うまなみ三国志 三国志編 第四回 官渡の戦いと袁家の滅亡~覇王決勝戦? だった筈なのに……~

第四回 官渡の戦いと袁家の滅亡~覇王決勝戦? だった筈なのに……~

・ 袁紹と曹操の対立

後漢末期の歴史において官渡の戦いは、中原を制した曹操と河北を制した袁紹との間で行われた、天下分け目の戦いとして位置づけられます。
この二人は元々曹操と袁紹は個人的にも友人であり、反董卓連合軍以後も早々は袁紹派として働いていました。

が、彼らは決定的に袂を分かつことになったのは、おそらく196年における曹操の天子奉戴でしょう。
元々、袁紹も袁術も袁家の者たちは、袁紹が劉協に替わる帝として劉虞を擁立しようとしたり、袁術が帝を自称したりするなど、完全に漢王朝を見限って劉氏の後を袁氏が継ぐものだと決めていたようです。

また何進が打たれたあと宦官たちを誅滅したのは袁紹と袁術たちですし、形としては反董卓連合軍の盟主として董卓を討ったという実績も見せています。

その後の中原や河北の勢力争いも中心となっていたのは、袁家の二人ですし、後世の展開を知らない当時にあっては、劉氏の後は袁氏が継ぐであろうというのが、かなり説得力を持つほどの名望を彼らは得ていたのです。
ですから、袁紹としても天下を平定した後は、ただちに禅譲を受けて袁氏の王朝(おそらく彼の本拠地が鄴でしたから、国号は魏か晋であったでしょう)を建てるつもりであったのは間違いありません。
これに対して曹操が献帝を奉戴したというのは、まさに袁紹に対する宣戦布告も同然であったと言えます。

もしかすると、これ以前まではまだ袁紹は曹操を魏王朝の重臣として迎える意図があったかもませんが、これを曹操は劉氏を担ぐ事で拒否したという事になります。
とはいえ、袁紹も曹操もまだ目先の課題は片付いていませんので、すぐに直接対決とはいきませんでした。
しかし、袁紹は曹操に対して、「天子を移して都として、天子を共有しよう」と要求したり、天子を奉戴した曹操が大将軍に任じられ自分が太尉に任じられたのに激怒してみせて「曹操は死ぬような目に何度もあっているのを、わしはなんども助けてやった。それなのに奴はわしに命令して、下風に立たせようとするのか」と脅したりしています。

これに対して曹操は、まだ袁紹と戦える状況でなかったこともあって、大将軍を辞退して袁紹にその地位を譲っています。
このあたり、まだ直接対決まではいたらないまでも、袁紹が曹操を圧迫しつつ、曹操は天子を渡さないという一線を維持しつつ袁紹を必死で抑えようとする激しい外交戦が繰り広げられていたようです。
199年、袁紹は易京において公孫讚を破ります。

この攻城戦は千の楼閣と幾重にも重なった防壁を作り、数十年分の兵糧を溜め込んで難攻不落といえるほどに防備を固めて引き篭もる公孫讚に対し、地下道を掘って一つ一つ楼閣を崩していくという戦術と外部の連絡を絶ったり、逆に援軍の使者を利用として突出してきた敵を叩くなどで、公孫讚に心理的に追い詰めるという攻城戦の手本とも言える戦いでした。
どうも袁紹軍は野戦よりも攻城戦や野戦築城に長けていた軍隊のようで、後の官渡においても、その証明がされています。
この戦いの勝利が大きかったのは、公孫讚を破って河北4州を手中しただけにとどまりませんでした。

公孫讚は北方の異民族、特に烏桓や匈奴や鮮卑に対して敵対政策を取っており、異民族たちにとっても敵であったのだ。このため公孫讚攻撃には彼らも協力しており、袁紹は北方の異民族たちをも味方につけていたのです。
こうして河北四州という強大な勢力を手中にしただけでなく、北方の脅威もなくなった袁紹にとって、まさに曹操と雌雄を決する機を自分で選べる立場となったわけです。
一方曹操は、呂布や袁術は破ったものの、張繍、劉表、孫策などの周囲に敵を抱えており、少しでも袁紹との直接対決は引き伸ばしたい所であったでしょう。
とはいえ、袁紹との対決は避けられないと見ており199年12月から官渡に駐屯して、袁紹の南下に備えていました。

この時点ですでに曹操は官渡を対袁紹の戦略策源地として設定していたのがよくわかります。
これより先、袁紹は196年、長男である袁譚を青州に派遣して青州の公孫讚に味方する勢力を攻撃させていますが、公孫讚を撃退したあたりで袁譚に青州を治めさせる事にしたようです。
一見、長子として重んじられているように思われますが、どうも袁紹は袁譚を疎んじて外に出したというのが真相のようです。

こう見ると、袁譚は後の劉琦や曹丕などの例に見受けられるような「弟を可愛がる親に疎んじられる長男」というよくある図式が浮かび上がりますが、どうも袁譚の場合は自業自得の部分が大きいです。
この青州統治にしても「袁譚は小人を奢侈淫乱にふけって殖産の困難を省みなかった」などとボロクソに書かれています。

申し訳のように「その一方、賓客たちをよく待遇して名士を尊重したりもした」と書かれてフォローされているような人物であったようです。
さらに袁紹の死後は袁家を裏切ってよりによって父の仇である曹操についたり、さらに曹操をも裏切って独立しようとして斬られたりするなどしていますから、人として信用のできるような人物ではなかったのでしょう。
袁紹が三男である袁尚を手元において、彼を後継者にしたい意向を見せていたのは、どうにも仕方ないと言いたくなるような長男が袁譚という人物でした。
この後、袁紹は袁煕に幽州を置いて、并州に息子も同然の待遇をしていた甥の高幹を与えて、冀州に袁尚を置いて「息子たちに一州づつ任せて能力を確かめたいのだ」と言っています。

本拠地であり四州の中でも最も中原に近く豊かであった冀州に袁尚を置くというのは、「後継者は袁尚にしたい」という意向があからさますぎるというものでしょう。
この袁紹の政策について、当時袁紹軍の軍監として全軍を統率していた沮授などが「災禍はここから始まりましょうぞ」と諌めています。

事実、これは袁紹陣営にとって最大の宿痾となっていきます。
袁紹陣営は長子相続という基本原則を重視する田豊、沮授などの袁譚派と袁紹の意向どおり袁尚こそが後継者に相応しいとする審配・郭図などの袁尚派のまっぷたつに分かれてしまうのです。

この対立は非常に根深いものがあったでしょう。

なにしろ当時の袁紹陣営の気分としては、これは事実上の「次期皇帝争い」とも言えるものがあったでしょうから。
これに関しては実は筆者としてもどっちが正しいとは判断ができません。

袁紹が敗れた事でそれを予見していた田豊や沮授などが正しいように見えますが、後の袁譚の体たらくを見ていれば、こんな人物に袁家を継がせたくないと考えるのも無理もないでしょう。

どちらもそれぞれに袁家のためを思っていたというしかありません。
さて、話は戻りますが袁紹と曹操の間の情勢が動きだすきっかけとなる事件が曹操の側で起きます。

200年1月、董承らを中心とした曹操に対するクーデターの計画が露見して、曹操軍の配下としなって袁術を攻撃していた劉備が連署していた事が明らかになるのです。
これにより劉備は徐州刺史の車胄を攻撃し、徐州を奪い取り、さらに袁紹に孫乾を派遣して袁紹につくことを表明したのです。
これに対して、曹操は当初、官渡を離れる事ができず劉岱と王忠を派遣して劉備を討伐させましたが、百戦錬磨の劉備を彼らが敗る事ができるわけがありませんでした。
面白い現象ですが、どうも曹操軍というのは曹操が直接率いている時とそうでない時の戦力に激しく差が出る軍隊なのです。

曹操がおらずその部下が率いたときの勝率は低いといった方がよいぐらいです。

その事を一番よく知っていたのが劉備でしょう、彼は劉岱と王忠軍に対しては、余裕をもって対処していました。
ところが200年1月、袁紹との対決が迫っているのに側面に敵を抱えているわけにはいかない曹操は、ついに自ら劉備討伐に乗り出します。

これは曹操にとっては大いなる賭けであったでしょう。

ここで袁紹の南下が始まっていれば、ただ曹操がいない隙を突かれたというだけの結果では終わりません。
おそらく曹操が睨みを効かせていないうちに袁紹の大軍が南下してくれば、各地の豪族たちだけでなく曹操軍中の将兵たち、ひいては許の朝廷までも雪崩を打って袁紹側につき、戦うまでもなく曹操陣営は崩壊していたでしょう。
当然の事ながら、それを進言していた者が袁紹軍におりました。
田豊は「公と天下を争っているのは曹操です。曹操はいま東進して劉備を攻撃し、戦闘が続いていてすぐには止みそうにありません。いま軍勢をこぞって彼の背後を襲えば、一度の行軍で平定できます!」。

と進言しますが、袁紹は子供の病気を口実に許可ませんでした。

田豊は杖を振り上げて地面に叩き付け、「ああ、事は去った!滅多にない好機がやってきたというのに、赤子の病気のためにその機会を失うとは惜しい限りだ」
このときの袁紹の不可解な優柔不断さについては、諸説あります。

元々、大軍を擁して重厚な戦略を好む袁紹は準備不足のまま速攻に出るのを好まなかった。

また青州の名門田氏に連なる田豊が自分が疎んじている袁譚の利害に絡みすぎていて信用ができなかった。

天下分け目の戦であるからこそ曹操と堂々と雌雄を決したかった。

慌てて速攻に出るまでもなく勝てると思っていた。

本当に息子が心配でそれどころではなかった。公孫讚との戦いによる兵の疲弊が無視できなかった。などなど。
おそらくはそのいずれもがないまぜとなって、この進言は退けられたのでしょう。
こうして曹操は覚悟していた第一の危機を回避する事ができたのでした。

おそらく、これら様々な袁紹が動けない、あるいは動かない理由を加味しての決断であったのでしょう。
そして徐州に曹操が来着したという情報を得て劉備は、まずそれが信じられず密かに数十騎の兵だけを連れて偵察に出ます。

そこにあったのはまごうことなき曹操自身の軍旗であり、それを見た途端、劉備はそのまま兵や家族たちを見捨てて逃亡したのです。
曹操のいない曹操軍を舐めてかかっている劉備ですが、彼が曹操を恐れる事はそれほどのものがありました。

また、劉備を弁明してやるとすれば、曹操が自ら精鋭を率いてくるという事は袁紹が動かなかったという証明でもあり、この時点で自らの敗退は覚悟していたのでしょう。

ならば無駄な危険を冒すよりは、逃げに入ったほうがいいという彼らしい決断の早さと言うこともできるでしょう。

とにかく劉備という人物はその現実主義と危険を察知する嗅覚で生き延びてきたような人物でした。
ここで劉備が自ら逃亡した事で劉備軍は事実上崩壊し、徐州は曹操によって奪還されます。この過程で関羽と劉備の妻子が曹操の庇護下に入ったのは有名な話ですね

・ 孫策の活躍

いきなりですが話しは南方に飛びます。

兗州を奪還しようと曹操が呂布と悪戦苦闘している194年、寿春の袁術の下に一人の若き武将が身を寄せました。

わずか18才のこの若者こそ、数々の戦いで活躍をした孫堅の長男である孫策でした。

彼は父の死後、徐州の江都に居を構えており、この時期に徐州において賢者として名高い張昭や張紘と誼を結んでいました。

しかし、これがかえって当時の徐州の主であった陶謙の嫉妬を買ってしまい、孫策は陶謙に嫌われ江都を出ざるを得なくなります。

その後、舅である丹陽の呉景に身を寄せていましたが、父の旧主である袁術が近くの寿春に本拠を移してきたので、袁術の下へ数百の私兵とともに訪れたのです。

袁術は孫堅の死により一度離散したはずの部曲(私兵集団)の長の息子が、再び盟主の陣営に戻ってくることは大変珍しいことだと賞賛し、袁術の下に身を寄せていた孫堅の旧臣たちを孫策につけてやったのです。

十代ながら孫策の器量と勇武は父にも劣らぬものがありました。喬ズイや張勲といった袁術配下の将軍たちも彼を尊敬し、袁術自らも、
「わしに孫郎(孫家の若君)ほどの息子がおれば、思い残すことはないのだが」
と歎息するほどであったといいます。
とはいっても口だけなあたりが袁術らしいところ。

もともと袁術は孫策を九江太守に任じてやろうと約束していましたが、その約束は違えられ九江太守は陳紀という者が就任してしまいました。

続いて袁術は、
「先に間違って陳紀を登用してしまい、君との約束を守れなくて済まなく思っている。今度、陸康を討ったら廬江は君のものだ」
と言って、廬江太守陸康を孫策に討たせます。

孫策は旧臣たちとともに見事廬江を陥落させたのだが、袁術はまたしても自分に古くから仕えている劉勲を廬江太守にしてしまったのです。

これで孫策が父の旧主である袁術に対し、かなり失望したのは言うまでもありません。
袁術は曹操に敗れて本拠を南陽から寿春に移していますが、このとき寿春を本拠としていたのは揚州刺史である劉繇でした。

曹操に追われ敗走してきた袁術は劉繇を追い出して寿春に居座ったのです。

寿春を追われた劉繇は孫策の舅である呉景がいる丹陽を攻めて、呉景と彼に仕えていた孫策の従兄の孫賁を追い出したのです。

丹陽を奪い曲阿に本拠を構えた劉繇は、揚州一帯に袁術の勢力が広がって行くのを食いとめようと配下の張英を当利口に、樊能と于糜を横江津に駐屯させ長江東岸を守らせました。

これを受けて袁術は歴陽に落ち延びた呉景と孫賁を支援してこれを攻撃させましたが、一年以上戦い続けても埒があきませんでした。この状況を見て孫策は袁術に対し説いたのです。
「私の家にとって恩義ある者たちが東方におります。どうか舅を加勢して横江津を討たせてください。横江津を奪取できれば、故郷に戻って軍勢を募り、三万の兵を得ることができるでしょう。その軍勢をもって明使君(二人称の敬称)が漢を立て直されるのをお助けいたします」

孫策に対し何度も不義理を重ねている袁術は、孫策の申し出を断われずこれを許しました。

この時、孫策の兵は千人余りであったが、孫策は道々募兵しながら進軍すると歴陽に到着するころにはその軍勢は五千人ほどに膨れ上がっていたといいます。

亡父孫堅の威光はまだまだ生きていたのでした。
さらにこの時、同い年の旧友である周瑜もこの時に配下に加わっています。

孫策は昔、周瑜の家に同居していたことがあり、互いに生活必需品を融通しながら生活していたという程の、孫策にとっては親友中の親友とも言うべき人物であった。
周瑜を迎えて、
「君さえいれば、何も心配する事はない」
と大いに孫策は喜んだと言います。
孫堅以来の旧臣程普、黄蓋、韓当といった武将たちに加え、寿春時代に新たに部下に加わった蒋欽、周泰、陳武といった猛将勇将たちが揃い、孫策軍は少数ながらもこれだけの人材が揃っていました。

孫策の武勇と闊達な人格は、相当周囲に期待されていたことがわかります。
195年、孫策軍は長江を渡ると瞬く間に張英や樊能らを打ち破り、続いて牛渚にある要塞を攻撃して貯蔵されていた食糧と武器を奪います。

そしてそのまま東へ進撃を続け、秣陵城を攻めました。秣陵城は、劉繇盟主と仰ぐ彭城の相薛礼と下邳の相筰融が守っており、薛礼が秣陵城に筰融が秣陵県南部に陣を構えて孫策軍を待ち受けていました。

孫策はまず筰融の陣営を攻撃すると、筰融も兵を出しこれを迎え撃ちます。

この戦いは孫策軍が五百の首級を挙げるという大戦果で勝利します。

この戦いで大打撃を受けた筰融は軍営に逃げ帰り、そのまま立て篭もって出戦しようとしませんでした。

そのため孫策は秣陵の薛礼を攻撃することにします。

ところが孫策軍に包囲された薛礼はその包囲を破って逃走してしまいます。
すると、孫策の下に牛渚からの報が届きます。緒戦で討ち破った樊能と于糜が兵を集めなおして牛渚の要塞を攻撃し、これを奪ってしまったのです。

これを聞いた孫策は牛渚へ戻り、たちまち樊能らを打ち破り、それに付き従っていた男女一万人を生け捕りにしたといいます。
牛渚を奪い返した孫策は再び筰融を攻撃しました。

しかし、さしもの孫策もここで負傷してしまう。流れ矢が太腿に当たって馬に乗れなくなってしまったのです。

このため輿に乗って牛渚に戻ることになりましたが、孫策はただでは帰らない。

わざと兵を逃亡させ、筰融に、
「孫郎は流れ矢に当たって死んでしまいました」
と告げさせたのです。

これを真に受けた筰融は配下の武将于茲に兵を与えて追撃させました。

これを孫策は伏兵をもって徹底的に討ち破り、千を超える首級を挙げたのです。

さらに孫策は左右の者に命じて兵士たちに筰融の軍営の前で、
「見たか孫郎のお手並みを!!」
と叫ばせたのです。

再三に渡る大敗北の上に、士気は地に落ち、逃亡者が相次いぎました。

このため筰融は軍営の掘りを深くし土塁を高くして、ますます堅固に引き篭ってしまったのです。

孫策は筰融の陣営が地勢堅固であるのを見て取り、これを放置し劉ヨウ軍の別部隊を海陵で討ち破り、劉繇軍の拠点を奪っていきまた。
劉ヨウの本拠である曲阿に迫る孫策軍であったが、ここで奇妙な邂逅が起きます。
太史慈という人物との出会いです。

義に厚く勇気と機転に優れた人物で、孔融や許劭といった高名な清流派の士人と親しく付き合いがあるという青州の名士でした。

この時期、太史慈は劉繇の所に客として招かれていました。

劉繇軍の中には孫策に対抗するには、武勇に優れた太史慈を大将軍とすればよいという意見がありましたが劉繇は、
「客である子義どのを使ったりすれば、許子将(許劭)どのは俺を笑うだろう」
と言って、太史慈には敵情を偵察することだけをしてもらうことにしたのです。

演義では劉繇は愚かで、有能な部下である太史慈を使い捨てにしたように描かれていますが、実際に愚かであったかもしれませんが客分である太史慈に対して筋を通したようです。
その太史慈が騎兵を一人だけ連れて神亭という場所を偵察していたとき、なんと孫策本人と出会ってしまうのです。

このとき孫策は韓当や黄蓋といった勇士たちを13人従えていましたが、太史慈はなんのためらいもなく、孫策に挑みかかり、孫策もこれに応じました。

孫策は太史慈の馬を突き刺し、太史慈が首にさげていた手戟を奪うと、太史慈は太史慈で孫策の兜を奪いました。

しかし二人の一騎討ちは勝負が着く前に、双方の兵が集まって来たため物別れに終わってしまったのでした。
太史慈が曲阿に戻ると、劉繇は孫策の鋭鋒には対抗できないと考え逃亡を始めてしまっていました。

劉繇は豫章に逃亡しようとし、筰融を先鋒として豫章を占拠しようとします、逆に筰融は豫章太守の朱晧を殺すと自ら豫章で自立します。

しかし後に内紛の末、筰融は劉ヨウに破れて逃亡中に民に殺され、劉繇は病死してしまいます。
一方、劉繇の曲阿からの逃亡から途中で離脱した太史慈は、付近の山越族を従えてなおも孫策に対抗しようとしました。

孫策は自ら太史慈を討ち、彼を生け捕りにするがすぐさま彼の縄目を解かせました。
「神亭でのことを覚えておられるだろうか? もしあの時、あなたが私を捕らえていたらどう処分されただろう?」
孫策の質問に太史慈は戸惑いながら答えます。
「想像もつきません」
孫策は愉快そうに笑って、こう言ったのです。
「今、このようになったが、あなたが私に対してそうしたであろう処分をとらせていただこう」
太史慈は門下督という地位に取り立てられ、さらに呉に戻ると太史慈を折衝中郎将に取り立てられたのでした。

これが孫策の「貴方が私に対してしただろう」処分であった。
劉ヨウが病死すると、孫策は劉繇の配下が主を失い流浪していることを知り、太史慈を豫章に派遣して、劉繇陣営の残党を鎮撫させようとしたのです。孫策の側近は口を揃えて、
「太史慈は北へ走って戻ってきますまい」
と言いましたが、孫策は、
「子義どのは私を棄てて、他の誰と手を組むというのか」
と言って取り合いませんでした。

そして太史慈が出立する際には城門まで見送り、
「いつごろ戻ってこられるのか?」
と尋ねるとと太史慈は、
「六十日以上はかかりますまい」
と答えて呉を出たのです。

果たして太史慈は期日を違えること無く呉へ戻って来たました。

この太史慈の働きにより豫章も孫策の領有するところとなったのです。

このエピソードは、別な形で演義にも出てきていますね。
豫章を平定し、長江流域の江東と呼ばれる地を制した孫策は、江南へと兵を進め会稽太守の王郎を破って占拠します。

付近で山越族を従えていた厳白虎らを討ち、196年には江南をも平定していったのです。

かくして孫策は江東、江南地域を制し、事実上、孫家の政権の礎を築き挙げたのでした。

挙兵からわずか2年余り。

まだ20を過ぎたばかりの孫策は鮮烈過ぎるほどに歴史の舞台への登場を飾ったのでした。

官渡の戦い

200年2月、逃亡してきた劉備を青州の袁譚経由で受け入れた袁紹はついに動き始めます。

正史には「袁紹は精鋭十万人、騎兵一万人を催して許を攻撃することとし、審配・逢紀に軍事を統べさせ、田豊・荀諶・許攸を謀主、顔良・文醜を将帥とした」と記載されています。

当時にあっては、まさに人材、兵力ともに最強最大の軍団と言っても過言ではないでしょう。

しかし、すでに進軍前に袁紹軍の中では亀裂が生じてしまうのです。
当時、袁紹軍は沮授が軍監として総軍を統率していました。その沮授が袁紹に対してこう進言していたのです。
「まず天子に勝利をご報告して農作に努めるべきです。艦船・兵器を建造しつつ、精鋭騎兵を派遣して辺境を荒らし、彼らを不安に陥れながら我らは充足を図ります。さすれば三年で平定できるでしょう」
これに対して郭図・審配が反対して「明公の神武、河北の強兵でもって曹操を伐つのですから、掌を返すがごとく容易きことです。今すぐ攻略せねばあとあと厄介になりましょう」と反論しました。

沮授「義兵は無敵ですが驕兵は真っ先に滅ぶもの。曹操は天子を奉迎して許都に宮殿を建てており、いま軍勢を南進させるのは不義に当たります。いま万全の策を棄てて名分なき軍勢を起こしておりますが、公のために危惧しておる次第です」
郭図ら「武王が紂を伐ったのを不義とは言わぬ。ましてや曹操に軍を差し向けるのが名分なしと言うのか! 監軍(沮授)の計略は堅固さを求めるものであって、時機を見て変化する策略ではない」
郭図らはさらに、こう沮授を讒訴します。

「沮授は内外を総監し、威信は三軍を震わせております。もしつけ上がってきたらどうやって制御なさるのですか!」。
前述しましたが、すでに袁紹陣営は郭図、審配らの袁尚派と田豊、沮授らの袁譚派に分かれていました。

そして袁紹自身もまた袁尚を後継者としたい意向をもっていたわけですから、このような言い争いになった場合、袁紹がどちらの意見を採用するかはおのずと明らかでした。
実を言えばおなじ袁譚派である田豊もまた袁紹の出撃に反対しておりました。
「曹操はすでに劉備を破り、許の城下は空虚ではございません。そのうえ曹操は用兵を得意とし、軍勢が少ないからといって侮れません」
ほぼ沮授と同意見であり、これが袁譚派の幕僚の統一見解でもあったのかもしれません。

田豊はしつこく袁紹を諌めますが、これがかえって袁紹を怒らせる事になってしまい、ついに袁紹は田豊を収監してしまうのです。
どうも田豊や沮授らの進言は、袁紹や袁尚派を意固地にしてしまったようです。

もしかすると袁紹たちは、3年の猶予のうちに袁譚派がなんらかの画策をして、袁譚を袁家の当主の座にしようとする動きに出るのかもしれないと疑心暗鬼になってしまっていたのかもしれません。
田豊は投獄され、さらに袁紹は沮授から全軍の指揮権を取り上げ、全軍を三分割して、郭図、淳于瓊、沮授の三軍に分けてしまいます。

圧倒的な兵力を持っていた袁紹軍ですが、すでに開戦前に一枚板として戦力を発揮する事が不可能になってしまっていたのです。

しかも、この措置は計画的なものではなく、突然行われたものですから、三分割された袁紹軍がどれほどの士気や統率、組織力に混乱が生じたか計り知れないものがあります。
なにしろ指揮系統、連絡系統、役職や配置などが末端まで急遽変更となる上に、同じような組織が3つもできてしまったわけです。

当然の事ながら当面の敵よりも味方に対してライバル心や嫉妬心、功名争いなどが発生してしまいます。

これが良いように競争意識として働けばいいのですが、そもそも派閥争いから生じた分割です。

そうなる可能性は薄く、むしろ彼らは正面の敵である曹操軍よりも、お互いを敵として認識してしまうようになったでしょう。
もし、官渡の戦いにおける袁紹軍の敗因を単純化して書き出せと言われれば、この措置が最大の敗因だったと言うしかありません。

この後の白馬の戦い、延津の戦いで顔良、文醜の軍が各個撃破されたのも、烏巣の奇襲後の大混乱も全ては軍の分割による指揮系統の混乱と全軍の統率連携が機能しなかったためと言えるのですから。
200年2月、袁紹は郭図、淳于瓊、顔良を白馬に派遣し東郡太守の劉延を討たせています。

そして自らは本軍を率いて黎陽に駐屯していました。

この件に関しても沮授は「顔良の人柄は性急ですから、驍勇ではありますが単独で任用してはいけません」と忠告しています。

この作戦は前述したように郭図、淳于瓊の軍による作戦ですから、沮授にとっては指揮権はないどころか、郭図や淳于瓊に対する越権行為となってしまうわけです。

早くも三軍に分けた弊害がでてしまいました。
4月、これに対して曹操は迎撃に向かおうとしますが、これを荀攸が進言して止めています「今わが兵力は少なく対抗できません。敵の戦力を分散させるために、公は延津に到着した後、兵を渡河させて敵の背後を突く気配をみせてください。そのあとで軽兵を率いて白馬を襲撃し、その不意を突けば顔良を生け捕りにできましょう」
曹操はその進言を受け入れ、延津に進軍。

袁紹が兵を分けて延津に向かったのを見て、通常の倍の速度で白馬に進撃。

曹操は延津にいると油断していた顔良に対して張良・関羽を先陣として攻撃し、見事に関羽は顔良を討ち取ったのです。
ちなみに関羽は戦車に乗っていた顔良の車蓋と旗印を見ると単騎で突っ込んで大軍の只中に突撃し、これを討ち取ったとあります。

もしかすると顔良は劉備の義兄弟であった関羽は味方だと誤認していたのかもしれません。
ともあれ顔良を討ち取った曹操は、包囲の解かれた白馬を救出し、住民たちを移住させて、今度は延津に向かっている袁紹軍を迎撃します。
この戦いに先立って延津を南から渡河しようとした袁紹軍に、沮授は「上の者は野心を逞しくし、下の者は功績に焦る。悠々たる黄河よ、吾はこれを渡るというのか!」と歎息しています。

彼の目には、この後の敗北が見えていたのでしょう。

そのまま病気を口実に引き返そうとしたが、袁紹は許可せず、彼を恨んで管轄下の軍勢を取り上げて郭図に配属させたのです。
これは推測ですが、この時郭図の配下に組み入れられた者たちの中に、張郃と高覧がいたのではないでしょうか?

張郃は沮授とともに元々韓馥に仕えていた者であり、そういった縁から沮授の軍に張郃が組み入れられていた可能性は十分にあります。

そして沮授が罷免され郭図の配下に組み入れられた事で、張郃がかなり袁紹軍に嫌気が差した理由のひとつになったのではないでしょうか?

後の唐突とも言える張郃、高覧の投降を推測するとこんな事情が見えてきます。
この戦いにおける正史の記述は臨場感に満ちていますのでそのまま引きます。
曹操は、進軍をやめ南阪の下に駐営し、塁で見張りをさせた。

見張りが言うには「五、六百騎ほどです」と。

またしばらくして、再び「騎兵がだんだん多くなり、歩兵は数えられないほどです」と申告した。

曹操は「もう報告しなくて良い」と言います。
そこで騎兵に命令して、鞍を解き馬を放たせました。
このとき、白馬からの輜重が来ていたのです。
諸将は、敵の騎兵が多く、帰って陣営を守った方がよいと思いました。

荀攸は「あの輜重は敵を欺く餌だ。どうして退却などできよう」と進言します。
袁紹の騎将・文醜が劉備と五~六千騎を率いて来ます。

諸将はまた「馬にのるべきです」と進言します。

曹操は「まだだ」

しばらくして、袁紹軍の騎兵が多くなり、軍を分けて輜重隊を襲い始めます。

曹操は「今こそ馬に乗れ」
この時騎兵の数は六百に満ちませんでしたが、文醜を斬ったのです。

顔良・文醜はどちらも袁紹配下の名将でしたが、二度の戦で、どちらも敗れたので、袁紹軍は、大いに恐れました。
このまま曹操は無事に官渡に戻り、まんまと曹操にしてやられた袁紹は兵をまとめて、陽武に駐屯しています。
緒戦で顔良、文醜の軍を失ったのは袁紹軍にとってかなりの痛手であったようです。

その後八月まで戦況は官渡と陽武の間で膠着状態となります。
8月、袁紹軍は彼らしい重厚な戦略を考案し、再び進撃を開始します。
それは野戦築城を繰り返しながら、陣営を連ねて少しずつ進軍していくというものでした。

白馬や延津で示した曹操軍の機動力を封じるための戦略でありました。
このまま黙って官渡まで迫られるわけにもいかない曹操は、あえて出撃して袁紹軍に挑みます。

が、さすがに兵力、装備に優れている上に数十里に渡る陣営を連ねて備えていた袁紹軍と正面から戦っては勝ち目などある筈もなく、全軍の二~三割といった大損害を受けて撤退する事となります。
ちなみに古来軍隊というのは、いや現代戦においても軍隊というのは全軍の三割の損害を受ければ「全滅」と言われます。

どうやら軍隊に限らず人間の作る組織の耐用限界がそのあたりにあるようで、全体の3割が稼動しなくなれば完全にその組織は機能を停止してしまうわけです。
つまり、この戦いにおいて曹操軍はほぼ「全滅」と言ってもよい損害を受けていたのです。

辛うじて曹操軍が崩壊しなかったのは、曹操によって指揮系統が統一、整備されていたのと、逃げ帰る先として近くに官渡城が維持されていたからに他なりません。
とはいえ、この損害によって曹操軍はほぼ機能停止状態に陥り、再編成されるまでの長い時間を官渡に引き篭もらざるをえなくなるのです。
陽武において曹操軍を完膚なきにまで叩きのめした袁紹軍は、勢いにのってそのまま渡河。

開戦前からの曹操軍における対袁紹戦略の策源地とも言える官渡城を包囲します。
この戦いで袁紹は土山を作りその上から矢を射掛け、さらに地下道を築いて城内に迫っていきました。

まさに易京の戦いと同じ、袁紹にとっての勝ちパターンとも言える状況となったわけです。
昼夜を問わず矢が雨のように降り注ぎ、官渡城の中を出歩く者たちは盾をもっていないと行動できなかったと描写されています。

十数万の兵力を誇る袁紹軍の攻勢の凄まじさが想像できますね。
このような状況が続く中、城内ではさらに糧食が尽き始め、さしもの曹操も許まで撤退したいと許で留守を守る荀彧に弱音を吐いた手紙を送っています。
これに対して荀彧は「袁紹は軍勢をこぞって官渡に集めており、公と勝敗を決せんと願っています。公は至弱をもって至強にぶつかっておられ、もし耐えられなければ、必ずや勢いに乗じさせる羽目となりましょう。これこそ天下の大いなる時機なのです。まず袁紹は人々を集めることはできても用いることはできませぬ。公の神武・明哲をもってして大義を補佐なさるのですから、どうして向かう先々で成功しないことがありましょうか」と励まし、曹操を耐えさせています。
一方、この頃、許のほうでも汝南の投降した賊である劉辟らが叛逆して袁紹に呼応し挙兵。袁紹は劉備を派遣して劉辟を支援させ、許の城下を攻撃させたりしています。

曹操にとってはまさに四面楚歌な気分であったでしょう。

しかし曹操は曹仁をやって彼らを撃破させて、劉備が逃走させ、劉辟の屯営を打ち破りました。
ちなみにこの後劉備は、袁紹の下に逃げ帰りながらも、袁紹軍の敗北を予見して劉表を味方に引き入れると称して、自ら配下たちとともに荊州に向かっています。

危機に対する嗅覚に優れた劉備は、確かに包囲戦を展開して有利に戦況を進めているものの、袁紹軍内の派閥争いや、何度も軍の編成を変えるなどして士気や統率が乱れきっているのを読み取っていたのでしょう。
その連携の悪さがまず出てしまったのが、袁紹軍における補給作戦でした。

袁紹軍は兵糧や軍需物資を数千乗の車に乗せて官渡まで運ばせようとしましたが、これを曹操は徐晃と史渙を派遣して、焼き払わせています。
この時点で後方への奇襲を許すというのは、袁紹軍に諜報と連絡、指揮系統の混乱が生じている事の何よりの証明であったでしょう。
おそらく、そこに乗じる隙を曹操は見出し、自ら励ましてこの過酷な防戦を耐え抜いていたに違いありません。あと一手打てれば反撃に転じられる、と。
そしてついに冬十月、その一手がついに訪れます。
許攸が袁紹を裏切って曹操の元を訪れるのです。

袁紹陣営の派閥争いに端を発するもので袁尚派の審配によって彼の妻子が捕らえられたのが原因でした。

おそらく許攸もまた袁譚派かそれに近い立場にあったのでしょう。

このまま袁紹陣営にいても将来がないとみた許攸は曹操の下に身を投じるのです。
許攸は曹操に寝返ると曹操は許攸を迎えて「卿が来れば我が事は成就する」と言って喜びました。

続いて、
許攸「袁氏はいまだ盛んな勢いです。どのように対処しますか?糧食はどのくらいありますか?」
曹操「一年は支えられる」
許攸「そんなことはないでしょう」
曹操「半年は持つぞ」
許攸「足下は袁紹を破るつもりではないのですか? なぜ事実を言わないのです?」
曹操「冗談じゃ。実はもう一ヶ月分しか残っていない。どうすればよいだろう?」
許攸「公はまさに危急存亡の時、袁氏の輜重は烏巣に集められており、警備は厳重ではありません。いま急襲して兵糧を焼き払えば三日も袁氏はもたないでしょう」
このような会話が行われ、曹操は袁紹軍の輜重基地を突き止めたのです。

これに対する奇襲について、曹操は幕僚たちに下問します。

当然の事ながら賛否両論沸き起こりましたが、荀攸と賈詡がこれを強く推したので、ついに曹操は烏巣奇襲を決断します。
曹操は防衛を曹洪に任せ、自ら歩兵騎兵合わせて5千を率いて、烏巣の襲撃へ向かいます。

このとき正史によれば、淳于瓊は接近する曹操軍を察知し、陣を出て曹操軍を迎撃しています。
常識で考えれば、陣を堅く守って餌に釣られてきた曹操軍の接近を袁紹本隊に知らせて救援を待つべきだったでしょう。

しかし、この時淳于瓊は袁紹軍主力部隊の一方の長であり、また天下を目前にした袁紹軍にとって、曹操を討ったとなれば文句なしの一番手柄となるのは間違いなかったでしょう。
全体の勝利よりも個々の手柄を第一に考えるという思考は、まさにセクトに分けられた組織に陥りやすい罠です。
手柄に逸った淳于瓊は陣を出て曹操を迎え撃ちますが、曹操が選りすぐった精鋭の前に一敗地にまみれ、淳于瓊は切られます。
おそらく、官渡の袁紹本軍に連絡が行ったのはかなり遅れてからであったでしょう。
この報に袁紹軍は大混乱に陥りました。
おそらく袁譚派袁尚派のみならず、郭図軍、淳于瓊軍の二軍の間でも、互いにこの失態の責任の押し付け合いが始まったと思われます。
仕方なく、袁紹は自ら張郃と高覧に、曹操が留守となっている官渡城を攻撃させますが、この二人はすでに戦意などなかったのでしょう。

おそらくは元々の所属していた沮授の扱いを見て、袁紹陣営にいてもいつ罰せられるかわかったものではないと見切りをつけていたものと思われます。
さらに袁紹軍の攻撃に完全に備えていた曹洪の前に、とてもではないがすぐに官渡城が落ちる筈はないと見たに違いありません。
そして、とどめとして袁紹軍の二大将である淳于瓊が曹操に斬られたとの報が入ります。
張?と高覧は完全に戦意を失い、曹洪に投降してしまいます。
おそらく烏巣に駐屯していたのは、淳于瓊軍まの一部でしょうが、淳于瓊が討たれた事により、官渡を包囲していた淳于瓊軍所属の部隊がまず機能しなくなります
もう一方の郭図軍は、張郃と高覧が投降したせいで、一気のその兵力を半減させてしまったのです。
先ほど全軍の3割が機能しなくなれば組織は機能不全に陥るとかきましたが、この時点で間違いなく機能しなくなった兵力は3割を超えてしまった事でしょう。
元々、混乱に混乱を重ねていた袁紹軍にとって、トドメとなる一撃でした。
官渡の戦いにおいて強大な袁紹軍はあっさり崩壊したように見えますが、まずその組織率における損害と混乱がきっかけになったと思われます。
機能不全に陥った袁紹軍の中、身の危険を感じたのでしょう。

まず袁紹と袁譚が単身逃亡に転じてしまいます。

これによって、完全に袁紹軍は組織としては潰滅状態に陥り、将兵たちは逃亡に転じます。

この逃亡する袁紹軍に対して曹操軍は全軍で追撃に転じて、数万の首を挙げたと史書には記録されています。

袁紹軍の死傷のほとんどは、この追撃戦によるものです。
官渡の戦いとは、まさに軍も組織の一つであり、兵数や兵の強さよりも、軍というものは組織として機能する事がまず第一。

組織が機能不全に陥れば死傷率に関わらずその軍は崩壊するという事を証明する戦いでしもありました。
こういう視点で見れば、袁紹軍は開戦当初、いや開戦前から組織を自ら崩壊させ続けていた事が理解でるでしょう。

曹操軍は常に曹操によってその指揮系統が一手に握られていた事を揺るがす事がなく、兵数も少なくや死傷率も高かったにもかかわらず、その組織力は維持していた事が理解できます。
官渡の戦いは、一見少数によって多数が撃破された奇跡的な例に見えますが、やはり軍隊というものの基本に即した結果が現れた上での結果だという事がわかります。
袁紹は負けるべくして負け、曹操は勝つべくして勝ったのです。

・曹操の北伐

官渡にて袁紹軍を大いに打ち破った曹操でしたが、これは袁紹の侵略をしのいだというに過ぎませんでした。

官渡以後も袁紹陣営は強大であり、袁紹は冀州での反乱の鎮定に忙殺されつつも曹操に付け入る隙を与えませんでした。

それでも彼の失意は大きかったのでしょう。202年5月、一貫して後漢の動乱における中心であり続けた袁紹は病死します。
袁紹の後を三男である袁尚が継ぎました。

この機に乗じて曹操は北方平定のため出兵する。これを袁紹の長子である袁譚が黎陽で迎え討ちます。

当時、袁家は長子である袁譚派と袁尚派に分かれていたため、当初、袁譚は袁尚の支援を受けられませんでした。
しかし、黎陽での袁譚の敗勢が明らかになると、さすがに自ら袁尚は黎陽支援に向かいます。

しかし、内部分裂したまま曹操と戦って勝ち目がある筈もなく、203年3月に黎陽は陥落。

曹操はそのまま袁家の本拠地である鄴に攻め入るが、一旦、兵を引き上げてしまいます。
共通の敵である曹操が引き上げると、たちまち袁譚と袁尚の間で内紛が勃発する。

これが曹操の狙いでした。

この内紛で袁譚は敗れ、平原へと敗走。そしてなんと父の仇である曹操に降伏してしまうのです。
204年、5月曹操と同盟した袁譚に対して、袁尚は討伐のため自ら平原に出兵。

慌てて袁譚は曹操に救援を求めるが、曹操は袁譚を放置して、一気に留守となった鄴に攻め入ったのです。
鄴において守将である審配は見事な指揮振りを見せて頑強に抵抗します。

しかし、袁譚と曹操に挟まれた袁尚は鄴を救援できず、孤立無援となった鄴は9月に陥落。

北方の覇者袁家の本拠地鄴はついに陥落し、袁尚は幽州へと逃亡します。

翌205年1月には、曹操は南皮で反乱した袁譚を討伐して、袁譚を斬って、曹操は確実に袁家陣営を殲滅していきます。
一方、幽州に逃亡した袁尚はこの地を守備していた袁紹の次男袁煕の下に身を寄せて反撃の機を伺います、配下に裏切られまたも逃亡。

異民族である烏桓の下に落ち延びるのでした。
205年12月、袁紹の甥である高幹が并州で挙兵。

曹操は辺境である并州に遠征し、三ヶ月にわたる戦いの末、206年3月并州を平定、高幹は逃亡。

彼は荊州まで逃亡し、捕らえられ殺害されています。
これにより河北において曹操は、ほぼ袁家の残存勢力を殲滅したと言えます。

しかし、河北においてなおも袁家を慕う民は多かったのです。

このため曹操は袁家の遺児たちを根絶せねばならず、烏桓討伐を決意するのです。

烏桓の勢力範囲である幽州北部は、行軍ですら困難な地でしたが、それでも曹操は袁家の遺児を全滅する必要がありました。

207年五月から行軍だけで三ヶ月を要して、曹操は烏桓の根拠地である柳城に到達。

八月、白狼山で曹操軍と烏桓の軍は激突し、騎兵指揮を得意とする張遼を先鋒とした曹操軍は烏桓軍を撃破。

その結果、烏桓は曹操に降伏するが、袁尚と袁煕はさらに東方の公孫康の下に逃げ込んでしまいます。

だが、烏桓すら討伐する曹操軍の鋭鋒を恐れた公孫康は、袁尚と袁煕を斬り、その首を曹操に送って帰順します。
かくして官渡の戦いから7年の苦闘を経て。曹操は河北を平定することに成功したのでした。

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