三国志 戦争篇 第十五章 諸葛亮の北伐  見果てぬ夢とその終焉

第十五章 諸葛亮の北伐
見果てぬ夢とその終焉

227年三月 諸葛亮、第一次北伐に出撃する。
227年十一月 諸葛亮、陳倉方面より第二次北伐を行なう。
229年 諸葛亮、武都・陰平を併合。
231年 諸葛亮、祁山にて司馬懿と交戦。
234年四月 諸葛亮、五丈原にて司馬懿と対陣。
234年八月 諸葛亮、五丈原の陣中にて病没

諸葛亮の北伐

227年三月。諸葛亮は『出師の表』を上表し、魏に対して進撃を開始する。

漢中を足がかりとして北への進撃を開始する。

乱世において5年の歳月は、ひとつの時代に等しい。

夷陵の戦いで国力の大半を失った蜀は、早くも天下の争いから脱落していたと見られていた。

事実、蜀は呉と講和した以外に益州に篭って、表立った動きを見せていなかった。

その蜀が名実ともに最大勢力である魏に対して進撃したのだから、魏にとっては大いなる驚きであったろう。

しかし、この五年間、蜀は丞相諸葛亮を中心として殖産興業に腐心し、さらに南方で続発する叛乱を鎮定し、再び外征可能なまでに国力を回復させていた。
それに加えて諸葛亮は、予め上庸の孟達と内応の約束を取り付けており、十分以上の勝機はあっての北伐であった。
これに対して魏は226年に先帝曹丕が病没していたものの新帝曹叡の下、さしたる混乱を見せず対応する。

まず、司馬懿が蜀に内応した孟達を防備を整える暇も与えず撃破して斬る。

そして曹真を司令官として蜀を迎え撃った。

曹真は諸葛亮による鄧芝と趙雲を囮とした陽動作戦に乗ってしまう。

だが228年初頭、別働隊を率いた張郃が、街亭において蜀軍の馬謖を撃破し、蜀の戦線を崩壊させたことで、致命的なものとはならなかった。
228年十一月、諸葛亮はふたたび北伐の兵を起こすが、これは魏の曹真は蜀の進撃路を予期していた。

曹真は要衝である陳倉には城が築き、郝昭に守らせた。

この防備体制に、諸葛亮は手も足も出ず、また補給も満足に用意していなかったこともあり、撤退する。
229年、諸葛亮は三度目の北伐を行うがこれは中原進出のためのものではなかった。

武都、陰平を併合して、北伐初の戦果を挙げて漢中に帰還している。

諸葛亮と司馬懿

231年、諸葛亮は四度目の北伐を行なう。

病没した曹真の後をうけて司馬懿が魏軍の指揮を取り、祁山において開戦する。こ

れは蜀軍有利に終わるが、補給が続かず撤退を余儀なくされる。

諸葛亮は、この撤退戦において第一次北伐で活躍した張郃を討ち取ることに成功している。
234年四月。諸葛亮は三年の準備の末、五度目の北伐に出撃する。

五丈原において魏の司馬懿と蜀の諸葛亮は対峙し、にらみ合いとなる。

今回の北伐は三年もの準備をかけており、規模において第一次北伐と同等という最大級のものであった。

さらに諸葛亮はこれまでネックとなっていた補給の問題を解消するために、五丈原で屯田を行なう。

食料を自給することで長期対陣を可能にしようとしたのである。
この計画は半ば成功し、蜀軍はこれまでのように補給が続かず撤退するということもなく、五丈原で魏軍と対峙を続けた。

しかし、やはり対陣が長引いて不利なのは、遠征軍である蜀であり、諸葛亮は幾度となく決戦を挑む。

だが司馬懿は挑発に全く乗らず、防備を固め続けた。
司馬懿の持久戦略が正しかった。

234年八月、内政責任者でありながら、遠征軍司令官を兼ねていた諸葛亮が激務の果てに過労により陣没したのである。

蜀軍は魏延と楊儀の間で内紛が起こりつつも撤退する。

かくして五度に渡る北伐は、諸葛亮の悲願が果たされることのないまま終焉を迎える。

諸葛亮対魏軍

ドクトリン

軍事、政治、外交における基本原則。

あらゆる国には、それぞれの事情によって独自のドクトリンが存在する。

三国時代の一角を担う蜀の事実上の建国者は諸葛亮である。

名目上の劉備の蜀は夷陵の敗戦によって瓦解していた。

実際、兵力や軍需物資の大半を失い、国内には内乱が続発し、国家としての体裁は一度崩壊する。

外交においても、本来同盟関係にあった呉と決別して、孤立。
このような状況にあった蜀を軍事、内政、外交と全ての面で立て直したのが諸葛亮であ、。蜀は諸葛亮がデザインした国家として再生する。
本来、軍事とは外交の一手段であり、外交が国家戦略の解決手段である事を考えれば、一国の軍事が国家の戦略に直結するのは当然である。

そのためにどの国にも、国家戦略から戦術の確立、兵士の装備までを包含した基本原則を作り上げるものである。

三国志において、ここまで自覚的にドクトリンとも言うべきものを作り上げたのは、曹操と諸葛亮だけであろう。
曹操は太平道を吸収し青州兵を編成してから、兵力の集中運用と機動戦、それを支える兵站を基本として、魏という国家をデザインしていく。

これについては何度も前述してきた。
これに対して、諸葛亮はまさに曹操の作り上げた魏に対するカウンターとなる国家として蜀という国をデザインしていくのである。

諸葛亮の作り上げた蜀は、どこまでも北伐のために作り上げられた国家であり、軍事力であった。

漢中に外征用の総司令部を作り、そのために兵力の大半を駐屯させる。

そして、そのために作られた蜀軍は、対魏戦に特化された兵力である。
諸葛亮の項目にも書いたが、諸葛亮は曹操が作り上げた魏軍が機動力を重視しているのに対抗するために、火力でこれを撃退する方針を取っている。
連弩の発明や、歩兵の装備を剣から殺傷力に優れる刀に変えたこと。

そして現在伝わっている八陣図を見ると、前衛に歩兵を置き、中心に弩兵を置いて、両翼に騎兵を置いて弩兵をサポートさせる陣形である事がわかる。

つまり蜀軍の主力は刀を装備した重装歩兵の防御力と、連弩や弩兵の攻撃力であった。

いわばギリシャ・マケドニア時代の密集方陣(ファランクス)とその戦術思想は同じであり、これに騎兵によるサポートを加えて改良した陣形であった。
魏軍の機動戦に対する、火力での優位。

これが蜀軍の戦術ドクトリンであった。

そして、こうした戦術思想を取っている以上、当然戦略もこれに対応したものが選択される。
第一次北伐において、漢中方面司令官であった魏延が、長安奇襲を進言する。

このとき、これが退けられたのは諸葛亮と魏延の対立や、諸葛亮の慎重さというよりも、蜀軍そのものの構造のためであった事であったろう。

長安奇襲のような機動戦は魏の得意とする分野であり、諸葛亮は魏軍の術中にはまるような戦略を選択できなかったのである。

諸葛亮(字・孔明)

181~234年

つくづく思うが、諸葛亮という人物が前線に立たざるを得なかった蜀の人材不足には慄然とせざるを得ない。

政治家としての評価は、夷陵の戦いで国力のほとんどを失い、軍事的にも経済的にも崩壊するのが必然であった蜀を建て直した手腕。

五度にわたる大規模な遠征を行ないながら、まったく国内を破綻させる事のなかった手腕。これらを見ればいかに偉大な内政担当者であったかが理解である。
そしてそれと同様に、諸葛亮という人物の軍政家というの構想力と実行力の高さに驚かされる。

彼はまず劉備とともに蜀防衛戦略を整備している。

この漢中防衛司令官に軍事政治の大きな権限と防衛兵力を与え、漢城、楽城の防衛線で防ぐという蜀の防衛構想は、曹操、曹真、曹爽の侵攻を跳ね返している。

この防衛線が機能しているうちは、まったく魏軍の付け入る隙がなかったほどの高い防衛力を誇った。
こうして防備を固めた諸葛亮は北伐を行なうに当たって蜀軍を整備している。

不幸中の幸いというべきか蜀軍は夷陵の戦いで潰滅状態にあり、諸葛亮はほとんど一から自分の構想どおりに蜀軍を整備することができたのである。

彼が練成した蜀軍は面白いほどに魏軍を仮想敵として構築されている。
何度も書いたとおり、曹操が作り上げた魏軍は高い機動力を誇り戦略的にも戦術的に主導権を握るというドクトリンが受け継がれている。

これに対抗するために諸葛亮は蜀軍を火力と打撃力を強化していく。
連弩の発明や剣から刀に兵装を転換するなど兵器面から始まり、後に八陣と呼ばれる重装歩兵の防御力と弩弓兵を最大限に活かす方陣を考案。

諸葛亮は徹底して自分の構想どおりの軍を築いていくのである。

機動力に優位な魏軍に主導権を握られても、火力と打撃力でそれを跳ね返す「後の先」を確実に取る諸葛亮の戦術構想は、見事に結実する。

陽谿会戦、祁山の会戦など諸葛亮率いる蜀軍は魏軍と正面決戦した場合、必ず勝利を果たしているのである。
ここまで明確に自分の構想の下に軍を練成した人物は、この時代ほかに曹操がいるだけであり、その緻密さで諸葛亮は曹操は上回っていたであろう。

当時最高の軍政家であった諸葛亮に実戦家としての手腕まで求めるのは酷であったろう。

軍事理論家らしく第一次北伐や第五次北伐に彼の作戦構想能力の高さが伺える。

だが、この構想が頓挫したり、持久戦に持ち込まれると途端に彼は動きが封じられる。

このあたり彼の主であった劉備に酷似しており、諸葛亮が軍事の手本として劉備を見ていたことがよくわかる。

また、撤退戦を得意としていた点も諸葛亮と劉備の共通点である。

諸葛亮の場合、撤退戦で敵に打撃を与える事ができていたあたり、劉備の戦術を学んで発展させていた事がよくわかるだろう。
高い軍政、戦略、戦術に高い構想力を持っていたが故に、理論に自縄自縛になりがちな彼は、やはり前線に立つべき人物ではなかったろう。

さらに言えば、諸葛亮の最大の弱点が人事にあり、彼は自らの人事で全ての構想を無に帰してしまう。

政治家、参謀、軍政家としてまたとない手腕を誇った彼がただひとつ担ってはいけない役職。それが軍の総司令官であったのだ。

司馬懿(字・仲達)

179~251年

魏において諸葛亮の北伐を撃退し、公孫淵を討伐するなど数々の戦功を挙げ、魏の軍権を掌握。後に司馬氏が魏から政権を奪う基盤を築いた人物である。
司馬懿というとやはり北伐において、祁山の会戦後や五丈原の戦いなど、徹底的に持久戦を取り諸葛亮が過労死するまで対峙した印象が強い。

このため持久戦を得意とする人物かと思われがちであるが、軍人として司馬懿という人物を見た場合、彼はまさに曹操の忠実なる弟子とも言うべき機動力の使い手であったことがわかる。
司馬懿は曹操が作り上げた敵に対して優位な機動力を活かして、戦略的にも戦術的にも主導権を握るという魏軍のドクトリンを誰よりも掌握していた人物である。

とにかく、司馬懿が行動に移った場合の機動力は驚くべきものがあり、第一次北伐においては上庸の孟達の反乱を孟達どころか、魏宮廷すら思いも寄らぬ速度で討伐している。

五丈原での対峙でも、諸葛亮の第一目標が渭水南岸の兵糧集積地である事を看破し、背水の陣となる危険を冒してまで急行し、これを押さえている。

他にも公孫淵討伐においては強行軍も厭わずに戦略的主導権を握り公孫淵を討伐している。
このように、むしろ司馬懿は慎重さよりも、冒険的なほど決断力に飛んだ司令官である。

魏軍の優位点である機動力を最大限に活かし得る戦略戦術を得意としていたことがわかるだろう。
しかし、司馬懿の恐るべき部分は、このように機動戦を好み得意としていながらも、必要とあれば自らそれを封印して、北伐における諸葛亮との対峙のように持久戦をも厭わないという点である。

三国志を彩る武将、軍師たちは大抵得意とする戦い方を持っている。

そして軍人というものは、どうしても自らの勝ちパターンで戦いたがる傾向がある。

これは袁紹の攻城戦、曹操の迂回機動戦、諸葛亮の正面からの打撃戦など、名将と呼ばれる人物でも例外ではない。

むしろ優れた勝ちパターン、つまり戦略戦術構想を有していた人物こそ名将と呼ばれる。
この勝ちパターンを自ら捨ててまで勝利を収めることのできる、柔軟さを持っていたのが司馬懿という人物であった。
とにかくこの男は自軍の不利となる事を絶対にしない。

祁山の戦いで蜀軍と正面決戦し出血を強いられると、2度と彼は決戦を挑もうとはせず、自ら得意とする機動戦まで封じてしまう。

ある意味、これも決断力というべきだろう。

とにかく、敵も味方も「目の前にある現実」を冷徹に見詰め、そのために自分でさえも殺す事のできるのが司馬懿という自分の強さであった。

ほとんど弱点らしい弱点の見当たらない司馬懿であるが、ただひとつときとして彼の果断さが軽率に通じる場合がある。

祁山において蜀軍と正面決戦を挑んだり、第四次北伐の諸葛亮の撤退に張郃に追撃させて戦死させてしまったりするなど。

ときおり彼の戦いには、軽率ともいえる失敗が見受けられる。
とはいえ、それが致命傷とならっていない。

また、その失敗からその後の戦いでは持久戦を決断し、第五次北伐では徹底する蜀軍を深追いしないなど、失敗を活かしてしまうあたり、つくづく食えない名将であると言うほかない人物である。

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