酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第四回

すまん、実は原稿にいくつか保存ヌケがあったわ……というわけで3回飛ばして4回。もし、誰か保存している人がいたら、送ってください……手元になかった

第四回 『征路長江~劉備の東征、その戦略構想』

劉備は戦下手という風評被害

219年12月に魏と呉の連合により関羽が敗れ、荊州を失陥した劉備は221年7月に呉の孫権征討を宣して東征の軍を発する。

この軍事行動は、挙兵時からの股肱の臣であり義兄弟でもあったと伝えられる関羽を失ったことにより逆上した劉備による無茶な遠征という受け取られ方が一般的である。

今さらネタバレ云々を言っても歴史については無駄になるので結果から言ってしまうと、この劉備による孫権征討は無残な結果に終わってしまう。

それも単なる敗北にとどまらず全滅とも言えるほどの損害を受け、四川の劉氏政権は大半の兵力および主力となる将を多数失い、その屋台骨すら揺るがす危機に陥るような大敗北であった。
そのため演義でも史実でも劉備の孫権征討に関しては批判が多く、諸葛亮や趙雲が開戦前から反対しており、敗戦後にも諸葛亮の「法正が生きていればこのようなことにはならなかっただろう……」というボヤきにも近い感想が史書にも残されている。

さらには第三者である魏帝となった曹丕までもが「劉備は戦さを知らない」などとコメントしており、敵ではなく味方と第三国の人間にその軍事行動を批判されてしまっているという散々な評価をされてしまっているのが、この劉備の東征である。
最後の最後でこのような大敗を喫したこと。

曹丕のコメントや後に不世出の軍略家という評価されることになる諸葛亮との対比のためか、未だに「劉備は戦下手」という評価は根強い。

実際、演義などではその軍功はほぼ関羽と張飛、趙雲などの武力や諸葛亮、ホウ統、法正ら「軍師」たちの知略によるもので、本人は人徳に優れているだけの軍事的には無能といった扱われ方をしている。

まあ、これについては劉備を漢王朝の創始者劉邦に擬した部分があると思われるので、あえてそのような描き方をされていると思われる。

だが、ともあれ影響力の大きい羅貫中の『三国志演義』やそれを基にした著作物の影響で「劉備は軍事に疎い」という評価は、かなり一般的である。
しかし、実際のところ史実を追って見ると劉備が公孫瓚、陶謙、呂布、曹操、袁紹、劉表、孫権、劉璋などの数多くの陣営に所属したり同盟したりしていた理由は、他ならぬ劉備の軍事的能力をアテにされてのものであった。

実際、戦略家としても戦術家としてもこれほど「敵に回したくない」と思わせる武将は、知将勇将に事欠かない三国志の登場人物の中でも少ないだろう。
例を挙げれば徐州を領有していたころには、当時は二大勢力の一方であった袁術を全面的に敵に回していながら、粘り強く応戦し一歩も引かず優勢に戦さを進めていた。

袁紹と曹操が戦っていた時期には袁紹陣営に所属して曹操軍の後方にいつのまにか回りこんでゲリラ戦を展開してその背後を脅かしている。

そしてこの時期の直前には、自他ともに認める当代随一の軍略家である曹操自ら率いる軍を撤退させ漢中の支配権を確立している。
とにかく、劉備の戦ぶりを見てみると、演義での関羽や張飛、趙雲などを展開する華々しい印象とは裏腹に、派手な戦果を挙げることは少ないが、非常に粘り強い用兵を見せて負けないまま相手を泥沼の難戦に引きずり込み、いつの間にか有利な状況を積み重ねていっているといった戦いぶりを展開するのである。

これだけでも「嫌な敵」と思わせるのに十分だが、劉備の恐ろしい所は戦争における大局観がおそらくは当時の曹操の次ぐらいに優れていたことだろう。

とにかく、戦略的政略的に状況が不利になったと見た時の見切りの良さは曹操と同等であり、その逃げ足の速さと巧みさは曹操以上であった。
戦えば泥沼に引きずり込まれ、なんとか破ったとしてもいつのまにか逃亡している。

こんな「敵に回したくない」武将も他には珍しく、そしてこういった立ち回りは優秀な戦術能力と戦略眼がないと到底無理である。
言ってしまえば劉備という人物は当時でも指折りの名将であり、その名が天下に轟いていたからこそ様々な陣営を渡り歩きながらも重用されたのである。

そして当時天下にもっとも近かった人物であり軍略家であった曹操には、生涯目の敵にされていたわけである。
そんな戦略眼と戦術能力の保持者であった劉備が、はたして後世からの評価されるような「無謀かつ無益な戦い」にあえて臨むだろうか?

『戦犯』劉備の大局観

確かに関羽の死や曹丕の皇帝即位などによって劉備が感情的になっていた、さしもの劉備も老いて戦略眼も衰えていたと解釈することもできるだろう。
だが一方で、劉備は十分な勝算を持ってこの戦いに臨んだのではないだろうか?

そもそも勝算のない戦いに当時益州をほぼ根こそぎ動員するような遠征を起こせるほど劉備の政権は強力ではない。配下の豪族や名士たちを納得させ協力させるに足る勝算なしには兵士の動員などできないような時代である。

さらに言えば感情に任せて孫権征討を起こしたにしては、一年半もの間が開いており、その間に劉備は帝位を称するなど重要な政治行動を執っているとは前回書いた通りだ。
つまり劉備は一年半の間にしっかりと勝算を見据えて、その戦略を練って孫権征討の兵を起こしたと思われる。

そして、その戦略構想は決して的はずれなものではなかったという視点でいわゆる後世「夷陵の戦い」と呼ばれる一連の劉備陣営の軍事行動とその戦略を分析してみた。

ただ劉備の感情や老い、あるいは「戦下手」という先入観や陸遜の名将ぶりだけで片付けるには惜しいほど、この戦い単純ではなく、展開もまた面白いのである。
その端緒としては劉備の戦略構想とその勝算について分析してみよう。

劉備の東征の作戦構想

まず孫権陣営と戦うに当たって問題となるのは、孫権陣営が保有する強大な水軍である。

長江流域を母体とする孫権陣営の最大の長所が水軍であることは「南船北馬」という言葉を引くまでもないだろう。

長江とその支流の水路によって潤い、そして交通の便となる文化圏に属する孫権陣営にとって船というのは軍事力にとどまらない重要な生活必需品であった。

近代以前は江南地方だけではなく、世界的にも水運はもっとも有効な交通手段である。

日本においても江戸時代の江戸という都市は周辺を結ぶ無数の河川と運河、そして海洋における水運により物資の流通によってその100万とも言われる人口を支えていた。

鉄道や自動車が現れる以前、物資や人員を流通させる最大の手段は船である。
今回、劉備が東征するに当たっても長江の水運を利用できるというのは物資や人員の輸送の面では大きなアドバンテージであったし、まず劉備の勝算の第一はその輸送面における利便性であった。

だが、この最大の障害となるのが、船を扱うことにかけては生活の一部にさえなっている孫権陣営の水軍であった。

実際、孫権陣営の水軍が長江を渡河しようとする曹操軍を赤壁において破り、その侵攻を阻んだ「赤壁の戦い」は有名である。

長江で船を運用するにはその水軍をなんとかせねばならないのは、劉備ならずとも誰しも思うことだろう。

確かに上流から侵攻するという有利さはあるものの、それだけで強大かつ練度の高い呉の水軍を破れるような水上戦力は当時の劉備陣営は保有していない。

では無為無策で劉備はこの戦いに臨んだのか? というとそうでもないのである。
よく劉備軍の侵攻経路を見てみると、この地域の長江は孫権陣営が縦横無尽に活躍する長江河口流域の印象とはまるで別物の河川となってしまっている。

川幅は狭く、底がとても浅くなっている。そして両岸は断崖絶壁の異様な地形であり、現在は中国における重要な観光名所となっているような絶景である。

つまりは「呉の水軍」として印象づけられるような艦隊を展開するのは極めて難しく、また複雑な艦隊行動は常に座礁の危険を伴う。

下手をすれば両岸から火矢でも浴びせかけられてしまうような流域なのである。
つまりはまったく水軍の運用に適さない地形であり、せいぜい筏や小舟で陸上戦力の輸送を助ける程度にしか水上戦力としては扱えないという、陸上戦力が主力である劉備陣営にとっては極めて好都合な地形となっているのだ。
その陸上戦力について孫権陣営の場合、言ってしまうと曹操陣営や劉備陣営には遥かに低い評価をせざるを得ない。

前述した「赤壁の戦い」にしても、その後、孫権が北上し合肥を10万の兵力を持って攻撃すれば、わずか500の張遼の軍に翻弄され孫権の命すら危うかったほどの大敗を喫している。

また一方で周瑜が荊州の曹仁を赤壁の戦果に乗じて攻撃しているが、これも1年以上も難戦した挙句にようやく江陵を陥落させることができたというにとどまっている。

後になっても何度か孫家陣営は何度か北上して曹家陣営を攻撃したりはしているが、北上して陸戦になったときの孫家陣営は基本的にそれほど強くないと言わざるを得ない。
つまりは細長い長江流域を陸路で下っていく場合、狭い地形で孫権軍と激突してもまったく脅威とせずに、むしろ狭くて少数同士の戦いとなれば劉備軍にとっては有利にしかならないと考えていたのは間違いない。

そして、この時期の劉備軍は関羽とその配下こそ失ったものの、漢中を陥落させた歴戦の将兵たちは法正が病死してしまったのを除けば、ほぼ無傷に残っているのである。正面から戦えば、まず負けるはずがない。
さらに劉備は手が込んだことに行軍経路に数十の陣営を設営している。これについて史実に曹丕が「劉備は戦さを知らない」とコメントしたり、演義においてこの陣営配置を地図で見た諸葛亮が嘆いたりしている。

しかし、実際の所、彼らが懸念するような陣営の分断や各個撃破をできるような地形ではないし、また孫権軍にはそんな大規模な各個撃破と包囲を行えるほどの兵力はない。

さらに言えば、そもそも連続して長江沿いに数十の陣営を連ねていったのは、そのような各個撃破や包囲を起こせないように相互に連絡と補給を行い、さらに防衛力を高めるためである。

このあたりは、むしろ劉備の歴戦の軍人らしい手堅い用兵と評価すべきだろう。
このように陸上戦力が優位にある上に劉備は実に手堅い行軍計画を練っているのである。

こうなると孫権陣営としては劉備軍の行軍経路が長大化し、糧秣や兵力の補充が困難になってきたところを討つという、いわゆるナポレオン戦争におけるロシア軍や独ソ戦のソ連軍でお馴染みの「縦深防御」という戦略が選択肢として現れる。

実はこれは当時の中国に存在しなかった戦略というわけでもなく、例えば官渡の戦い以降の袁家の陣営が曹操軍に対してこれを行なっている。

袁紹死後の袁家は袁尚と袁譚が内部分裂したりするなどグダグダ極まるが、河北という広大な地域そのものを利用して何度も曹操の鋭鋒の前に敗れながらも漸次撤退しつつ、なんと北方の異民族である烏桓の支配領域にまで逃げ込んで抵抗を続けている。

実に官渡の戦いで大勝して以降、曹操は袁家を討伐しきるのに8年もの期間を必要とした。

その間も南方の劉表や劉備、孫策が蠢動したりするなど、一歩間違えれば官渡で大勝して絶頂を極めた当時の曹操とて危うい局面はあったのである。
ならばこの戦いも荊州や江南江東において縦深防御を行なって時間を稼げば、局面が変わるということも大いにありうる。

だが、この戦略を孫家陣営は採らなかった。というよりも採れなかったと言ったほうがよいだろう。

それは劉備がこの時期に東征を行った理由の一つでもある、荊州を母国とする将兵が劉備軍には多数いたということである。

つまり劉備軍にとって荊州は、ナポレオン戦争のフランス軍、独ソ戦のドイツ軍、河北平定における曹操軍のような「敵地」ではなく、「母国」であり「故郷」なのだ。

いくら縦深防御を行なって時間を稼いだとしても将兵たちに望郷の念が起きるわけもないし、むしろまだ荊州を領有して一年余りに過ぎない孫権軍にとってのほうが「敵地」と呼ぶに相応しい時期である。

さらに言ってしまえば劉備軍には荊州における豪族出身者や名士たちが多数存在する。

一度荊州に彼らがなだれ込めば、彼らは地縁人縁を大いに活用して、荊州各地で孫権に対する反抗勢力を煽り、さらには劉備陣営への帰参を呼びかけるだろう。
そう、この時の孫権軍にとっては「縦深防御」とは完全に劉備軍に利するばかりの逆効果にしかならない戦略であった。
さらに言ってしまうと孫家の勢力は、よく見る「三国志の地図」では南北に広い領域を保有しているように思われるが、その大半は山越やら武陵蛮やらの異民族たちの領域であり、孫家の支配下にあるとは言えない状況にあった。

実際の所、明確に孫家陣営の支配地域と言えるのは江南江東地方の東西に細長く南北に薄い長江流域周辺なのである。

これは後の「三国時代」を通じての孫家陣営の宿痾であり、孫家陣営はむしろ魏や蜀などよりも常に南方の異民族との戦いや鎮撫に明け暮れていたのである。

なにしろ、孫家陣営の領土である荊州や江東江南の人口については「北方から戦乱や災害による流民」たちがかなり大きな割合を占めていた。

北方が曹操によって平定され政情が安定してくると次々と北方へ民たちが帰っていってしまうというのが大きな社会問題化しており、孫家陣営はその終焉まで人口不足に悩まされることになるのであった。
話を戻すと、このような東西に細長い孫家陣営の領域というのは、長江を挟んで北方か防衛するには水軍で抑えられる上に、渡河した端から挟撃することができるという利点がある。

だが今回の劉備の東征のように長江の両岸沿いに進撃するという経路を採られると、進撃しやすく補給経路も確保しやすい上に戦線を広げずに済むという、なんとも防衛側が頭を抱えたくなるような局面に陥るのである。
狭い地形を利用して防衛するには陸戦における将兵の練度が格段に違い、長大な征路を利用して縦深防御を行うのは前述した理由で劉備軍が有利になるだけであった。

さらには補給も輸送も長江の川下りを利用できる劉備軍に有利である。

では、今度は関羽との戦いとは逆の立場で魏を動かして益州を突いてもらえたとしても、益州は天然の要害である上にその進行経路となる漢中は劉備軍の支配下にある。

逆に呉が一か八かの賭けに出て益州を逆襲するという奇策も同様に四川盆地の天下の険がそれを阻む。

皇帝の留守中に政変や反乱でもおきるように工作したとしても、内政についてはそれこそ内政手腕についてはどんな厳しい歴史家でも絶賛せざるを得ないという丞相諸葛亮が留守番している限りありえない。
実際、四川盆地を抑えた勢力が長江を下って江南江東に進撃するというのは、進撃するには易く、逆襲されにくいという有利をこれほどまでに積み重ねられるのである。

これは、後に蜀を征服した司馬氏の普が同様の長江を下った進撃路で呉を攻略したということで証明されることになる。

劉備のたったひとつの誤算

むしろ劉備は関羽を殺され逆上したというよりも、一事の荊州領有の欲望に負けて関羽の背後を突いて上流の劉備陣営と敵対した孫権の短慮に対して、むしろ冷静な怒りと憐れみにも似た感情を覚えていたのではないだろうか?
ともあれ、少なくとも本願の地である江東江南ではさすがに激烈な抵抗を受けて苦戦するだろうが、少なくとも荊州奪還まではたやすく行えるであろう。

そして荊州の領有権を明確にしたところで有利な状況での孫権との講和。このあたりが開戦当初の劉備の戦略構想であったのではないだろうか?
巷間、思われているように「夷陵の戦い」は決して関羽を殺された劉備が、ただ逆上して行ったものではない。

その戦略も後知恵で「劉備は戦さを知らない」とまで言われるほど無謀であったとは思われず、その軍事行動も極めて手堅く妥当なものであった。
十分以上の勝算と戦略を積み重ねて劉備は孫権征討を掲げた東征の軍を発する。

史書では兵力は4万と記録されている。孫権陣営全体の動員兵力が10万前後であり、東西に長く魏に備え、なおかつ南方の異民族、荊州の鎮定などに兵力を咲かねばならない事情を考えれば、圧倒的に強兵であり荊州帰還を願って士気も高い。
それを率いるのは曹操亡き今、最も戦歴豊富な古強者であり粘り強い用兵には定評のある漢皇帝劉玄徳。

先鋒を担うのは義兄弟である関羽の死に劉備と並んで、凶暴なまでの闘志を燃やすもう一人の「万人の敵」張益徳。

この時代においては最強とも言ってもよい軍容と言っても過言ではなかったろう。関羽一人の進撃ですら曹操が遷都を考えたほど動揺したのである。

今回はその曹操を破り軍略家としての評価はうなぎのぼりの劉備が、関羽と同格のもう一人の「万人の敵」を先鋒に進撃してくるのである。
孫権陣営の恐怖は想像するにあまりある。
だが、開戦前に劉備にとって最初の誤算が発生する。それは「誤算」と済ませるにはあまりにも大きな喪失であった。
自他ともに東征の先鋒を担うのは間違いないと思われていた「万人の敵」張飛の急死である。

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