うまなみ三国志 三国志編 第二回 董卓の登場と反董卓連合軍~西から来た化け物と集まれ!討伐軍~

第二回 董卓の登場と反董卓連合軍~西から来た化け物と集まれ!討伐軍~

・ 何進暗殺と袁術、袁紹のクーデター

太平道の乱によって調子に乗っちゃった人がいました。

名目上、大将軍として太平道鎮圧の総指揮を執った事になっている何進という人物です。

この人は宛の肉屋だったとも伝えられていますが、袁一族を始めとする清流派豪族への影響力を考えると、宛の有力豪族だったのかもしれません。

ともあれ、彼は宦官の力によって妹が霊帝の皇后となり引き立てられた人物なのですが、大将軍として太平道の乱を鎮圧。

さらに189年4月、後漢王朝12代皇帝霊帝が崩御し。

何皇后の息子である劉弁が13代皇帝となると、いよいよ自分の時代がキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!状態になるのでした。
彼と彼の部下である袁紹は、宮中において宦官を討伐するクーデター計画を練ります。

同年8月、彼らは宦官の代表格であった蹇碩を誅殺し、さらに地方の豪族たちとその私兵を洛陽に呼び集め、宦官たちを掃討するという壮大な計画を立てるのでした。

この計画に冷静であったのが袁紹の友人であった曹操でした。

「宦官など昔からいるもので、権力を与えなければいいだけの話だ。それには獄吏を使って主要人物を逮捕すればいいだけで、そんな大袈裟な事をすれば計画がバレバレになって失敗するだけだ」と忠告しています。
しかし、彼の忠告にも関わらずこの計画は実行され、全国から董卓、王匡、丁原、橋瑁といった豪族たちとその私兵が呼び集められます。

もちろん、宦官の方でも危機感を募らせるのでした。

・通りすがりの董卓と拾った皇帝

そのクーデターについては日付まで伝わっています189年8月27日。

袁紹は虎賁中郎将という近衛隊長の地位にあった従弟袁術に、宮中で信頼の置ける部下を動かし当時宮中の警護に当たっていた、下級宦官たちと警備を交代しようと持ちかけさせます。

明らかにクーデターの準備以外の何物でもありませんでした。

この動きに対して宦官側は、何進を妹の何皇太后の命と偽って呼び出して、彼を暗殺してしまうのです。

何進が暗殺された事により後ろ盾を失って焦ったのが袁紹と袁術でした。

このままでは彼らは「賊」として宦官たちに討伐される立場になるでしょう。

袁術は直ちに近衛兵を率いて宮中に火を放ち、袁紹は宦官派の武官である許相を斬ってその兵を宮中に攻め入ったのでした。
「宦官は見つけ次第、殺せ!」
宮中に攻め入った袁紹と袁術たちの兵に殺された者たちは約二千人にも上ったといいます。

中にはヒゲがないというだけで殺された者や、自分が宦官でない事を証明するために裸になって男根を晒して見せた者など様々な悲喜劇が展開されたのでした。
中でも最大の喜劇が、これだけの大規模なクーデターを起こしながら、袁紹と袁術たちは肝心の皇帝と何進暗殺の首謀者である段珪を取り逃がしてしまったことでしょう。

段珪らは袁紹らの虐殺劇を聞いて絶望し、川に身を投げて自殺し、皇帝とその義弟である陳留王こと劉協は取り残されてしまいます。

蛍の光を頼りに都へ帰ろうとした彼らは、幸い役人の閔貢という人物に出会います。

さらに元宮中の重臣であった崔烈といった人物たちと落ち合い、なんとか宮中に連絡をとって無事に公卿たちに迎えられる筈でした。
そんな皇帝一行の前、本当にたまたま通りかかったのが、何進の召喚を受けて涼州から兵を率いていた董卓でした。

後の目から見れば後漢王朝にとっては最悪の偶然であったと言えるでしょう。

・董卓入城

皇帝を迎えに出ていた公卿や袁紹、袁術たちの前に現われたのは、堂々と皇帝を擁していた董卓とその軍勢でした。

皇帝を手に入れたのは完全に偶然だったのでしょう。

しかし「玉」を手に入れてからの董卓の動きは、まるで予め計画でもしていたかのように素早いものがありました。

彼は洛陽を制圧するには自分の兵力は少ないと考え、まず何進を失い途方に暮れている何進の私兵に目をつけます。

董卓は何進の弟である何苗を殺し、そ何進の兵を吸収します。

さらに并州から何進の召喚を受けて洛陽に入っていた丁原の軍勢に目をつけ、その配下である呂布を唆して丁原を殺させて、やはりその軍勢を吸収してしまうのです。

さらに夜静かに自分の兵を洛陽郊外に出し、昼になると派手に入城させて、さも涼州から毎日のように董卓軍が到着しているように見せかけるという小細工までしたのでした。

ともあれ、このようにして帝を擁するだけでなく圧倒的な武力を見せ付ける事で瞬く間に董卓は、司空(土木行政を司る最高位の文官)と大尉(軍事を司る最高位の武官)を兼任します。

名実共に洛陽における最大の実力者となるのでした。
そして「劉氏の血統など残すまでもない」と言っていた董卓は、9月1日、「皇帝は暗愚惰弱なので、祖先の霊廟に仕え、天地、君臣を治めるのは不可能である」という名目で劉弁を廃し、陳留王劉協を皇帝とするのです。

後の献帝、つまり後漢最後の皇帝の即位でした。
袁紹たちのクーデターからわずか4日目の事です。

董卓は皇帝を挿げ替えるまでの権力を握ったのでした。

三国志演義などではとにかく暴君として描かれがちな董卓ですが、少なくともこの辺りの電光石火とも言える政権の握り方などを見ると、政治的なツボを見抜くセンスは恐るべきものがあったようです。

・反董卓連合軍

こうした董卓の政権掌握に対して、誰もが黙って見ていたわけではありません。

特にクーデターまで起こしたのに完全に董卓に漁夫の利を締められた袁紹と袁術は我慢がならなかったのでしょう。

袁紹は友人たちを使って「袁紹を罰しようとすれば、また変を起こす恐れがあります。それよりも地方の太守にして都から遠ざけましょう」と董卓を唆して、堂々と洛陽から脱出してしまいます。

また袁術も、似たような経緯で董卓によって後将軍に任じられ懐柔されようとするが、やはり洛陽から脱出してしまうのでした。
こうして、董卓に反発する者たちは次々と洛陽を離れ、190年1月、渤海太守袁紹を盟主として反董卓連合軍が結成されるのでした。

後将軍袁術、冀州の牧(州の政治、軍事の権を持つ)韓馥、豫州刺史孔伷、兗州刺史劉岱、陳留太守張邈、山陽太守袁遺、済北の相鮑信などが一斉に兵を挙げたのです。

また、太守のような地位にないため身銭を切って、太平道の乱で活躍した曹操もまた五千人ほどの兵を率いて奮武将軍を称して挙兵に参加していました。

また同じく太平道の乱で活躍した長沙太守孫堅は、荊州刺史を私怨で殺してしまった事もあり、後将軍袁術の配下となる大義名分で荊州の兵を率いていました。

反董卓連合軍は河内に駐屯する袁紹を盟主とし、酸棗に劉岱、橋瑁、袁遺、孔伷が潁川に、韓馥が鄴に駐屯し、洛陽を東から圧迫。

さらに南方から南陽を制した袁術が洛陽を脅かすという形勢を取りました。
反董卓連合軍の総兵力は十余万に上ったと言われており、中国東部と南方はことごとく董卓に反旗を翻したといってもよい情勢でした。

董卓軍対反董卓軍の激突は避けられない! 待て次号な展開でありましたが……。

連合軍側の諸侯は強兵で知られる董卓軍と直接戦って損害を受けるのを恐れ、動きは鈍かったのです。
そんな情勢下、唯一動いたのが袁術の配下に所属する孫堅でした。

彼は南方より洛陽に進撃を開始する。これに対し、董卓は配下の胡軫と華雄を派遣します。

しかし孫堅は陽人において華雄を斬り、胡軫軍を撃破。

途中、孫堅の勢いを恐れた袁術によって一時補給が断たれるという事態もありましたが、そのまま孫堅は快進撃を続け、洛陽まで九十里という位置まで迫ります。

三国志演義では、華雄は関羽によって斬られていますが、正史ですとこの戦いはみんな孫堅の良いとこどりといってもよいでしょう。
帝を擁し洛陽を制圧していた董卓でしたが、本来彼の根拠地は涼州にあり、実際に駐屯していた兵力は多くはありませんでした。
胡軫の軍が敗れたことで余剰兵力を失った董卓は、洛陽を放棄することを決意します。

190年2月董卓は光武帝以来の帝都であった洛陽を焼き払い、前漢の都であった長安へと撤退してしまいます。

これを連合軍の中で唯一、曹操だけが董卓を追撃しますがが、兵の少なかった彼は董卓軍の後衛を守る徐栄によって撃退されてしまうのでした。
演義だと劉備たち三兄弟VS呂布の一騎うちなどいろいろと見せ場の多いこの反董卓連合軍の戦いですが、実際は孫堅の活躍以外に見るべき戦果も連合軍のやる気もないヘタレた戦いでした。

ですから、董卓が洛陽から追い払った事で彼らは面目を保ったとして、解散してしまう体たらくでした。
とはいえ董卓とそれに反発する諸勢力の戦いという形となったこの戦いは、後漢王朝とは無関係に各地の勢力が勝手に挙兵した事で、豪族たちが王朝から完全に独立するという結果をもたらしました。

以後、後漢王朝は本当に名目だけの存在となり、地方の独立勢力による戦乱の時代が幕を上げるのでした。

豆知識 “三国志”の時代の地方行政~州牧、州刺史、太守など~

三国志に登場する地名をもっとも分かりやすく判別する方法としては、当時の漢土と呼ばれる中国人の版図が十三の州に分けられていたことを理解する事でしょう。

この十三州ですが、前漢の絶頂期であった武帝の時代に十三の州に分けられ、これが後漢や三国時代にまで受け継がれる代表的な地方区分となりました。
三国志の序盤では後漢における十三州という行政区分と、その行政官たちがはじめに勢力を持ち始めます。

実際、反董卓連合軍もこういった行政官たちが中心となって兵を率いていました。
まず後漢における地方行政であるが十三州を大きな単位として、州は郡に区分され、さらに郡は県によって分けられます。

つまり、県→郡→州の順に大きな行政単位となる、これ漢代における郡県制の仕組みです。

日本とは郡と県の立場が逆になっているので、注意しましょう。
さらにもうひとつ、例外的な存在として国というものがあります。

県とほぼ同じ単位として扱われますが、これは郡からも州からも独立して漢の王族たちに与えられる独立領の事です。
県は県令や県長が統治し、郡は郡太守が統治します。

そして、郡を州刺史が管理するのですが、後漢において面白いのが刺史の役割です。

確かに刺史は郡太守たちを管理するのですが、その地位は実は太守たちよりも下なのです。

つまり刺史たちは太守と中央政府の調整役で、監視するだけの監督官として扱われていたのでした。

実際、郡太守の俸給は二千石あるのに対して、州刺史の俸給は六百石に過ぎません。

これは州という巨大な行政単位を地方官に直接統治させた場合、中央政府の掣肘のきかない事もありうるのを未然に防ぐための政治的配慮でした。
しかし、後漢末期ともなり太平道の乱や西方の叛乱など、国内が混乱してくると州は刺史の権限だけでは統治しきれなくなっていきます。

このため後漢政府は刺史の権限を大幅に強化し、軍事政治において独自に州を統治する権限を与えるのでした。

そうして設置されたのが強大な権限を持つ地方行政官が州牧です。

この州牧の設置により十三州は事実上独立勢力になってしまいますが、実際のところはそのときすでに後漢王朝は衰えていました。

太守たちはほぼ独立して州牧として赴任しても、州の統治者として権限を振るうのは中々難しかったようです。
この州牧の代表的存在が荊州牧劉表と益州牧劉焉でしょう。

彼らは、太守たち地方官や豪族達をうまく懐柔し、またどちらの州も戦乱の河北中原とは離れていた事も幸いします。

大部分の州牧が名目上の存在に終わるか、まったく無視されるか、あるいは殺されているのを尻目に地方に独立勢力としての地位を築き上げる事に成功したのでした。
そして、劉焉と劉表が益州の荊州にそれぞれ州牧として独立勢力を築くのを最後に、後の戦乱の中によって太守も牧も有名無実な存在となってしまいます。

曹操や袁紹、袁術、孫策といった軍閥たちが割拠して地方を支配する時代へと変わっていくのでした。

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