小説版 天井桟敷で逢いましょう第一話

小説版にしようという話もあった、というか最初は小説にしようと思っていた

本文

第1話 家の話

派閥抗争だの遺産争議だの。
そういう世界に生まれてきてしまったのは、ずいぶんと前からわかっていた筈だった。
しかし、だ。
まだ16の身空で、その当事者になるというのは、いくらなんでも早すぎはしないだろうか?
そんな自己弁護をしてやって、おそらくその言い分は少しは正しいのだとは思うけど、今さら言っても何もかも遅かった。
大崎篤、17歳。
いきなりなにもかも失った。
人生初の試練であった。

財閥やらコンツェルンやら、そんなファンタジックですらある存在ではないが、浮世離れしているというのは、否めない。
今まで俺がいた大崎家というのは、日本の経済規模から言えば微々たる存在かもしれないが、とりあえず地元では“大崎”と言えば“あの大崎か”と言われる程度には有名な資産家の家ではある。
この地方の主だった企業の株をかなりの比率で所有し、各都市にはビルだのマンションだのホテルだのが多数。登記簿を漁ってみれば山だの森だの田畑だの海岸だのが、全部あわせれば出来そうなほどにわらわらと。
ようするに知事やら議員やらが冠婚葬祭と選挙前に真っ先に挨拶しにくるような、そんな地方によくある名家の典型的存在である。
俺はそんな家の直系の長男として生まれた。
特に容姿、身体、頭脳に関してコンプレックスを抱く必要のないほどには生まれついた事もあり、この家に生まれる男としては順調な人生を送ってきたと思う。
特に大崎家の資産をここまで大きくしてきた現当主である祖父に可愛がられていた俺は、成人した暁には自他ともに認められる次代の当主として、この家を継ぐ路線が定められていた筈であった。
だから、のんびりと祖父の薦めるままに帝王学―――地方の資産家程度がなにをやら、ではあるが、そこは明治生まれらしい大仰さというものであろう―――とやらに勤しんでいたわけだが、一方で順調なるが故の嫉妬もだいぶ買っていたらしい。その辺りにまったく気づいておらずに油断していたあたり、まだまだ未熟であった。
さて、そんな俺が一気に凋落したのは、ついさきほどである。
1週間前に航空機事故で祖父が死んだ。
それだけである。
喪が開けるもクソもない。大崎家の独裁権力者であった祖父、大崎林一郎の死は、わかりやすくも露骨に御家騒動を引き起こした。
というよりも祖父の一手に握られていた大崎家の資産やら利権やら権利を、今まで祖父に抑えつけられていた者たちが一斉に起き出しては、少しでも多くの遺産にありつこうと食い争っているだけの話だが。
その過程で第一の目標となったのが俺である事は言うまでもない。
祖父の遺書が何故か見付からなかったか、存在しなかったかしたせいで、俺の権利を守ってくれるものは何も存在しなかった。
ほぼ監禁同然に母屋の居間に閉じ込められ、一族総出で説得という名の脅迫を受け続けていた。
さすがに35時間、食事も睡眠も取らされず、入れ替わり立ち代り脅迫・罵声・泣き落とし・哀願・逆切れ・電波・買収・色仕掛けなどのあらゆる手段で、“説得”されれば、俺が耐え切れずに“落ちた”のも無理はないと言ってくれるだろうか? とりあえず排便の欲求に負けて、あらゆる相続の権利や手持ちの財産を放棄する念書にサインをし、実印を押させられたのが、ついさっきである。
とにかくまいった。
さすがに億単位の財産がかかると人間ここまで凄まじい存在となるのか、という実例はさすがに思春期の少年に見せるものじゃない、と思う。
なにしろ誰一人として自分の味方はおらず、亡者の目をして迫ってくる姿は、おそらく後々まで夢に見るトラウマになるだろう。
なによりこたえたのは、俺を生んだらしい父と母という立場の男女についてだ。
俺を責める側の急先鋒として八面六臂の活躍で俺の敵となって活躍する姿は、おそらく一生忘れられまい。
さすがにその描写は勘弁してほしい、思い出すだけで吐きそうだ。
さて、全てを失う書類にサインと捺印をして屋敷の自室に戻った俺が今一番なすべきことはなにか? 今一番の欲求は睡眠にあるが、それはできない。
二度と醒めない公算が大きすぎる。
そう、一刻も早くここを脱出する事だ。
いくら念書にサインしたと言っても、いくらでも裁判などで係争する手段はある。
まだ見付かっていないが祖父の遺書が存在するかもしれないという可能性も彼らは懸念しているだろう。彼らにとっても相続関係がもつれた場合、再び俺を担ぎ出して係争の材料にするというのも、懸念と魅力に満ちた選択肢に違いない。
好むと好まざるにかかわらず、今となっては俺はこの家にとって存在自体が危険なのである。
最良の結果としてもどこかの別荘に見張りつきで蟄居されての飼い殺し。
手っ取り早い手段としては、このまま毒殺でもして、とっとと葬儀でも出してしまう事だろう。警察もまったく被害届もなにも出なければ動かないだろうし、ありがたい事にうちの一族に下手な係わり合いを避けてくれる可能性が大だ。
だが、さすがに祖父の死と遺産係争中では、あまりにあからさま過ぎる。
となると考えられるシナリオとしては、拉致同然に“留学”か“祖父を失った寂しさを紛らわせるため”とかいう理由で海外に連れ出されて、数万円ぐらいで雇われた現地のチンピラどもに段取りよく殺され、“資産家の少年、旅行先で口論の末刺殺”シナリオあたりだろうか?
なんだか、俺自身に差別発言があった末の口論という事になり、したり顔のキャスターに「海外に出る日本人は現地の方々に対する配慮が必要です」などとコメントされかねない勢いだ。
うわ、すごくいやだ。
ともあれ、妄想はここまでにして、少なくともこの日本においても、人間の命は一千万円より安い。
人間数十万の金なら感情に任せて殺すだろうが、一千万円以上かかると計画的に殺すようになってくる。ましてや数十億規模の資産がかかっていれば、ごく簡単に“選択肢”として殺人は浮上してくるものだ。
とりあえず今は俺が全てを放棄した事に浮かれ、今度は身内同士で分け前を争っておおわらわな状況であろう。俺も疲労困憊、神経衰弱な状態なのも確かで、彼らが俺に対して油断しているのも確かだ。
逃げるなら今のうち。そして時間が経過すればするほどリスクは高まる。
というわけで、精神的にも身体的にも疲れきっている自分に鞭打って、今脱出の用意を整えているというわけである。
身軽なほうがいい。
2日分ほどの着替えと、なんとか隠しとおした個人的な資金の通帳。それから様々なデータをぶち込んで封鎖した、誰にも極秘に借りてあったレンタルサーバーのパスやら個人的な人脈の連絡先などを記したメモ。携帯は、今この場でぶち割った。そして……なによりも大事なのは、本物の実印。
明日にでも照会されて、あの念書に推した実印が偽者だとバレたら、まず間違いなく俺の命はないに違いない。これが早急に身を隠さねばならない一番の理由だった。
こんなもんか。
あとは、自室のPCをバラしてHDとメモリを徹底的に破壊。本当はいろいろな個人的な書類やらなにやらも焼却したかったが、そこまでやってる時間はないだろう。
「あの……」
と、ちまちまと脱出準備をやっていると、自室をノックの音がする。
もちろん俺は、みっともなくうろたえる。
「な、なんだ」
まさか、こんなに早く……と思いとりあえず、脱出用の鞄をかくしてドアを開ける。
ドアの前には、女が一人。
外観の和風建築に合わせた、古風な女中風の着物に身を固めた姿は、家の女中の一人である証拠であった。
「篤さま……」
「なんだ、遥香か」
俺はほっと胸を撫で下ろす。少なくともやつらの手の者ではなかった。
というより、俺個人にとっては味方である公算は高い。昔、俺はこの年上の小間使いの、長い髪と物静かな風情に惚れて手を出した。それであっさり想いは叶い、俺は女を知った。
以後、2年ぐらいその関係は続いていたわけだが、どうもそれは祖父の手を回した結果だったらしい。つい最近知ったその事実には少々まいったが、いい女だし、好いてもいたので、そのまま事実として受け入れることにしていた。
「ここを出て行くのですか?」
さすがに鋭かった。
一時期は俺の家庭教師もやっていたぐらいだから、頭が悪い女でもない。
今の俺の状況を考えれば、この屋敷が俺にとっての死地である事ぐらいは理解できるだろう。
隠しても無駄だな。
どうせ、この女にまで奴らの手が回っているようなら、もはや俺の逃げる余地もない。
「ああ、逃げるよ。まだ死にたくない」
「やっぱり……」
あっさりと彼女は首肯する。
「車を用意しておきました。ただのタクシーですから信用はおけません。とりあえず駅までいってください。そこからはご自分で……」
「わかった」
俺は急いで鞄を引っ担いで、部屋を出る。
なんの愁嘆場を演じようともせず、ただ俺の欲しかったものを用意してくれたあたり、本当にいい女なんだな、と思う。
女中たちの部屋を経由して裏庭へ。そして勝手門から出る。ときどき表のほうから罵声や怒声が聞こえた。どうやら一族たちの相続争いは今が最高潮のようである。
門を出るとタクシーが一台待っていた。うちの息がかかったタクシー会社ではなく、個人タクシーを呼んだのは、彼女ができる範囲での配慮だったに違いない。
「これでお別れか……」
俺はちょっとだけ感傷的になって呟いた。遥香とも、この家とも、祖父の思い出とも……。
そう考えるとちとさびしいのは確かなのだ。
「そんな事ないと思いますよ?」
なぜか確信を込めて彼女は言った。
そして、笑った。
なんだか、それだけで勇気をもらったような気がして、俺は彼女の髪を撫でた。いつも思っていたが、本当に綺麗で柔らかいなぁ、と改めて思った。
「あと、これを」
と彼女は俺に鍵を一つ握らせた。
「なんだ? これは」
「存知ません。ただ、ずっと以前に御当主様が、篤様にもしものことがあったらお渡ししろ、と」
「ジジイがかよ……。わかった、もらっとく」
俺はその鍵を握ってタクシーのドアの前に立つ。
一度振り返って、遥香に言った。
「また来る」
「お待ちしております」
と言って彼女は綺麗な一礼をした。
そして俺は車中の人となった。
だんだんと小さくなっていく遥香と屋敷を見ながら、俺は彼女の苗字も歳も知らなかった事に気づいた。
それは今度帰って来たときに聞こうと思った。

日付はそれから3日を経過したと思いねえ。
俺は今まで一度も訪れたこともない地方の街にいる。
……あれからタクシーを降りたあと、俺はできる限り足跡を消すために、電車やバスやタクシーを乗り継ぎ、とりあえず家の影響下にない地方都市に出た。
そこで入ったビジネスホテルで改めて遥香にもらった鍵を確かめた。
それは、とある地方銀行の貸し金庫の鍵だった。
「これは……」
どうしても見付からなかったというジジイ(本当はこう呼んでいたのだ、いつだって)の遺言がそこにあるかもしれない……。
少なくともその手かがりぐらいは手に入る可能性は大きかった。
そんなわけで、慣れぬ街に戸惑いながらその銀行を探し当てた。
で、案内された貸し金庫には……
一束の古ぼけた権利書が入っていた。
だけであった。
「……」
祖父の遺書でもなんでもない。
ただなんの変哲もないの土地と建物の登記済証。いわゆる権利書という奴だ。
名義人がいつのまに書き換えられていたのか2年前に俺の名義に更新されていた事に、ジジイの意思をはっきりと感じられた。
しかし、だからこんなものがなんだというのか?
失望と徒労感に呆然とする自分を、案内してきた銀行員が怪訝そうに見るが気にしていられなかった。
とはいえ、いつまでも呆然と落ち込んでいるわけにもいかないのも確かであった。
家なし、縁故なし、資産なし、無職。
金はそれなりに用意しておいたが、収入がない身でいつまでももつというものでもない。
よく考えたら、年齢から言っても立場は家出少年と変わらないわけだ。
「あ、すいません。今まで預かっていただいてありがとうございました」
自分の惨めさと孤独を改めて感じながら、俺はそれを振り払うように権利書を受け取って、銀行を出る事にした。
少なくともここにいる意味は今の俺にある筈はなかった。
孤独や惨めさに浸りたいとしても、ここはそれに相応しい場所ではない。
……といった次第で、俺は流れ流れて月追町という、今までの人生からも、そしてこれからも知ることすらなかったであろう、縁もゆかりもない街にいるわけである。
理由は簡単で、とりあえず当面の行動のアテが、受け取った権利書にある地名しかなかったので、とりあえず何をどうするにしろその土地物件を確認しておこうと思っただけの事である。
それでどうしようと考えているわけでもなく、とりあえずジジイが自分のために最後の最後の遺産として用意しておいたものがなんなのか見ておこうと思ったのは、自分でもひねりがなさすぎると思うぐらい、自然な動きだったろう。
その後のことは、あとで考えよう。
よく考えたら、こんな無計画に日を過ごすのは、生まれて初めてのことかもしれないな。

月追台という小さな駅を降りると、目の前に広がる小さな商店街がそのまま駅の出口から続いていた。バスターミナルなどあろう筈もなく、ただ申し訳程度に駅前にはバス停とタクシー乗り場、自転車駐輪場が配置されている。
ぶらぶらしながら見渡して現れる景色は、薄汚れたネオンのパチンコ屋、地元企業の系列らしい垢抜けないスーパー、常連以外に入るのが躊躇われるような古びた喫茶店、酒屋から転身したのが丸分かりのコンビニ、店の外まで脂が染み出してそうな小汚い焼き肉屋、埃被ったサンプルが食欲をそそらない中華料理屋、中に佇む店番にやる気の感じられない天津甘栗の屋台……などなど。そんな駅前の景色は、俺の人生経験の中にまったく記憶にない筈なのに、妙に懐かしさを感じさせた。
つまり月追町は、どこにでもあるような典型的な小さな地方の町というわけだ。
さて権利書にある住所を、駅前にある落書きや黒ずんだガムのカス、削られた塗料などで飾られた町内の地図で確認する。
駅から歩いて10分ぐらいという、なんとも微妙な位置にあるらしい。
別にタクシーに乗ってもよかったが、排気ガス、ソース、甘栗、街路樹、埃、アスファルトなどの臭いが入り混じった、なんとも猥雑さに溢れた空気を吸いながら歩くのも悪くはない。
どうも、この田舎というには猥雑で都市というには貧弱な町の中途半端な風情のせいで、妙にリラックスし始めている自分があった。
「子供会バザーのお知らせ」
「この猫を探しています」
「ランチセット 800円(コーヒー付)」
「世界人類が平和でありますように」
見かける看板や張り紙に漂うリアルな生活感に浸らされていると、なんだか大崎家での騒動や自分の立場などが、遠い別世界の出来事のような気がしてきていた。

地方の都市や町の大きな特徴として、“繁華街に持続力がない”というものがある。
都市開発や駅前再開発などによって、駅前や繁華街周辺は中々に都会っぽく取り繕えても、その姿が繁華が長続きしない。
駅から10分ほど歩けば、たちまち馬脚を現して、建物がまばらになっていったり、田畑が見え始めたり、住宅街になってしまう。下手をすれば5分ともたない例も少なくない。
その建物は、小さなうらぶれた町に相応しく5分と持続力のなかった駅前商店街を越えて、すっかり住宅街となってしまっている中に、いきなりと出現してくれた。
「これは……」
一目見たとき、なんとも言えない表情を俺はしていたに違いない。
それが第一印象であった。
その建築物に対する。
『座芸演追月』
正面玄関上に掛けられた右読みのいかにも時代がかった看板に、その建物の名称がかけられている。ホールという通常とは構造が違っているだろうから内情はわからないが、高さは3階建てのビルほど。横に広がった敷地面積は、このようなホールとしては大きくもないが小さくもない。外観からすれば100~200人収容規模といったところだろうか?
古びたコンクリートの下半分には蔦の蔓に覆われて、その古色蒼然たる風情を強調している。もはや活動はしていないのだろう、看板やチラシなどは張られておらず、ただ建物のみが佇んでいる。閑散というよりも静謐といった落ち着いた雰囲気で、様子は今にもカレーの匂いでも漂ってきそうな生活観溢れる住宅街の中で、はっきりと違和感そのもののであるかのように倣然と聳え立っていた。
「どうしろってんだよ、こんなもの……」
思わず声に出してしまう。
確かに建築物としては立派なものかもしれない。
しかし、これをその名のように“演芸ホール”として運営するにしても、ここでなにかの商売やら事業を起こすにしても、こんなうらぶれた町の隅でしかない立地は、あまりにも不利過ぎる。
という事はただたんに土地として叩き売ったとしてもたかが知れているという事にしかならない、という事でもあった。
ジジイともあろうものが、最後の最後に残してくれた遺産にしては、ぶっちゃけて言ってしまいたいが、あまりにも期待外れな代物であるのは間違いなかった。
……ああ、わかったような気がする。
なんだかんだ言って、俺は今の今までジジイが残してくれたものなのだから、それなりに意味があるものだと期待していたのだろう。
少なくとも、俺が、俺から全てを奪い取りやがった奴らから、俺を長年親しんだ家から追い出した者たちに、奪い返し帰還するための、そんな道への手がかりか何かが見付かるのではないか? それとも逆襲の基盤にできるような何かがあるのではないか? そんな期待を心のどこかでしていたのは確かだったろう。
未練なのか、消沈からなのか、俺はふらふらと敷地の中に入り込み、なんとなく建物の周囲に足が向いていた。
ブロックではないコンクリートというよりもベトンと読んだほうがいいような古色と苔を這わせた塀に囲われた敷地と建物の間の空間は、丁寧に木が植えられて、塀とは別に周囲と隔絶した空間を作り上げている。
このホールが建物そのもの以上に静謐な印象を与えるのは、木々で囲われて住宅街から一線を隔しているせいもあったろう。
誰かが手入れをしているのだろうか?
マイルドな生垣のような役割をしている木々の足元には、枯葉や下生えの雑草は最低限に抑えられていて、足にまとわりついたりして歩き難いような事はなかった。
(ああ……価値はないかもだけど、いいところなのかもな……)
木陰に冷やされ、適度な湿り気を帯びた空気がなんとも心地よかった。
(あれ? まてよ。この草の様子だと)
よくよく考えてみれば、誰かが手入れしているようにも思えた。
そういえば、この建物は廃墟なのだろうか? それとも誰かが管理しているのだろうか? 少なくとも、敷地の手入れはなされているようなのだ。
(いったい誰が?)
なんの収益性もないような、こんなうらぶれた演芸場の面倒を見ている人間が誰かいるのだろうか?
敷地を散策しながら、そんな事を考えていた。
あまり意味のある思考でもない。ただ気づいた疑問を脳裏を浮かべただけで、真面目に検討する気もないような、そんな程度だ。
つまりは、上の空。
まあ、深く何かを考えれば考えるほど絶望的に気分になるので、少し逃避が入っていたのもたしかだ。
そんな、呆けていたのが油断だったのかも知れない。
敷地と建物の間の空間が急に開けて、視界が明るくなる。
どうやら中庭にでも入ったようだ。
なんとなく、建物沿いに曲がって行こうとした途端に視界が無くなる。
顔に何か布のようなものが覆い被さってきたようだった。
(……?)
柔らかく薄い軽やかな肌触りだ。
もちろん、いつまでも視界を覆われているのは愉快な事ではない。
落ち着いてその布のようなものを顔から離す。
手に取ってみれば、それは、女物の下着であった。
確か、キャミソールとかいったか?
(なんと)
辺りを見渡すと、中庭に木と建物に張り渡された物干しロープにたくさんの洗濯物が吊り下げられている。
どうやら、そのうちの一つに俺は顔を突っ込んだらしい。
まあ、中身ならばともかくとして女物の下着を見て慌てる性質でもないので、状況確認のために周囲を改めて見回す。
(誰か住んでいるのだろうか?)
と、一歩踏み出そうとしたときに、辺りに古臭い非常ベルのような金属音が鳴り響く。
「なっ、んだ……!?」
足元に違和感。
見れば、細いテグスのような糸が引っかかっている。
「トラップ!?」
何故に?
との思考を廻らせる前に、問いの答えが目の前に現れたようだった。
「きーさーまーかあぁぁー!!」
手に棒か棍か杖か、ああもう、呼び名はどうでもいい棒状の凶器を構えた女が出現。
鮮やかなポニーテールというのだろうか? しっぽを風にたなびかせ、俺に向かって全力疾走。低い姿勢で突きを狙う姿が素人ではないのは一目瞭然。あの腰の入った構えから繰り出される棍で喉を突き上げられでもしたら、ただでは済みそうにない。
などと観察している場合ではない。
今、俺の手には先ほど顔から外したキャミソール。
つまりは言い訳のできる状況ではない、というわけだ。
「天誅ぅぅ!!」
完璧に戦闘状態になっている相手に弁解は無理にして無駄。
これでもジジイに“帝王学”とやらの一貫として、それなりに武道は修めている。
ひとまず、これをやり過ごして、弁解するなり、逃げるなりすべし。
というわけで、俺は手に持ったキャミソールを相手の顔めがけて投げ付ける。
「ぅわっ」
反撃を受けるとは思っていなかったのだろう。
少し慌てたように、投げられた下着を棍で跳ね除ける。
そこに隙を見出して、俺は地面を蹴上げて相手に土・小石・葉などを目晦ましに喰らわせる。ついでにこっちから懐に飛び込んで、手首でも極めての凶器を奪ってやろうとの目論見であった。
相手の技量にもよるが、少なくともタックルでもかませて姿勢を崩すぐらいはできただろう。
仮定形。
そう、飛び込もうとした途端であった。
視界ゼロ。
突然、目の前が真っ暗になり、身動きが極端に制限される。
何かが上空から覆い被さってきたようだった。
それが毛布か何かだという事に気づいたのと、
鳩尾に綺麗に突きが入って俺の意識が途絶えたのは、ほぼ同時であった。
いや、少しずれて肋に入っていたかもしれん。
ともあれ、全てはブラックアウト。

夢を見ていた。
いや、夢でさえない、それは感覚。
何か見ていたというより、こんなことがいつかどこかであったっけ……。
ぼやけた頭がそんな既視感を訴えているような、そんな懐かしさだけを伝えてきていた。
「……?」
頭がなんとなく軽い。まるでなにかに支えられているようだ。
次第に覚醒してくる意識が、自分の頭が何かに置かれている事に気がつく。
暖かい。
そして柔らかい。
俺は確かこんな感触を知っている。
「……だいたい、こんな昼間からやってくる下着泥棒なんているわけないでしょう」
穏やかな声が諭すように。
「そりゃ、そうだけどさぁ、昼間っから人ん家の敷地に入ってくるのもどうかと思うぞ?」
少しボーイッシュな声が不満げに。
「確かに」
よく透る綺麗な声が短く。
「そうだそうだ。どう見ても下着物色してるようにしか見えなかったもん」
幼げな声が口を尖らせているのが見えるように。
最初、どの声もずいぶんと遠くに聞こえた。
意識がはっきりしてくるつれに、近くなって来る声たちは、どうやら俺の事を話ているようであった。
「けどね、どっちにしろ朱里(じゅり)のは下手すると殺人になりかねないんだから、無闇に振り回すものじゃないと思うの」
穏やかな声が、物騒な事をとりたてて何でもない事のように言う。
「だから、十分に手加減してたってば」
朱里と呼ばれたボーイッシュな声が弁解する。
どうやら、ボーイッシュな声の主は穏やかな声の主に頭が上がらない模様である。
意識がだんだんはっきりしてくるが、とりあえずもう少し状況を把握したいので、俺は気絶したふりを続けながらヒアリングを続ける。
「だからね。手加減とかどうとかじゃなくて、すぐに手が出る癖をどうにかしてもらいたいんだけど……」
「けどけど、か弱い女所帯なんだから、ちょっとやり過ぎるぐらいのほうが、いいって」
「私もそう思う」
幼げな声と言葉身近な声口調が弁護する。あの殺人一歩手前の突きが“ちょっとぐらい”だとは思えないのだが……。
「あ、けど……やっぱ、ちょっとやり過ぎたとは思ってるから……」
当の被弁護者は、少ししゅんとしたように言った。
「うん、大事にはなってないようだし、わかってくれればいいの。ね? 篤さん」
「なにっ!?」
と穏やかな声の矛先が突然自分に向いて、あまつさえ気がついている事を知られ、さらに自分の名前さえ当てられれば、驚いて飛び起きたのも無理はないと思う。この時になって自分が見知らぬ女性に膝枕をしてもらっている事に気づいたのは自分でもどうかと思う。
(人の頭って意外と重いんですよ?)
条件反射的に遥香のそんな言葉が思い出されて、あわてて俺は飛び起きる。
膝枕してもらっていた状態から起きれば、必然的に目の前にその女性が在る事になる。と当たり前の事を考えてどうする俺。
「ご気分はいかがですか?」
穏やかな声の主は、その声のイメージに全く違わぬ、おっとりとした笑みを湛える女性だった。笑うと目がなくなるところが、相手から警戒心を解く効果を果たしている。
ストレートに伸びた綺麗な黒髪のせいか、古きよき時代の日本女性といった印象を持ったのは順当な感想だと思う。
「なんだ、生きてたの」
ボーイッシュな声の主は、さっき見た。ポニーテールが戦闘様式に見えるのは第一印象として仕方ないだろう。大きな目はデフォルトで怒ったような目付きを作り出しているところが、隣の穏やかな声の主は見事に対称的だ。顔立ちもそうだが、全体的に細身で、本来性差として出るべき所も未発達な生硬さを感じさせる。
「おはよう」
綺麗な声の持ち主には、ちょっと魅入った。
下手すると俺より上背があるかもしれない長身で、ショートカットのちょっと威厳すら感じる美形だ。スラリとしているがきちんと女性らしさも醸し出している体形も、感嘆に値する。おそらくどんな所にいて、どんな格好をして、どんな事をしていても“美人”という基準だけは揺るがない、そんなわかりやすい美女と言えるだろう。
「しぶといやつー。血でも吐かないの? 内臓破れてたりしてさー」
幼げな声の持ち主は、それとは対称的なだんご二つの髪型が愛らしい、小柄な声を裏切らない印象の娘だった。
ともあれ、視界と聴覚に入った四人をいちいち描写していたのは、俺の審美眼的にそれに値すると判断するだけの、それぞれがタイプの違う見目の良さの持ち主だったからだ。
少なくとも目を開けたかいはあったのは確かである。
「……と。いきなり倒されたのは、こっちの落ち度もあるし仕方がない。聞き耳を立てていたのは趣味が悪かったのは認めよう」
俺はあっさりと自分の非を認めた。というより、どうでもいい事であった。そういった瑣末な所は譲歩するのが、ディベートの初歩というものだ。
「それはいいとして、どうして俺の名前を知っている?」
俺は目の前の微笑みに向かって問うた。
「んー、知っているのは当然だと思いますよ? だって、わたくし、篤さんの叔母ですもの」
今明かされる衝撃の真実。

ってほどでもないわけだが。
なにしろ、例の騒動でいきなり親戚縁戚姻戚が増えまくった光景を目にしてしまっていたわけで、そこに叔母の一人が増えたところで動じるわけにもいかない。
しかし叔母とはまた……、あのジジイめいったい外でどんだけ種撒き散らしているかわかったもんじゃねーな。
さて……。
前述したとおり、俺はさんざん“親戚禍(鍋ではないぞ)”とも言うべき事態に遭わされている。そんな状況で、俺が素直に喜びの表情を浮かべられなかったのは当然だろう。
「叔母だって?」
「はい、大崎樟里(さおり)と申します。それで、こちらが妹の大崎朱里。どちらも篤さんの叔母という事で間違いありません」
遺産相続の一件で思い知ったのは、俺には真偽すら定かでない親戚がわらわらと現れるという事であった。ジジイが死んでから、自称・親戚がどれだけ増えたのかを考えると、“一匹見かけたら三十匹はいる”な気分になるのは無理からぬ事ではあった。
「しかし、あんたは俺の事を知っているようだが、俺はあんたらの事知らんぞ」
「別に知ってほしいなんて思ってないし」
朱里という名前らしい妹が、口を挟んでくる。
「そんな事言わないの、朱里」
「はぁい」
大人しく妹は引き下がる。どうやらこの妹は姉には頭が上がらない模様である。と俺は学習する。
「私たちの事情もあって、親戚づきあいとかは全くありませんでしたから……」
「というと?」
「そうですねえ……、篤さんとは腹違いの叔母、ということになるんですけども」
「腹違い、と」
「ええ。篤さんとはお祖父さまが一緒になりますね」
「えっと。私の母が……」
「あのジジイの愛人だか妾だかやっていた、と」
「そういう事ですね」
……まあ、そういう事はあるだろうな、と。というよりも、例のジジイの遺産相続の件では、ジジイの愛人やら妾やらを自称したり、その子供や孫やらがわらわらと現れて、親戚どもが、示談やら脅迫やらで黙らせるのに忙しくしていたのを覚えている。だから、今さら一人や二人判明したところで驚くに値する事もない。
「はっ。そのわりには、ジジイが死んだ時には見かけなかったようだが」
俺は意地悪く言う。
「え? 亡くなられた?」
その答えは、俺からすれば意外ではあった。
「なんだ、知らなかったのか。ジジイは死んだよ、つい最近だがな。そのせいで、今やあの家は遺産相続やらなにやらで、大騒ぎさ」
俺は手短に事実だけ伝える。
「……そうだったのですか……まったく存じ上げませんでした」
「どうだい? アンタらも顔を出してみるかい? 今なら、口封じか示談のために、金一封でも包んでくれるぜ」
我ながらイヤな言い様だとは思った。
俺の言葉に妹のほうが過敏に反応して、キッとこちらを睨む。もう一押しで、また棍の一撃が来かねない。そんな目をしていた。
「ああ、とりあえず、この度は御愁傷様でございます……」
深々と。
丁寧な所作で俺に向かって頭を下げる。
妹の気配を察してか、俺の意地悪げな意識を汲み取ってか、樟里という女性はそんな仕草ひとつで戦闘的な気配をさらり流した。
「いろいろと落ち着いたら、お線香の一本も差し上げにいきませんと、ね」
顔を上げた樟里は、手をぽんと合わせながらそう言った。
「……今はやめといたほうがいい。とにかく葬式もそっちのけで、ゴタゴタしてる」
俺は毒気を抜かれて、普通に彼女に忠告をした。
「ところで。その本家の篤さんが、何故ここに?」
当然の疑問だと、俺も同意する。
ので、俺はゆっくりと丁寧に説明を始めた。
ジジイが死んでからの大崎家の騒動と俺の顛末。
そして、ここに来たわけを。

「なるほど……。それで、お祖父さまの遺された遺産を見にきた、と」
改めて辺りを見回してみると、どうやらここは楽屋のようだった。
畳敷きの広々とした部屋には周囲を電球で囲んだ鏡と化粧台。ハンガーや小物入れ。衣装が入ってあるらしいクローゼット。ポットが置かれた卓袱台などが雑然と置かれている。先ほどまで俺は楽屋に余るほどある座布団を並べた上に、二枚重ねの座布団を枕に介抱されていたらしい。
俺の周りには先ほどの四人が、卓袱台を囲んで茶を喫しつつ俺の事情に聞き入っている。
「そういう事だ。だから、別に俺はここに用があったわけでも、ましてや下着などが目的だったわけじゃない」
多少の皮肉を塗すのはどうにも俺の悪癖らしい。遥香にもよく注意されたものだ。
むっとしたように大崎姉妹の下のほうが俺を睨む。
「……で。どうする気だ?」
おもむろに大柄な美女のほうが俺を真直ぐに見詰めながら問うた。一切の誤魔化しなど通用しそうにない、強い意志の感じられる目付き。美人という事が“迫力”にも繋がるときがあるのだな、と俺は妙なところで感心する。
とにかく無口な性質らしく、発せられる言葉が短いのが余計に効果を醸しだしている。
「売り払って事業などなさいます?」
にこにこと悪意の欠片も感じられないように微笑みで、樟里という女性はさらりとそんな事を言う。
「そうされると非常に困る」
と大柄な美女が眉を顰めつつ断固とした口調で言う。
「いざとなったら、口封じにやっちゃおうか?」
小声でおだんご頭が朱里に囁き、朱里が頷き棍を握り締める気配があった。つーか、丸聞こえ。いや、聞かせているつもりか。
「薄々気づいてらっしゃると思いますけど……。私たちはここに管理者として居住しておりますの。ですから、いきなり追い出されると、それこそ路頭に迷わなければなりませんし、とてもとても困ります」
朱里の棍も美女の睨みもおだんごの脅しも、別に怖いとは感じていない。
ただ、ちょっぴり寂しげに、それでも微笑みを絶やさず言う樟里の言葉だけは、心底恐ろしいと感じた。たぶん、ここで俺が下手な答えをすれば、俺は恐怖の深淵というものを覗き込むことになりそうな、そんな予感を覚えた。
だから、俺はできるだけ軽い口調で答えたのだ。
「あー、正直なところ言ってしまうと白紙だなー」
だからお前らの脅しに屈したと思うな、そこのあからさまに喜んでハイファイブを交わしている二人よ。
「というより立地といい建物といい、買い手が出るとも思えん物件だしなぁ。ここに人がいるなんて知らなかったし、というか、この演芸ホールとやらは稼動しているのか?」
その問いに、待ってましたとばかりに樟里は嬉しそうに答える。
「ええ、当月追演芸ホールは、座付きの劇団……えーと、今の一座名なんでしたか?」
樟里さんは隣の美女に聞く。
なんだ、「今の?」って。
「月乃座」
「え! そんな名前でしたっけ? と、とにかく座付きの劇団“月乃座”と共に、今も営業中ですよ」
にっこり。
なんだか、“えっへん”という書き文字が背後に浮かぶように、自慢げに彼女は言った。
「それで、私が当演芸ホールの管理人兼劇団の座長、大崎樟里(おおさき さおり)。年は今年で23だったかしら」
座長が劇団の名前忘れてるのか……。
という表情を俺はしたに違いない。
「え、ああ。えとうちの劇団、なんか気分でよく名前を変えるので……それで、つい」
と簡単に説明して、紹介を続ける。
「で、これが私の妹で演芸ホールの管理人補佐」
その言葉を引き取って、
「大崎朱里。今年で16歳。ようするに雑用係、ときどき役者も」
朱里は意外に素直に答えた。ごく当然の事としてオーナーに自己紹介ぐらいははしとくべきだ、と悟ったのだろう。
「葛川(くずかわ)、だ。26歳。演芸ホールでは経理担当。劇団では役者と衣装係を担当している」
「葛川さんはねー、男役で人気なんだよー」
脇で小さい方が口を挟む。
なるほど、確かに舞台映えがするだろうし、その長身ならばそういう役柄を振りたくなる気持ちもわかるというものである。
「余計な事を……」
「それで私が、宮原津奈美(みやはら つなみ)。12歳。もちろん女優よ」
と樟里の紹介よりも早く、自己紹介を始める。まあ、年齢のとおり小柄だが見た目は愛らしいし、この自己顕示欲大目なタイプには適任なのだろうな。
「えっと……、今ここにいるのはこれだけですけど。ほかにも住み込みの人と通いの人がおります。演劇ばかりでなく、映画とか演芸とか、あとは地域の行事やらなにやらに貸し出したりして、ちゃんと現役で営業中ですよ?」
「しかし、決して繁盛しているわけでもなさげだな」
「まあ、ほそぼそと、なんとかやっていけているといったところでしょうか……」
「だろうなぁ……」
この演芸ホールが儲かっているなら……少しは上前を跳ねられるかな、とちょっとだけ考えた事は確かだが、やはり期待するだけ無駄なのは確かだろう。
「そうだ、とりあえず中を案内がてら、他の人たちも紹介しますわね」
といって、樟里は立ち上がる。
「はい。じゃ、中断したままの仕事かたづけちゃいましょう。朱里とつなみちゃんは洗濯物を取り込んで、葛川さんは夕食の買出しお願いしますね」
とテキパキと指示を下しているあたり、やはり管理人兼座長というのは確かなのだろう。
3人は三者三様の返事をして、楽屋を離れていく。

「ここがホールの舞台と客席ですね。一応300人収容できます」
まず案内されたのが、舞台と客席だった。
外観で想像したよりも内部はしっかり作られているようだった。
照明などの舞台設備も決して豪華とは言えないが、それなりに整っている。客席も固定の座席があり、古びていたが掃除も行き届いているようであった。
照明の落とされた薄暗い舞台から見える客席は、外光が入らない構造になっていることもあり、もっと暗く見えた。
そのせいか音響効果も加わって彼女の声が強く響いて聞こえる。
「ここができたのは、もう何十年前になるかわからないんです、実は」
「なに?」
どうも、俺の想像以上に歴史ある演芸場らしい。
「舞台役者をしていた私の母が、篤さんのお祖父さまと出会って、結ばれて……」
彼女は自分の父でもあるらしいジジイの事を、俺の祖父という言い方をした。なんとなく複雑な思いが隠れていそうだ。まあ確かにこれまでの経緯などから考えてみれば、ないわけがないか。
「私が生まれたときに、篤さんのお祖父様が以前からここにあった多目的ホールを買い取って改装して、母がその管理人になったのが始まりなんです」
……ジジイめ、さすがの甲斐性っぷりを見せるじゃねーか。もしかすると、彼女の母に入れ揚げていたのはジジイのほうなのかも知れないな。
「それで……、最初は普通の家に住んでいたんですけど。だんだん役者さんとか、こっちに住み込みはじめるようになって。そのうち家とこちらを維持するのも女手だけでは大変になってきたので、思い切って住居も兼ねるようにしてしまったんです。ですから……」
と一端言葉を切って。
「私にとって、ここは生まれ育った家でもあるんです」
樟里は自分の思い入れを示すように、静かにだが力強く言った。薄暗い舞台の上で、彼女の横顔は、不思議と存在感があった。まるで舞台や演芸ホール自体が、彼女を目には見えない意思の照明で照らしているかのように。
設備こそ古いが、隅々まで掃除と手入れが行き届いている理由もわかったような気がする。
……売り払うなどと言い出していたら……と想像するだに寒気がする。
「なるほどな……。確かに権利書こそ、ジジイや俺の名義になっているが、ここはあんたらのものらしい」
「いえ、そんな……」
慌てたように彼女は言う。
少なくとも17の若僧が引き裂いていいモノではない。
そんな気がした。
なんとなく空を仰ぐような気分で見上げると、そこには吸い込まれそうに奥行きと高さがある天井。
「しかし、この天井……すごいな」
俺は重くなった話題を切り替える気もあり、そんな事に感心してみせた。
見上げると、木製の梁が組まれた天井は相当に高く深く、そして広いようだった。
「ああ、あの天井と梁はうちの名物なんです。一応、お客さんも収容できていたんですけどね。それをあわせての300人収容なんですけどね。天井桟敷って言うんだそうです」
と、彼女は説明する。
「滅多にお客さまを入れる事がないので、すっかり天井桟敷としての役割は果たさずに変な事になってしまってますけど……」
「ん?」
どういう事だろう?
「行ってみますか?」
特に反対する理由もなかった。

それは……確かに一見の価値はある光景だったかも知れない。
一階から、梯子と呼びたくなるような急傾斜の関係者用の階段を上った先にあった月追演芸ホールの天井桟敷、というか屋根裏部屋は、客席としての機能は失われていた。
その代わりに果たす役割は、なんと住居である。
冗談のような生活感が漂っていた。
舞台の真上から客席の周囲、そして天井桟敷に続く舞台の演出や関係者用の通路、そして本来は三階席として使用されるべきかなり広い空間がある。
どうやら屋根部分は高い寄棟構造になっており、傾斜した天井と床の間の空間には、梁や柱がめぐらされている。
それらの間にシーツやアコーディオンカーテンが張られて部屋として仕切ってあるらしい。
そして、真ん中の共用スペースらしいところには、コタツとテレビまで置いてある。
全体には畳が敷かれ、舞台照明のさほど強力でないものの一部を室内照明代わりに使っているらしかった。
「ああ、もう。また散らかして……」
確かに共有スペースには菓子の袋や本や雑誌、紙くずなどが乱雑に散らかっている。さらには服や下着まで脱ぎ散らかしているのは、見ないふりをしたほうがいいのだろうか?
「おー、樟里、なんだ客か?」
奥のほうの暗がりから声がした。
目を凝らすと、スペースの一番隅のほう屋根の傾斜がもっとも低くなるあたりという、閉所恐怖症者だったら気が狂いそうな場所に、卓上灯がともり小さな机とそれに向かっている人影を照らしていた。
「ええ、ホールのオーナーさんが来てて、今案内しているの。春江さんも自己紹介して」
「ホールのオーナーって樟里のオヤジだろ? 何を今さら……」
春江と呼ばれた人影は背中で返事する。
「いえー、いらっしゃってるのは、そのお孫さんの篤さんですー」
「ほー、そうかね。ほんじゃ、ツラぐらいは拝んでおくか」
ごそごそと人影が立ち上がり、こちらにくる。
遠近法を反しているがごとく、あまり近づいてきても高さがかわらない。つまりは、それほど小柄だった、津奈美よりもさらに背が低く150cmあるかないかぐらいのようだ。
度の強い眼鏡でまったく化粧ッ気のない顔を覆っている。髪形はただ散髪の手間を省いただけの髪を、邪魔にならないようにというだけで束ねている。羽織った丹前も性別というものを度外視してくれ、と言わんばかりだ。
「ここの脚本兼演出家の高坂春江(こうさか はるえ)、だ。歳は聞くな。よろしく」
演出家という役職からなのだろうか? ごく当然の権利のように尊大な態度だが、どうもその身体の小柄さに、微笑ましく受け入れる事ができたのは口に出さずにおいたほうがよさそうであった。
「ほー、コイツかい。ずいぶんと若いじゃないか」
眼鏡に手を当てて、彼女はしげしげと俺を観察する。
「ええ、どうやらお父様が亡くなられたらしいのね。で、変わって本家の篤さんの名義になったらしいの、ここ」
初めてジジイのことをお父様と呼んだ樟里。だが、あまり親しげなニュアンスはなく、ただ便宜上そう呼んでいるといった語調に感じられたのは、気のせいではないだろう。
おそらくジジイと逢った事があるのも何度あるのかわからんし、彼女にとってはいろいろな意味で縁遠い存在であろうから。
というより、俺のほうもどうも彼女がジジイの娘で、俺の叔母になるという関係性があまりピンと来ていない。
「それで、この“篤さん”とやらは、ここを売り払おうだとか、我々を追い出そうとか悪さは考えてないのだろうな?」
「うん、それはないと思う。だって、しばらくここに滞在する事になるだろうし」
「ほー、そーかね」
!?
今、樟里はなんつった?
「なんだと!?」
と聞き返す俺。
「あら、違いましたかしら? 事情をお聞きすると、これから行く宛も住む所もないように思われましたので、てっきり」
確かに言われてみれば、今の俺の置かれている状況は、まさに住所不定無職。いや、それ以前に社会的立場からすれば、単なる家出少年に過ぎないわけだ。
一応、まとまった金はあるが、そう簡単に保証人もなく身元も明らかでないガキを住まわせてくれる場所もないだろう。
「……そう言われると返す言葉がない事に今気づいた」
「で、しょう?」
「けど、いいのか? さっき、ちらと聞いたが、ここは女所帯だって聞いているが……」
とはいえ、今の俺にそんな気になれるような状況でもないし、正直、水準以上の容姿の女性が多いとは思うが、どれもこれも俺の手に負えそうなのはいない。
「ああ、そうだな。くれぐれも夜這いとかは控えるように言っておこう。大崎本家の御曹司を手込めにしておくのも、悪い打算ではないという気もするがなー」
「ふふふ。ですねえ。でも、これ以上、うちの風紀が乱れる事のないようにしませんと」
と、高坂という演出家と座長たる樟里さんは、俺の考えているまったく逆のベクトルで心配しているのであった。
「……あー、もうー、なにー? うさーい」
天井裏の“部屋”のひとつから、声がする。なんだか、変なイントネーションの日本語だ。
「おー、オリガ起きたか。出て来い、またウチの住人が増えたから、挨拶だけはしとけ」
どうも、演出家というよりも“牢名主”といった威厳で、部屋の中に命じる。
「えー、あー、えー、めんどー」
「あの、オリガさん一応、自己紹介だけしていただけませんか?」
ガシャ。
カーテンが開く音とともに、客席の向こう側に当たるところから女性が一人歩いてくる。
全裸で。
もう今さら驚くこともないだろうがいや、この場合、露われるとでも表記すべきだろうか?
眠たげに目を擦りながら現れたのは、葛川さんと同じぐらい大柄な女性であった。
別に葛川さんのような迫力を漂わせているわけではないが、上中下と実にメリハリのある体形をしていて思わず見惚れる。俺も息子も年相応に当方に迎撃の用意ありな気分に一瞬でさせられるほどな肢体だ。
それが上下ともに見事なブロンドとあいまって、本人はただ眠そうにしているだけだが、その見た目だけでも物凄い存在感があった。
とはいえ、当人はまったくこちらに存在感を感じた様子もなく。
「オリガ・アレクセーエフ。21歳。あー、ネーむー……」
と言い残しでこちらを一瞥。
そのままのそのそと戻っていく。
そんな一瞬の出来事ではあった。
「ロシア人の留学生でな。あれでもうちの役者だ。ほかに大道芸とかいくつか心得ている、演芸場にとっては便利な娘だ」
「ええ、子供たちにも人気です」
まったく動揺一つ見せず、いや本当に何事もなかったという感覚なのだろう。演出家と座長は、平然と解説をしてくれる。
「えと、今、ここにいる方々はこれだけかしら……」
「朱里、来夢(らいむ)、津奈美はもう紹介済みか?」
「ええ」
ん? ひとつ聞き覚えのない名前が……。
「いや、その。来夢という人はまだ聞いてないが」
「そうなのか? 樟里」
「いえ、もうすでに紹介したはずですけど……。ああ、そっか」
「あれか、例によって下の名前伏せやがったか」
なんの話なのだろうか?
「あのですね、来夢というのは葛川さんの下の名前です」
「あいつは、あの容姿でそんな可愛らしい名前ついているのが、ひどいコンプレックスでな。それでなくとも、二十歳過ぎて名乗るのも辛い名前という事もあって、とにかく下の名前で呼ばれるのを嫌がる」
「使うのは春江さんとオリガさんぐらいです」
「私だって、からかうとき以外には使ったりせんよ。まあ、あやつは滅多に怒らぬほうだが、初心者は無理に逆鱗を撫でるような真似はせんほうがよいな」
と悠然と笑いながら忠告してくれた。

やはり、ここは劇団員や管理人たちの住居も兼ねているせいで、演芸ホールというには随分と異質な構造になっているようだった。
愛人に買い与えるにしても、随分と面白い事をしてくれるな、ジジイめ。いったいいくら使いやがったのやら……。
「ところで、篤さんは学校とか、どうなさるんです?」
そんな事を考えながらホールの内部を案内されながら、俺は聞かれた。
「ああ、学校は義務教育以来行ってない」
「え?」
「ジジイの方針でね、在宅教育さ。それで大検の資格を取らされた」
なんでも、友人や人脈を作りたかったら、大学へ行ってからにしろという事らしい。高校までの友人や人脈は、足手まといやしがらみにしかならん、というのがジジイの言い分だった。おそらく、俺の父とかいう立場の人間が何か高校時代にやらかしたのだろう……。
おかげで、親戚中を敵に回して家に出るような今回のような状況の場合、頼る当てもないまま路頭に迷う事になってしまったわけなのだが。まさか、ジジイも自分がこんなに早くくたばるとは思ってもみなかったのだろう。
「だから、俺についてはそんなに心配する必要はない」
「……偉いんですねえ、篤さんは。大検って難しいのでしょう?」
「さあ? どうなんだろうな。」
俺にはあまり実感がない。
ジジイの指示に従って、ひたすら勉強し続けた過程の一つに過ぎなかったような淡い印象しかない。
「ともあれ、さすがにここまで嗅ぎつけないとは思うが、大崎の家にアシがつくような真似は、くれぐれも控えるように頼む。一応住まわせてもらうからには手伝うし、食費や光熱費はある程度負担する」
この辺ははっきりさせておきたかった。
「別に私たちにとっては、大家さんになるわけですからいいんですけど……」
「いや、そんなに余裕のあるようには見えないし、むしろ、そのほうがこっちも気が楽だ」
「そうですか……なら、みなさんと同じように払っていただきますね」
少なくともホテル暮らしを強いられるよりは、金銭的にも楽だというものであった。
「えーと、今ここにいるのは先ほど紹介した、私を含めて6人ですけど。あと二人ばかり住み込みの人がいますから、戻ってきたら紹介しますわね」
「まだいるのか……ずいぶんと大所帯なんだな」
「みんな……いろいろと事情があるんですよ。
なんとなく、それは理解できるような気がした。どうみても、普通の人生を歩んでいるとは思われないやつらばかりだ。
「住み込みの人以外にも、ホールのスタッフや芸人さん、劇団員はおりますしね。おいおいそういった人たちも紹介しますね」
「お願いする」
最初の印象では寂れた、開店休業状態を予想していたのだが、それは今日がたまたま休日だったためもあるようだ。決して繁盛しているというわけではないが、娯楽の少ないこの市周辺では、それなりに営業はしているらしい。

夕食時。
劇団“月乃座”の大崎樟里座長は、とりあえずホールのオーナー兼居候として俺を改めて紹介する。
その反応は斯くの如し。
津奈美「えー、コイツまだ居座るの?」
朱里「まあ、雑用とかキリキリ働いてもらうからね」
葛川「そうか、よろしく」
高坂「ま、せいぜい私にネタを提供してくれる事を願うさ」
オリガ「ねむー」
基本的に夕食はここに住み着いている連中が一緒に摂る事になっているらしい。作るのは、それなりに腕前が保証されている者たちの中で手が空いている者が作っているらしい。
「いただきます」
共同の居間としての役割を果たしている楽屋に設えられた食卓では、座長の言葉に続いて19世紀の帝国主義華やかなりし頃のバランス・オブパワーな世界が繰り広げられる。
すでに絶対的な列強とも言うべき樟里座長や高坂先生の領土には誰も手を出すことをしない。津奈美、朱里、オリガといった勢力が、食事には大してこだわりのないらしい葛川さんやこのような食卓は未体験である俺の領土を容赦なく侵略していく……。
「あ、あの、ごはんだけはたくさん炊いてありますから」
……その日、3日ぶりのまともな食事の大半を、俺は炭水化物の摂取に費やすことになってしまったのは言うまでもない。

食事の後、俺は部屋割りを申し渡される。
樟里と朱里は管理人室に居住しており、高坂先生、オリガ、葛川さんはあの天井部屋を根城としている。津奈美は基本的に通いで、泊まる時は大崎姉妹と一所らしい。
というわけで、俺の部屋として割り当てられたのは、地下にある大道具倉庫であった。
さすがに地下の倉庫だけに、中々に広い空間が提供されてはいるが、窓もなく、いかにも冬場は寒そうなのが、女性陣には受けない理由になっているのだろう。
「ところでな、篤」
はやくも人の事を名前で呼びつけにし始めているのは、高坂先生である。まあ、確かに苗字だとここでは大崎姉妹の事になってしまうので、ある意味当然か。
座長に言われて、俺を倉庫に案内してくれている間での会話である。
「樟里から、諸々の事情は聞いている」
「我ながら惨めと言うほかないんですがね」
何故だか軽めではあるが、敬語を使っている自分がいる。
「いや、その事なのだが……。確証はせんが、ここに滞在する事はお前にとっても悪い事ではないかも知れん」
「そりゃ、美女だらけの女所帯に男が一人という状況ですからね」
もちろん大いなる皮肉である。
むしろ、女性への様々な美しい幻想を打ち砕かれるほうが早いだろうという気が、早くもしている。
「そうではない、その遺産相続の件について、だ」
薄暗い廊下で何故か眼鏡が光る。
「父方とは縁遠い樟里ではあるがな。あれでも年に一度ぐらいは、おまえの言うジジイ、つまり大崎林一郎氏と逢っていた」
「へえ、あのジジイにも人の親らしい感情があったのか……」
少し意外に思う。
その親らしい感情とやらは俺の両親、特に俺の父であった実の息子に対しては全く発揮されていなかったのは確かだった。お世辞にも優秀とは言えないあの男は、直系の後継ぎである立場でありながら、明らかに大崎家関連の企業の中では傍流とも言える企業に就職させられ、閑職に追い遣られていた。
そして、大崎家の当主の後継者として期待されていたのは孫である俺であったのだ。
明らかにジジイは、俺の父という立場の男に対して、遺伝子のトンネルとして以上の存在価値を認めていないのは確かだった。
「まあ、出来の悪い息子と、それなりに自立している美人な娘では扱いが違うのも当然か……」
と一人ごちる俺を、哀れみや同情やら非難やら無関心やら、くるくると変わるなんとも言えない目で高坂先生は見上げている。
「お前の感情など知った事ではないが、2年前の事だったかな。珍しく林一郎氏がここに姿を現してきた事があった」
「珍しくという事は、ジジイは滅多にここには来なかった?」
「私が知る限り、その一度だけだ。そうそのただ一度の時だが、なにやら樟里に貸し切り分の金を渡して、住み込み連中を始めとして全スタッフを追い出して、中で何かやっていた事がある」
「ジジイ一人で?」
「ああ、ボディガードも秘書も誰も連れずに、な。あまりにも尋常でない様子に、今でも強く印象に残っている」
「それと俺に何の関係が?」
ジジイが変な事をしていたのはわかっていたが、今ひとつピンとこなかった。
「ええい、ニブイ奴だな。わからんか? 2年前と言えば、さっき見せてもらった権利書の登記が林一郎氏からお前に書き換わった時期だろうが。おそらく正確な日付を照らし合わせれば、ほぼ一致するはずだぞ」
「あっ……」
なにかいろいろなものが繋がるような、そんな直感が俺を駆り立てる。
「そうだ、確か林一郎氏の遺書は見付かっておらんそうだな」
「ええ、そうです」
「そして、林一郎氏は何故か最後の遺産として、ここの権利書のある鍵をお前に託していた、そうだな?」
「そうか!」
それは、どうしても繋がらなかったジグソーパズルに要のピースが見付かったような、そんな感覚。
「あの抜け目のないジジイが、まったく意味のない事をするわけがない。という事は……」
「まあ、推測に過ぎないが、林一郎氏の遺書がこのホールのどこかに隠されているという公算は大だな」
今日はなんと起伏の多い1日なんだろう!
最後の望みを託して訪れた銀行では、たいした価値のない権利書のみに失望させられ、ほとんど呆然とこのホールを訪れ、路頭に迷うところを、とりあえず棲家だけは確保できたと安心した、その時まさに最後の希望はまたも俺の前に姿を現したのだ。
「そ、そうだ、ならここに滞在してジジイの遺書を探し出せば、また俺は……」
「復讐でも復権でもなんでもするがよい」
再び頭をもたげ始めた希望と野心に身を焦がそうとする俺に対して、恩人とも言える高坂先生は、大した関心もなさげに言った。
「ありがとうございます!」
とりあえずお礼を言って頭を下げる。
いくらでも感謝しても、し足りない気分だ。
我ながら可笑しいが、すでに俺は大崎家を取り戻した気にすらなっていた。
「いや、礼はせずともよい。その代わり、一つ約束をしてもらいたいのだ」
「はい、なんでも」
自分でも現金なぐらい素直に答える。
「遺書を見つけて遺産なり権力なりを取り返した暁には、だ」
「はい」
「樟里たち大崎姉妹に、お前の名義になっているここの権利書を正式に譲り渡してやってほしいのだ。あれは……樟里とって、このホールは自分の人生のほとんどが詰まった“家”なんだ。名実ともにここの主にしてやるぐらい、要求してもバチは当たらぬだろう?」
それは……あまりにも真っ当で逆らってはならないと思わせる、当然の要求であったろう。
「わかりました、約束します」
「実印も念書も要らんぞ」
にやり、と高坂先生は笑う。
冗談めかしているが、この口約束はどんな実印、念書、サイン、契約書などよりも、俺にとって重いものである事だけは確かのようであった。
くれぐれも忘れないようにしよう。
そう思った。

こうして、おれはこの奇妙な演芸ホールと劇団に身を置く事になったわけである。
どうにも癖の強い連中に囲まれ、俺は俺で到底真っ当とは言えない立場と性格故に、どんな事になるかはわからない。
ただ、なにはともあれ、全てを失った俺に。
居場所と目的が出来たのだけは確かなようであった。
とりあえず、その二つが確かならば、人生はなんとかなる。
そう言ったのは誰だったか?
思い出すのも、遺書探しも、何もかも、とりあえずは今夜ぐっすりと眠ってから考える事にしよう。
おやすみ。
第1話 了

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