うまなみ三国志 三国志編 第三回 二袁の争いと曹操の台頭~猿じゃない二人といさましいチビの英雄~

第三回 二袁の争いと曹操の台頭~猿じゃない二人といさましいチビの英雄~

・ 袁術の袁紹の戦い

190年2月に董卓が長安へ遷都し、反董卓連合軍も解散すると、天下は大きく3つの勢力に分かれます。

一つは長安に遷都して根拠地で力を蓄えている董卓。

もう一つは反董卓連合軍の盟主であった袁紹派。

そして最後に反董卓連合軍で唯一と言ってもいい戦果を挙げた孫堅を配下に持つ袁術でした。

このうち反董卓連合軍の盟主であった袁紹と唯一の戦果を挙げた事で発言力を強めていった袁術の対立が激しくなったのです。

お互い、何進暗殺後のクーデターの時から行動を共にしており、また名門袁家の子弟でもありましたが、それだけにライバル心があったのでしょう。

おそらく二人とも「劉氏の次は袁氏である」という腹づもりはあったでしょうし、その袁氏の当主は自分であるというつもりでした。

特に袁術は袁紹を「妾腹の子」として馬鹿にしており、袁紹の下風に立つのを潔しとしておりませんでした。
そんなわけで、袁紹派には曹操、劉表などが付き、袁術派には孫堅、公孫?がつくといった情勢となり両派は激しく戦いを始めてしまいます。

北方では韓馥から冀州を奪った袁紹と幽州の公孫?が戦い、南方の荊州では宛の袁術と反董卓連合軍のドサクサに紛れて荊州牧として荊州を制していた劉表が争います。

このあたり、北方と南方が入れ子構造のような戦いになっていて、ずいぶんと文章で説明するほうはややこしいですヽ(`Д´)ノ
191年にはすでに袁紹と公孫?の戦いが始まっており、袁術と劉表との戦いもこの頃にはすでに始まっていたのでしょう。
このうち荊州の戦いでは袁術の先鋒として孫堅が戦い、さすがは太平道との戦いや反董卓連合軍で活躍しただけあって、孫堅はたちまち劉表の本拠地である襄陽にまで迫ります。

しかし、192年、孫堅は黄祖という武将との戦いで流れ矢に当たってあっけなく死んでしまいます。

ちなみに三国志演義ですと長沙から北上して劉表に攻め入ったように描かれていますが、孫堅は豫州刺史に任じられていたりしますので、おそらく袁術の配下として北方から荊州へと攻め入ったと思われます。
さて、名将孫堅を失うと一気に袁術と劉表の力関係は逆転し、宛にいる袁術は劉表から補給を断たれて孤立してしまうのです。

宛は中国でも有数の大都市であっただけに、孤立してしまうとたちまち食料などが尽きてつまうわけですね。

演義でも正史でも袁術が贅沢三昧をやって略奪しまくって宛が疲弊したと書かれていますが、そんな事をしなくても巨大な人口の前に、食料などはあっという間に尽きてしまったのでしょう。

このあたり後に、袁術は帝を名乗ったりして、演義でも正史でも悪役にされていますから誇張が入っている可能性はあります。
ともあれ孤立し、補給を断たれた宛の袁術は、乾坤一擲の策として宛に残っていた兵と食料などの軍需物資を根こそぎ動員して中原に出るのでした。

・中原に放たれた餓狼、呂布

その頃、長安に遷都した後の董卓は天下の情勢よりもひたすら引き篭もって私利私欲に走っていたようです。

長安の郊外に?塢という私城を建設し、そこに数十年は篭城できる物資を溜め込んでいました。

さらにそれまで流通していた五銖銭という通貨を粗悪な通貨に改鋳して、大インフレを引き起こすなど、彼の暴政はひたすら自分の私財を溜め込むことに終始していきます。

これにより庶民の生活は破壊され、董卓の存在は王朝や豪族たちの政争に留まらない影響をあらゆる階層に与えるのでした。
しかし董卓という男は権力と軍勢の他に、個人としての武勇も生命力も人間離れしておりました。

さらには自分に朝廷において反発する者たちを酒宴の座興として大鍋で煮て、その悲鳴を聞きながら周囲がドン引きする中、一人楽しんでいたというような人物でした。

そんなわけで内外に董卓への怨嗟の声が高まりつつもどうする事もできない中、一人の男がクローズアップされます。
その男の名を呂布。

元は丁原の養子でその武勇は天下無双をとされる男だが、董卓による政変の中養父を殺害して董卓に付き、重用されるようになったといういわくつきの男です。
このころ呂布は、董卓の宮女に手をつけてしまい、いつそれが露見するか恐れていました。

演義では貂蝉によって呂布と董卓の仲が引き裂かれる様子が描かれていますが、その元となった女性は正史にもいたのですね。
かねてより董卓を排除する事を考えていた王允は、これを利用して呂布を唆します。

192年4月、宮中においてクーデターを実行されたのです。

この計画は成功し、見事董卓は呂布に討ち取られ、長安は王允と呂布の手勢によって占拠されます

。ちょうどその頃、董卓軍の主力部隊は中原へと略奪紀行に出ていたので、ちょうど長安が軍事的空白となっていた隙を狙った犯行だったわけです。
主を失った董卓軍の張済、李傕、郭汜、馬騰といった主だった武将たちは、離散して逃亡しようと相談を始めます。

ここで賈詡という彼らの軍師役を務めていた者が「バラバラになれば各個に討伐されるだけだ、今こそもう一度兵をまとめて長安に攻め入ろう」と進言します。
彼らが一致団結して長安に攻め入った結果、まだ勢力を固めきれなかった王允と呂布は敗れ、王允は殺され、呂布は手勢を引き連れて長安を脱出するハメに陥ってしまうのでした。
ふたたび長安と帝は旧董卓軍の李傕、郭汜らの手に陥りますが、彼らはいたずらに内部抗争に明け暮れて、長安は董卓のいた頃よりも、ますます荒れ果てていったとのことです。

・袁術と曹操、そして曹操の強くなったわけ

そして話はまた袁術に戻ります(あー、ややこしい)。

193年春、中原へと出た袁術軍の前に立ちはだかったのが曹操という「小物」でした。

おそらく袁術は彼など一蹴できると考えていたのでしょう。

ところが曹操は袁術以上の大軍を持って彼を撃破するのです。
そのちょっと以前、191年4月の事でした。

袁紹派の一人として東郡太守といなっていた曹操は友人である鮑信の依頼を受け、同じ兗州に攻め込んできていた青州の太平道の残党と戦う事になります。

この戦いで鮑信は戦死しますが、曹操は少ない手勢ながらもたくみに戦い、太平道を圧倒していたようです。

そして192年冬。曹操は彼らの信仰を認めるという条件で、青州太平道へ降伏させるのです。

記録では兵卒30万、民衆100万と言われていますが、誇大にすぎるかもしれません。

ともあれ、曹操はこの中から精鋭を選抜し「青州兵」と名付けて、徹底的に自分の私兵として訓練するのでした。曹操にとっては、念願の豪族たちの私兵に頼らなくて済む自前の兵が出来た瞬間でした。
袁術たちの前に立ちはだかったのは以前の兵が少ないために徐栄に敗れた曹操などではなく、「青州兵」という数万の精鋭を擁する大規模な軍勢を率いた曹操だったのです。
袁術は曹操の前に、匡亭、封丘、襄邑、太寿、寧陵と笑ってしまうぐらいに連続して破れ、九江まで逃亡します。

とはいえ袁術も袁術で、寿春を落とし再び揚州で自分の勢力を復興させてしまうあたり、しぶといというか名門袁家の名は強いというしかありません。

・呂布VS曹操

さて、袁術を破った勢いで兗州や豫州など勢力下に置いていく拡大する曹操ですが、彼が最もてこずった敵が董卓を殺した呂布でした。
193年春、曹操は徐州の賊によって父を殺された仇を討つとして徐州に勢力を持っていた陶謙の下に攻め入ります。

私怨のせいか、青州兵が暴走したかはわかりませんが、このとき曹操は徐州において「川が死体で埋まる」ほどの大虐殺を行なったようです。

おそらく曹操の生涯における最大の汚点がこの徐州大虐殺でしょう。
ところがここで本拠地である?州を空にしてしまった隙に、親友であった張邈、そして陳宮が曹操を裏切ります。

そして長安から逃げ出し、袁術の所からも追い出された呂布を引き入れてしまうのです。

危うく本拠地を失いかけた曹操は慌てて兗州に戻り、呂布と悪戦苦闘を繰り広げることになります。
ここで漁夫の利を得たのが公孫瓚の武将で、陶謙の援軍に駆けつけた劉備という人物でした。

彼の人柄にほれ込んだか、徐州の豪族が頼れる人物が欲っしたかはわかりませんが、陶謙が病死した後、徐州は彼のものとなるのです。

それまで自分の領土どころかまともな兵すら持っていなかった彼にとっては、大出世といってもよかったでしょう。
ここでなんとか曹操は呂布を兗州から追い出す事に成功するのですが、本当に呂布というのは厄介な男で、徐州の劉備の下に客人として潜り込みます。

そして196年、揚州から徐州に北上してきた袁術と戦うために、徐州の州都である下邳を空にした劉備の隙を襲って、徐州を自分のものにしてしまうのでした。
ここで徐州を自分のものにした呂布は袁術と手を結び、曹操と敵対します。

さしもの曹操も、騎兵戦術を得意とする呂布は強敵と映ったようです。

袁紹や袁術や張繍など、曹操は周囲に多くの敵を抱えていましたが、この頃の曹操は呂布を最大のライバルとして見ていたようです。

劉備を小沛に配置したり、呂布の配下である陳珪や陳登と通じたり、袁術に替わって宛を占拠していた張繍を攻め入ると見せかけて呂布を攻めるなど、さまざまな工作をした末に、ようやく198年冬に呂布を下邳において包囲して捕らえる事ができたのでした。
ちなみにこの時、呂布は「貴方な歩兵を率いて、俺が騎兵を率いれば天下統一なんて簡単だぞ」と命乞いをしています。

しかし、曹操の傍らにいた劉備が「丁原や董卓がどうなったかお考え下さい」といったため、殺されてしまうのでした。

ちなみに刑場に引っ立てられる間際呂布は劉備を名指しで「こいつが一番信用できない男なんだぞ!」と捨てぜりふを吐いています。

それは後々、証明されるのですが……。

・曹操が強かった理由

話しは少し前後します。
196年、曹操は内紛を続ける李傕と郭汜の下を脱出した皇帝劉協を保護し、荒れ果てた洛陽ではなく自分の根拠地である許(ちなみに潁川)に遷都し、後漢王朝の保護者であるという大義名分を得ます。
大義名分と青州兵を手にした曹操は中原においてまたたくまに勢力を拡大していきます。

彼の強かったのは、青州兵が自分の直属の兵であり、他の勢力のように地方豪族たちに依頼してその私兵を集める必要がなかったことでしょう。

彼は自国を豊かにするためと、青州兵を養うために民が離散した土地を、流民たちに重税を課す代わりに貸し出すという197年10月「屯田制」という政策を取ります。

100年にも渡って放置されつづけてきた地方行政と、ここ数年の戦乱は民たちの流民化と、耕作地の空白化を生み出していたのです。

流民たちにとっては5割という重い租税を取り立てられますが、トラクター代わりの牛を貸し出してもらえたりしたので、流民を続けるよりは「屯田」に参加した方がずっとよかったのでしょう。

もちろん流民状態であった青州太平道の民たちがその中心になった事は言うまでもありません。

このため曹操は私兵ばかりでなく大規模「私民」といった層まで手に入れるのです。

こうして直属の兵と民を握った曹操は、「休耕期にしか兵を動かしたくない」などの地方豪族たちの都合を気にすることなく、好きなように兵を動かすことができたのでした。

実際、この頃の曹操の軍勢の動かし方は尋常ではなく、他の群雄たちが1回軍事行動を行なう間に3-4回は平気で軍事行動を行なっています。

まさに「通常の三倍」、「ずっと俺のターン!」状態です。

ちなみに余談ですが、生涯記録に残っているだけで曹操は67回もの戦いを行なっており、そのうち58回は勝利か有利に戦いを進めています。

変な話ですが普通の武将でも、こんなに戦いまくった人物はいないでしょう。

曹操は群雄の一人であると同時に、当時の中国でもっとも経験豊富な歴戦の武将でもあったのです。
さらに余談ですが、そんな経験を活かしてか、彼は『孫子』というナポレオンもクラウゼヴィッツも参考にしたと言われる歴史に残る兵法書を、自分なりに注釈を施し編集しなおすという軍事学者のような仕事も残しています。

『魏武注孫子』と呼ばれるその仕事は『孫子』という名著を、現在に残る形にまとめ上げたという歴史的といってもよい功績なのでありました。

ちなみに三国志演義ではこの『魏武注孫子』をモデルに『孟徳新書』という書物が現れ、蜀の使者である張松に嘲笑されて焼き払ってしまうというエピソードとして活かされています。

このあたり本当に演義の作者である羅貫中は、よく正史や曹操の事跡を研究していると思います。
ともあれ、大義名分を得て、敵を賊軍とする事や官職を好きなように与えたり奪ったりできる事と、他の群雄には真似の出来ない軍事行動の手数の多さが、曹操の強さの秘密でした。

豆知識 中原とか河北ってなによ?

しばしばここでも中原や河北といった、地名とは別の地方の通称が登場します。
これはだいたい意味合い的には日本で近畿とか関東といった大まかな地方区分の通称とほぼ同じで、当時におけるだいたいの地域を呼ぶときこのような呼び方をしました。

ここではその解説をしましょう。

中原

黄河流域を中心として広大な平野を含んだ、当時の中国でもっとも人口の多かった地域を称する呼び方でです。

元々夏や殷や周といった古代中国の王朝がこの地域を領土としていたので、歴史的にももっとも「中華」としての伝統と誇りのあった地域でしょう。

州で分ければ、司隷、豫州、兗州、徐州、青州あたりを含めた地域をこう呼びます。

まさに中国の中心であり、ここを制すればほぼ天下を制したも同然であるため、天下を争うことを「中原に鹿を追う」、すなわち逐鹿という呼び方をする場合があるほどです。

とにかく、一番多く名前が出てくる地域ですね。

河北

河北の河とはズバリ黄河の事であり、その以北を河北といいます。
州の区分で言えば冀州、幽州、并州、といった地域を指します。

比較的土地も豊かであり、中原に次ぐ地域であると言えよう。

後漢当時は中原が荒れ果てたため、こちらに移住する流民が多く、この地域を制した袁紹が他を圧倒する大勢力を築き上げることを可能としました。

ちなみに袁紹の政治はかなりよかったようで、後の魏晋の時代になっても「袁家がいた頃はよかった……」と述懐する老人がいたそうです。

中原と河北を制していた魏は面積上はともかくとして、実質的には当時の中国の八割を制していたと言えるのでしょう。
さらに当時は并州には鮮卑、幽州には烏丸などの騎馬民族の勢力が入り込んでおり、袁紹や袁紹を打ち破った後の曹操などは、彼ら騎馬民族たちの兵力を大いに活用していました。

特に烏丸などは曹操によって討伐された後に、強制的に移住させられており、曹操の貴重な騎兵戦力として利用されました。
余談ですが魏王朝の頃、鮮卑族は急速に力を増し、後に漢民族たちをも圧倒するほどの勢力ともなっていくのですが、これは三国志の時代の後の話となります。

関中

長安を中心とする関中盆地のこと。
秦から前漢にかけては中国の中心地であった地域です。

そのため、特別にこの地域をこのように呼ぶ場合があります。反董卓連合軍の戦いの後で、董卓が引き篭もった地域がここです。

「関中」という名前の通り、函谷関と武関という巨大な城塞以外に兵の入り口がないような巨大な盆地であり、天然の要塞でもあり豊かな穀倉地帯でもありました。

しかし董卓の暴政と、彼が死んだ後に李傕と郭汜が内戦に終始していたため、かつては中国でも有数の豊かな地域であった所が、見る影もなく荒れ果ててしまったといいます。

李傕や郭汜が討伐されたあとは、馬騰や韓遂といった雑多な豪族たちがバラバラに勢力を持つようになります。

西涼

涼州、雍州、一帯と并州の一部を含んだニュアンスで呼ばれる地域です。

匈奴や羌族といった騎馬民族たちの勢力圏に面する地域でもあり、シルクロードも存在するという西域色の濃い地域でもあります。
昔から強兵と良馬を産出する地域として有名であり、この地域を背景にして中央に進出してきた董卓は、まずその潜在的な軍事力を恐れられました。

その軍事力に対する畏怖が、董卓をして天下を掴ませかけた最大の要因であったと言えるでしょう。
ちなみに一応、後漢王朝は敦煌あたりまで領土としていたようですが、三国志の中では羌や大月氏などの名前が出てくるだけですので、とてもじゃないが後漢や魏などの王朝の勢力圏にはなかったようです。

巴蜀

益州など四川盆地より南部がこう呼ばれます。
中国人にとっては地の果てという印象の強い地であったらしく、巴も蜀も虫に関る字が当てられています。

この字面からもわかるようにこの地は、昔は流刑地とされていたほどの辺境として扱われていたのです。
しかし、この地から秦も前漢は起こり、また劉焉が聞いたような天子の気ありと言われるような事から、天下を望むには縁起のよい別天地というニュアンスがあったようです。

蜀錦と呼ばれる絹や鉄、銅などの鉱物も豊富で、米などの農産物も豊かな土地であったようです。

さらに、関中よりもさらに険阻な四川の山脈に囲まれ、「蜀の桟道」と呼ばれるような崖を削って、筏の様にして橋のように渡された危険極まりない道路というか通路を通らなければ出入りも出来ませんでした。

まさに引き篭もるには最高の土地であったと言えるでしょう。

反面、出撃するのも難しいため荊州を失ったあとの蜀の諸葛亮が、魏を攻めるのに苦労したのも無理はありませんでした。

江東・江南

長江下流域をこう呼ばれました。

春秋戦国時代にこの地に楚と越という国があったためこう呼ばれます。

中原の人間にとっては古代から交流があったにも関らず、なんなく蔑視するような雰囲気があったのは確かです。

ちなみに元の時代になってさえ、蔑視されていたという記録がありますから、北方の人間にとってはやはり長江流域の人間は別人種であるという印象があったのでしょう。

主食は北方が麦に対して、こちらの南方は米。

南船北馬と呼ばれるように交通機関として馬よりも舟が重要視されるなど、文化もまったく様相を異にしていました。

中原の人たちには別世界という印象があったのでしょう。

反面、この地の南方人は郷土愛が強く、熱狂しやすい性質を持つため、時として想像を絶する勢いを持つところがありました。

秦末における項羽の活躍やが孫策の快進撃、赤壁の戦いなどは南方人ならではの勢いがあったと言えるでしょう。

南陽

三国志では南陽という言葉がよく出てきます。

これは荊州北部の南陽盆地の事で、その中心都市は宛となります。

この地域は戦国時代に楚長城と呼ばれる長城が北方に向かって半円を描くように建設されていたこともあり、天然の要塞となっている地域でもありました。

また宛は後漢の記録では1都市としては中国一の大都市であったため、三国志の中でも袁術、張繍、曹操などが激しく争う地域となりました。

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