酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第十四回 甘寧02

『無頼興覇~誰が甘寧を活かしたか?~』

呉の武勇の華、甘興覇

華のある武将である。
215年、合肥に侵攻した孫権だが、兵は少数ながら張遼、楽進、李典という魏屈指の名将たち、特に張遼の「演義よりも無双よりも史実が無双」と言われるような戦いぶりの前に、思うような戦果は揚げられず伝染病が流行したため撤退することとなった。

孫権は呂蒙、蒋欽、凌統、そして甘寧という主だった武将たちを引き連れて本陣を撤収する。

このとき撤収を打ち合わせる軍議のために集まっていたのだろうか? これだけの武将たちが集まっているにもかかわらず、諸将たちは自分たちの手勢を引き連れてはおらず、孫権の本陣は近衛兵たち千数百人のみだったという。

孫権にとっては不運なことに、よりにもよってその様子を見ていたのが前線において少数の兵を持って強襲攻撃をさせるタイミングと手際においては、『三国志』を見渡しても随一とも言える張遼であった。
張遼はこの戦機を見逃さず、撤収しようとする孫権本陣を急襲する。

この直前の戦いで、張遼は十万の孫権軍に対して800人の兵で突撃し縦横無尽な戦いぶりを見せつけ、のちのちまで『遼来遼来』という言葉で江南江東の泣く子供が黙るという活躍を見せ、孫権軍の将兵たちの骨の髄にまで恐怖の味を覚えさせている。

その張遼自身が突撃してきたのである、孫権本陣の近衛軍は浮き足立ったなどというものではないパニック状態に陥った。
ここで孫権と本陣の将兵たちを救ったのが甘寧である

。彼は張遼に弓矢を射掛けると、茫然自失となって仕事をいる軍楽隊に「何故、音楽を鳴らさぬっ!」と一喝し、凌統とともに張遼の前に立ちはだかったのである。

その雄々しさたるや何ぴとたりともも侵せぬものがあり、さしもの張遼も孫権を打ち取るまたとない機会を失ったのである。
前回も書いたように華やかなエピソードで彩られた甘寧の史実における軍事面での活躍はこれが最後となっている。
ところが史書を読み返すと、どの記述を見ても甘寧の率いていた兵は千人前後であり、その役職も西陵太守がもっとも高位であった。

その太守も、どうも統治者というよりもただの西陵という城の守備隊長というニュアンスのようである。

また、濡須口での戦いでの敵陣急襲の活躍の後に孫権から「二千人の兵を任されるようになった」とあるが、どうもこれが甘寧のキャリアハイにおける分限といった模様である。
そう孫権陣営における甘寧の扱いは、その華やかな活躍ぶりとは裏腹に、それほど重くない。

彼に任される兵力は常に千人前後であり、その史書における活躍ぶりは逆に見れば常にもっとも危険で割に合わない損な部署を与えられ続けてきたという証明でもあるのだ。

無頼の徒であった甘寧

そもそも甘寧は益州巴郡の無頼の徒出身であり、水牛の尻尾を旗指物につけ、腰に鈴を吊るして郡内で傍若無人に振舞っていたという遊侠出身の男である。

彼は800人の手下たちとともに荊州の劉表に身を寄せたが重んじられなかったという。

これまでも書いたことがあるが、どうも甘寧はある一定以上の兵士を率いるには必須の文書行政などの素養がなかったか、あるいは苦手であったのだろう。

引き連れた800人の手下たちも単なる無頼の輩で、軍人としての訓練を受けていなかったと思われる。

甘寧は蜀郡の丞として会計を司る役人をやっていた経験もあるが、その役を捨てており、よほどこの手の文書行政が苦手だったのだろう。
このあたり、同じように少数の武形とともに劉表に身を寄せた劉備とは対照的である。

劉備の場合、乱世である後漢末期では事あるごとに野心家たちの餌食になってしまうため貴重となってしまった徐州を統治したという内政官僚としての経験を持つ。

さらに数万の兵力を率いる軍事行政の素養と、それを可能にする手足となる部下を持っていたのが幸いし、劉表にほとんど自分の軍を預けられんばかりの勢いで重用されている。
このように好むと好まざるにもかかわらず古今東西、軍というものは細かいデスクワークの積み重ねで秩序立てられていくものであり、その素養がない者は「声が届き、自分の姿が見える範囲」までの兵しか預けられない。

甘寧という武人はまさに「声が届き、自分の姿が見える範囲」においては水際立った指揮を見せるが、それ以上に出世するには基礎教養が足りなかったであろう。
にもかかわらず、甘寧が孫権陣営の中で軽く見られていたのか? というとそうでもない。
正史『三国志』の甘寧伝の最後に陳寿はこんなエピソードを書き添えている。
あるとき甘寧は自分の料理人が不手際を起こしたのでこれを殺そうとすると、料理人は呂蒙の所に逃げ込んだ。

料理人は呂蒙に一旦保護され、殺したりしないという約束で甘寧の元に送り返すが、甘寧はこの料理人を桑の木にくくりつけて、弓矢で射殺してしまう。

ここで甘寧は何を思ったのか船で呂蒙の見えるところまで行って、船をともづなでしっかりと岸壁に固定すると、その船の上で半裸になって横になったという。
呂蒙を舐めた態度なのか? 約束を破ったが俺は逃げも隠れもしないという意思表示か? 煮るなり焼くなり好きにしろ! という開き直りかはわからないが、そのどれだとしても呂蒙がいきつく感情はひとつである。

そう激怒したのだ。
このとき甘寧を殺そうとした呂蒙に呂蒙の母親が裸足で飛び出して「陛下(孫権)はお前を肉親のように遇して、大事を託してくれた。それなのにどうして私事の怒りで甘寧を殺すことが許されましょう。甘寧が死んだならば、陛下が何も言わなくても、お前は臣下にあるまじき行為をしたことになるのですよ?」と諌めた。

呂蒙は怒りを鎮めて自ら甘寧の船に行って「興覇どの母があなたをお食事に招いておられます」と優しく諭したという。
この呂蒙の態度に甘寧は涙を流して「あなたには申し訳ないをことをした」と謝って、二人は和解し夜まで宴に酔いしれたという。
呂蒙といえば周瑜、魯粛、陸遜と並び称される孫権陣営の軍事の要である。

おそらくは記述の時期的に217年の濡須口の戦いの後だろうが、この頃の呂蒙は左護軍となっており、名実ともに荊州の魯粛と並ぶ孫権軍の中核である。

誰が甘寧を活かしたか?

そんな立場の人物にこんな態度をとることができるのだから、確かに地位こそ高くはないが華やかなる前線指揮官としての甘寧は、それなりに孫権陣営の中で「いい立場」であったのだろう。
前述した遊侠無頼の徒であり、劉表からもほとんど相手にされず、次に主とした黄祖からは食客の扱いを受けている。
後に甘寧が前線指揮官として華やかな活躍ぶりを見せているため、劉表や黄祖たちは「人物を見る目がなかった」と評されることが多いが、甘寧に関しては彼らの扱いは当然であった。

彼らが欲しいのはきちんと訓練を受けた兵士と、それを秩序立てることのできる軍官僚だったのだから。
そして、この甘寧の二番目の主となる江夏太守黄祖という人物が、結果的にであるが甘寧の人生を切り拓くのである。
演義ではほとんど活躍することもなく、三国志を題材にしたゲームでも目立つような能力を与えられていることの少ないこの人物。

江南江東の孫家陣営にとっては、最大の因縁を持つ仇敵であった。
そもそも最初の因縁からして、もはや三代祟るレベルである。

191年、袁術の配下として劉表を攻めていた孫堅が、黄祖の配下である呂公に射殺されている。

そう孫策と孫権にとっては、まず父親の仇として立ちはだかったのが、この黄祖である。

小覇王と言われその軍事能力で江南江東を制覇した孫策。

赤壁で曹操を破り荊州で関羽を破り孫呉の礎を築いた孫権。それを取り巻く周瑜、呂蒙、黄蓋、程普などの綺羅星の如き名将たちに仇敵として、何度も全面攻勢をかけられている。

だが黄祖は199年・203年・204年・206年・207年とその攻勢を弾き返している。

203年の戦いでは、黄祖の配下として戦っていた甘寧に、後の呉軍の名将凌統の父凌操が討ち取られている。
確かにまだ孫家陣営がそれほど体制が固まっているとは言えない時代ではあったが、それでも孫策、孫権とこれだけの名将たちの攻勢を受けて、そのたびに跳ね返してきた黄祖の軍事能力とそれを可能にした経済力は大いに評価すべきだろう。

これについては後に江夏郡において孫権が銅山の開発を積極的に勧めるなど、どうも江夏には巨大な鉱山資源があり黄祖はこれを背景にした経済力で、軍備を整えて孫家陣営を跳ね返してきたのではないか? と推測している。
逆に言えば、これだけ何度も将兵を費やしてさえ父孫権の仇を討つことの出来なかった孫策と孫権の無念は凄まじいものがあっただろう。
こんな状況下で黄祖の下ではうだつがあがらないと彼を見限って孫権に身を寄せたのが甘寧であった。
この時期は孫権にとっては最高のタイミングであった。

208年ごろに甘寧は孫権に身を寄せていたようだが、この頃はまだ劉表が健在であり、それを前提として甘寧は孫権に劉表陣営と黄祖の弱点を進言して、今こそ黄祖を攻める時期であると主張する。

208年8月に劉表が病死することから、このころの荊州はすでに劉琦と劉琮の間で後継者争いが行われている時期であり、荊州の政情が不安定であった時期である。
そして、出兵を推し進めるにあたり直前まで黄祖陣営にいた甘寧の証言は大いに孫権たちを勇躍させたに違いない。

もちろん江夏を攻めるに当たっても大小の細かい助言をしたであろう。

劉表や黄祖にとってはとるに足らない人物であった甘寧であったが、彼はそれが敵に渡った時に門を開く鍵となる役目を十分にこなせる人物であったのが、特に黄祖にとっては不幸であった。

江夏城は陥落し、脱出した黄祖は馮則とい一騎兵に討ち取られる。

この馮則は孫家最大の仇敵を殺したことによって、一兵卒ながら呉側の記録に残されることになったのだから、いかに孫家にとって黄祖が因縁積み重なるやっかいな敵であったかがわかるだろう。
そして、この黄祖を打ち破るキーマン的役割を果たした甘寧が、大軍を御する技能を持っていないにも関わらず孫家陣営において格別の扱いを受けるのも当然であった。

黄祖を打ち破った孫権軍は兵を引き、甘寧を当口という池に止め劉表軍の逆襲に備えさせて兵を引く。

甘寧にとって幸いなことに、この侵略したばかりの危うい地に置かれた時期、劉表が死去し、さらに曹操の荊州侵攻が開始されたため荊州は孫家陣営に逆襲するどころではなくなる。

甘寧が孫権に身を寄せ、孫権に江夏侵攻を進言したこの時期は、劉表陣営が崩壊する直前に黄祖を打ち取ることができたという意味でも、最高であり最後のタイミングであったのだ。
甘寧の場合、能力や見出す人物というよりも、甘寧にとっては黄祖の下から孫権に移ることそのものが運命を切り開くきっかけとなったわけである。

かくして甘寧は、孫権に重く用いられるとともに、その前線指揮官としての開花させていったのだが、皮肉なことだが彼を開花させるきっかけを作ったのは黄祖という、孫家累代に祟った人物であったように思えてならない。

このような因縁重なる敵を打ち取る鍵となるぐらいでなくては、そもそもが江南江東の豪族たちの権力が強い孫家陣営では名を残すのは難しいような出自であったのだから。
そういう意味では「誰が甘寧を活かしたか?」という問いかけには、「それは黄祖ではないか?」という答えを提示してみたくなるのであった。

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