三国志 戦争篇 第十四章 夷陵の戦い 夢、破れしとき

第十四章 夷陵の戦い 夢、破れしとき

劉備VS陸遜

二二〇年一月 曹操、死去。
二二〇年十月 曹丕、漢王朝より禅譲を受け、魏皇帝に即位する
二二一年四月 劉備、漢王朝の皇帝に即位
二二二年五月 劉備、夷陵にて陸遜に敗れる
二二三年四月 劉備、白帝城にて病没

劉備の逆襲

220年1月、曹操が病死する。

その後を曹丕が継ぎ、10月に献帝より禅譲を受け、魏皇帝となる。

これに対して益州の劉備も221年4月に帝位を称する。

帝位に就いた劉備はその手始めの事業として、孫権討伐を宣言する。

これに対して、諸葛亮と趙雲は反対するが、劉備は荊州進撃を強行する。

ひとつには、挙兵当時から義兄弟としてともにあった関羽が殺害されたことで、個人的な感情もあっただろう。

しかし、それ以上に切実であったのは、劉備陣営には荊州出身者が多く、彼らの動揺を抑えるためにも出兵は避けられなかったのである。
221年、劉備はほぼ益州の全軍を動員して、荊州へと進撃を開始するのであった。

夷陵の戦い

開戦当初、蜀軍の士気は高く、また劉備も歴戦の武将らしい指揮能力示し、巫において李異、劉阿を撃破しシ帰まで進出している。

さらに馬良らに命じて荊州南部の”武陵蛮”と呼ばれる異民族と連絡し劉備軍に呼応させている。
劉備軍の勢いを恐れた孫権は諸葛亮の兄である諸葛瑾を使者とし、和睦を申し入れるが、劉備はこれを一蹴する。
濡須口以降、この時期の孫権の外交の変幻自在さは瞠目すべきものがある。

彼は魏に臣従することで、魏の動きを封じたのである。

かくして後顧の憂いを断った孫権は、陸遜に兵を与えて、劉備を迎撃させる。

222年二月、劉備は自ら主力軍を率い長江の南岸沿いに進軍。

長江沿岸に七百里に渡る数十の陣営を築く。

この戦いで劉備は呉班を囮として伏兵策を取るが、陸遜はこれに乗らなかった。
陸遜はひたすら夷陵で防備を固めて劉備と対陣する。陸遜は配下にその弱気を糾弾されつつも、うまく軍を取りまとめて、半年もの対陣を続けた。

五月、陸遜は疲労の色が見えた劉備軍を攻撃するが、劉備はこれを撃退している。

だが、この勝利は、皮肉な事に劉備軍の慢心を生んでしまうのである。

閏六月、陸遜は全軍を挙げて劉備を夜襲する。疲労と油断に総攻撃を察知できなかった劉備軍は混乱し、撤退しようとする。

だが、長江沿岸は地形が狭く、さらに陸遜は退路を断つとともに火攻を行なったため、進むも引くもならず火にまかれるのみであった。
兵の大半を失いつつも、辛うじて劉備は逃亡に成功する。

しかし、馬良、張南、馮習、程畿といった配下を討ち取られ、ほぼ全滅と言ってもよかった。
劉備陣営は、この戦いで益州の兵力、物資、人材のほとんどを動員してしまっており、そして夷陵において、ほぼ全てを失ってしまうのである。

失意の劉備は成都に戻ろうともせず、白帝城に戻り、翌223年四月に病没するのである。
夷陵の戦いで勝利した陸遜は、諸将が益州まで追撃すべきとするのを退け、撤退する。

陸遜の慧眼は、曹丕陣営が漁夫の利を得ようと再び南下し始めるのを見抜いていたのであった。
追撃はまぬがれたものの、この戦いで建国されたばかりの蜀は、軍事、経済ともに崩壊寸前にまで追い詰められ、各地で叛乱が続発する。

このため以後、蜀は一旦歴史の表舞台から姿を消し、丞相諸葛亮の下で、ひたすら国力の回復と叛乱の鎮定のみに腐心することになる。

劉備対陸遜

攻勢の限界点

攻勢を行なう側は距離と時間によって、人的にも物資的にも消耗していき、やがて補給と消費の収支が限界点を迎える。

これを討つのが防戦側のセオリーである。

侵略者に対して、国土そのものを武器として、防衛側が撤退を繰り返し、敵の進撃の限界を超えた時点で逆襲を展開する。

こうした縦深防御に関してはナポレオンやヒトラーの侵攻を、国土を焦土と化しながら最終的に打ち破ったロシアや旧ソ連が有名であろう。
三国志の中で、極めてこれに近い作戦をとったのが、夷陵の戦いにおける陸遜である。
会戦当初、故郷である荊州を奪還しようとする劉備軍将兵の士気は高く、緒戦で孫権軍は敗北を繰り返す。

このとき孫権軍の司令官として登場したのが陸遜であるが、彼は無理に決戦を挑まず防衛線を後退させ続ける。

劉備軍が緒戦で連戦連勝を続けたのは、劉備軍の士気や劉備の的確な指揮によるところもあるだろうが、陸遜もあえて無理な防戦を控えていた。
こうして、孫権軍は後退し続けて、劉備軍を懐深くに引き寄せている。

とはいえ、この時点で劉備軍は、まだ攻勢限界点を迎えてはいなかった。

しかし、陸遜は夷陵において最終防衛線を引いて、ここからは後退を止めるのである。

劉備軍の勢いを殺すためならば、あと一歩引く事が必要であったが、陸遜にはもうひとつの計算があった。
それは地形である。

このとき劉備は二百里に渡って細く長い陣形を取っている。

この陣立てを見た当時の魏帝曹丕は「劉備は軍事を知らない」と揶揄し、演義でも天才軍師諸葛亮に批判させている。

このため劉備が軍事に疎いという評価が確立されてしまっているが、この陣立ては実は劉備の罪ではない。
劉備は補給の都合から長江沿岸に沿って進撃を続けたが、夷陵で拘束されたこの部分は、地形自体が細く長い典型的な沿岸地帯であったのである。

この地は通路でしかなく、決戦の場ではないと劉備自身も考えていた。
しかし、ここで陸遜の戦略センスが光る。

陸遜は劉備の攻勢限界点がまだ来ていないと見ていながら、あえて夷陵を死守する防衛線を引いたのである。

このため劉備は、行軍用の陣立てで戦わなければならなくなってしまうのであった。

そして、大軍の運用に適さない地に防衛線を設ける事で、防御も容易になる。

劉備軍は、余力を残しつつも、それを活かしきれないまま陸遜との持久戦を強いられるのであった。
陸遜は当初の予定であった劉備軍に対して距離によって攻勢限界点を迎えさせるのではなく、時間によって迎えさせる戦略に切り替えたのである。
長い対陣に劉備軍は怠戦状態に陥る。彼らには地形のせいで自軍が大軍を運用できない。

敵もそうだと考えて油断したのであろう。

しかし、陸遜は長大な劉備軍の頭と尾を押さえることで、その動きを封じてしまう。

そして、混乱する劉備軍を人ではなく火によって攻撃させ、潰滅させるのであった。

陸遜(字・伯言)

183245

周瑜、魯粛、呂蒙に続いて孫権陣営の軍権を握り、夷陵の戦いでは劉備を撃破。

後に丞相まで昇進し、文字通り孫権陣営の政治軍事両面の柱石であった人物である。

呉の四姓と呼ばれる名家がある。

張・朱・陸・顧の四氏族を言い、呉郡のみならず南方でかなりの威勢を誇る名家である。

陸遜の陸家もこの名家のひとつであり、彼の外祖父である陸康は廬江太守として袁術陣営に属し、後に反乱している。

このとき陸康を討ったのが孫策であった。

このとき陸遜は陸一族を取りまとめ呉郡に避難させている。

いわば孫策は一族の仇というべき人物であったが、孫策は名家である陸一族と敵対するつもりはなく、後に呉郡平定時には陸一族を懐柔し、陸遜も孫策に仕えるようになっている。

彼の妻は孫策の娘であり、いかに孫家が陸遜というよりは陸家を厚遇しようとしていたかが分かる。

やがて陸遜は呂蒙の後を継いで孫権陣営の軍権を握る。

陸遜の時代から孫権陣営は、張昭、周瑜魯粛呂蒙といった江北あるいは中原出身者の時代から、顧雍朱桓陸績張温といった呉の四姓を始めとする南方出身者が頭角を現していく。

これは呉の人事が、南方の名家出身の陸遜を中心として南方の豪族中心になっていったことを明確に現している。

それにともない孫権陣営は曹家や劉家と天下を争うよりも、南方の経営に専念するように明確な政策と戦略の転換が行なわれている。

間違いなくこれは陸遜を中心とした長江流域の豪族たちの意思による政策転換であったろう。

孫権陣営は周瑜、魯粛、呂蒙の時代と陸遜の時代では人事から政策、戦略まで全ての面で様変わりしており、陸遜の影響力がどれほど大きかったかがわかる。

 陸遜という人物を軍人として見た場合、とにかくその情報収集能力と分析力の恐るべき高度さに驚かされる。

彼の戦略戦術は関羽との対峙で関羽を油断させた事に始まり、夷陵の戦い、曹丕の進撃の予測など、とにかく敵将に対するその行動パターンから性格まで読みきって手を撃っている。

関羽に対しては、とかく敵を侮りやすく希望的観測を持ちたがる性格を突き、彼を油断させている。

劉備に対しては、戦況の見切りの速さ、撤退の手際のよさ、持久戦となったときの決断力のなさなどをついて夷陵の大勝利を得ている。

そしてその後に続く曹丕の侵攻までも予測し、撤退しているあたり、彼の状況把握能力の高さは当時でも突出したものが伺える。

 特に夷陵の戦いにおいて彼の本領はいかんなく発揮される。

劉備の戦意を受け止めながら、劉備が行なった呉班による陽動作戦など彼の打つ手を全て読みぬいて潰している。

そして長い対陣に蜀軍が怠戦傾向に陥ったのを確かめて、決戦に挑んでいる。

そして決戦においては退路を徹底して封じて、火攻めによる殲滅戦を行い、劉備陣営を再起不能とするほどの大勝を得る。

彼の劉備という敵将の行動、性格、蜀軍の状況、戦力などを全て読みきった上での完勝であった。

まさに陸遜はその状況分析力で敵将を丸裸にし、その手を封じてのける名将であった。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク