荊軻の話

昔、別冊宝島で書いた荊軻の話

世界史上に残る鉄砲玉
侠の元祖たる漢の生き様を見よ

任侠の元祖を追い求めれば、どうしたって古代中国に行きつく。そもそも“侠”の文字も心も、中国で発生し磨き上げられた男の生き様なのだ。さすがに国も違えば歴史も違う国の事、“侠気”の発し方は本邦と彼の国とは大分違う。本邦での侠客たちは「親分のために命もいらぬ」的な縦の関係を重視するが、中国では同朋や友、義兄弟のために命を捨てるような横の繋がり。そして、彼らの侠は日本よりもドライで、「鴻毛のごとく」と言われるほど命が軽い。だが、それだけに純で激しく、ただ“侠”の一文字をもって煌くような印象があって、より濃厚な男の生き様を見せてくれるのだ。
まあ、理屈はいい。
ここに一人の男がいる。
名を荊軻といい、古代中国は春秋戦国時代の男。日本はまだ邪馬台国すらなかった時代の人間だ。
この男の生涯は、まさに“侠”そのものであった。
語るならば、千言の理屈よりも一人の男の生き様だけでいい。

荊軻は春秋戦国時代によくいたような遊侠の徒である。遊侠とは組織には属さず、頭脳や腕っ節など様々な特技をもって、各地の有力者の所で食客として居候している者たちの事だ。ただ単なる居候ではない、事あるときはいつでも一宿一飯の恩をもって特技を発揮して死ぬ覚悟を持ちながら飯を食っている、そんな男たちである。
荊軻は読書と撃剣をよくし、酒を好んだ。
ただ、多少軽薄なところがあったようで、遊歴の先々で剣客と剣術の是非を論じて相手を怒らせたあげく逃げ去ったり、双六で争ったあげくやはり相手を怒らせてしまい逃げ去ったりしている。また、酒を飲むと浮かれて歌い、友と共に世を悲憤慷慨し泣き出したり、実に゜傍若無人に酔ったという。
なかなかに愉快な明るい人物である。議論や遊びで人を怒らせてしまうのも、酒の酔い方も、むしろ愛すべき純朴な性格であったという証明と言えよう。
ただ、多少軽薄だがその至純そのものの性格は人々に愛され、どこか見所のある人物と見られていたようた。遊歴の先々でその地方の賢者、名士、豪傑らは彼を重んじ待遇したという。
そんな彼は今、燕という国にいる。
燕では田光先生という名士の下で彼は居候していた。
田光は燕では知らぬ者のいない義侠の名士である。その性は、まさに“仁”と“義”と“侠”で表せるような人物であった。
田光先生も、この軽薄だが愛すべき食客をどうにかして、世に出してやろうと考えていたらしい。田光は事あるごとに荊軻と親交を深め、義侠とはかくの如きものだと態度で示していった。
そんな日々が続き、しばらくして燕において大事が起こった。
燕の太子丹が秦より逃げ帰ったのである。丹は幼い頃、趙という国で人質となっていて、その頃に秦の太子政と知り合った。政と丹は仲良くなり、先に政が秦の王となったとき丹は進んで秦の人質となったのである。
だが、秦王となった政は、屈辱に塗れた趙での人質時代を思い出したくはなかったようで、その当時仲良かった丹の姿が忌々しくなってきたのであろう。秦における丹に対する処遇は冷たかった。
政の仕打ちを恨んだ丹は密かに秦を脱出し、燕に逃げ帰って燕王となった。
「誰か秦に報復してくれる者はいないか?」
しかし、誰もいなかった。
秦は西方の強国であり兵は強く、その武力は他国を圧倒していた。春秋の時代、秦は武力を恐れた者たちが合従策や連衡策を説いたほど、その武力は圧倒的だったのである。それに引き換え燕は秦を討つどころか国を保つのがやっとという弱小国であったのだ。

その後、秦は秦王政の下、ますます勢力を拡張し斉、楚、三晋などの領土を侵し、燕の領土に迫ってきた。さらに燕には、秦で王の不興を買った将軍樊於期が亡命して来ており、丹はこれを受け入れている。
まさに秦と燕は一指触発の危機にあった。
この事態を憂いた重臣鞠武は王を諌める。
「秦の領土は天下にあまねく、その威力は全国各地を脅かしております。さらにその国力は民も多く兵も強く、兵器甲冑にも余裕があります。ですから、秦が外征しようと思えば、燕など一たまりもないでしょう。なのに王は冷遇されただけの恨みで、どうして秦の逆鱗に触れようとなさるのですか?」
鞠武の諌めの言葉は実にもっともな話であった。鞠武は続ける。
「ただでさえ暴虐な秦王が、さまざまな怒りを燕に積んでいるというのに、この上、樊将軍が燕にいると聞いてはどんなことになるか分かりません。早く樊将軍を追放し、他国と同盟して国の防衛をはかりましょう。その上でなら、いつか秦と対抗できるようになるでしょう」
だが鞠武の言葉は丹には届かなかった。幼き頃の友人に裏切られたという恨みは、ここまで丹の心を執念深くされていた。
「そなたの謀事は、長い月日がいる。今の予は憎しみに心が乱れ、一刻の猶予できないのだ。それに彼の樊将軍は天下に身の置き所がなく、窮して予を頼ってきたのだ。いかに強秦に迫られたとて、追放する事はできまい。そのような事をするくらいなら、予の命運など尽きてしまえばよいのだ」
面子を潰された上、時分を頼ってきた者を裏切ってまで、丹は世に立つつもりはなかったのだ。
鞠武は王の覚悟を見届け諦めたように受け入れた。
「燕には田光先生という人がいます。その人となりは知恵深く沈勇、ともに事を成すに足る人物です」
「ぜひ田先生に会いたいが、よかろうか?」
「謹んでお引き受けします」

田光の下を鞠武が訪れたのはその日のうちであった。
「太子は国事を先生に諮りたいと願っている」
鞠武は田光にこう伝えるだけでよかった。この一言だけで、動きすべてを投げ打っても後悔もせぬ男、それが田光という男であった。
ただちに田光は丹の下を訪れると、丹は自分で出迎え、ひざまづいて彼の教えを乞うた。
「燕と秦の2国は両立しません。どうすればいいのでしょう」
田光はすべてを悟った。どうやら丹は己を刺客としたいらしい。
「『麒麟も老いては駑馬なも劣る』と言います。太子は私の若い頃の評判を聞いて、老衰した今の私をご存知ないようですな。ですが、それを理由に国事を捨てようとは思いません。私の親友に荊軻という者がおり、これこそ役に立つでしょう」
「願わくば先生の紹介でその者に会いたいが、どうでしょう?」
田光は承諾し、退出する。そのとき、丹は田光に言わでもがなの事を言う。
「この話は国の大事です、お洩らしならぬよう」
田光は怒らず微笑みながら、老いた腰を曲げ身をかがめた。

その夜。田光は荊軻の下を訪れた。
「荊軻、私と君の親交は燕で誰知らぬものはない。いま太子はかたじけなくも私に『燕と秦の2国は両立しません。どうすればいいのでしょう』と言われた。老いた私はその期待に沿えぬので、君を太子に推薦した。どうか大使の宮殿に言ってもらいたい」
荊軻も異存はなかった。このような有事のために、食客は飯を食らい、田光は彼と親交を結んでいるのだ。それが侠の徒たちの友情であった。
「謹んで仰せに従いましょう」
その応えに田光は微笑んで荊軻を見た。慈父の目であった。
「さきほど、太子は私に『この話は国の大事です、お洩らしならぬよう』と言われた。これは太子が私を疑うものである。事を謀って人を疑わせるのは、義侠とは言えまい」
田光は腰の剣を抜いて、自らの首に当てた。止めずに荊軻は全身を目にして田光を見た。田光は己の死に様をもって、この多分に軽薄なところのある男に侠の生き様、死に様を見せようとしていた。
「願わくば、君には急いで太子のもとに至り、私がすでに死んだことを言上し、国の大事が洩れないことを明らかにしてほしい」
そのまま剣を引き、田光は自らの首を刎ねた。
荊軻の手に抱かれるように落ちた首には、侠として死ねた男の会心の笑みが張りついていた。
荊軻は衝撃を受けていた。田光の死にではない。その笑みにであった。
美しかった。
侠とはここまで美しく死ねるものなのか。
(俺にもこのように笑う事ができるだろうか?)

荊軻は丹と会い刺客として秦王政を屠る事を承諾した。

丹は荊軻を上卿として敬い、日々ご馳走を並べ、美女をはべらし荊軻を接待した。だが、いつまで経っても荊軻は動こうとはしなかった。
その一方で秦は着々と領土を拡大し、燕の国境に迫った。
丹は接待に溺れているように見える荊軻を疑い、秦を恐れそれとなく荊軻に催促する。
「秦兵が今日明日にでも燕に迫りそうで、長く貴方を接待しようと思っても、できなくなりそうです」
「そろそろ私も太子に言上しようと思っていたところです。二つの物を手に入れていただきたい。そうすれば大事はなせましょう」
「二つの物とは?」
「燕でもっとも肥沃な地の地図と」
「それぐらいなら用意できるでしょう」
「樊将軍の首です」

結果がこうなる事は荊軻に予測がついていた。
「樊将軍は困窮の果てに私に身を寄せたのです。私の私利のために裏切る事はできません。なんとかこうりょ願えませんでしょうか?」
樊於期の下を訪れる途上、そんな丹の言葉を思い出していた。仁君ではあるが、腰が据わらぬ。そのために多くの人を死に追いやっている事に気づかぬのが丹という王であった。
樊於期に会った荊軻は、開口一番言った。
「秦のあなたに対する仕打ちは、まことに深刻と言わなければなりません。父母をはじめ一族を皆殺しにされ、今や将軍の首には千金の賞が懸けられています。将軍は」
これを聞いた樊於期は、天を仰いで嘆息し、涙を流しながら応える。
「私もそれを思うごとに苦痛が骨髄に徹します。しかしどうすればよいのか、私にもわからんのです」
荊軻は樊於期の目を見つめて言った。こう言ったとき、樊於期がどのような表情を示すのか見たかったのだ。
「貴方の御首をいただいて、秦王に献ずるのです。秦王は必ず喜んで私を引見しましょう。そのとき、私は左手に秦王の袖を取り、右手でその胸を刺します。しからば将軍の仇は報じられ、辱められた燕の恥も雪がれましょう」
樊於期は顔を輝かせた。そして片肌を脱ぎ、
「これこそ私が日夜歯を食いしばり、胸を打って悶えたところ。今こそ教えを承ることができた!」
そのまま剣を抜いて、樊於期は自分の首を刎ねた。
その首には確かに会心の笑みが刻まれていた。

秦国宮殿。
荊軻は燕の使者として燕国第一の肥沃な地の地図と樊於期の首を携えて秦を訪れた。
「燕王はまことに大王の威光を震い恐れ、国を挙げて大王に臣従する事にしました。謹んで樊於期の首を斬り、肥沃な地の地図を献上するため、これらを函に入れて封じ、使者を遣わして大王に言上しに来ました」
地図を献じるというのは、その領土を献じるという意味である。それと樊於期の首というお膳立てを整えれば、秦王政とて疑えるものではなかった。そして、荊軻の堂々たる態度も秦王を信用させるに立った。
二人の男の見事な笑みを刻んだ荊軻は、もはやかつての軽佻浮薄さは欠片も残っていなかったのだ。
「地図を見せてくれ」
政は荊軻に命じた。荊軻は地図を取り出して、秦王ににじり寄った。
そして王の前で地図を広げる。地図には毒を塗った匕首が巻き込んであり、広げるとその裏に落ちるようになっていた。
(よし)
匕首は取り落とされるもなく、荊軻の右手に納まった。
「これにございます」
広げた地図に思わず身を乗り出す政。
その刹那、荊軻は左手で政の袖を捉えて、右手の匕首で刺した。
「!」
政は驚き身を引くと、匕首は僅かにその体に及ばなかった。荊軻が、なおも続けて刺そうと袖を引くと、政を守るように袖が千切れた。
政は素早く自分の長剣を抜こうとしたが、剣が長く、焦っていたためなかなか抜けなかった。さらに剣が縦になってしまい、逃げながら抜くことができなくなってしまった。
このとき、荊軻と政は同時に天意を失っていたのかも知れない。
荊軻はなおも諦めず、政を追う。政は逃げる。宮殿の柱の間で二人は追いかけ会った。
そのときになって、ようやく廷臣たちは事態に気づき荊軻を止めようとしたが、宮殿では武器の携帯は許されておらず、匕首を振りかざしながら王を追う荊軻に手を出せなかった。また殿下で控える衛兵たちも王の命令がなければ、殿上に上る事もできなかった。
その命を下すべき王は荊軻に追われて、度を失っている。
「王よ! 剣を背負われませ」
廷臣の誰かが言った。この声が、天命となって政に味方した。
政は背負うようにして、長剣を抜き荊軻を斬った。荊軻は左股を斬られ、尻餅をついて倒れた。だが、彼は屈しなかった手の匕首を政に投げつけたのである。
だが、もはや荊軻に天運はなかった。匕首は外れて政の背後の柱に当たった。
政は何度も荊軻を斬りつけ、荊軻は8ケ所に傷を負った。
我が事ならじ。
観念した荊軻は、柱に寄りかかって笑い、政に言った。
「事が成らなかったのは、貴様を生かしたまま脅かし、燕の太子ら土地を返すように言わせたかったからだ!」
最期。
その言葉に激怒した政が己の頭上に長剣を振りかざすのを見ながら、薄れゆく意識の中で荊軻はただ一つのことだけを思った。
(俺は見事に笑えているか?)

後日譚を少し。
翌年、秦王政の怒りを買った燕は滅ぼされた。
そしてその後、秦は各地を転戦し、中国に点在する国々を滅ぼして中国を統一する。
秦王政は“皇帝”を名乗り、自らを始皇帝と称した。
秦の天下統一はまさに中国史上最大の出来事と言えるだろう。事実上“中国”とはこの時に始まると言ってもよいのだから。
歴史にifはない。
だが、後々まで中国の人々はこんなifを考えてしまうのだ。刺客荊軻の匕首が一寸でも長く、政に届いていたらどうなったであろう? と。
一介の侠客ながら、侠たちの思いと笑みを胸に、荊軻はその死に様をもって歴史にしっかりと名を刻んだ。惜しくも事成らなかったが、侠の本懐とはかくあるべきであろう。
昔むかし、中国ではそんな侠が歴史に名を刻んだ。
覚えておいてほしい。

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