酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第十三回 甘寧

『興覇没虚~誰が甘寧を殺したか?~』

いつの間にか甘寧が死んでいた

三国志演義において、ファンが納得の行かないようなあっけない死に方をした有名武将が二人いる。
第一次北伐において孟達にあっさりと眉間を矢で射抜かれて死亡した徐晃。

もうひとりが夷陵の戦いの前哨戦において病をおして出撃し蛮族の沙摩柯にやはり矢で射抜かれて死亡する甘寧である。

どちらも正史においても演義においても魏と呉における代表的な武将として活躍していた人物であり、そのあまりにも唐突な戦死の仕方になんとも言えない気分を味わった人も多いだろう。
もちろん、正史においてはどちらもそのような戦死はしておらず、特に徐晃は227年に病死したと伝に書かれている。

この年は諸葛亮が「出師の表」を上表して第一次北伐に出撃した年であり、おそらく羅貫中は年代的に調度良いということで、これと合わせて起きた孟達の反乱に登場させて戦死させたのだろう。
一方で甘寧であるが、こちらは生没年ともに不詳となっている。

このため夷陵の戦いで戦死していないと断言することはできず、もしかしたら演義の沙摩柯による甘寧射殺は本当にあったのではないか? と言うこともできなくもないが、それはまずありえないだろう。
というのも甘寧自身が呉において「孟徳には張遼がいて、私には興覇(甘寧)がいてちょうどつりあっているのだ」と自慢するほどの武将であり、実際に史実における彼の活躍ぶりは呉軍においても特に華やかだ。

甘寧と言えば一番乗り!

甘寧と言えば多くの人が思い浮かべる有名なものに、皖城攻略戦のとき鉄球を振り回しながら城壁によじ登り「甘寧、一番乗り!」と名乗りを上げる場面がある。

横山光輝の『三国志』にあり、そのビジュアルインパクトから「甘寧=一番乗り!」というイメージが直結される人も少なくあるまい。

このいかにも「『三国志演義』の脚色だろ?」と思わせるような派手な場面は、実は史実にもほぼ同じエピソードがあるのである。
同じ呉軍による皖城攻めの折、甘寧は升城督という城攻めの攻略隊長とも言うべき役割を命じられるが、彼は皖城を攻めるにあたって、練絹(ねりぎぬ)を握って自ら城によじ登り見事に一番乗りを果たし、敵将朱光を捉えているのである。

いったい、鎖鉄球ならぬ練絹をどのようにして使って城壁をよじ登ったのか? 「ただのハシゴの滑り止めとして使用した」、「ロープのように城壁の突起部分に巻き付くようにして使った」などなど、いろいろな説があるが。

筆者の知っている話に昭和期の脱獄囚で有名な手口として、濡らしたタオルを両手に持ち、その平面部分を壁に貼り付けるようにしてその吸着力で牢獄の壁を登るという特技を持っていた脱獄常習犯がいたそうである。

わざわざ練絹を使い、また史書に残すほどにインパクトの強かった方法で甘寧は城壁を登ったようであるから、これぐらいトリッキーな特技を使って皖城の城壁を登ったとのではないか? と推測しておきたい。
この他にも甘寧は濡須口における曹操と孫権の戦いにおいて、前部督という先鋒隊長を命じられ、敵の先鋒軍を襲撃するよう命ぜられる。

この時、甘寧とその百人余りの部下たちは、米と酒をはじめとするご馳走を与えられたというから、どう考えても死ぬのを前提に敵に損害を与えて敵の士気を粗相させるための特攻じみた決死隊である。

実際、配下たちはほぼ死が確実なこの任務にあたり、相当に怯えていたらしく甘寧が配下の隊長に自ら酌をして酒を飲ませようとすると、顔を伏せたまま飲もうとしない。

これに対して甘寧は刀を抜いて「俺とお前のどちらが陛下に大切にされているのか言うまでもないだろう?

(陛下に大切にされている)俺が死ぬのをなんとも思っていないというのに、お前ごときが怯えてどうする」と大喝、というより半分脅しに近い叱咤をした。

その後、甘寧は兵士一人ひとりに酒を注いでやっているから、まさに飴と鞭である。

古代の戦場では、これぐらい厳しい飴と鞭がよく効くのだろう。

甘寧とその配下たちは奮起して、わずか百人で敵の陣営を奇襲し、その前衛軍を退却させるという大戦果を挙げている。
このように甘寧は、呉軍の中でも「それって演義の脚色じゃないの?」と思わせるような派手な活躍をしている武将であり、これほど名の通った武将が、もし夷陵の戦いに参戦しているのならば、まず間違いなく記録に残るはずである。

ましてや戦死などをしているとなれば、呉軍だけでなく蜀軍においても大きく記録されないはずがない。

甘寧と夷陵の奇縁

さらに言うと、甘寧と夷陵には史実においても浅からぬ因縁がある土地であリ、また夷陵の戦いのきっかけとなった荊州における劉備陣営と孫権陣営の対立において重要な役割を担っている。
赤壁において勝利を納めた孫権陣営は周瑜の指揮の下、曹仁の守備する南郡に攻め入っている。

さすがに曹操軍でも一門きっての武勇を誇る曹仁の守る南郡は中々に陥落せず、その後一年に渡って周瑜は攻めあぐねることになる。

この時、甘寧は南郡が落とせないのであれば、先にさらに西にある夷陵の城を落としてしまえばいいのではないか? と周瑜に進言している。

周瑜はその進言を受け入れ、甘寧に数百人の兵士を率いさせて夷陵を攻めさせている。甘寧は瞬く間に夷陵の城を奪取している。だが、これが曹仁の知る所となり、曹仁の夷陵奪回軍として5-6000人もの兵士が派遣される。

これに対して甘寧の兵は降伏した兵を合わせても千人余り、夷陵の城は曹仁の派遣軍によって包囲され、高い矢倉を立てて雨のように矢を城内に射掛けさせた。

この包囲戦は長期間にわたったが、昼夜を問わず射掛けられる矢に怯える配下の兵士たちに対して、甘寧は常に泰然自若として笑いさえ浮かべていたという。

この後、甘寧は救援に向かった呂蒙の策によって救い出されるが、少数の兵で夷陵を陥落させ、長期間包囲戦に耐えぬいた甘寧の手腕は、荊州全土に轟いた。
その後、甘寧は病死した周瑜に引き続き魯粛の下で荊州方面で働くことになる。
215年のことである。

この頃、孫権陣営は曹操陣営よりも益州を奪っていながら荊州を返還しようとしない(孫権陣営から見ればの話)劉備陣営を外交において激しく争っていた。

このとき荊州の留守を守っていた関羽は3万を号する兵をほ率いて益陽という地域に進軍すしている。

完全な軍事行動であり、劉備陣営と孫権陣営は一触即発の緊張状態となる。この時も少数の兵で大功を挙げたのが甘寧であった。

彼は関羽が益陽近くの浅瀬を5000の兵を率いて渡河しようとしたのに対し、魯粛に「私にあと500ほどの兵を与えていただければ、ただちに対処いたします」と進言する。

甘寧は豪語する「関羽は私の咳払いを聞けば、必ずや渡河を諦めるでしょう。もし、無理に渡河を強行すれば、その時こそ関羽を私が捕らえてみせましょう」。

劉備陣営きっての宿将関羽に対してここまで豪語できる人物は孫権軍はおろか曹操軍にも中々いないだろう。

果たして関羽は甘寧が渡河点を防いだとの報を受け、無理に渡河を強行することはなく、実に危うい所で劉備軍と孫権軍の武力衝突は避けられたのであった。
もし、この時、両軍が武力衝突をしていれば、どうなったであろうか?
この215年という年は、曹操軍が漢中の張魯に対して侵攻を開始しており、劉備の益州も緊張の度合いを高めていた時期である。

もしこの時、本格的に戦端が開かれていたとすれば、劉備陣営は北の曹操と西の孫権に対して二正面作戦を強いられる恐れもあったろう。

関羽としても無理に戦端を開くわけにはいかないが、それでも外交カードとして益陽の占拠を行いたかったのかもしれない。

というのも孫権は孫権でこの年に、曹操軍の漢中侵攻に合わせるような形で劉備に対して荊州を返還するように強く求めているのである。

一見、関羽の強行手段は無謀にも思えるが、荊州の領有権を強く主張する姿勢を見せつけておかねばならないという事情も劉備陣営にはあったのだ。
ともあれ、この一触即発、孫権、劉備、曹操の三つ巴の外交における、切所中の切所で甘寧は見事に立ち回ってこの場を収めている。
この功績によって甘寧は「西陵太守」に任じられている。

後に夷陵は孫権によって「西陵」と名を変えられているが、この時期は夷陵のままなので、甘寧の任じられた「西陵太守」は夷陵のことではないようだ。

誰が甘寧を殺したか?

ただ、このように甘寧は夷陵と劉備陣営の関羽に対して浅からぬ因縁を史実において持っているのも確かなのである。
『三国志演義』の作者羅貫中としては、むしろ「どうして甘寧が夷陵の戦いに登場しないのか?」と切歯扼腕する思いがしただろう。

甘寧と夷陵と関羽の関わりを思えば、この呉軍きっての派手な武将を活躍させたくてたまらなかったに違いない。

しかし、そんな目立つような活躍をしていたならば、正史において記録されていないわけもない。
このあたりのジレンマが、甘寧の夷陵の戦いの前哨戦に登場するが、なんだか釈然としない戦死に終わるという役割を振られる原因になったのでしないだろうか?

さらに言えば序盤の「劉備軍の快進撃」や「呉の危機感」を演出するにあたっては、この時期、一番呉軍で派手な活躍をしていた甘寧が戦死するというのは、調度良い演出になるだろうという計算も働いていたに違いない。
なんとも作家の業を感じさせる話ではある。

そう考えると、死に方そのものは納得がいかないが、「甘寧が夷陵において関羽の雪辱に燃える劉備軍に討ち取られる」というのは、中々に史実に基づきつつ創りあげられたエピソードなのだ、とむしろ羅貫中の演出能力に感嘆したくなるのであった。

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