うまなみ三国志 付録 ・後漢十三州ガイド

クソ長いので分割!

・後漢十三州ガイド

後漢から三国にかけての戦乱は帝都である洛陽のある司隷と十三州の支配権をめぐる争いであったと言うことができます。
ここでは、その十三州それぞれの解説をします。
実際、三国志で描かれる群雄たちの争いは、大雑把に言ってしまえば、この州を単位として争われるので、十三州の位置付けと地政的な意義を心得ておくと、群雄たちの勢力や戦略などが、理解しやすくなります。
また、作品中に出てくる地名と照合しやすいように、各州に置かれた郡の名前も併記しておきます。
ちなみに三国を州単位で大雑把に分けると、
魏が司隷、兗州、豫州、徐州、冀州、青州、并州、幽州、雍州を制しており。

蜀が益州。

呉が揚州と交州を制しているというよう分けられます。

荊州は北部を魏が、南部を呉と蜀が争って最終的に呉の支配下に置かれるという区分となります。

地図上の広さから見れば魏と蜀と呉に三分されているように見えますが、人口や生産力を背景に区分される州という行政単位で見ると、魏が圧倒的に蜀と呉を引き離しているのが理解できるでしょう。

蜀と呉の最大の悩みが国土の広さに対する人口と生産力の少なさである事が、これだけでも理解できます。

司隷

別名、司州とも言われる。
後漢における帝都である洛陽を要する地域であり、いわば首都圏とでもいったところです。

本来ならば、後漢末期の戦乱においてもっとも激しく争奪の対象となるべき地域であった筈です。

董卓の乱において徹底的した略奪と破壊の対象となった上に洛陽の住民は長安に強制移住させられてしまっていました。

そのためもっとも住民の離散と国土の荒廃の激しい地域となってしまい、前王朝の首都であったわりには激しい争奪が行なわれなかった地域になってしまっていました。
後漢末期では張楊や楊奉などの勢力が存在していました。

後に献帝が長安を脱出した後にそれを追ってきた李傕、郭汜の軍勢と曹操の間で争われ、それに勝利し、さらに楊奉や張楊を下した曹操が洛陽を始めとするこの地域を支配する事になります。
だが、曹操にとってもあまり魅力的な土地ではなかったようで、あっさりと献帝を豫州のある許へと遷してしまっています。

後に魏皇帝となった曹丕は、洛陽を復興し再び帝都として定めることになる。

豫州

後に中原を制する曹操にとって根拠地とも言える地域が豫州です。
この地は生産力も人口も多く、中原においても枢要の地と言ってもよいです。

実際、黄巾賊たちはこの州を重視し、潁川と汝南の地に最大の兵力を置き、洛陽を脅かしています。まさに中原における洛陽の玄関口とも言うべき地域と言えます。
広大な平地と中原のほぼ中央に位置する地の利のよさは、まさに曹操の電撃的な戦略の根源地として相応しい地でした。

ただし、平地の多いこの地は、攻めるに易く守るに至難という地域ということでもあります。

このため曹操は決してこの地で防戦を行なわず、常に外征を行なうという戦略と採っています。

曹操の積極的な攻撃型の戦略はまさにこう言った地政的宿命を背負ったが故と言えます。

また平地が多いという事は潜在的な耕地面積の広大さとも言えます。

曹操が屯田制を敷いて流民たちを受け入れて耕作させるという政策は、まさにこの州の地勢を背景にしたものでした。
さらに言えばこの州における潁川と汝南は清流派の知識人を数多く輩出し、曹操一族、袁紹一族、夏侯一族、荀彧、沮授、などなど三国志の物語で活躍する人物が驚くほど多くこれらの地を出身としています。

曹操が人材を多く確保できたというのは、その人材好きの嗜好とともに、この地域を制していたという事情がある。
長安から献帝が脱出し、曹操の庇護下に入った時に帝はこの州の潁川郡(許)に遷され、曹丕が帝位に就くまで留まる事になります。

漢の最後の帝都となった地であると言えます。

兗州

豫州と並ぶ、曹操の根拠地とも言える州です。

実際、曹操はこの地の東郡太守となり青州黄巾賊と戦ったときから、事実上の覇業を始めます。
やはり平地が多く潜在的な生産力と人口を抱えた地域です。

また、中原においてもっとも激しく戦乱の渦中に置かれた地域であるとも言えます。

三国志の物語の中では、呂布が徐州に攻め入った曹操の隙を突いてこの地を奪取し、呂布と曹操の間で激しい戦いが繰り広げられています。

この戦いの間にも飛蝗の被害を受けるなど、司隷と並んで後漢末期の戦乱の被害を受けた地域と言えます。
また、曹操と袁紹が対峙したときも、この地域が前線となっています。

まさに後漢においてもっとも激しく争われた地域と言っていいだろう。

徐州

三国志の物語序盤から三国時代末期まで長い間係争の舞台となった州です。
古くは陶謙がこの地域を制し、続いて劉備が陶謙と徐州の豪族たちから州を譲られました。

さらに曹操との兗州を廻る争いに破れた呂布が劉備から奪い、さらに曹操と劉備によって呂布が破られた後は再び劉備の支配するところとなります。

しかし、官渡の戦い以前に劉備が曹操に反旗を翻し討伐されると曹操の支配下となります。

そして曹操の支配下となった後、三国時代となると呉にとっての北上するための戦略の中心となります。

魏にとっては南下するための根拠地となったこともあり呉と魏の戦いの主な舞台となりました。
海運も可能な地域で街道も整備されているという事情から商業の先進地域であったらしく、徐州は商業が盛んで数多くの商人たちが活躍し、物産も豊な地域であった。

この地が長い間、係争の対象となったのもその物産の豊さと、交通の利便性によるところが大であっでしょう。

実際、後の隋の時代には煬帝が黄河と長江結ぶ大運河を作り、一層、流通と交通の流れの便宜が図られるようになりました。

まさに黄河文明と長江文明を結ぶ地域でもあったのでしょう。
また、面白い徐州の特色として、この地域が実に宗教色の強い地域であったというところです。

後漢末期に勢力を伸ばした道教の根拠地のひとつがこの地の琅邪国です。

于吉や左慈、葛玄といった道教の仙人たちはこの州の琅邪国出身、あるいは琅邪に深い関りを持っています。

さらに医学の大家として有名な神医華佗も琅邪出身です。

まさに当時におけるオカルティックな側面を一手に引き受けているような妖しげな地、それが琅邪国なのです。

ちなみにその妖しい地琅邪には、もう一人著名人物を輩出しています。

そう、蜀の丞相諸葛亮です。彼が後世、仙人じみた神秘的なキャラクターとして脚色されていくのは、おそらく出身地と無縁ではなかったろう。
さらに後漢末期に伝来されたとされる仏教が初めて寺院を建設したのも、この徐州であった。

冀州

反董卓連合の盟主となった袁紹が、連合の解散の後に本拠地とした州である。
河北と呼ばれる黄河以北の地域の中心とも言える州です。

中原における戦乱の被害から比較的遠かった事もあり多くの人口と生産力を維持する事の出来た豊かな地域です。
中原が天災や戦乱などで荒廃していったこの時代において、最も豊かな州であったと言えるのがこの冀州です。
実際、この地を根拠とした袁紹は曹操に官渡において敗れるまでは、中国最大の勢力として天下に手が届くところまで至っています。

また袁紹を下した曹操も、この地域の豊かさに目を付けて、漢の首都である許とは別に曹家の首都としてこの州における最大の都市である鄴を根拠地に選んだのです。

事実、後に曹操が公となったとき、封土として選ばれたのが冀州の魏郡であり、魏という国名も春秋戦国時代にこの地に存在した魏国にちなんだものです。
河北における金城湯池とも言えるのがこの冀州であり、この地を制した袁紹も曹操も他を圧倒する勢力を築き上げたまさに覇業の地と言えます。

事実、官渡の戦いで袁紹が敗れ、袁家が内部分裂を起こしてボロボロになった状態であっても、袁家はこの地に拠って激しい防戦を行ないます。

勢いに乗る曹操軍でさえ鄴が陥落するまで二年の歳月を必要としていることからも、いかにこの地域の国力が強大であったかが理解できるだろう。

青州

山東半島そのままのこの州は春秋時代から斉と呼ばれ、春秋、戦国、秦、漢の各時代を通じて強大な生産力と人口を抱えてきた先進地域でした。
しかし、後漢末期においては、黄巾賊が張角が討伐された後も残党が暴れ回り、また数多く天災に遭った事もあって相当に国力をすり減らしてしまった地域でもあります。

後漢末の戦乱では北海の太守を孔融が勤めていたが、青州黄巾賊の勢いがあまりにも激しく目立った動きを見せられぬまま曹操に降っています。

曹操に孔融が降った後は袁紹の侵攻を受けて袁紹がこの地を領有し、その息子である袁譚がこの州を統治する事となる。
ただ青州の黄巾賊は彼らが曹操に降って青州兵となり曹操の覇業が始まることから、歴史的には青州黄巾賊のほうが重要であると言えたろう。

また、史実において劉備がその名を知られるようになるのが、青州において孔融の援軍として参戦したところから始まるのは興味深いです。

この後、孔融の要請に応じた劉備が曹操の攻撃を受けた陶謙の救援に向かったところから、事実上の劉備の群雄としての始まりとなるのである。
史実においては曹操と劉備という、後に天下を争う両雄の覇業の端緒となる奇縁とも言える地がこの青州であった。

幽州

漢土における最北端であり最東端でもある辺境の地です。
この州の北部は騎馬民族である烏丸の勢力圏であり、後漢の統治能力が衰えてきた末期の時代にはしばしば侵入してきては幽州の住民を悩ませています。
とはいえ、中原には近い地域であるためか辺境と呼ぶべき地位ながら、後漢末の混乱期にはしばしば係争の対象となっている地です。

まず、幽州牧として皇族の劉虞が赴任するが、その配下であった公孫瓚がこれを奪い幽州の支配者となります。

そして冀州を得た袁紹と争い、ついに敗れます。

袁紹は息子である袁煕にこの地を与えますが、官渡において袁紹が敗れると曹操がこの地を領有し、魏の成立までこれば続きます。

さらにこの地を席巻していた烏丸は曹操自ら討伐され、漢土に移住させられ魏の民となっています。
面白いのがこの地の東部に土着の豪族として勢力を持っていた遼東郡の公孫氏の存在であろう。

公孫氏とは言っても、公孫瓚とは同姓ですが、なんらかの繋がりはあったかもしれないが同族ではありません。

彼らは幽州の支配者たちと付かず離れずの関係を保ち、遼東半島周辺部をほぼ独立国として保ち続けていました。

曹操が幽州に攻め入ったとき、袁煕と袁尚の兄弟が彼らの下に逃げ込んでいますが、公孫氏は彼ら二人の首を切り曹操に献じてしまいました。
そんな公孫氏ですが三国時代に公孫淵の代となると、なんと三国に続いて燕という国を名乗って呉と同盟して独立してのけます。

しかし、これはあまりにも無謀であった上に、公孫淵自体が夜郎自大の性格を持っていたため呉との同盟も決裂。

ついには司馬懿によってあっさりと平定されてしまうのでした。
ちなみに遼東郡のさらに東の楽浪郡、帯方郡は朝鮮半島や烏丸との交流のために役所だけが置かれているような地域ですが、ここを通ってさらに東の島国より魏へと使者が渡ってきていいます。
その国の名を邪馬台国と言いました。

并州

北辺のやはり騎馬民族との交流が盛んな辺境地域です。

この州のさらに北を代州とする資料もありますが、後漢の統治能力が及んでいたのがほぼ并州までですし、戦乱期や三国時代にあっても係争の対象になったのはこの地域までです。

ここまでを漢土と見るのが自然でしょうね。
後漢末期には并州牧として丁原が赴任し、彼の下には呂布という猛将がいました。

呂布が無類の強さを発揮した理由として、この地が騎馬民族との交流が盛んな地であり、騎兵戦術が発達していた地域であったからという理由があります。

呂布はこの地で騎乗に習熟した騎兵たちを率いて中原を蹂躙していく。
丁原が呂布の裏切りに遭い殺された後は、初め劉虞の、後に袁紹の支配下に入り、袁紹はこの州を甥である高幹に与えています。

官渡の戦いの後に高幹は曹操に対して激しく抵抗し、最後まで屈しませんでした。
この地に関る騎馬民族は鮮卑です。

鮮卑はその単于(王)軻比能が進取の気概に満ちた英傑であり、盛んに魏と交流してその文明を取り入れて自分の部族を強化していきます。

このため北方騎馬民族の中でも最大の勢力を有するようになっていきました。

そして後に鮮卑は三国の後に成立した晋を事実上滅ぼす民族のひとつとなるのです。

揚州

長江沿岸からその南部に渡っての地域が揚州です。
漢土において南方と呼ばれる地域は、ほぼ揚州と言ってもよく、山越という異民族たちも存在し、しばしば後の呉を悩ませました。
南方の辺境とも言ってよい地域ですが、中原とは違った文化を持ち稲作が盛んに行なわれ、かなりの生産力と人口を有する地域となっていました。

「南舟北馬」という言葉もあるように、この地は馬よりも水路による交通が主流であり、中原とは異なった気候や食文化などを持っていました。

元々、この地は中原や河北における黄河流域より興った文明とは別系統の長江文明の流れを汲む地域であり、春秋時代は楚や越という国が成立して中原や河北の国々と覇を競い合っていました。
後漢末の混乱期にまずこの地で勢力を張っていたのが袁術であり、彼はこの地を背景として皇帝に名乗ります。その袁術の下から独立し独自に南方を制していくのが孫策であり、袁術が滅びた後は事実上のこの地の支配者となります。

そして孫権がその後を継いでやがて呉を成立させる。
元々が文化も文明の系統も中原や河北と異にする地域であるため、北方に対する警戒心も強く、この地域の豪族たちが曹操の南下に屈せず、三国時代でも最後まで晋に抵抗し続けて異いたのには、北方の黄河文明には屈しないという南方の長江人たちの気風もありました。
後々まで中国史は黄河流域に成立する王朝と長江流域に成立する王朝との間で何度も南北に分かれるが、後漢末期からその兆候はすでにあったのです。

荊州

魏、呉、蜀の中心に位置し最後まで係争の対象となる激戦地。
ただ、あまりにも広大で大雑把とさえ言えるような地方区分がされていると言えます。

というのも荊州の北部と南部では、すでに後漢末期の戦乱期にたどった歴史さえ違う。

荊州南部は、いわゆる三国志の読者たちが「荊州」として認識するように、早くから劉表が荊州牧として赴任して、この地域の蔡氏や蒯氏といった豪族たちを手なづけて、混乱期の後期に至るまで独立国として孫家と小競り合いをしながら、それなりに平和な時代を築いていきました。
しかし南陽郡を中心とする荊州北部は、元々が南陽という都市が後漢において最大の人口を有する大都市であったため、戦乱の時代にあって最大の激戦地のひとつとなっています。

この地を初めに領有したのが、董卓の乱のどさくさでこの地を制した袁術でした。

しかし袁術は劉表や曹操、袁紹と敵対し、苦しくなると揚州に逃れてしまいます。

その後、董卓が呂布によって殺されると、その一部隊を率いてこの地まで進出していた張済がこの都市に居座ります。

張済が死んだ後はその甥である張繍が、劉表と同盟を組んでこの地で独立し、曹操と敵対しています。

曹操は何度も張繍によって苦しめられますが、それを可能にした南陽の生産力の大きさが窺えます。

そして張繍は官渡の戦い直前に曹操に降って、以後は荊州北部は曹操が領するところとなります。
そして中原、河北を制した曹操が南下すると、ついに荊州南部も係争の対象となります。

この後赤壁の戦いを経て、荊州北部はなんとか曹操が保ち、南部を孫権と劉備が分割支配する事になります。
この荊州南部の領有権をめぐって孫権と劉備は対立。

蜀が成立した後に劉備が夷陵にて敗れ、荊州に南部がほぼ孫権の支配下に入るまで、孫権と劉備の間には様々な外交が執り行われることになるのが、三国志という物語の見所の一つとなっています。
実は広大な地域のわりに、荊州南部は人口が少なかったのです。

また武陵にいる武陵蛮という異民族をはじめとして、漢土になりきれていない地域でもありました。

生産力自体は北部に比べると遥かに劣りました。

それでも魏の支配下に置かれていない数少ない地域として、劉備と孫権は激しくこの地を争わねばならなかったのです。

益州

四川盆地一帯から南方にかけての広大な巴蜀と呼ばれる地域がこの益州です。
はじめこの地は劉焉が益州牧として赴任し、豪族達を手なづけてこの地を制すします。

このとき劉焉は「益州の地に天子の気があり」という予言を聞き、自らから天子にならんと欲して中原の戦乱に背を向けて益州牧に赴任できるように工作しました。

事実、この地より天子こと皇帝が生まれますが、それは劉焉でもその息子である劉璋でもなく、この地を劉璋から奪った劉備でした。
ともあれ、四川盆地という険阻な山岳地帯に囲まれたこの地は、防衛には最高でした。

また四川盆地は実り豊かな地であり、人口が少ないのを除けば独立して勢力を保つには格好の地ではあした。

また、この地では蜀錦という絹織物の生産が盛んであり、それらを初めとする中原との交易でもかなりな利益が得られていました。
劉備はこの地において皇帝を名乗り、中原の魏王朝に対する対抗勢力として名乗りを挙げます。

しかし、ただ独立勢力として保つには適した地ですが、人口も少なく、また南方では度々異民族たちの叛乱が起こり、また蜀の桟道と呼ばれる交通の利便の悪さもあって中原を制する勢力としては至難でした。
現に劉備が死んだ途端に益州全土で叛乱が起こり、丞相である諸葛亮はその鎮定に奔走することになります。

三国志演義などでは、孔明の南征として積極策のように描かれる南方での戦いですが、その実情は益州南部を中心として各地で起きた反乱を鎮定するための防衛戦と考えたほうがいいです。
その政治手腕で南方の反乱を鎮定した諸葛亮は塩鉄の専売制などで、益州に殖産興業政策を推し進め、なんとか蜀をまともな国家として整えます。

史家によっては、劉備亡きあと、劉備の無謀な出兵や反乱で、ほぼ潰滅状態にあった蜀を立て直した手腕こそが諸葛亮の功績として挙げるほどの見事さであった。
この地において見逃せないのが漢中という地です。

この地はちょうど中原と益州を結ぶ、四川盆地の入口とも言うべき地です。

この地ははじめ五斗米道という宗教組織が制しており、劉焉などは中央との連絡を断つために「五斗米道なる邪教が邪魔をして連絡できません」と取り繕っていたりもしました。

まさに益州の玄関口とも言うべき要地です。
この後、五斗米道の教主張魯は曹操に降りますが、この地を魏に抑えられると益州は正に喉首を抑えられることになります。

このため劉備は全力をもってこの地を回復し、以後、この地は蜀の領土とします。

そして、後に漢中は諸葛亮の北伐の司令部として諸葛亮が常駐して、この地より北伐を起こすようになるのでした。

涼州

前漢の首都であった長安を有する関中盆地から西域にかけての地域。
漢土というよりは半ば西域と呼んだほうが相応しい辺境地帯です
元々はそれに相応しい人口と生産力を有していましたが、董卓の根拠地となってしまったのが運の尽きとしか言いようがない運命をたどることになります。

董卓が反董卓連合と戦わず、洛陽を焼き払ってこの地に引き篭もったのは、この関中が巨大な人口と生産力を抱え、なおかつ盆地であるため周囲の山岳を封鎖すれば防衛が容易である事が理由として挙げられます。
董卓はこの地に引き篭もると、重税を課して董一族に財を集めて私したり、貨幣の改鋳を行ない大インフレを起こすなど、まず経済的に大打撃を与えました。

さらに董卓が暗殺された後には、李傕や郭汜、呂布などが内部分裂を起こし、ひたすら互いに抗争を繰り広げ続けます。

長安を焦土と化すほどに徹底的に争いつづけたのです。

このためこの地域の人口も生産力も激減し、元は都のあった地であるというのに、中原での争いからも見放されて放置されてしまうといった状態になってしまうのです。
李傕や郭汜が滅びた後は、馬騰や韓遂といったと呼ばれる弱小勢力がこの地を制する事になりますが、後に曹操に討伐され降っています。

曹操によって統治されるようになって、ようやくこの地は回復し、三国時代になると孔明の北伐に対する前線基地といった役割を果たすようになります。
ようやくこの地はかつて漢代に果たした西方の要という役割を復権するのです。
また、孔明にとっても、かつて前漢の高祖劉邦が巴蜀の地からこの地に進出し、天下に臨んだ故事を再現せんと、この地を目指して五度に渡る北伐を行なう事になるのでした。

また西域は匈奴や羌といった異民族の勢力圏であり、さらに細々とであるがシルクロードの通じている地域でもありました。

この地ではじめに頭角を現したのが董卓であり、彼は羌や匈奴の者たちと仲が良く、彼らを配下として中原に進出します。

そう言えば、董卓の政策は略奪と破壊が基本であり、そのあたりいかにも当時の騎馬民族的であったのかもしれません。
騎馬民族の地だけはあり、騎兵に長じた強兵を生み出す事でこの地は知られています。
このように騎馬民族たちの地とも言うべきこの地域は、後漢にとっても頭痛の種であったようで、たびたび反乱を起こし後漢の衰亡の元となります。

この反乱者で面白い存在がいます。
韓遂という人物です。

彼は黄巾賊の乱よりも前から匈奴や羌の者たちを語らい、何度も反乱しては鎮圧されている。

ただし戦争は下手で、戦えば必ず敗れています、精強な西涼の兵なのに。

そして、曹操に討伐されるまでなんと30年以上も騎馬民族とともに中央と戦いつづけていたという不屈の群雄でした。
後に諸葛亮が北伐を行なった時、まず目標とされたのがこの地を制する事でした。

諸葛亮としてはまず涼州の強兵を手にしたかったのでしょう。

交州

あまり後漢から三国の戦乱に関らず、南方で独自の経営を続けていた地域です。
この地域は代々、士家という豪族が支配し南方との交易によって莫大な利益を収めていました。

その交易範囲は、東南アジアどころか、インドやアラビア、果てはローマにまで及んだといいます。

まさに「海のシルクロード」とも言うべき交易範囲でした。

後漢末期では士燮という人物がこの地を支配し、曹操によって交州刺史を任命されています。

このように南方の辺境地帯にあるにもかかわらず、彼は早くから曹操の傘下にありました。

このことからやはり士家は、交易によって成り立つだけはあり商人的な時勢に対する嗅覚があったのでしょう。
しかしそれを塞ぐ形で揚州を孫権が支配すると、その傘下に入ります。

しばらく、こういった状態が続きますが、士燮が死ぬとその息子である士徽が独立しようと反乱します。しかし、

孫権軍によって鎮圧され、この地を呉が直接支配する事となるのでした。

孫権にとって交州の交易は大きな収入源になったに違いありません。

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