酒に対して三国志でも語ろうじゃないか 第二回

第二回 『蒼天二日~劉備は何故、呉を攻めたのか?』

関羽の敵討ちの前に劉備がしたこと

「物語としての三国志」では、関羽の死に劉備がブチ切れてすぐさま呉に侵攻し、夷陵の戦いが起こったような印象を与える流れで描かれてるものが多いが、史実では関羽の死から劉備が荊州に侵攻するまでに1年半ほど経過している。

そして、その間に三国志を歴史として見た場合、もっとも重要な政治行動を劉備は行なっているのである。
220年正月、関羽の首と対面した曹操が死去し、曹丕がその跡を継いでいる。

曹丕は後継者争いの対抗馬であった曹植の一派を粛清し、陳羣に命じて「九品中正制」の整備、青州兵との「契約解除(この謎の多い事件についてはまた別の機会に語りたい)」など、『曹操』という魏そのものと言っても良かった人物の思想と存在感を、国家と法として整備していくという難事業に取り組んでいく。

そしてその最も重要な事業として220年十月、曹丕は漢王朝の皇帝劉協から帝位の禅譲を受け皇帝となる。王莽による中断はあったものの、約400年にも渡って続いた漢王朝はここに終焉を迎えた。

新しい国号は『魏』。新たに都を許から漢王朝ゆかりの洛陽に戻している。
これに対して劉備もまた221年四月、「曹丕に弑逆された帝に代わって即位する」という名目で「漢王朝の」帝位に就く。
このタイミングは絶妙と言っても良かっただろう。

まず、漢王朝という衰えたりと言えども400年にも渡って続いた王朝の終焉に対する動揺は大きく、『魏』という新王朝への違和感はかなり残っていたのは間違いない。

このタイミングで人々が慣れきっている看板を背負うというのは、いつだって世の中の大部分を担っている保守的な人々に対するアピールとしては最高のものである。

さらに、このタイミングが絶妙であったのは、この時期の魏は漢中での大敗と関羽の北上、青州兵の離反などにより軍事力が衰えきっており、ただちに益州の劉備政権を討伐できるような状況ではなかったことである。

これまでも袁術など、名目上では帝位を僭称した者はあったが、瞬く間に踏み潰され「賊」として歴史上処理されてきたものである。

だが、益州の劉備政権による「帝位僭称(魏から見た場合)」はこれを踏み潰す軍事力は魏にはなかった。

このような体制の名分というものは、その正当性の検証よりも、時間の経過による「馴染み具合」が大切なのである。

その意味では、魏王朝という存在がまだ天下に馴染んでいない時期に、「お馴染みの看板」を引き継ぎ、なおかつ、ここしばらくは魏に自分たちを討伐する余裕がないと見切った上での劉備の即位は、見事な政治判断と言うしかない。
実際、この政治的判断は劉備たちの思っていた以上の威力を発揮する。

結果から言えば、この益州における劉氏の「漢王朝」は263年まで続き、二代40年余も続く。しかも、弱小政権にも関わらず、守勢を取らずに何度も諸葛亮や姜維の北伐などで存在感をアピールし続けていた。

この印象が強かった上に、面白いことにこの時代を書き残した正史はこの政権の出身者によって書かれることになったのである。

益州漢王朝出身の陳寿によって書かれた正史『三国志』は、彼が仕えた普王朝に配慮し魏王朝を正統として扱ってはいる。だが、見方によっては四川の地方政権に過ぎない益州の「漢王朝」をできる限り「一つの独立した王朝」としての体裁を保つように書かれている。
後に中国史は何度も異民族の侵入や簒奪者によって黄河流域が奪われ「正統な王朝」として、長江流域に南方政権を打ち立てるという状況が繰り返される。

そもそも三国時代を制して統一した司馬氏の晋王朝からして異民族に黄河流域を奪われ西普王朝を建てるハメに陥っている。

こういった「北方に対抗する南方政権」の雛型として漢民族たちが、まず脳裏に意識するのが益州の劉氏政権であった。

もちろん陳寿の『三国志』、講談、羅貫中の『三国志演義』などの影響も大きいが、そもそもの起こりとして、劉備が絶妙のタイミングで北方の新王朝に対抗する旧王朝という政治状況を作り上げ、なおかつ長期に渡って政権を保ったという実績がなければ、こうはならなかった。

大抵の南方王朝は益州の劉氏政権よりも江南の孫氏政権の領土に近い場合が大きいのだが、やはり「歴史的意義」というものをその身にまといたい為政者たちが、どうしても劉備や諸葛亮たちの鮮烈な印象に惹かれるのは仕方ない。

荊州を攻めなければならなかった『帝』劉備

しかし、タイミングそのものは絶妙であったが、決して「漢王朝」帝位についた劉備たちが安泰というわけでもなかった。
元はと言えば益州の劉備の政権は荊州を根拠地としていた劉備が、益州の劉璋の政権を実力で奪い成立したものである。

極力、融和しようと努力はしているものの荊州出身者と益州出身者の間に派閥ができるのは防ぎようがなく。

また、荊州から引き連れてきた兵士たちも数多く益州に駐屯している。彼らにしてみれば、孫氏の裏切りによって故郷である荊州が奪われたままになっていることに大いに動揺していた。
純粋に戦略的に見ても、後に諸葛亮がそうしたように漢中を出て涼州や長安方面に北伐するのと、前に関羽がそうしたように荊州を北上して中原に出ようとするのでは魏に与える脅威度が格段に違う。
感情的に考えても劉備がまず股肱の臣であった関羽を失ったことに我慢がならなかった。

その上帝位に就いておきながら、その最大にして無二の臣であった関羽を卑怯な裏切りによって殺したにも関わらず、これに対する復仇も出来ないというのでは、漢民族が重視する面子が保てないというものでもある。

この時期、諸葛亮や趙雲が「討つべきは呉ではなく魏である」と進言しており、確かに後世より結果を知っている目からすればこの進言が正しかったように思えるだろう。

だが、当時の視点で見てみれば荊州も奪い返さず、関羽の仇も取らずに魏に攻めこもうとしたところで、荊州出身者の将兵たちは納得しなかったのは間違いない。

逆にそのことで荊州を孫権が領有することを暗黙のうちに認めることにもなってしまうのである。
様々な三国志関係の創作物では、劉備が関羽を殺された激情に任せて荊州に兵を発したように描かれているが、実際のところこの時期の劉備は一年半もの時間を置いている。その上、皇帝即位という重要な政治行動を行なうなどかなりクレバーに立ち回っている。

なおかつ、益州の劉備政権の内部事情や、今後取るべき戦略を考えれば、荊州の孫氏による領有が定着してしまう前に劉備が荊州に兵を発したのは、むしろ当然とも言える軍事行動であったろう。
さらに言えば、演義などでは戦下手のように描かれている劉備であるが、実際の所、史実での劉備は軍人として曹操に次ぐ経験と実績を持っている。

確かに曹操には何度も敗れてはいるが、その度に逃げおおせて再起を果たしている。そして、現在は漢中において曹操をも破り、劉備の自分の采配に対する自信は揺るぎないものとなっていた。
この時期の劉備からしてみれば、荊州侵攻にためらうべき要素は全くなかったに違いない。
221年七月、劉備は荊州に向かって軍を発する。
それは彼自身にとって、最後にして最大の挫折となることなど思ってもみなかっただろう。

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