酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第十五回 刀

『刀をめぐる日本と中国の奇妙な繋がり』

刀の祖も諸葛亮?

刀について海外の番組などで、「西洋剣と日本刀、どちらが強いか?」という特集が組まれると、あっという間に日本で翻訳されて動画サイトに流れ、あれやこれやの激しい議論が交わされる。

武士の時代は遠い昔の話になったが、やはり日本人にとって「刀」というのは、特別な武器であり「日本刀は強い」というのは譲れない誇りがかかる武器なのだなあということを改めて実感する。
その刀の起源は漢から後漢にかけての中国にある。この時代、それまでの「剣」から斬るという殺傷力にまさる動作に特化した「刀」が発達し、重要な歩兵戦闘用の武器として普及していっているのである。
この剣から刀にかけての移り変わりについては明白な理由がある。
漢から後漢にかけて鉄の製造技術が溶かした鉄鉱石を型に流して鉄器を作る「鋳造」だけでなく、熱した鉄を叩いて不純物を取り除き炭素の量を調整する「鍛造」が製鉄技術に優れた匈奴より伝わっている。

後漢の頃には「百練鋼」という錬鉄が普及しており、主要な武器についてはこの百練鋼で製造されてるようになっていったのである。
「刀」については、後の日本刀のような精妙な刃ではもちろんないにしろ、やはりある程度は鋭利な刃を作らなければ斬撃という「刀」の持ち味を活かすことができない。

このため片刃の「刀」そのものは春秋戦国時代ごろにから存在していたが、歩兵の近接戦闘用の武器として普及するには、やはり鍛造による鋭利な刃による殺傷力がアドバンテージとして必須であったというわけである。
そしてこの刀について歩兵戦闘戦術に積極的に組み込んだのが、三国時代の蜀の丞相諸葛亮であった。
諸葛亮は西曹掾蒲元が斜谷において三千振りの刀を製造し諸葛亮に献じているという記録があり、蜀の長江の水が鉄に焼きを入れるのに適していたという。

彼が献上して刀は竹筒を干し草のようになんなく切り裂くことが出来たので、その鋭利さが当時は驚異的であったため、彼の献上した刀は「神刀」と名付けられた。
諸葛亮は鉄の専売制も蜀に導入しており、鉄の製造について官営で積極的に行い、優れた武器を生産しているが、その一環として「刀」の大量生産を手がけていたようである。

北伐においては、近接戦闘となると蜀軍は、しばしば魏軍を圧倒しているが、そのひとつの要因として「神刀」を始めとする刀の普及があったのだろう。

術理としての剣術の興り

また鉄器としての「刀」とだけでなく、刀が近接戦闘の武器として普及するにはもうひとつ重要な要素が存在する。

それは術理としての「剣術」だ。斬るという動作は殺傷力が大きい反面、それを扱うには術理と訓練が必要とされる。
これについても後漢の頃には興味深い記述が存在している。
魏の文帝曹丕が酒の席で鄧展という武術の名人と剣術について語り合ったと、彼の著書である『典論』に述べられている。

この議論はどうもかなり両者とも譲らなかったらしく、曹丕と鄧展は、宴席にも関わらず実際に試合を行うという展開になってしまう。

この時、曹丕と鄧展は酔い覚ましに食べていたさとうきびを剣に見立てて立ち会っているのが面白い。

ちなみに結果は三度戦っていずれも曹丕が勝ち、さらに鄧展が再戦を求めたので追加でもう一戦曹丕が勝利している。

これについて曹丕は自分の剣術は陳国の袁壜に学んだものであると述懐しているが、すでに後漢の頃には術理として体系化された剣術が存在していたようである。
ちなみに曹丕は両手に戟を持つ戦い方を得意としており、この戦い方に「坐鉄室」という名前がついていたという。
このように武器としての製法、術理としての剣術がすでに後漢から三国時代に成立していたというのは、東洋の剣術史の起源を求めるにあたって重要な記録と言えるだろう。

日本への刀の伝来

そして、刀そのものについては、三国時代に魏に使者を派遣した卑弥呼が、その下賜品として「五尺刀二口」を受け取っているという記録が『魏志倭人伝』の中に見受けられる。
だが、その後、中国では五胡十六国などの様々な要因から剣術や刀の製造技術が停滞してしまうことになるが、ここで東洋の剣術史は面白い展開を見せるのである。

日本では前述したように中国経由で刀が伝わってくると同時に、東国の蝦夷が沿海州などの騎馬民族経由で製鉄と刀の製造法が渡来するのである。

大和朝廷を悩ませた蝦夷の武器のなかには「蕨手刀」と呼ばれる片刃で反りのある刀が存在し、中国経由で伝わった直刀をその斬れ味で圧倒している。

この片刃で反りのある「蕨手刀」の製造技術が日本において普及し、やがて日本刀として完成されていく。
そして時は流れ、16世紀頃の中国が明代になると倭寇の使う日本刀とその剣術に中国人は大いに悩まされつつも、その強さに圧倒されていく。

1561年、明軍を率いて倭寇を撃退した武将戚継光は、『影流目録』断簡を得た。

この『影流目録』こそ、愛洲移香斎久忠の編み出した「影流」の秘伝であり、後にそれは上泉信綱、柳生家などによって洗練されていき日本剣術の主要な流派となる術理であった。
戚継光は倭寇の戦術と刀の術理を導入して国内の軍を整備し、後に北方騎馬民族との戦いに活用している。

いわば後漢から三国時代にかけて日本に流れていった刀が明代になって中国に逆輸入されていったのであった。

後に中国では日本刀を真似た刀が製造されるようになり「倭刀」「苗刀」と呼ばれ、その術理は「倭刀術」として受け継がれていくことになる。
後漢から三国時代にかけて諸葛亮や曹丕らが関わった刀と剣術が、日本に渡来し千年以上もかけて日本で洗練されて、それが明代になって中国に逆輸入されていく。

日本人がこだわり譲らない日本刀の製造法と術理が、このような中国との交流史を伴うものであったということを考えると、より一層、刀にたいして思い入れができるのではないだろうか?

スポンサーリンク