決戦~逃げろ玄徳~
焼き払われた陣営を視察している李典。
李典「まったく。いつもの事ながら逃げ足だけは速い男だ……」
李典「なに! 将軍はすでに出られたと?」
慌てて馬を走らせる李典。
すでに劉備
李典「建武将軍! これは罠です! 見てください。この道は狭く、草木深く、兵が伏せていると言わんばかり地勢ではありませんか」
夏侯惇「ここであの男を取逃がせば、後々どれほどの禍根となるかは、お前もわかっておろう? 多少の伏兵ごときは蹴散す、追うなら今だ」
李典「彼の者の用兵と練兵は侮りがたいと公もおっしゃられていたではありませんか!」
夏侯惇「かまわん。俺が死んでも、あの男だけは斬る!」
夏侯惇「李典、ならば後方の守りはお前に任せる。于禁、付いて来い」
溜め息をつきながら李典。
(これは……退路を確保する必要があるな……)
突撃する夏侯惇・于禁とその部下たち。
しばらくして彼らは、道の両側に現れた、火計と伏兵に襲われ混乱する。
「ええい! 蹴散らせ! 見ろ、敵の数は少ないぞ!」
奮戦するが不利になっていく夏侯惇軍。
なおも闘おうとする夏侯惇を于禁や部下たちが、力づくで撤退させる。
その様子を見ている不敵な男。
劉備「……相変わらず夏侯の二人は、目がある方もない方も血の気が多いな」
と笑う。
劉備「しかし、全滅させてやろうかと思ったが、李典のやつ巧く退路を確保しやがって……」
劉備「おい、撤収だ! やめやめ、帰るぞ」
タイトル『決戦~逃げろ玄徳~』
曹操と劉備・劉表らの荊州を巡る戦いは、すでに官渡の戦い直後に始まっていた。
建安六年、汝南においてゲリラ戦を展開し、官渡で袁紹と対峙する曹操の後方を攪乱していた劉備は、曹操に敗れ劉表の下に身を寄せる。
後に演義などでは漢高祖劉邦をモデルにした人物に大度ではあるが、軍人としては無能のように描かれる劉備であるが、その実像は百戦練磨の軍人と言うに相応しい。
黄巾の乱以来、彼は公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹などの陣営に所属に、豊富な戦歴を重ねている。
そして、どの陣営においても重きをなすほどの実績を重ねている。
戦いに敗れ逃げ回っている姿の印象が強い劉備であるが、彼が敗れるのは後方で裏切りがあったり、寡兵をもって曹操や呂布といった当代随一の知将、猛将と戦わねばならなかったような場合だけである。
逆に言えば、曹操のような追撃戦の名手と戦って、未だ命を全うしている事自体が、彼の戦術や戦略眼と見切りの判断の巧妙さを表している。
つまり当時の劉備は、曹操には及ばないものの戦歴豊富かつ判断力に優れた名将として評価されていたのである。
また、その評価あってこそ、どの陣営に属していても重んじられ、また敵に回すことを恐れられたのである。
当時、劉表は南陽の地の平定に奔走していた。
南陽は後漢の時代光武帝劉秀が根拠とした地であり、後漢においても全国随一の人口を誇った豊かな地である。
黄巾の乱や袁術の暴政などによって疲弊しきっていたが、依然としてこの地の戦略的重要性は衰えていない。
この地は、かつて春秋戦国時代に楚と呼ばれていた地であり、周囲を山岳地帯が取り囲む盆地となっており、さらには楚の時代に建設された長城が連なっていた。
荊州を領有する劉表にとって中原の勢力に対する防衛線を築くのには最適の地勢にあった。
袁術が去り、張繍が宛を領有するようになると、劉表は張繍と結んで、しばしば曹操に苦杯を舐めさせている。
特に宛や穣を包囲した曹操軍の後方を、劉表が遮断して曹操軍の兵站線を断つという戦略は、彼らにとって常道であったと言ってもよかった。
ところが官渡を前に張繍は賈詡の進言を受けて曹操に降ってしまう。
張繍は中央に召還され、再び南陽は劉表の敵地となってしまったのである。
それから劉表はしばしば北上して南陽盆地を平定しようとしていたのであった。
劉備が劉表を頼ってきたのは、こんな時期であった。
名将劉備の来訪に劉表は喜び兵を与え、新野に駐屯させる。
まさに新野の土地は南陽盆地を全て見渡せる要衝である。
劉備は新野を根拠として盛んに北上して南陽の諸城を陥とし、劉表の期待に応える。
そして、劉備と劉表は南陽盆地を見事に平定し、建安七年、曹操が河北の平定に向かった隙を突いて、長城を出て葉に攻め入ったのである。
これに対して曹操は夏侯惇・于禁・李典を送って葉の防衛に当たらせた。
ここで劉備は、葉の陣営を焼き払い撤退。
これを夏侯惇が追撃するが、これは劉備の策略であった。劉備は夏侯惇を盆地内に引き込んで、博望の地において奇襲をかけて夏侯惇軍を撃破したのであった。
劉備と劉表が軍議を行なっている。
劉備頭を掻きながら
「うまく盲夏侯を討ち取れれば大戦果だったんでしょうが、李典めにうまく退路を確保されまちまいましたわ」
「しかし、予州どの(劉備)。貴公の進言で長城の外を出たが、今回は巧く行ったかもしれんが、どうやら藪を突付いて虎を呼び込む事になったようだぞ」
劉表は報告書を劉備に見せる。
劉備「曹操自ら来ますか……」
眉を顰める。
劉表「さすがに今、曹操と正面から事を構える気にはなれん。お遊びはここまでにしておこう」
少し食い下がる劉備
劉備「しかし、これは本気ですかな? 曹操の目は依然として河北を向いてると思うのですが……」
劉表「どっちにしろ潮時なのは変わりあるまい、ここは長城の中に下がって曹操に備えるしかあるまい」
劉表(あまり、軍功を重ねてもらっても困るのだ……)
その後曹操は西平まで軍を南下させ劉表を脅かすが、劉備の言ったとおり、これは河北の袁紹の遺児たち、長子袁譚と三男袁尚の勢力を二分させるたの陽動作戦であった。
曹操の脅威が南へ向いたと見た、この二人はたちまち分裂して袁紹の跡目を争い始めるのである。
これを見た曹操は直地に北上を始めて、改めて河北平定に乗り出すのであった。
髀肉の嘆
一連の戦いで武功を挙げた劉備の声望は、徐々に集まっていた。彼に心を寄せる者は増え、彼の下に身を寄せる人士も現れはじめていた。
この事は劉表に警戒心を抱かせるに十分であった。
南陽郡の平定がなり防衛線を確立したこともあり、劉表は次第に劉備を遠ざけるようになっていく。
建安八年から孫権は江夏の太守黄祖を盛んに攻めており、これに対する防備に劉備を用いるのも手であったが、劉表はそれをしなかった。
以後、劉備は前線に用いられる事はなく、それに対して、劉備は脾肉を歎ずる事で自分が無害である事をアピールせねばならなかったほどである。
建安十二年、曹操が自ら北方へ烏丸討伐に遠征した折、劉備は劉表に今こそ許を突くべきだと進言する。
曹操ではなくその配下の武将ならば……。
夏侯惇を破った事でもわかるように、劉備はその欠点を知り尽くしており、十分に勝てると見ていた。
劉表はこれを肯んじえなかった。
翌年病死する劉表は身体も弱っており、すでに死期を悟っていたのかもしれない。
彼は曹操に対するよりも、後継ぎと定めた劉琮に対する劉備を警戒したのである。
その結果、劉備は劉表に新野ではなく樊城に駐屯する事を命じられる。
元々、劉表と劉備は劉備を新野に置き、曹操が長城に近付けばすぐに長城のいずれの防衛線でも救援に迎えるという体制を持って、曹操に対する防衛戦略を取っていた。
襄陽の劉表本軍、新野の劉備、そして最前線の楚長城。
このラインにおける防衛戦略こそが、曹操の南下に対する荊州の防衛の要点中の要点であった筈なのである。
ところが劉表は劉備に樊城駐屯を命ずる。
樊城は劉表勢力の本拠地である襄陽の漢水を隔てたすぐにある双子城である。
劉表は劉備を自分の目の届く所に置いたのである。
劉備の無念たるや察するに余りある。
劉備とその軍が樊城にあるという事は、曹操が楚長城を越えようとしたとき、その防衛に駆け付けるのが間に合わないという事である。
この時点で劉表はほぼ曹操に対する徹底抗戦の意思を捨てたのではなかっただろうか?
建安十三年七月
曹操は本格的な荊州侵攻を開始する。
そしてその翌月、劉表は病死する。
おそらく劉表が病で伏せていたのを、曹操はすでに情報として察知していたであろう。
そして前年、新野において南陽盆地を警戒していた劉備が、樊城に下げられていた事も知っていたに違いない。
曹操軍は一気に長城を越え、宛を陥落させる。
劉表の死により、ただちに劉表の側近である蔡瑁と張允は、劉琮を後継者として立てる。
それとほぼ同時に、曹操へ使者を送り降伏を申し入れたのであった。
ちなみに劉琮は巷間に伝えられているように、曹操に素直に降伏したわけではない。
むしろ抗戦派であった。
劉琮「今、諸君とともに先君の事業を継ぎ、楚国全土を抑えて、天下の伏勢を見守ればよいではないか。どうしてそれができんのだ?」
これに対し傳巽は、曹操がすでに宛に到達している事を知らせ、諭す。
傳巽「ものの順逆には基本的な道理が存在し、強弱には決まった伏勢が存在します。
新興の楚国を持って、天子に逆らうのは道理に刃向かう事であり、劉備を使って曹公と戦うには力が足りません。
将軍(劉琮)は御自身と劉備を比べてどう思われますか?」
劉琮「私の方が及ばない」
傳巽「劉備が曹公に敵わぬのであれば、荊州を保つ事はできますまい。
逆に劉備が曹公を破るような事があれば、劉備は将軍の下風に立つ事を潔しとしますまい。
どうかお迷いなさらぬよう」
樊城の河ひとつ隔てた向こうで行なわれたこれらのやりとりに、劉備は一切関る事を許されなかった。
それどころか、曹操の侵攻すら彼は知らされなかったのである。
これに激怒した劉備は劉琮勢力から離脱する事を決意する。
このとき劉備の陣営に加わったばかりの諸葛亮が、「今川を渡り、襄陽を攻めて劉琮を捕らえれば荊州は公の手に帰すでしょう」と進言する。
だが、これを劉備は「それは忍びない」と退ける。
これは別に劉備が甘いのではなかった。
劉備はこの時点で自分の立場を正確に理解していたのである。
そもそも荊州の劉表政権は劉表が荊州に赴任してきた折に、蔡瑁や蒯越、張允といった地元の有力豪族たちの助力によって成立した政権である。
その蔡瑁や張允らは、蔡夫人の産んだ劉琮を雍しており、ここで襄陽を襲って劉琮を殺したりすれば、彼らが一斉に反発するのは間違いなかった。
なにより晩年の劉表自身が劉備を警戒しており、樊城に駐屯させたという事で、劉備に対する備えも怠っていなかったであろう。
そのような状態では、荊州を得るどころか後背に敵を抱えた状態で、体制も整える間もなくすでに宛にまで至っている曹操と全面対決をする事になる。
それで戦えると考えるほど、劉備は甘い男ではなかった。
ともあれ、これは諸葛亮が甘いというより、劉表政権との付き合いの長さと深さによるものであろう。
内部事情を知らなければ、劉備の声望は荊州に轟いていたのは確かであったのだから。
劉備の選択と戦略
ここで劉備は二者択一を迫られる。
ひとつは、ここで配下を率いて江夏の劉琦の下に身を寄せる事である。
江夏は孫家陣営との国境に接しており、荊州における東の要所である。
駐屯はしている兵力が大きく、さらに銅緑山を始めとする鉱山を多く擁する重要拠点である。
この地の太守である劉琦は、諸葛亮の進言によって江夏太守となったという経緯もあり、劉琮とは違って劉備陣営に好意を持っている事も大きな理由である。
単純に保身を考えれば、ごく自然に江夏に身を寄せて、体制を整えるというのが自然であったろう。
ところが劉備は、もうひとつの道を選ぶ。
それは、荊州の物資集積地点であり荊州の中心地である江陵に向かい、この地と物資を押さえ、江陵を根拠地として荊州南部において割拠して曹操軍と対しようという戦略である。
一度、行動を決めた劉備の動きは速い。
彼は襄陽と樊城の間に駐屯する水軍をまず抑える。
元々、樊城に駐屯する軍は劉備の指揮下にあり、曹操の侵攻を防衛するという任務についている軍である。
これを劉備が指揮するのは、ごく自然であった。劉備は自分が劉琮から離脱するという事をおくびにも出さずに水軍を掌握し、関羽に率いさせる。
そして、この水軍を江陵に向かわせたのである。
その後、劉備は曹操軍の暴虐ぶりを呼号しながら、南下していく。
なにしろ、劉備は曹操軍による徐州大虐殺をこの目で見ている男であった。
曹操軍の恐ろしさを説くのに、これほど好適な人物もなかった。
元々、中国は黄河流域と長江流域では別文明と言ってもよい。
言葉も違うし、移動手段も食文化もまったく違うのである。
そのため長江流域の人間が黄河文明の侵略に怯える事は甚だしく、劉備の喧伝にいとも容易く乗った。
この劉備の動きに注目していた者がいた。
それは江東の孫権陣営より「劉表の弔問」という名目で派遣されていた魯粛である。
彼はこの時点で夏口にあったが、劉備が襄陽を出て江陵に向かうと聞きつけると、ただちに江陵に向かって船を出したのである。
襄陽を始めとして、荊州北部の各地から劉備に付いて行く流民が集まり、十余万の流民と数千台の車が劉備に付き従った。
しかし、そのために1日十里余りしか進めなかったという。
この時代、標準の行軍速度として1日三十里をもって一舎という単位が存在する。
つまり劉備軍の行軍速度は通常の三分の一に低下したことになる。
ちなみに後漢の1里は約434メートルであるから、1日に約4km.の速度であった。
この行軍速度に苛立ったある人が劉備に進言する。
「すみやかに行軍して、まず江陵を保持すべきです。
今、ここに大勢いるといっても武装している者はわずかで、もし曹操の軍がきたならばどうするつもりですか?」
これに劉備は答える。
「そもそも大事を成し遂げるには、人間を基本とせねばならない。
今人々が私を頼ってくれているのに、これを見捨てておけようか」
と一見、ヒューマニズムな溢れた言葉を劉備は吐くが、この件に関しても劉備は冷徹な判断を働かせていた。
まず劉備が荊州に割拠するに当たって、生産人口を移住させるのは国力という面において重要である事。
そして、すでに距離は引き離しており曹操が行軍してきても追い付けない距離は稼いでいる。
それに襄陽において劉琮の降伏を受け入れたならば、曹操としては降伏した劉琮やその配下の蔡瑁や張允、蒯越たちの慰撫と処置を行なわねばならない。
たとえ1日十里の速度であっても、十分に江陵に逃げ込めると判断しての劉備の言葉であった。
そうして彼らはようやく当陽にまで至る。
曹操の電撃戦
ここで彼らは信じられない声を聞く。
「曹操軍だぁぁぁぁ!!」
劉備の南荊州割拠の策は、彼の置かれた状況を見れば誠に時宜を得た物である。
これが成功すれば、南荊州の劉備、江夏の劉琦、江東の孫権と曹操を半包囲する形で迎え討つ事ができた。
また江陵の物資を押さえてしまえば、曹操の兵站は限界に達しており、その大軍を養う事も難しいであろう。
劉備は彼がとれる最善の戦略を取ったと言ってもよい。
演義などでは、ただの逃亡劇としか描かれない局面であるが、むしろ劉備の戦略眼と判断力、決断力が光る場面であった。
しかし、劉備の不幸は、相手が三国時代どころか中国史上でも不世出の軍略家であった事であった。
宛を占拠した曹操は早くも劉琮の降伏と劉備の襄陽脱出を知る。
そして彼はこの時点で、劉備の意図を全て見抜いていたのである。
さしたる交戦もなく、容易い進軍に見えた曹操軍の荊州侵攻作戦であったが、曹操は今こそが自軍の危機である事を悟る。
そして、まともな武将であるならば決して取らぬであろう決断を下すのである。
彼は輜重を捨てさせ、本隊を襄陽に急がせると同時に、軽騎兵のみでわずか五千の部隊を編成して昼夜を問わない強行軍で劉備を追撃させたのである。
一昼夜三百里(約130km)という数字がいかに異常かは、通常の行軍速度が1日三十里であることからもわかるであろう。
しかも、その数は精鋭の騎兵とはいえわずか五千。
あきらかに劉備が率いる兵力よりも少なく、さらに昼夜兼行の強行軍である。
このある意味官渡の戦いにおける烏巣の奇襲以上に無謀な作戦を曹操は自ら率いて実行したのである。
曹操はそれほどまでに劉備を恐れていた。
彼が江陵を押さえ荊州南部に割拠する事を、劉琮の降伏よりも重大時として判断したのである。
さらに劉備を討つには、配下では敵わないと見て自ら追ったのである。
劉備ほど曹操に何度も敗れた者はいない。
しかし、その手を常にすり抜け続けたのも彼であった。
曹操ほど劉備を高く評価している者もいなかった。
まさか劉備自身ですら、曹操にこれほどまで重視されているとは思わなかったであろう。
なにしろ、この曹操の作戦は本当に薄氷と言ってもよかったのだ。
ごくわずかに劉琮かその配下が心変わりすれば、曹操の奇襲部隊の背後を遮断するのは容易かった。
そして追い込むだけで曹操は容易く討ち取れたであろう。
事実、劉琮の配下で王威という人物が劉琮に、
「曹操は将軍がすでに降伏され、劉備が逃走したと知れば、軽兵で進軍してくる事でしょう。
私に奇襲部隊数千を与えてくだされば、これを要害の地で迎え撃てば、彼を捕らえる事ができるに違いありません」と進言している。
幾重にもリスクを重ねた上での曹操の奇襲攻撃は完全に成功する。
多くの民を抱えた劉備軍は混乱し、劉備は妻子を捨てて逃げる始末であった。
この間、趙雲の阿斗救出や軍が潰滅して逃げる劉備の殿についた張飛が川を盾にして「我こそは張益徳、我と思わん者は参れ、死命を決せん」と大見得を切って劉備を逃がした逸話などがあるが、大勢には影響しなかった。
見事なまでの一撃離脱で劉備軍を潰滅させ、そのまま江陵を確保してしまうのであった。
曹操軍は劉備軍を蹂躙し付くすと、江陵に向かって転身する。
ほとんど彼自身が流民同然となった状態で、なんとか江陵が曹操に落ちたため、当陽に向かった関羽率いる水軍に拾われ、劉備は助かる。
このいわば時間と距離との戦いとなった劉備と曹操の戦いは、劉備軍の潰滅という結果に終わったが、それだけに終わらなかったのは彼らしい。
江陵が曹操の手に落ちたと知った魯粛は、ただちに当陽に向かい、この漢津という渡河地点で劉備軍を拾い上げる。
魯粛は劉備の雄図を称えながら、それが果たせなかった事を残念に思うと同時に、孫権と連衡して曹操軍に当たるよう説くのであった。
優秀な外交家は、味方を最も安い値で買い上げて、高く売りつけるものであるが、このときの魯粛がまさにそれであった。
劉備にとって最悪の時期に、手を差し伸べる事によって、彼は劉備に大きな貸しを作ったのである。
この後、魯粛は一貫して劉備と孫権の同盟を重視して、曹操に対抗する戦略を取り続けるが、常に劉備陣営は魯粛に頭が上がらなかったのも、このためである。
ともあれ劉備と魯粛は、そのまま長江を下って夏口に至った。
ここで江夏太守劉琦と合流して、なんとか軍勢を再編成する。
そして、正式に諸葛亮を孫権の下に派遣して、劉備と孫権陣営
言ってしまえば、当初取れた筈の「もうひとつの選択」に戻ってしまっただけの事であるが、この一連の「戦い」で形には見えない劉備の得たもの、曹操の失ったものは大きかった。
まず劉備は反曹操の荊州における旗手として、荊州に劉備ありを印象づけた事。
この後、劉備の下には、曹操による荊州支配をよしとしない人士や豪族たちが集まってくるのである。
また、劉備という、曹操を知り尽くした存在を曹操自身がどれほど恐れているか知らしめた事も大きい。
これにより孫権は劉備と手を結ぶ事に一気に傾くのである。
そして、当陽の長坂における曹操の民たちの虐殺は、劉備の宣伝する「北方人である曹操軍の暴虐」をそのまま証明する事にもなった。
まだ表面化はしていないが、これら全ての事象が、この後行なわれる、『赤壁の戦い』において、伏線となっていくのである。
その意味においても、建安十四年における曹操の荊州侵攻から始まった一連の「戦い」は、単なる「戦争の下手な劉備がまた曹操に終われて逃亡した」と片付けてよいものではなかった。
これはまさしく戦争であり、将兵よりもむしろ時間と距離を争う、一流の戦略家たちの読みあいともいえる戦いであったのだ。
正しくこの戦いは有名な「赤壁の戦い」の前哨戦とも言うべき戦いであった。