの戦いで流れ矢に当たって負傷してしまいます。

周瑜が陣中で寝込んでいると知った曹仁は、好機到来と判断し自ら兵を率いて長江北岸の周瑜軍陣営を攻撃します。

周瑜は敵軍来襲と聞くと、床から置きあがり手負いの身ながら軍営に出て指揮を取ります。

総大将の鬼気迫る指揮に周瑜軍の兵は奮い立ち、逆襲して曹仁軍に決定的打撃を与えました。
このため曹仁軍は撤退さぜるを得なくなり、対陣一年にしてようやく周瑜軍は悲願であった江陵を占拠したのでした。
その間、劉備軍が荊州南部で盛んに活動していました。
赤壁の戦いの後、劉備は劉琦を奉じて荊州刺史とし、荊州南部は長江南岸の長沙、武陵、桂陽、零陵の四郡を平定しています。

これら四郡は劉琦の名を奉じていた劉備にあっさりと投降しています。

前述した周瑜の苦闘に比べるとあまりにも楽な進撃ぶりです.
ここで諸葛亮は武陵を除く三郡を統治して内政を整えています。

諸葛亮は軍事よりもむしろこういった内政に長けており、劉備陣営はようやく自立できるほどの軍資を得る事ができました。
建安十四年秋、荊州刺史に奉じられていた劉琦は病死。

劉備は荊州牧を名乗ります。

そして駐屯地である油口を公安と名を改めて、四郡の政務を執る事に決めました。

ようやく劉備は名実ともに荊州南部を根拠地として自立することができたのです。
そしてこの時期ぐらいから、三顧の礼の宣伝が行き届いていた事もあり、曹操軍を追い払った英雄として劉備の下には次々と荊州の人士が集まってくる事になります。

黄忠、魏延といった武将が彼に帰順。

”白眉”と称された英才、魯粛の推薦で”鳳雛”と呼ばれた龐統などが幕僚に加わりました。

さらに廬江の豪族雷緒が数万の部曲を率いて劉備に帰順したのも大きいでしょう。

荊州の人士にしてみれば、北へ去った曹操はもちろんの事、長年劉表と敵対していた孫権につくよりも、まだ劉備に従ったほうが自然の考えるのは当然でした。
この結果、赤壁の戦いでもっとも利益を得たのは劉備という結果になってしまいます。
209年から210年にかけて、彼らは孫権の妹が劉備に嫁いだりするなど、表面上は友好関係を保っていたが、荊州の領有権を巡り外交や謀略による争いを繰り広げていたのです。
この荊州を巡る争いにおいて、劉備排斥の急先鋒であったのが周瑜です。

彼は元々、荊州、益州を攻め取って曹操と天下を二分するという戦略構想を持っていました。

彼の構想にとってこの時期邪魔となるのは、曹操よりも劉備だったのです。
ところが彼は210年に36歳の若さで病没。

彼の後任には劉備と縁が深く、穏健派である魯粛が就きました。

魯粛が孫権と劉備の友好関係を保つために尽力した結果、両者の間において、「劉備が益州を領有するまで、孫権より荊州を借款する」という密約が交わされるのでした。
これにより、劉備はどうしても益州を攻め取らねばならなくなり、本格的に蜀攻略の準備に取り掛かろうとします。
一方、211年7月、曹操は南ではなく西へと出撃します。

目標は、長安を中心とする“関中”と呼ばれる地域でした。

この地域を占拠しているのは、馬超、韓遂らを首魁する関中の豪族集団です。

西域の騎兵集団を率いた馬超軍に曹操は苦戦しつつも、巧みな謀略で韓遂と馬超を分裂させることに成功します。

その結果、関中軍は四分五裂し、曹操はこれを討って関中を平定します。
この曹操の戦果は意外な方向へ波及したのです。

曹操が西へ動いたという報を受け、益州の劉璋陣営が動揺。

「関中を平定した曹操が、次の目標とするのは益州である」と劉璋陣営は思い込んだのです。

この緊急事態に、劉璋は劉備に救援を求め、曹操に対抗しようと考えたのです。
しかし、次なる目標を益州と定めていたのは、曹操ではなく、他ならぬ劉備でした。

劉備にとってはまたとない幸運が、自ら転がり込んできたのです。

 豆知識 三国時代の水軍

南船北馬という言葉がある。
河北、中原の人々が移動のために馬のように、長江流域の南方人たちは船を乗りこなすという事を例えた言葉です。
長江の支流が網の目のように広がり、細かに水路が張り巡らされていました。南方では道路よりもむしろ水路で移動するほうが便利なくらいでした。
人々はごく日常的に小舟を操って互いに往来しているのが、彼らの生活習慣です。
そんな彼らにとって水上での戦いは、陸上で戦うのと同じように自然なことであり、彼らにとっては船上は陸上と同様の日常の場所でした。
そんな彼らが集まってできた呉という国は、水軍の強力さでは他を寄せ付けず、滅亡する最後まで長江を防衛線として、他国の陸上部隊を水上戦に引き込んでは勝利してきたのです。
そのもっともよい例が赤壁の戦いでしょう。

それまで中原や北方で無敵を誇ってきた曹操軍は、不慣れな船上での戦いに苦戦し、やがて兵士達は体力を失っていき疫病が蔓延して撤退ぜざるをえなくなりました。
このように長江の水軍は呉という国の生命線であり、この水上での戦いに常に圧倒してきたからこそ、呉は三国のうちでもっとも長く命脈を保ったと言っても過言ではありませんでした。
さて、その呉を代表とする水軍はどのような船を使っていたのでしょうか?

ここではその解説をします。

走舸(そうか)

水戦で使われる最も小さな船です。

乗員は一~十人程度で、船というよりもボートと呼んだほうがいいような小舟です。

帆はついておらず、手でオールなどで漕ぎながら移動します。

戦闘艦というよりも、戦闘艦と戦闘艦の間の連絡や上陸戦などにはしけとして使われるような使用方法をされていた船です。

艨艟(もうしょう)

数十人乗りの小型艦であり、帆船です。

戦場においてはその快速を活かして、敵艦に乗り込んだり、火矢を射ち掛けたりするなど、もっとも目まぐるしく戦うという、現在の艦隊にたとえれば駆逐艦的役割を果たす戦闘艦です。

ちなみに、この艨艟という言葉は軍艦の古語として、近代の日本の軍歌にも使われていたりします。

大東亜戦争海軍の歌

https://www.youtube.com/watch?v=WjUa169Nyg0
五、
進めば遙か印度洋
世紀は讃う気は澄みて
微笑む南十字星
ああ大東亜光さす
無敵の誇りくろがねの
聞け艨艟の旗の風

闘艦(とうかん)

これが戦場で主力艦となる艦です。

乗員は百人から二百人を数え、多い時には数百人もの乗員を抱える戦闘艦です。

水戦の主力となると同時に、上陸戦における輸送艦の役割を果たすという多目的艦でした。

呉の水軍は圧倒的な数の闘艦を揃えて赤壁の戦いに望み、水上では曹操軍を圧倒しました。

楼船(ろうせん)

水上船における最大の艦。

船体の上に陸上と同じような楼閣を築いて、多数の兵員を搭載するという戦艦です。

なんと千人もの乗員を抱える船もありました。

魏軍が呉の闘艦に対抗するために作った大艦主義の艦であり、機動力は劣るものの沿岸まで多数の兵員を上陸させて水上戦から陸上戦に無理矢理持ち込もうという狙いを持った戦艦でした。
ちなみにその戦略は晋代になって果たされ、晋の王濬は千人クラスの楼船を数十隻建造し、蜀から長江を東下し、呉軍を圧倒してついには呉を滅ぼしたのでした。

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